確かな思い
ゴーズは既にクレイヴの身体を捕えつつあった。
その余波で,彼の頭の中に人々の悲鳴が響く。
これは幻聴ではない。
実際にエレシスが耳にした,あの惨劇の再現だった。
助けを求める声が,当てのない呻き声が,折り重なって彼の心を侵食する。
それでも寸前の所で耳を塞ぐのを止め,目を見開く。
視線の先にいたエレシスはいつの間にか,闇に取り込まれていた。
「駄目だッ……!」
思わず手を伸ばすが,それよりも先に彼女は呑み込まれてしまう。
僅かに残っていた存在の力が消失する。
黒化したのか,完全に取り込まれてしまったのか。
部外者であるクレイヴに理解することは出来ない。
『後ハ,オ前ダケ』
四方八方からの笑い声が震撼させる。
今まで行ってきたこと,その全てが無駄になるのだと思わせる。
だが自分が何のためにここまで来たのか,それを思い出し,クレイヴは膝を屈さなかった。
『無理,無理,無理。オ前モ黒ニナル』
全ての闇が襲い掛かる。
寸前の所でシャベルを振るい,それらを打ち払うも,それだけだった。
果てのない夜の海を掻き分けている感覚だ。
何処へ向かえば良いのか。
何処に行けば彼女を救い出せるのか。
何も分からない。
一粒の砂金を探すようなものだ。
次第にクレイヴは,身体の重さを感じ始める。
視線を降ろすと,手足の先を侵食した闇が広がりつつあった。
ごちゃ混ぜにした感情が,彼の心を塗り潰していく。
『消エロ,消エロ。私ハ,本物ニナル』
悪意に満ち溢れた声と共に,走馬灯が流れる。
大樹の下でエレシスと別れた日のこと。
院内で何度も面会に行った日々のこと。
地下の機械技術を前に,一歩踏み出した時のこと。
あらゆる出来事が過ぎ去っていく。
そして一瞬だけ見える。
空想のシェルターで,エレシスがゴーズの囚われる時の光景。
闇が彼に向かって放った言葉が想起される。
その瞬間,クレイヴは目を見開いた。
何かに気付いたのか,顔を上げて目の前に広がるゴーズだったものを見据える。
彼の瞳は次第に力あるものから,悟ったようなものへと変わった。
「そうか……そうだったんだな」
シャベルが手から離れ,音を立てて泥の中へと沈んでいく。
彼は抵抗を止めた。
両手を広げ,溢れかえるそれらに自ら手を翳す。
まるで己を差し出すような行動に,ゴーズが動きを止める。
『ナニヲ……』
「気付くべきだった……。お前は……いや,君は……あの時,俺を嘘つきと言った……。確かに,そう言ったんだ……」
『……!』
エレシスが呑まれる瞬間,ゴーズはクレイヴを嘘つきと罵倒した。
それはエレシスが持っていた感情そのものだ。
他の誰でもない,彼女自身の思いだ。
つまりそれが何を意味しているのか,彼は気付く。
今まで彼は,ゴーズが全てを呑み込む危険な人格だと思っていた。
だからこそ,ソレを打ち倒しエレシスを救うことが正しい道だと思い込んでいた。
しかし,それは間違いだった。
彼は闇に両手を触れた。
「倒すことが……消すことが正しいんじゃない……。受け入れることが……」
『馬鹿……ナコトヲ……!』
抵抗はしない。
呑み込まれるでもない。
ただ受け止める。
感情の荒波を抱え,包み込む。
それが今行うべき本当の選択なのだ。
闇が両手から全身へと広がり,クレイヴは後悔してもし切れなかった思いを呟く。
「嘘をついて……嘘のままで……ごめん……」
『止メロ……! 止メロ,止メロ,止メロ!』
全ての闇がクレイヴに収束した。
●
エレシス・ディーは,貴族の一人娘である。
貴族として正しい知識や振る舞いは,身に付けてしかるべきだった。
幼い頃から,彼女はそう言われて様々な教育を受け続けた。
しかしそれによる両親からの期待に,次第に苦しさを覚えていった。
元々,それ程要領が良くなかったのも拍車を掛けていたのだろう。
無論,その要領とは貴族としての枠組みであり,一般人からすれば才覚ある少女であることに間違いはない。
それでも両親が望むのは貴族としての立場。
甘えは許されなかった。
エレシスは自分に厳しくあろうとした。
周りが認めてくれないのは,自分の不甲斐なさ故だと思い込んだ。
そんな中,唯一自信を持っていたのは描画だった。
始めは気紛れに描いていたものだったが,そこにあったのは達成感と充実感だった。
今のままじゃ,駄目だ。
もっと良いものが描ける筈だ。
それは,エレシスの中に生まれた初めての欲求だった。
ただ,両親は描画に理解を示さなかった。
所詮は遊びの域を出ない。
彼らにとっては芸術性よりも,貢献性のある実績こそ重宝された。
製薬会社であるエイルワーカーと協力していたことも,それを如実に表していた。
皆,彼女に対して距離を置いていた。
ディー家は大都市ヴェスタを管轄する地主でもある。
逆らえばこの都市では生きていけない。
一人娘であるエレシスに,畏怖を持たない者はいなかった。
誰に対しても親身に話したことはない。
唯一の趣味だった描画も,次第に羞恥心を覚えて誰にも見せられなくなった。
絵を描くのは悪いことだ。
彼女は自分で自分の首を閉めつつあった。
そんな状況を見かねた両親が,ある日少しだけエレシスの願いを叶えた。
大都市ヴェスタに聳える大樹,あそこに絵を描きに行っても良いと言ったのだ。
それは教育を強制してきた彼らにとって,彼女への理解を示した形だった。
故にエレシスは大樹に向かう。
当然,お付きの従者は常に見張っている中,一般人の振りをして出掛ける。
お目当ての大樹は間近で見ると,やはり壮大だった。
遠くからでは見えなかった色の彩度が,彼女の絵心を掻き立てる。
だが,それよりも気になる人物が大樹の下で腰を下ろしていた。
「痛てて……。あの野郎……今度会ったら,とっちめてやる……」
配管工のような黒帽子を被った少年が,悔しそうに独り言を呟いていた。
力仕事をこなしているためか,体格も大柄に見える。
ただ,彼は鼻血を流していた。
きっと何処かで転んだのだと思ったので,彼女は取りあえず声を掛けた。
それが,エレシスとクレイヴの交流の始まりだった。
始めは些細な優しさだった。
それでも彼は良くこの大樹に足を赴くらしく,度々出くわした。
互いに時間を決めていた訳でもない。
強制されることが嫌だったエレシスにとっては,それが一番だった。
そしてその度に,互いに取り留めもない話をした。
様々な責任を伴った言葉ではなく,ありのままの自分の言葉で気兼ねなく会話ができる。
それがどれだけ気楽で心休まることなのか,エレシスは始めて知った。
ある日,彼女は自分が描いていた絵を見せた。
元々絵を描くために此処に来ていたので,殆ど自然な流れだった。
見せても大丈夫だろうか。
彼は絵に関心を示さないのではないか。
そんな不安がありながらも,自信なく大樹の絵を掲げた。
「何だ,凄い上手いじゃないか!」
言ってしまえば,それだけの言葉。
彼女が描いた絵がどれだけ精巧なのか,事細かに理解した訳でもない。
それでも,純粋な思いから出た彼の言葉が,たったそれだけのことが,嬉しかった。
もしかしたら,私はチョロいのかもしれない。
そんなことを思いながら,嬉しさと恥ずかしさで,もう一度絵を抱え込んだ。
「……ねぇ,私達お友達になりましょう?」
だからまたある日,意を決して言った。
強制なんてしたくない。
縛り付けたくない。
更に言えば,エレシスは貴族でありクレイヴは平民だ。
身分の差がそれを許さないかもしれない。
だが少しで良い。
彼といる時間が少しでも作れるのなら。
それだけをエレシスは願った。
●
『目を開けて,エレシス』
過去の記憶を遡っている内に,エレシスを引き戻す声が聞こえる。
それは消えた筈のフィリスだった。
何故,と思う前に目を開ける。
暗闇に包まれた視界に,新たな光景を広げる。
そして彼女は,自分が何者かに抱えられていることに気付く。
「クレ……イヴ……?」
エレシスはクレイヴにお姫様のように抱えられていた。
周りは暗闇ばかりだったが,何処までも続く長い階段だけがあった。
白く輝き,光へと導くようなそれをゆっくりと一段一段登っている。
ふと,彼は彼女が意識を取り戻したことに気付き,安堵する。
「やっと……目を開けてくれた……な……」
「どうして……どうして,こんなこと……」
今までに何が起きたのか。
そして自分が此処にいる訳をエレシスは悟り,声を震わせる。
彼女の代わりに,既に黒化はクレイヴの全身に広がっていた。
歩く度に黒ずんだ身体の一部が,灰のように崩れていく。
「無理矢理,意識を引き摺り出すなんて,したくなかった……。でも,エレシスが消えることが……そこにいるのに,いないことが……耐えられなかった……」
5年もの間,彼はエレシスを探し続けた。
別の人格によって,拒絶し罵倒されようとも諦めなかった。
そこにあったのは,後悔だけではなかったのかもしれない。
エレシスも思い出していた。
あの日,あの時に交わした約束のことを。
必ずまた会えると信じたことを。
「俺はただ……謝りたかった……。謝り……たかったんだ……」
エレシスも分かっていた筈だった。
簡単な口約束が守られるとは限らない。
だがそれを割り切るには,5年前の惨劇はあまりに残酷だった。
彼女の知る者は尽く死んだ。
あれだけ厳しかった両親も,最後は娘を守るために命を落とした。
残されたのは,あの約束だけ。
彼女はそれに縋るしかなかったのだ。
そうして,絶望の果てに彼女は全てを忘れ,牢獄を生み出した。
もう誰もいらない。
自分の信じる者だけを生み出し,そこで生きていけば良い。
しかし,増殖する人格に歯止めが掛けられず,次第に自分を追い込む結果となっていた。
全てを逃避し,多重人格者となった哀れな少女。
もう誰も,彼女を一人の人間として見ることはない。
それでもクレイヴは会いに来たのだ。
精神分裂を起こし,自らの殻に籠ってしまった,彼女の人格を救うために。
登る階段の先に見える光が,より一層輝き始める。
抱えられていたエレシスも目を細める。
同時に,自分の意識が次第に覚醒していく予感を抱いた。
「あの光の先が,意識の表層。監獄の出口だ……」
瞬間,クレイヴが膝を屈する。
黒化に支配され,もう動くことが出来ないのだろう。
エレシスをゆっくりと降ろし,光の先へ行くように指を差す。
だが彼女は必死に首を振った。
監獄から出られるのは,肉体の支配権を得られるのは一人だけ。
あそこへ行けば,エレシス自身の肉体に己の意識が結びつく。
それが意味することは一つだった。
「駄目よ……! 私が行ったら,クレイヴが消えちゃう……!」
「……」
「外に出ても,誰もいない! お父さんも,お母さんも,誰もいないのよ! もう,私が生きている意味なんて……!」
外に出ても,誰も必要としない。
そう言いかけた彼女に,クレイヴは目を合わせた。
瞳には,まだ僅かな光が宿っていた。
「生きている意味を,過去に探すんじゃない……。これからの未来で,探すんだ……」
「未来……」
「忘れないでくれ。君に生きていてほしいと思う人も,そこにいるから……」
「……!」
「それに,大丈夫だ。俺はいなくなったりしない」
彼は優しく微笑む。
その笑顔は,あの日約束した時のものと同じだった。
「もう嘘をついたりしない。必ずまた会える」
「本当……に……?」
「約束する。絶対だ」
会える根拠なんてない。
黒化した人格は消滅する。
それがこの世界の理であり,自然の摂理だ。
だが,エレシスに不安はなかった。
彼はあの時の約束もこうして守り続けた。
彼女自身が諦め,忘れていたことを抱き,ここまでやって来たのだ。
直後,エレシスの身体が宙に浮き,光に引き込まれる。
肉体が本来宿るべき人格を呼び寄せているのだろう。
辿って来た階段が脆く崩壊する。
残されたクレイヴは足場を失って,闇の底へと落下する。
「ぁ……」
遠くなっていく彼の姿に,手を伸ばそうとする。
だがクレイヴは微笑むだけだった。
背後から迫る光がエレシスを包み込み,全てが白く染め上げられる。
もう何も見えない。
瞬間,身体の感覚が戻る。
意識の覚醒,幻影の世界から現実の世界へ。
今そこに生きているという実感が,息をしているという感覚が戻ってくる。
「意識が戻ったぞ!」
誰かの声が聞こえる。
目を開けると,そこには白衣を着た複数の医師が慌ただしく動いている。
元の場所に戻ってきたのだろうか。
そう思う彼女の前に,一人の医師が気遣うように覗き込んだ。
「分かりますか!? 私達のことが!?」
「主人格が統一された! 成功したんだな!?」
「それが……彼の意識が……!」
「どうなっている!? 昏睡状態にあるのか!? 早く修復機構を動かすんだ!」
エレシスは頷くだけだった。
今起きている状況を見渡す。
彼女は機械のカプセルの中に収容されていた。
これが意識の中の世界を投影する機械だったのだろう。
ぼんやりとする中,身体に貼り付いていた吸盤を抜き取り,カプセルの中から脱出する。
裸足だったこともあり,冷たい床の感触が全身に伝わった。
『接続者の覚醒により,通信が切断されました』
機械音声が今いる室内に響く。
直後,エレシスは傍に同じカプセルがあることに気付いた。
幻想の世界に介入するための役割を持つ,もう一つの機械。
エレシスはおもむろにそこへ近づき,視線を降ろす。
カプセルの中には眠り続ける青年,クレイヴがいた。
「クレイヴ……」
彼は,目を覚まさない。
どれだけ待っても,手で触れても,瞼を開けようとはしなかった。
人格は戻って来なかったのだろうか。
それとも黒化し,完全に消滅してしまったのか。
分からない。
分からないが,彼女が悲観に暮れることはなかった。
何故なら,最後に約束したことを覚えているからだ。
今度こそ絶対に諦めない,一人で何処かに行ったりはしないと,信じているからだ。
「約束よ……私,また待っているから……」
彼の頬に触れ,エレシスは自分の意志で,確かにそう言った。




