深層意識を辿って
クレイヴの薄れゆく意識を,引き戻す力があった。
彼は何とか手足を動かそうとして,もがき続ける。
直後,揺さ振るような感覚と共に目が覚める。
「しっかりして!」
「う……」
何度か瞬きすると,そこにはドレス服の女性がいた。
彼女は中層で出会った看守。
エレシスと似たような容姿をした,もう一つの彼女の人格だった。
「良かった。気が付いたわね」
「フィリス,なのか……?」
「そうよ。この姿で会話するのは,始めてよね」
フィリスは意識を取り戻した彼に安堵しつつ,周りの状況を確かめる。
クレイヴも同じように辺りを見渡したが,二人を除いて他には誰もいない。
彼がいる場所はシェルター内のごく一部。
それ以外は,殆どの場所が切り抜かれたように闇に落ちていた。
「一体,どうなったんだ……?」
「ゴーズが,監獄全ての階層を呑み込んだわ。ほんの一部だけ,私が何とか侵食を抑え込んだけど,それだけよ」
「エレシスは!?」
「ヤツに……呑み込まれたわ」
悔しそうに表情を歪めるフィリスを見て,彼はエレシスが取り込まれる瞬間を思い出す。
彼女は上層に上がった時点で,既にゴーズの幻影に惑わされていた。
もっと早くに対処するべきだったが,気付くのが遅れてしまった。
彼女自身の意志なのか判断が付かず,間に合わなかったのだ。
「ごめん……! こっちに来た時に,記憶が飛んだせいで……!」
「やっぱり記憶が混乱していたのね。通りで,予定よりも来るのが遅いと思ったわ」
「俺が,もっと早くヤツに気付いていれば……!」
「それは私も同じ。二人と別れた後にアイツに襲われて,何とか抵抗したのだけれど,この有様」
フィリスもゴーズの予想外の動きに対応できなかったようだ。
よく見ると,彼女の左腕は闇に囚われていた。
ゴーズから抜け出す際に犠牲にしてしまったのだろう。
「もう黒化が……」
「気にしないで。それよりもエレシスを助けに行くわよ」
「彼女は無事なのか!?」
「私達が存在できているのが,その証拠よ。まだゴーズは,あの子の全てを支配した訳じゃない」
監獄という世界すら闇に呑まれた中でも,フィリスは諦めなかった。
エレシスの意識が完全に破壊されたのなら,ゴーズが全てを支配したのなら,二人はとうの昔に消滅している。
まだ,彼女の意識は死んでいない。
まだ,間に合う。
僅かな希望を抱き,彼は深呼吸を繰り返した。
「どうしたの?」
「いや……俺が今回のことで,親父に殴り飛ばされた事を思い出しただけだ」
「……」
「分かった。行こう」
クレイヴは立ち上がり,闇の中を歩む決意を持つ。
今残されている空間は,フィリスが寸前の所で塞き止めたものだ。
侵食は始まっており,端から徐々に崩れ落ちていく。
足を踏み外せば,今度こそ意識は戻ってこない。
クレイヴは先頭に立ちながら,慎重に僅かな空間を掻い潜る。
足場の不安定な場所はフィリスに手を貸しつつ進むと,その先に小さなロッカーが見えた。
それはエレシスがゴーズに誘われた最後の場所だった。
「このロッカーの中に……?」
「えぇ。この先に,囚われているわ。行きましょう」
フィリスはエレシスに最も近しい存在だ。
彼女が今何処にいるのか,ある程度把握できるようだ。
そして彼は5年前のことを思い出す。
エレシスはシェルター内のロッカーに押し込まれた状態で発見されたのだ。
恐らくここは,彼女の全てが始まった場所。
クレイヴはそれを理解した上で,ロッカーの扉を開け,その中へと飛び込んだ。
内部は,別の空間に繋がっていた。
何処までも続く教室のような部屋に,等間隔で机が配置されている。
宙には幾つもの時計が不規則に浮かんでいる。
だが,それら全てはねじ曲がったように歪んでいた。
エレシスの心象風景が具現化しているのかもしれない。
その中で,複数の机が独りでに動きだし,文字を刻んでいく。
『ガリガリガリガリ』
「……!」
異様な光景に圧倒されかけるも,背後からフィリスが声を掛ける。
「目を逸らしちゃ駄目。貴方が助けると言ったから,救い出すと言ったから,私も協力したのよ。今更ここで引き返さないで」
「……あぁ」
彼女は既に覚悟を決めている。
クレイヴもそれは同じだった。
延々と続く教室をひたすらに歩いていく。
すると校内のアナウンスが鳴り響き,雑音と共に聞き慣れない声が木霊する。
『貴方はディー家の一人娘よ。それ相応の地位と立場があるの』
『この位は出来て当然なんだ。一々躓いていては先が思いやられるぞ』
『貴方はディー家の長女なのよ? 平民のような遊びは程々にしなさい』
これは過去の記憶。
エレシスが抱えてきたもの。
クレイヴは一度立ち止まり,それらの声を見上げた。
「これは全部,エレシスの……」
「幼い頃から抱えてきた両親からの期待,なのでしょうね。元々,あの子は要領が良くなかった。だから,努力が結果に結びつかない事もあったわ」
「……」
「あの子にとって,唯一安らげるのは絵を描くことだけだったのよ」
アナウンスに紛れて,机に書かれた文字の音が次第に大きくなっていく。
そこにあるのは義務感,責任感,焦燥感。
様々な感情があるように思えた。
『ガリガリガリガリ』
『はい……もっと努力します……頑張ります……』
『ガリガリガリガリ』
『だから絵は……絵だけは取り上げないで下さい……』
立ち止まっていた足を動かし,部屋の中を突き進む。
すると先に教室の扉,出口が見えてきた。
鍵が掛かっていて開く気配がなかったが,フィリスがそれを開錠する。
彼女にはエレシスと同じ主人格としての力が残っている。
望めば何処にでも行けるし,どんな扉も開くことが出来る。
教室を出ると,これまた長い廊下が何処までも続いていた。
思わずクレイヴはフィリスの方を振り返る。
「フィリスは……全部知っていたのか?」
「私はエレシスから生まれた始めての人格よ。あの子が忘れた事も,全て覚えているわ」
「ずっと,守ってくれていたんだな……」
「あの子の苦しみは,私の苦しみ。だから,癒してあげたかった。例えそれが全部忘れることだったとしても,叶えてあげたかった」
「……ありがとう」
「……貴方にお礼を言われる筋合いはないわ」
素っ気なくフィリスはそう言うだけだった。
初めて会話をしてから5年間,彼女はクレイヴに対して好意的な意志を見せなかった。
それも当然である。
フィリスにとって,彼の存在はエレシスが過去を思い起こす引き金そのものだ。
愛する妹を傷つける者は何であっても許せない。
それが彼女の存在意義だからである。
廊下に影が混ざり始めている。
色も徐々に失われ,全景が白と黒のモノクロに変わっていく。
これはエレシスの心象にゴーズの意識が介入している意味を示していた。
つまり彼女への距離が縮まっている。
クレイヴは手にしたシャベルを握り直した。
『何故,この程度の事が!』
『ことが!』
『出来ない!? 恥ずかしくて,外にも出せやしない!』
『恥ずかしいわ!』
『貴方は,本当は出来る子なのよ!』
『何故本気を出さないんだ!?』
『手を抜いているのでしょう!? 私達には分かるわ!』
『情けない!』
『外に行くときは,平民の服を着なさい! いいね! 決して本名を名乗ってはいけない!』
『これ位は分かるでしょう!? 分かって頂戴!』
放送は今も続いている。
耳を塞ぎたくなるような音だった。
だがクレイヴはそれを振り払うだけで,進み続けた。
決して目の前のことから,背こうとはしなかった。
すると廊下の末端が見え,フィリスがそこにある扉を指差す。
「見えたわ! あの扉の奥に,エレシスがいる!」
それは扉と言うべきものではなかった。
四方八方がグシャグシャに歪んでおり,更にかき混ぜて固形化させたような泥の塊だった。
今まで辿ってきた全ての思いを押し込んだものにも見えた。
クレイヴはそれを前に一歩踏み出す。
瞬間,侵食していた影が一気に押し寄せる。
闇は黒い泥に変わり,人の形に姿を似せていく。
現れたのは二人の男女を模したもの。
4~5mはありそうな巨大な泥の塊だった。
「ゴーズの分身か……!?」
彼らはクレイヴ達の進行を阻もうと襲い掛かった。
大量の泥が,波のように押し寄せる。
これらは言わば,黒化の源だ。
触れるだけで精神を汚染され,消滅に至る。
クレイヴは後方のフィリスを庇いながら,手にしていたシャベルで泥を掻き分けた。
『平民との関係は必要ない!』
『ないわ!』
『あの男とも手を切っておいた! それがお前のためなんだ!』
『折角,機会を与えたのに!』
『男を作るためだったの!? 違うでしょう!?』
だが勢いが強い。
扉まで直ぐそこの距離にあるが,手が届かない。
掻き分けられた泥も,地面を侵食し足元から迫っている。
確固とした自我を持つ彼であっても,そこに辿り着くのは容易ではなかった。
「クソ……! あと少しなのに……!」
『これは貴方のためなの! 貴方のためなの!』
一か八か,これらを相手に戦うしかない。
そう思ったクレイヴだったが,背後で俯いていたフィリスが静かに呟く。
「……私が鍵を開けるから,合図したら進んで」
「フィリス!?」
「あそこを開けられるのは,主人格の力を持つ人だけ。貴方が触っても鍵穴に合わないわ」
「アレに突っ込む気か!? そんなことをしたら……!」
「分かっているわ! でも,それで良いのよ!」
彼女の両目は前髪に隠れて見えない。
既にその身体は半分近くが闇に呑まれていた。
「元々,二人を導いたら消えるつもりだった。結局,私は本物になれないから」
「……!」
「エレシスを守るのが私の意味。私は,あの子の願いを叶えたい」
フィリスはエレシスから生まれた偽の人格。
例え自我があったとしても,本来はいてはならない存在。
クレイヴもそれは理解しているつもりだった。
だがこの5年間,エレシスのことで互いに語った過去は,確かにそこにあった。
フィリスは無言のまま,彼を越えた。
溢れ出す黒い泥に真正面から向かっていく。
漆黒の泥が,微かに残っていた存在の力を消し去っていく。
『お前は違ウ! 紛い物メ! お前は私達の娘じゃなイ!』
「そうよ。ただの偽物。でも私は,あの子の姉なんだから……!」
だが,その瞬間にフィリスの指先から光が灯る。
最後の力を振り絞った,力の結晶だった。
灯された光は高速で直進し,周りの泥を弾き飛ばす。
そしてその先に合った扉へと放射された。
光には開錠の力が宿されていたのだろう。
扉が自然に鍵を開け,音を立てながら動き出した。
「今よッ!」
言葉を交わす間もない。
アレが閉まれば,もう二度と内部へ入ることは出来なくなる。
クレイヴは歯を食いしばりながら,合図と同時に飛び出した。
迫りくる泥飛沫を防ぎながら,黒化したフィリスの影を追い越す。
すれ違った瞬間,彼女の口が僅かに動いた。
「クレイヴ……あの子を,お願い……」
始めて名前を呼ばれた気がした。
扉を潜り終えて思わず振り返るも,彼女の姿はもう何処にもない。
重い音を立てて,扉が閉鎖される。
光が完全遮断され,辺りは完全な闇に包まれた。
立ち止まってはいけない。
クレイヴは侵入した深層意識の先を見つめた。
色はない。
微かな光すら見えないため,自身の身体すら認識できない。
既に泥に呑まれ,黒化してしまったのではないかという錯覚すら沸き上がる。
それでも彼は歩き続けた。
行き先が見当たらなくとも,後ろに下がることだけはしなかった。
すると次第にすすり泣く声と共に,ぼんやりと小さな影が現れる。
辺りは暗闇だと言うのに,影の正体はハッキリと見えた。
監獄を生み出した主人格,エレシス・ディーがそこにいた。
「いや……お姉ちゃん……いかないで……」
エレシスは耳を塞ぎ,目を瞑ったまま蹲っていた。
何も聞こえないし,何も見えない。
意識の殆どを持っていかれ,過去を逃避し続ける。
最早彼女には,それしか出来なかったのだろう。
「一人は……一人はもういや……」
「エレシスッ!」
クレイヴは声を上げて彼女の元に辿り着く。
「エレシス! エレシス,頼む! 目を開けてくれ! 俺は……! 俺は,君に伝えたいことが……!」
だが言い終える前に,地鳴りのような音が鳴り響く。
地震ではなく,何かが蠢いている。
巨大な腹の中にいるような感覚。
次の瞬間,周りの全ての闇から沢山の目と口が現れた。
赤黒く血のように染まったそれらは,愉快な笑みを浮かべる。
そこでクレイヴは,ここがゴーズの中であったことに気付いた。
『黒,黒,黒。暗イヨ。熱イヨ』
「!?」
『カワイソウナ女。カワイソウナ私。全部,消エテナクナレ』
複数の声が折り重なる怨嗟の具現化が,彼の前に現れた。




