嗤い狂うモノ
屋敷の屋上,監獄上層に繋がる階段は他とは異なり,無骨な外観だった。
鉄製かつ幾つか錆び付いた箇所すら見えるもので,歩く度に軋みを上げる。
エレシスが来るよりも先に,彼女の姉・フィリスがその場に訪れていた。
上層への門は多くの鎖に縛られており,易々と開けることは出来ない。
だが中層の看守である彼女ならば,ここを解き放つことが出来る。
「もうすぐ,全て終わるのね……」
巨大な門を見上げながら,フィリスは寂しそうに言った。
エレシスが上層に上がることが何を意味しているのか,彼女は理解していた。
全てが崩壊し,そして全てが元に戻る。
無論,上層には全てを支配する看守,ゴーズがいる。
アレを乗り越え脱出するには,エレシスが自分を理解し,過去と向き合わなければならない。
そうでなければ,精神を侵食され黒化の道を辿ることになる。
「エレシス……。私の可愛い妹……」
フィリスの今の役目は,彼女に己を自覚させた上で,前に進むだけの意志を持たせること。
言わば大監獄からの脱出である。
元々この役目は彼女の本意ではなかった。
出来ることなら,エレシスに苦しみを与えたくはない。
だが,もう時間も猶予も残されていない。
フィリスはかつて,自分が行ってきたことを思い出す。
それはエレシスが監獄最下層に入った所から始まる。
「お姉ちゃん,私はどうして捕まっているの?」
「捕まっている訳じゃないわ。あなたには,手錠も何も掛かっていないでしょう?」
「そう,だけど……」
「ここなら絶対に安全なの。ここには,エレシスを傷つけるものは誰もいないわ。だから安心して。私も時々だけど,こうやって見に来るからね」
エレシスの望みに忠実になることが,フィリスの望みだった。
彼女が記憶を失う位に苦しんでいるのなら,もう何も思い出す必要はない。
全ては愛する者のために。
忘却の果てに生まれた問いを投げ掛けられても,フィリスは笑顔を崩さなかった。
「お姉ちゃん,お父さんやお母さんは何処にいるの?」
「……色々あってね,二人は今忙しいのよ。でも,エレシスのことをよろしくって私に言ってくれたわ」
「そう……。ねぇ,お姉ちゃん……」
「何かしら?」
「私,いつになったら出られるのかな?」
「それは……」
だが年月が経って,次第にエレシスは外へ出ることへの欲を持ち始めた。
全てを忘れたがための欲求。
縛られた状況からの逸脱。
そればかりは,フィリスにはどうすることも出来なかった。
彼女の望みを叶える,それがフィリスの存在理由だからだ。
「皮肉ね……。あの子のためにやって来たことが,全部裏目に出ていたなんて……」
目の前の門に触れながら,小さく呟いた。
だがその手は次第に握り拳に変わっていく。
もう間違ったりはしない。
彼女の手には新たな決意が逃げられていた。
「でも,大丈夫。私も彼と同じように,覚悟は出来ているから」
だが次の瞬間,門の隙間から黒い影が漏れ出してくる。
光の角度による問題ではない。
影が形を成して,泥のように溢れ出す。
「……!?」
思わず門から手を離したフィリスは,距離を取って警戒する。
周囲を侵食した影が,一つの塊となって形を成し,彼女を見下ろした。
「この影は……!」
見覚えがある,と言いたげに瞳が揺れ動く。
フィリスの前に現れたのは悪意の塊。
全てに絶望した果てに生まれた残骸の結晶。
影の中から無数の赤黒い目と口が現れ,ソレは不気味に笑った。
『アハハハハハハハ!』
「ゴーズ!? 中層まで,侵食してきたの……!? やっぱり,もう時間が……!」
フィリスが苦汁をなめる様な表情をする。
姿を見せたのは上層の看守,ゴーズ。
監獄内で最も巨大な力を有する者だった。
性別すら分からず人の形ですらないソレは,大量の目を無造作に動かし,歯を剥き出した口で唄う。
『黒,黒,黒,黒,染マレ。全部』
「っ……!?」
侵食を続ける影が,周囲の景色を取り込んでいく。
フィリスが管轄する屋敷すら,ドス黒い染みが広がっていく。
それは監獄のルールを破る破壊行為だった。
決して許されないし,可能であるはずもない。
だが,ゴーズだけは例外だった。
既にその制約が意味をなさなくなる程,力を増していたのだ。
『カワイソウナ女。カワイソウナ私。全テ,私ノモノニナレ』
「ここを全部,取り込む気!?」
『オ前,副産物,偽物,イラナイ。私ガ欲シイ,モノ,本物ダケ』
「エレシスを狙って……! そうは,させないわ……!」
ゴーズは中層まで上り詰めたエレシスの存在を知覚し,ここまでやって来たのだろう。
このままではエレシスどころか,中層全てが葬り去られてしまう。
フィリスは後退しかけた足を奮い立たせる。
彼女の目的は妹を守り通すことであり,ここで逃げることではない。
自身の心が侵食される感触を覚えながらも,一歩踏み出して叫ぶ。
「あなたに,あの子の身体は渡さない!」
例えそれが敵わない相手だったとしても。
奇怪な笑い声と共に,フィリスに向かって大量の影が押し寄せた。




