想起する光景
幼い頃,エレシスは狭い暗闇の中で泣いていた。
何のために悲しんでいたのか,涙を流していたのか,もう覚えていない。
自分を壊してしまう程の大きな圧力に押し潰され,声にならない助けを呼んでいたのかもしれない。
「大丈夫よ,エレシス。お姉ちゃんがいるわ」
そんな時,幼い彼女を抱き留めるように茶髪の女性が現れる。
エレシスの姉,フィリスだった。
彼女は優しく微笑みながら,彼女の頭を撫で続けた。
「もう何も考えなくて良いの。全て忘れてしまえば良い。それで,貴方が救われるなら」
「おねえ……ちゃん……?」
「そう,私はフィリス。ずっと貴方の傍にいるから」
他に誰もいない闇の中で二人は寄り添った。
ぽっかりと開いた隙間を埋めるように,もう二度と失わないように。
そうすることで,先に待ち受ける苦難の全てを逃避したのだろう。
そうして場面が転換する。
我に返ると,エレシスは元の監獄中層,自身の屋敷内にいた。
無意識の内に,絨毯の敷かれた長い廊下を歩き続けている。
今の光景は,所謂走馬灯なのだろうか。
ぼうっとしたまま歩いていた彼女に,クレイヴが躊躇いがちに声を掛ける。
「上の空だったけど,大丈夫か?」
「……昔のことを思い出していたの」
エレシスはもう一度,先程の様子を思い浮かべる。
フィリスは言わば,彼女にとっての光だった。
色のなかった混沌とした世界に,唐突に現れてくれた道標。
自分の居場所を与えてくれた最後の家族。
そんな微かな記憶が甦る。
「お姉ちゃんはとても優しい人だったわ」
「そう,か」
「暗闇ばかりだった時,いつも傍にいてくれた。私が最下層の監獄にいた頃も,面会に来てくれた。だから,突然あんなに冷たくなった理由が,分からないの」
エレシスは言葉を並べながら俯く。
原因あるとすれば,フィリスが突然面会に来なくなったあの時,彼女の身に何かがあったのだろう。
それが監獄の看守となった理由にも繋がるに違いない。
だとしたら,必ずこの屋敷で手掛かりを掴まなければならない。
エレシスは少しの恐怖と決意を持って,クレイヴは小さく相槌を打つだけで,様々な部屋を渡り歩いた。
やはりと言うべきか,彼女にとって何処も見覚えのある場所ばかりだった。
人の気配は一切なく,闇を映す窓は壁のように一切動かない点を除けば,エレシスの屋敷そのものだ。
故にここが,本物を模倣した偽物であるとは到底考えられなかった。
そして,二人はある場所に辿り着く。
一人が使うにしては少々広い個室だった。
巨大なベッドや化粧棚,衣類を収めるクローゼットもある。
しかしそこで一際目立つのは,辺りに散らばっていた用紙だった。
用紙には様々な風景が描き止められており,クレイヴが思わず拾い上げる。
「ここは,もしかして」
「私の……部屋よ」
幼いエレシスが使っていた個室。
最下層の牢獄と同じように,彼女の手で完成された絵が残されている。
幼さのある描き方だが,年齢に反比例した技術があった。
「やっぱり絵を描くのが好きだったんだな」
「まぁ,そうかもしれないわね……」
「昔からこのレベルって……前から思ってたけど,絵描きとしてはプロ並みだろうな」
「おだてても,何もでないわよ?」
「純粋に褒めてるだけなんだけどな」
そう言いつつ,クレイヴは一枚の絵を手に取った。
それは,下層で見たことのある大樹を絵に描き起こしたものだった。
大層な樹齢を思わせる樹木から一面に青葉が広がり,背景は澄み渡る青空が映っている。
「これ,確かヴェスタの大樹だったよな?」
「そう……ね……」
エレシスも遠目から一瞥する。
幼い頃の絵を見ても,不出来な面が露呈するだけであまり見たくはない。
ただ,これはいつ頃描いた絵だっただろうか。
無意識の内に彼女が考えていると,脳裏に別の光景が浮かんでくる。
「おぉ! 凄く上手いじゃないか! 俺には到底描けないよ!」
誰かの声が聞こえてくる。
これはかつて大樹の下で交わした言葉だった。
絵と同じ場所と共に,帽子を深く被った少年の姿が現れる。
「これ,絶対有名になれるヤツだよ!」
「そ,そうかしら……」
「勿論! 自信を持っていいって!」
幼い頃のエレシスもそこにいた。
自分の描いた絵を少年に見せていたのだろう。
そしてようやく思い出す。
この場所で時折会っていた人物とは,まさしく彼だったということを。
場面が切り替わり,同じ大樹の下。
夕日に照らされながら,少年は複雑そうな顔をしていた。
その表情からは,真実を覆い隠す思いが微かに見える。
「大丈夫。必ず,また会いに行く」
「本当に……?」
「約束する。絶対だ」
不安そうなエレシスに対して,少年は確かにそう言った。
次の瞬間,脳裏の幻影は掻き消える。
意識が戻り,視界は再び元の自室を映し出していた。
「今のは……」
大樹の絵から視線を外し,クレイヴを見上げた。
絵をじっくりと眺めていたためか,彼が彼女の変化に気付いた様子はない。
だが気のせいだろうか。
今のエレシスには,帽子の少年が何処となくクレイヴに似ている気がした。
「エレシス?」
「もしかして私達……何処かで会ったことある……?」
「……!」
クレイヴが少しだけ驚いたように目を見開く。
だがそこまで聞いたエレシスは,直後に首を振った。
彼が先程の少年である確証など何処にもない。
過去の記憶が徐々に戻ってきているからと言って,適当なことを発言しては,余計に混乱させるだけだ。
「いえ,そんな訳ないわよね……。忘れて……」
確かな真実を知るためにも,ここで立ち止まってはいけない。
それだけ言って,エレシスは自室を後にする。
後姿を追ったクレイヴは,一瞬だけ悲しそうな表情をした。




