手を切る者
暗闇に閉ざされつつある病棟を,エレシス達は駆け抜ける。
周囲を確認する余裕はない。
何処からか呻きのような声すら聞こえ,緊迫感を煽り続ける。
「どうして停電が……!」
「分からない! リモコンを壊したせいか,サンクタスがやられたからか!」
廊下を走り続ける中,前方に別の患者達が現れる。
自分達を襲いに来たのかと,エレシスは一瞬足が止まりかけるも,非常灯の明かりで微かに見えたその光景に目を疑った。
患者達が互いを喰らっている。
まるで凶暴化した犬のように見境がない。
そして喰らわれた箇所から黒化が進行し,互いの身体を侵食している。
何故そんなことをしているのか,考えたくもない。
今までとは違う狂気の一端を見て,彼女は目を瞑った。
「何で,こんなこと……!」
「サンクタスの制御を失ったから,と考えた方が良いかもしれないな!」
とにかく,こんな場所にいてはいけない。
一刻も早く上階へと上がらなければ,皆と同じ末路を辿るだろう。
意を決して踏み出し,暴走を重ねる患者達を越える。
一度向かったことのある道順のため,下手に迷うことはなかった。
数分が経って,以前は阻まれた中層への階段に到達する。
先陣を切って階段付近の安全を確認したクレイヴは,彼女に向けて手を伸ばす。
「エレシス! 手を!」
自分に向けられたそれを見て,エレシスは何かを思い出す。
昔,こうやって誰かに手を差し出した気がする。
だがそれも一瞬。
背後から何者かの気配がやって来る。
それは先程患者に襲われたサンクタスだった。
「行かせるものか……!」
「!?」
「君は……ここに留まるべきなんだ……!」
既に彼の身体は黒化が始まっていた。
それでも諦めることなく一歩一歩距離を詰めてくる。
何が彼をそこまで駆り立てるのか,エレシスには分からなかった。
「どうせ,上を目指した所で結末は変わらない……!」
「それはアンタが決めることじゃない! 彼女が決めることだ!」
クレイヴが反論する。
この看守が考える結末とは,独りよがりなもの。
他人の意思は何も考慮されていない。
狂乱する患者達が何よりの証拠だった。
だからこそ,ここに留まる理由はない。
理解したエレシスは覚悟を決めて,クレイヴの手を取った。
そのまま階段の方へと引き上げられ後方を見ると,サンクタスは呆然としたように膝を付いていた。
黒化は彼の全身に広がっていた。
「だったら……僕は一体……何のために……」
黒化したサンクタスはおもむろに手を伸ばすが,そこまでだった。
老婆やヘルターと同じように,砂の塊として崩れ落ちていく。
同時に階段の入り口から鉄格子が降りてくる。
彼が消滅したことで,下層が隔離されるように操作されていたのだろう。
それにより,残された人々は暗闇の中に取り残された。
寸前の所で下層から抜け出していた二人は,階段で立ち竦んでいた。
「間一髪だったな……」
「え,えぇ……」
エレシスはやっとの思いで,返答する。
結局,サンクタスが何を考えていたのか,全く分からなかった。
彼女からすれば,彼も正気を失った患者に見えていたからだ。
ただ,下層で得られた情報は一つ。
それをエレシスは,目の前の人物に問い掛けた。
「ねぇ……」
「?」
「あの人が言っていたこと,聞いていたわよね? この監獄からは,一人しか出られないって」
「……あぁ」
「もし,それが本当だとしたら……どうするの……?」
聞いてはいけない気がした。
元よりクレイヴは,脱獄を手伝うという体で同行している。
自分が出られない可能性に触れてしまえば,今の状況に亀裂が入ってしまう。
分かっていながらも,彼女は聞かずにはいられなかった。
「どうもこうも,エレシスが先に出れば良い」
だが,クレイヴはあっさりとそう言った。
訳が分からなくて,エレシスの口元が震える。
「ほ……本気で言ってるの……?」
「このタイミングで嘘は言わない」
「で,でもそんなことをしたらクレイヴが……!」
それはつまり,牢獄から出ることを放棄したという意味だ。
自分の命よりも,偶然出会った少女を守ると言うのか。
自己犠牲に近い言葉を,エレシスは俄かに信じられなかった。
だが,暫くしてクレイヴは肩を揺らして言った。
「なーんてな。一人しか出られないなんて,そんな訳ないだろう? サンクタスが言っていたのは,あくまで俺達を引き留めるための嘘だ。気にする必要なんてない」
「……」
「あれ,もしかして怒ってる?」
「少し」
「あれま」
真剣に尋ねたのに茶化されたことで,エレシスは少しだけムッとする。
「今さっき,嘘は言わないって,言ったのに」
「す,すまん」
「でも,ありがとう。私を助けに来てくれて。貴方がいなかったら,きっと私はあのままだったと思うから」
「ま。雇い主を守るのは,当然のことだしなぁ」
クレイヴはそんなことを言ったが,所詮はただの口約束だ。
いつでも無かった事に出来る,不出来なもの。
わざわざエレシスを助けなくとも,見捨てて中層に行くことも出来たはずだ。
だからこそ,分からない。
何故彼がここまでの事をしてくれるのか。
「どうして……」
「何が?」
「な,何でもないわ。行きましょう。ここまで来たら,必ず脱出するわよ」
これ以上,余計なことを聞いても仕方がない。
今は共に脱出できることを信じて進むだけだ。
エレシスはクレイヴを追い越し,中層への階段を上っていく。
その姿を彼は後ろから見上げた。
「そう。嘘なんて,言わないさ」
誰にも聞こえない程の小さな声が,辺りの暗闇に解けて消えた。




