第10話をめぐるもの
中立派の男爵グラブ・オルドー、今や国王に仕える家庭教師ベル・ショーペンハウアーがまだ無名だった頃に教えを請い、狼の国よりも自分の領地を心配し、領民に愛されている領主だという。安定性を求めるベルの教育を貴族の中では誰よりも先に受け、温和な人柄とも相まって、優れた統治者になっていた。何も特徴がないオルドー領を維持できたのはおそらくグラブ・オルドーその人が領主をしているからだというのが貴族間の評価で、もっと上の爵位を持っていても不思議ではなかった。能力的にも評価を受けた彼が中立派のまま動かないことはある意味、派閥闘争の均衡が保たれていると言っても過言ではない。逆に、分権派と集権派に迷う中立派の貴族が彼の動向を気にしている節も見られる。あの知識人オルドー男爵がどちらにつくか、それは結構な注目度だった。
あの後、俺は1週間以上も資料室に行き、ノーラに質問を重ねた。そうして今、首都から少し離れた森の奥地にひっそりと建てられたオルドー男爵の屋敷にやってきた。多くの貴族が屋敷を構える地価が高い首都の中心地から離れた場所に屋敷を建てる。それだけで懐具合が窺えるというものだ。
「こちらでお待ちください」
屋敷の使用人に連れられてきたのは応接間だった。窓の外は新緑の木々で埋め尽くされ、それらの隙間に目を凝らすと、遠くの方で鹿が駆け抜けていった。
「リタ、鹿がいる!」
「鹿、ですか?」
「うちの領地に鹿はいないからね。いや~、いい。狐とかもいるのかな?」
同行しているのはリタとベイルだ。ベイルは外で待っている。
「涼しい地域ならではですね」
リタは椅子に座る俺の後ろにただ立っているだけ。彼女が当事者同士の話に首を突っ込むことはない。要は綺麗な花を飾っているのと同じなのだ。そこがメルトゥーリとの違いだろう。彼女は賢すぎる。
そんなわけで適当な雑談で盛り上がっていると、足早にこちらへ近づいてくる足音が聞こえた。しかしその足音は応接間の前で一旦止まる。
「狐はいるとも。熊も出るがね」
低い声だ。そして何よりも優しい声が俺とリタの会話に入ってくる。するとリタは応接間の1つしかない出入り口に視線を向け、落ち着いた様子で頭を下げた。
「やぁジョージ君。久しぶりだね」
俺は椅子から立ち上がり、リタと同じ方を見る。
「これはどうもオルドー男爵。忙しいところを失礼しています」
俺が頭を下げている間に同じ足音が俺の前を通り過ぎ、頭を上げると机を挟んで向かい側の椅子に腰を下ろした。俺は視界の端に見えた男爵の手を見て、ゆっくりと頭を上げて椅子に座る。
「いや、そろそろ来る頃だと思っていた」
オルドー男爵は柔和な笑みを浮かべていた。その笑みは男爵の甘い顔から繰り出され、今でも大変多くの若い女性にモテるものだ。少なくとも俺よりはモテる。妻子もいるのに…何とも妬ましい顔だ。男爵自身もそれを意識しているのか、顎に少しばかりの髭を残し、軽そうな男を表現していた。
一切の闇を感じさせない優しい顔と若干の軽さ、それが男爵の社交場における武器だ。男爵はその武器を駆使して女性陣に近づき、様々な情報を得ている。多分、男爵が本気になれば…口説けない女性はいないのではないだろうか。そういった意味ではとても器用な方だ。蛮族と揶揄される父ウォーカー子爵とは真逆の位置に立っていると言ってもいい。
しかし俺もそこまでは器用ではない。だって俺もウォーカー子爵の息子ですし。
そこで器用な人間相手に話をする時、俺は必ずすることがある。それは…
「男爵、一応最初に言っておきますが…私はオルドー領の事情をある程度把握しています」
先手を取ることだ。
残念なことに俺は賢くない。故に先手を相手に取られたら、まず自分のペースを維持できない。だから必ず先手を取り、相手を自分のフィールドに引っ張り出すことで会話の主導権を奪う。そうでもしないと俺は押し切られてしまうかもしれない。
ひとまず先に発言できたことに安心していると、オルドー男爵は笑顔を引っ込め、真剣な表情になる。それから重たそうに口を開いた。
「……なるほど。しかしジョージ君。私からも先に言っておきたいことがある」
「何でしょうか?」
オルドー男爵の少し垂れた目が俺を真っ直ぐに捉える。
「娘のベアトリーチェは君のことを本気で好いている。そこだけは誤解しないで欲しい」
…………………………………………………マジかおい。
いや、動揺している場合ではないな。
「いいんですか?いくらなんでも父親がそんなことを言うのは野暮では?」
つまり、ベアトリーチェの気持ちを利用させてもらったと認めたわけだ。
「娘の恋路の応援をしたくなるのは当然のことだろう?それに…」
再び笑顔に戻った。
「私もジョージ君なら大歓迎だと本気で思っているからね」
うっ…個人的には俺もオルドー男爵とお近づきになれるチャンスを逃したくはない。男爵に評価されていることが単純にうれしかったりもする。
「母からは全て私に任せると言われていますからね。そこは迷わさせていただきます」
「いくらでも待つとも。どうせならこの後、ベアトリーチェにも会っていくといい」
俺に本気で想いを寄せてくれる相手に会うとは…何ともむず痒いものがあるな。
「是非そうさせていただきましょう」
でも、おかげで本題に入りやすくなった。
俺は1度2度深呼吸をした後、真っ直ぐなオルドー男爵の目と対峙する。
「では、今回ここに来た理由を早いところ済ませてしまいましょう」
さぁ、導入は完璧だぞ。