アンコール・Lilac -1
彼女のことは、すこし知っている。
たとえば、公園を散歩するのが好きなこと。もなかアイスが好きで、カロリーが気になるのにどうしてもやめられないこと。実家で犬を飼っていること。その名前が「カフェオレ」で、つけたのはおかあさんだということ。それから、ピアノの話をするとき頬がほんのり赤らんで、いつもより饒舌になること。
「それでね、そのひとが弾くと、音がきらきらして、なんだかすこしかわいいの」
「曲名はなんですっけ?」
「ラフマニノフの『リラの花』」
遠くに見えるスカイツリーと回遊式の泉水がうつくしい旧芝離宮恩賜庭園。その小道を軽やかな足取りで歩きながら、美紗みささんは垂れかかった青もみじを見上げて微笑む。
ラフマニノフの『リラの花』は、ほかの曲とはすこし趣がちがって、可憐さがいっぱいに広がるピアノ・ソナタだ。波乱の人生を送った彼の幸福な時間を象徴するかのように、従妹と結婚をしたその年に作曲がなされている。
「さっそく、きのう譜面を買っちゃった」
「美紗さんが弾くと、ちょっとぎらぎらしたリラの花になりそうですよね」
「失礼な。わたしだってかわいい曲はかわいく弾くのよ」
黙っていると、ふわっとしたところもあるひとだけども、彼女はやっぱり激情のほとばしる曲がよく似合う。鏡越しに向かい合った自分にこぶしを叩きつけるような美紗さんの演奏を見ていると、僕はむしょうに胸が痛くなる。そういうところがとても好きだった。
「じゃあ、いつか先輩の『リラの花』を聞かせてくださいね」
「いいよ。君にかわいい曲だって言わせてやる」
美紗さんはふふんと不敵にわらい、小川の飛び石を踏んだ。リネンのブラウスに、ブルージーンズ。華奢なつくりのミュールで、かるがる飛び石を渡ってしまう彼女は無謀なのだか、勇敢なのだか、よくわからない。最後の石に着地しようとしたところで、ヒールの先が石のふちに引っかかった。
「あ」
せんぱい、ととっさに手を差し出しかけたものの、美紗さんは絶妙のバランスで対岸に着地した。宙に所在なく残ったこちらの手を見て、ふふ、と自慢げに胸を張る。
「……助けくらい、入らせてくださいよ」
「運動神経はいいの。君のほうが転びそうだったじゃない」
「僕だって、女性を助けるときくらいはヘマしませんよ」
信じていないのか、美紗さんはころころとわらって、菖蒲の咲く池のふちを歩き出してしまう。本当にかわいげのないひとだな、となんだかおかしくなってしまって、初夏の風にイエローのストールをなびかせるそのひとを僕は追った。
彼女のことは、すこし知っている。
たとえば、公園を散歩するのが好きなこと。もなかアイスが好きで、カロリーが気になるのにどうしてもやめられないこと。実家で犬を飼っていること。その名前が「カフェオレ」で、つけたのはおかあさんだということ。それから、ピアノのはなしをするとき頬がほんのり赤らんで、少し饒舌になること。運動神経がけっこういいこと。かわいい曲だってちゃんと弾きこなせること。ひとつずつ、小さな発見が増えるたびたのしくて、気付いたときには――……。
(あともどりできなくなっていた)