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第四楽章 "Paques" ―復活祭―

 演奏会当日の朝は、やっぱり雨だった。

 常磐音校の定期演奏会は、校外のホールを借り、チケットも売り出して行われる。といっても、客の大半はOB・OGや保護者が占めてしまうのだけど、卒業生の中にはプロの演奏家や音楽関係者もいるから、生徒たちも気が抜けない。


「あんたがイエロー? 珍しいね」


 楽屋でわたしが譜面を読み返していると、やってきた吉野が意外そうに言った。吉野たち音校生は専用の客席から鑑賞することになっているのだけども、始まる前に、様子を見に来てくれたらしい。

 楽屋の一枚鏡には、レモンイエローのドレスを着たわたしが映っている。朝から美容院に連れて行ってもらい、髪は後ろでアップにしてコサージュを飾っていた。


「可愛いじゃん、黒江。女の子っぽいよ」

「何よ、そのたとえ」

「似合ってるってこと。がんばんなね。終わったら、芋甚さんに行こう。あたしおごるよ」


 肩を叩いて、吉野がにやりと笑った。こういうとき、むやみやたらに、励ましたり慰めを言ったりしない吉野の性格にすくわれる。

 まもなく開演十分前のベルが鳴り、吉野が他のクラスメートたちを連れて引き上げる。わたしと真白の出番は第一部の終わりだ。舞台袖に回るまではまだ少し時間があった。控室は男女で分かれているので真白はいない。

 わたしは気を落ち着けるためにめくっていた楽譜から顔を上げて、鏡を見つめた。鏡の中では十七歳のわたしが不安そうな顔で、こちらをうかがっている。

 練習はしてきた。最後のほうは、真白のピアノにもなんとか食らいつけるくらいになっていたはずだ。だから。だから。

 ――大丈夫。やれるよ。

 表情を引き締め、わたしは鏡の中のわたしに言った。


「曲名は、ラフマニノフの『幻想的絵画』」

 

 そして、舞台に上がったわたしたちをスポットライトの強い明かりが照らし出す。客席は暗く、吉野や家族の姿は見つけられない。

 わたしは第二ピアノの前に座り、対称に並べたグランドピアノ越しに真白を見た。時間の流れが妙にゆっくりとしている。膚にあたる照明の熱すらも感じられるのに、わたしは先の見えない暗闇に真白とふたりで放り出されたような気がした。わたしはたぶん、不安そうな顔をしていただろう。気の強いわたしはしかめ面をして唇を噛み締めていたに決まっているけれど。対する真白は譜面を見て、少しだけ笑んだ。いとおしいものを見つけたような眼差しだった。

 そのとき、わたしは。

 ふいに、真白がすきだと思った。

 まるで理由も、前触れもなく、すきだと思った。しあわせだとも思った。喬之さんのときのように客席でただ見上げているのではない。隣でわたしも、ぶつかることができる。二台のピアノだから、一緒にぶつかることができる。デュオの相手が真白でよかったと思った。デュオに選ばれてよかったと思った。

 真白の指が最初の一音を転がす。始まったそれはいつもと同じ、魔性のピアノだった。演奏をする真白は、まったくやさしくない。煌めく音たちは、美しくも鋭い礫のようだ。どこかで、舞台に上がれば、と思っていた。舞台に上がれば、わたしだって奇跡が起こせるんじゃないかって。だけど、実際のわたしの奏でる音はへにゃへにゃとひよわで、真白と比すれば、その差は歴然としていた。泣き出しそうな心地に襲われながら、それでもわたしは縋りついた。目の前が真っ暗になる。どこへいったらいいのかわからない。苦しくて、つらくて、それなのに真白の奏でるピアノはやっぱり美しくて、遠くて、焦燥で押し潰されそうだった。だけど、指先だけでもとどいてほしかった。とどくことを信じたかった。

 最高の演奏を、しましょう。

 真白の声が耳奥で蘇る。

 最高の演奏にしたい。したいよ。

 だって、ピアノが好きだから。本当に大好きだから。

 拍手と歓声がぐわっと押し寄せる。

 いつの間にか演奏を終えていたわたしは呆けた顔で、スポットライトを見上げた。隣に視線を移すと、同じように天井を見上げていた真白の頬に一筋の涙が伝った。



 そのあとのプログラムがどのように展開して終わったのかをわたしは知らない。舞台袖に引っ込んですぐ、わたしは貧血を起こして倒れたからだ。ホールの医務室で目を覚ますと、音の消されたテレビにはカーテンコールに応じる生徒たちの姿が映っていた。


「タクシー呼ぶ? 馬鹿ねえ、倒れるなんて」


 付き添ってくれていたらしい母が眦を寄せて苦笑した。わたしはくしゃくしゃになってしまった髪をかきやり、大丈夫、と言う。


「楽屋に荷物置いてたから、取ってくる。お母さんは玄関で待ってて」

「わかった。何かあったら、連絡するのよ」

「……おかあさん」

「なあに?」

「ありがと」


 告げると、とたんに気恥ずかしくなり、逃げるように外に出る。会場のほうではまだ生徒たちの声がしていた。それから記念撮影のシャッター音。九月の定演は、高校三年生の卒業公演を兼ねているので、プログラム終了後は集合写真や花束の贈呈と忙しい。

 わたしはひとのいない楽屋に戻ると、手早く制服に着替えて、リュックを肩にかけた。吉野が心配しているかもしれない。あとでメッセージを送っておこうと端末をオンにする。


「黒江先輩」


 ホワイエに出たとき、後ろから声をかけられた。声だけでもう、誰だか思い当たってしまって、わたしは足を止めた。


「真白くん」

「大丈夫ですか? 倒れたって」

「ごめん。ライトで立ちくらみを起こしたみたい」


 演奏の興奮が過ぎ去ったあとに、真白と向き合うのは少し気恥ずかしかった。わたしはリュックを腕に持ち直して、肩をすくめた。


「ひどい出来だったでしょう」

「……先輩?」

「最高の演奏にしたかったんだけど、君に翻弄されて、焦りっぱなしだった。凡ミスもたくさんしちゃったし、リズムがずれたところもあった」

「でも僕は、先輩がデュオの相手でよかった」


 特別気負う風でもなく、真白は言った。


「よかったです」

「真白くん」


 君はたぶん、知らないだろう。

 いきぐるしいと君が言った、周りの人間と同じことをわたしもまた思っていることを。君が妬ましい。望めば、どんな高みにだってたどりつける指先を持っているのに、それをたわいもなく捨ててしまえる君を憎悪すらする。

 君がピアノをやめても、君の奏でたピアノは、わたしの世界で輝き続けるだろう。はるか高みで稲光る、不穏な遠雷のように。知らずにすめば、心穏やかでいられた。果てなく苦しく、粘ついた灼熱を湛えたこの感情を。欲求の正体を。


「わたしは、ピアノを続けるよ、真白くん。ピアニストになる」


 だから、今が暗闇しかなくても。先が見えなくても。どこにもたどりつけなくても、何も得られなかったとしても。

 わたしももう迷わない。

 ピアノあなたとなら、どこへでもいける。

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