表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔ボーイズラブ要素〕〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

フォルトゥーナだって知らない

作者: 松岡 楓

この世に生まれおちたその日、


運命が決まる。


どこか現実的で


でも何かが違う世界の話。


君に考えてほしいことがある。


漠然とした言葉の意味を、形を、ぬくもりを。


誰かにとっては嗚咽を漏らすような気持でも、


別の誰かにとっては何よりの幸福になるかもしれない。


そんな酷く曖昧で形にならない気持ちに


誰かが名前をつけました。


『愛する』と。


  一、私とアオ


「今から話す事は、絶対誰にも話しちゃいけないよ?」

「どうして?」

「誰かに話すと、僕とキコは一緒にいられなくなっちゃうん

だ。これは二人だけの秘密だよ。」

「ふたりだけの?キコとマヒルのヒミツ?」

「そう。二人のヒミツ。」

「うん!キコ誰にも言わない!マヒルとずっと一緒がいいもん!」

「キコ、あのね…ザ…ザザ…キ…コ…ザーザーーーーーー


ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ


ブツッ


…夢か。

なんで今頃こんな夢…何年前のことか。


のそのそと布団をかぶりもう一度瞼を閉じたが、重大な事に気付いてしまった。今日、20××年4月3日は大学の入学式ではないか。ああ、なんて憂鬱なんだろう。

何事も最初が肝心だから。と言われても、幼稚園から大学までずっと同じ顔ぶれの中、最初もクソもないのだが…。

ぼーっとする頭を押さえ、ベッドの脇にあるスイッチを押しカーテンを開ける。少しまぶしいが光を取り込む。朝を感じなければ起きられない性分なのだ。    

ほんの数十年程前までは『受験』などという言葉があり、皆が自分の希望する幼稚園から大学を選び、選ばれた者だけが入学する事が可能であったと聞いた。面倒だがそちらの方が少しはマシな学生生活を送れるような気がする。

私は、何の面白味もない毎日を送っている。

昔の人たちが面白かったかどうかは知らないが、少なくとも現在よりは自由があったはずだ。

生まれた時から決まっている道。

私たちはそれを辿るだけの人生を歩むのだ。親の元に生まれ落ちたその日から運命は決まっている。国が決めた法律の元、学校に始まり、職業、収入、そして結婚相手までもが決められている。

よって、私にはすでに『ペア』と呼ばれる相手がいる。一昔前まではペアの事を『婚約者』ともいったらしい。今では死語だ。

ペアとの関係はいたって良好。幼稚園からずっと一緒の環境で育っている。

名前はアオ。同い年だ。18歳の時から一緒に住んでいる。これもまた決まりで4年間の共同生活を経て、大学卒業とともに結婚するのだ。

「キコ?起きた?コーヒーいれたから降りておいでー。」

アオの声だ。

少しずつ意識がはっきりしてきた。ゆっくりと階段を降りてリビングへと向かう。

カッターシャツにネクタイ、スッキリとしたパンツ、細身の身体にまとわれたそれらはアオのために繕われたかのようだ。我がペアながら実に誇らしい。

「おはよ。いつまで寝てんのさ?俺、何回も起こしたでしょ?はい。コーヒー飲んで顔洗っておいで。」

私はマグカップ片手に洗面所へと向かう。

リビングに戻ると着替えが用意されていて、玄関にはきっと磨かれた靴も準備されているのだろう。

ペアの中では女性が男性の身の回りの世話をしたり、食事の支度や家事をするのが一般的らしいが、私たちは逆である。お互い、得意な方がやればいい、時間がある方がやればいい、という考えなのだ。アオの方が器用でしっかりしているため、私はそれに甘えている。これが私たちの日常である。

リビングに戻ると案の定、ハンガーにはパリッとクリーニングされたパンツスーツがかけられていた。

「カッター、アイロンもかけといたからね。ストッキングは新しいもの買っておいたから。」

「ストッキングも?前のがあったのにー。」

「入学式でしょ?新しいのがいいじゃん。文句言わずに支度しちゃって。」

若干不服だが、用意してもらっている身として文句は言えない。こうやってなんでも勝手にしてしまう所が少々あれだが、それ以外は有難いの一言に限る。

のろのろと支度をする私をやさしく急かしながら、アオはタブレットで朝刊を読む。きっともう5つ目の新聞を読んでいるのだろう。ようやく私の支度が整った所で時計が9時を知らせる。さぁ、出発だ。


大学まで徒歩3分。桜並木が春を知らせる。

まだ肌寒い気がするがそれは私の薄着が原因だろう。

うう、寒い。身震いをひとつ。これだから嫌なんだ。もごもごとひとしきり文句を垂れながら歩いていると、ふと頭部に温もりを感じた。

「コレ羽織って。まだちょっと寒いから。」

ストールを被せられた私はぶすっとアオを見上げ、睨む。

「どういたしまして。」

何も言ってないんですけど。アオにはそれがお礼に聞こえたようだ。

この用意の良さはなかなかマネできない。

いつもの事だがこの気遣いに慣れることは無く、ぞわぞわした心を静めて会場に入った。

入学式という儀式の重要性は私にはわからないが、大事なことだよ、とアオは言う。

だからたぶん大事な事なのだろう。アオの言う事に間違いはない。一度だってない。

そしてこれからもずっと。私はアオと生きていくのだから。


  二、私と夢


夢をみた。

ずっと昔の、曖昧な記憶のようだった。

「今から話す事は、絶対誰にも話しちゃいけないよ?」

「どうして?」

「誰かに話すと、僕とキコは一緒にいられなくなっちゃうんだ。これは二人だけの秘密だよ?」

「ふたりだけの?キコとマヒルのヒミツ?」

「そう。二人の。」

「うん!キコ誰にも言わない!マヒルとずっと一緒がいいもん!」

「キコ、あのね…ザ…ザザ…キ…コ…ザーザーーーーーー」

ここで途切れた。前にもみたことがあるような…。

デジャヴとでもいうのだろうか?

マヒル。覚えている。

私より5つ年上で、とても仲の良い大切なお兄さんだった。私がまだ小さい頃、家族でアメリカに亡命したと聞いた。

彼の話はタブーである。亡命した者は国籍を剥奪され二度と日本に帰る事を許されない。二度と会うことのできない人だ。今更どうしてだろう。彼の夢をみるなんて。どうかしている。彼が存在したという事実はない。なにもかも『なかった事』にされてしまった。マヒルは私の思い出の中だけで存在している。

もちろん今も。マヒルは特別だったのだ。この気持ちをなんと表現していいのかは分からない。懐いていたのは確かだが、もっとこう、なんと言えばいいのか言葉に詰まる。

私がこんな気持ちを持っていると知ったら、アオはどう思うだろうか?怒る、それとも傷つくのだろうか?


「キコー、まだ寝てるの?」

起きているけれど、身体が寝ている。

アオは一体何時に起きているのだろうか。

アオの寝起きなんて見た事がない。一緒に暮らしているのに変な話しだ。

トントントン、キィ

「キコ?コーヒーあるよ?」

「うー」

「うーじゃないの。1限目とってるんでしょ?そろそろ起きないと。」

夢の事を考える。あの後、マヒルは何て言ったんだっけ?

「キーコー。」

「はーいー。起きるからー。」

マヒルは何と言ったのだろうか。思い出そうとしてもいつも同じ所で雑音が混じる。ノイズはいつも的確で、私に聞こえないよう先回りをしている。


   三、僕と彼女


 いつもいつもこうだ。

彼女が目を覚ますことはない。

一度、二度、三度。けたたましく目覚ましが叫ぼうが、決して一度で目を覚ますことはないのだ。全く、どうしたものか。

特に苦痛は感じていないが、こう毎日だとさすがに不思議だ。同じ人間で、こうも違うものかと。

怒りも憤りもない。むしろ彼女の事を羨ましくさえ感じている。

僕は、喜怒哀楽を表に出すのが苦手だ。

表情に出そうとすると、顔の筋肉が硬直していくのがわかるほどには、表情を作ることに苦労している。

しかし彼女はコロコロと表情を変える。それはまるで熱帯地域のスコールのような激しさを孕んだものだ。

形容し難いほど醜悪な顔や満面の笑みを、そしてまるでこの世の終わりのような表情を見せる事もある。そういう単純明快なところが彼女の魅力だと、僕は思う。  

ペアとして、彼女を幸せにしたいと思う。

この先何十年と同じ道を歩むのだ。彼女の事を想い、支えあい生きていくのだと、そのために自分がどうあるべきかを考えて生きてきた。

誰よりも彼女の事を知っているし、何よりも大切だと思う。

ただ一つ、僕は彼女には『何も』あげられないのだ。

これは揺らぐこのない真実で、僕が最も守りたいものだ。

他人ひとは僕を異常だと罵るだろうか?それは心外なのだが致し方ない。

他人と違う僕は、他人と同じ幸せを彼女に与えることが出来ない。

それでも僕と彼女は『ペア』なのだ。これは現実で、僕の思考は問題ではない。理屈では解っているはずだ。ここはそういう世界だと。

僕は本を読む事が好きだ。本の中で描かれる主人公の心理には、いつも疑問を感じていた。相手を想い、切なくなる。僕たちが習うことのない、日常ではほとんど耳にすらしない言葉だ。

ずっと昔に近所のお兄さんから不思議な話を聞いた。話の内容はほとんど覚えていないが、何か大切なことだったように思う。覚えていなければ大切かどうかもわからないのだが、ただ何となくそんな気がする。彼は今、どこにいるのだろうか。本人に会って直接話を聞きたいが、今はもう叶わない事だ。

彼は元々キコのペアだった。

今、僕が彼女のペアだという事が、彼に会うことが出来ない理由なのだ。

彼は僕にキコを託した。

だから彼女は、彼から僕への最後のプレゼントなのだと、そう思う。


  四、私と普通


 「キコとアオ君ってさ、何か変だよね?」

何を唐突に。

A子は何を言いたいのだろう?

答えずに続きを待っていると、

「だってさ、一緒に住んでるよね?それなのにさ、何も無いんでしょ?」

「ナニモナイ、って?」

「いや、だからさ、わかるでしょ?」

「だから何の話し?回りくどい事言ってないではっきり言ってよ。」

一体何のことだか。

「いや、だからさ、アオ君とそのー、うん。だからさ、身体の関係とか無いんでしょ?」

驚きもしなかった。

聞かれるのは初めてじゃない。

「何だ。そんな事か。」

はあ。

心底どうでもいい。ナニモナイ、ってそれが言いたかったのか。

驚くA子を後目に、

「無いよ。何も。」

と、一言言い捨てて席を立つ。

「だから、それが変だって言ってるの。普通じゃないよ。ねえキコ、聞いてるの?」

離れていく私に聞こえるようにと叫ぶA子。

うるさいうるさいうるさい。

一体何なんだ。ヒステリーなのか。腹が立つ。

何が、どうして、普通じゃないのだろうか。

他人にとやかく言われるような事はしていない。アオだって、そんな事ひとつも言ってない。私たちは二人で穏やかに過ごしているだけなのに。

明日開口一番にA子は謝ってくるのだろう。それもまた鬱陶しい話だ。

私は最近やたらと聞かれる事の増えた話題に嫌気がさしてきたのだが、アオもまた同じよう目にあっていたりするのだろうか?帰ったら聞いてみよう。そして何と言ってかわしているのかご教授願おうじゃないか。

きっとさらりと嫌味なくかわしているに違いない。

つくづく自分の不器用さには失望するが、特に困ることもないので改善の余地はない。

私にはいつだってアオがいるのだ。

依存と言われればそこまでだが、それも悪くない。

アオに依存しながら正しい道を歩む事、これが私の生きる道なのだから。


「ねえ、私たちは変?普通じゃないの?」

いったい何が?

そんな顔をしているアオに問う。

「私たちがエッチしないのは、世間一般的に見て変な事なの?子供を作る為にする事だよね?それをしなきゃ変だって何で「キコ。」

私の問いはアオの声によって一旦停止。

「キコ。僕たちは変じゃないよ。誰に何を言われたか大体わかったけど、僕たちは僕たちだ。周りに干渉される事なんて何もないんだよ?」

いつものように優しく、それでいてはっきりと応えるアオの声はいつだって正しいのだ。

私たちは私たちだ。

「ペアにはね、それぞれいろんなライフスタイルがあるんだ。多数だから普通、少数だから普通じゃ無いだなんて言いきれるものじゃないよ。それともキコは今の生活が不満?不満なら僕がもう一度考えてみ

「満足。大大大満足。」

今度は私がアオの話を遮る番だ。

「そう?それなら良かった。これがキコの質問に対する僕の答えだ。納得していただけましたかお嬢さま?」

私がアオとペアなように、A子にはA子のペアがあって、そのペアは私たちとは全くの他人なのだ。

他人を他人が評価すること自体がそもそもの間違いなのだ。アオはそういった考えに固執している周りに呑まれず、一人世界から隔絶された所に存在しているようだ。できればそこに私も連れていって欲しいのだけれど、きっと難しい。そうやすやすと行ける場所ではないことくらい承知している。

「僕はね、キコとペアになれたことを誇りに思うよ。生涯を共にする相手がキコだったこと、僕が生まれて最大の幸福なんだよ。」

またこの男は。

恥ずかしいセリフを。こんな時は逃げるが勝ちだ。

「お風呂入ってくる!」

と、逃げた私に一言。

「ありがとう。」

と返すアオ。

これが私たちのバランスなのだ。

アオに並びたい。ただ後ろをついていくだけではなく、アオの隣に並んでも恥ずかしくない大人になりたいと、そう思う。


  五、私と旅


 私は今旅をしている。

観光旅行などといったほのぼのとした旅ではない。人生初の旅が海外で、且つ一人旅という、とてもとてもスリリングな状況にあるのだから。

空港に着くなり鼻をつく異国独特の匂いに圧倒される。

入国カウンターで大きめのスーツケースを受け取り、空港内を見渡した。

ざっと見た感じではみんな同じようなスーツケースを転がして、あちらこちらを歩き回っている。

なぜこんなに大きなスーツケースが必要なのだろうか。海外旅行といってもたかだか一週間の話で、生活用品だっていざとなれば現地調達出来るというのに。

中身は把握していないが、アオが準備してくれたのだから旅行としては正解なのだろう。文句など言える立場ではないのは承知しているが、一人で小言を言うくらいは許して欲しい。どうせアオは今ここには居ないのだから。

「さて、ガイドさんはっと。」

まずはホテルにチェックインしなければ。

会社がとってくれたビジネスホテルは、きっと安全で清潔に違いない。   

数年前からのベトナムは経済成長もさることながら、日本が技術提供をした事もあり衛生面もかなり進んでいる。近隣諸国に比べ、とても美しい国なのだと聞いている。

日本を出たことのない私は、日本ほど快適で住みやすい国は無いだろうと、ありもしない愛国心を語っていたりする。日本人というものはつくづく薄情な人種であると思うのは私だけではないだろう。そう言うとアオは決まって

「そんな事言うものじゃないよ。日本人である誇りは皆の根底にきちんとあるんだから。気づいていないだけ。日本人はそれを表に出すのが恥ずかしいだけなんだよ。」

と、どこか悲しい顔をしながら言うのだ。

人ごみをかき分けてガイドを探す。

会った事のない人を探すなんてなんて面倒な、と思いかけたのも束の間、すぐにその人物を見つけた。

≪Wellcome it is KIKO≫

と表示された大きなモニターを見つけたからだ。

まさに現地人といった風貌の男性は(まあ現地人なのだから当たり前か)、満面の笑みを浮かべこちらに向かって手をあげていた。

初対面からフレンドリーな人は苦手だ。これもまた日本人の根底にある愛国心なのだろうか?

「フライトはどうだった?」

とか、

「こっちは暑いでしょ?」

とか、当たり障りのない会話をしているうちにホテルに着いた。

ガイドのクオンはそれはもう悠長な日本語で、愛想のない私に対しても顔色一つ変えずに接する出来た人であった。

それが仕事であると言われればそこまでだが、私はひどく関心したし敬意を払おう、そう思った。

これが私の旅の始まりだった。


  六、マヒルのキモチ


 「キコ、あのね…俺は…―――――


あの時のキコの顔が忘れられない。

カーテンの無い小さな窓辺に腰をかけ、窓を開けるでもなく、ただぼうっと薄暗い外を眺める。

電子たばこの蒸気が充満する室内。無機質な部屋のせいか酷くひんやりと、そして静かに時を刻む。

休日はこうして朝のまどろみを存分に味わうことにしている。この、うとうとと考え事をする時間が嫌いではないし、世界から隔絶されたような気分になれるこの部屋を気に入っている。

防音設備が完璧で、窓を開けなければまるで牢獄だなと感心する程だ。

本当は地下室が良かったのだが、そんな物件、そう安価な値段では借りられないのが現実だ。

よし、そろそろ冴えてきた。

今日は休日だが講演会の日だ。

電子化が進んだ今、講演会に足を運んでくれる数少ない人々の為に、絶対に遅れてはならない。もちろん自分の為でもあるが。

講演会といっても、持論を他人に押し付ける会ではない。

押し付けたところで共感が得られなければ、ばっさりと切り捨てられる。

この国はとてもシビアだが、個人が好きなように発言できる自由の国なのだ。

言論、思想、信仰、趣味趣向、すべてが個人の自由で、それらは誰にも犯されてはならない。その分それら全てが快く受け入れられている、というわけではない。何度話し合っても1ミリも理解されないことだって山ほどある。

でも自分が今ここにいるのは、そういった環境が自身の理論を発信するのに適しているからだと思う。

小さな世界に留まるつもりはないし、やりたいことを我慢なんてしたくない。いつからだったか、その強い意志が根を張り巡らせ、俺の原動力となっていた。

ああ、アイツは今どうしているのだろうか?

キコのペアとして彼女を愛しているのだろうか。それとも…。考えたところで仕方のないことだ。

『愛している』

アイツにそんな感情が生まれていたとしたら…。もしもの事を想像しても仕方のない事だ。

ただ、アイツの事を思い続ける日々が終わるのだとしたら、それはきっと幸せ以外の何物でもないだろう。

最寄りの駅までは徒歩五分となく、そこから地下鉄で三十分、駅から直結のビルの一室で今日の講演会は行われる。

内容は『日本の取り入れているペア制度について』である。これは俺が十五歳の時から十数年考え続けている議題である。

十年前、家族でこの国にやってきて、両親は心理カウンセリングを主軸とした病院を開いた。日本では認められなかったカウンセリングを行うために国を捨て、はるばるこの国にやってきたのだ。

二人はペア制度で家庭を持ったが、医者であり研究者だったが為に、この制度に疑問を抱いた。

俺が産まれ、成長するにつれてその疑問も大きくなり、日々多種多様の文献を読んでは事例を調べ、研究に没頭していった。

その研究の途中で両親は見つけたのだ。

人を『愛する』ことの意味を、その名前を。

そして俺に教えてくれたのだ。

おまえは、人を愛せる人間になれ、と。

人を愛し、家族を愛してほしいと。


両親の病院の患者は様々であるが、その多くが性的に少数派の人々だった。

一括りには言えないが、欲求の対象が同性に向く傾向にある人々だった。俺自身、『愛する感情』を知識として教えてもらってから、初めて意識するようになった人がいた。それが、アオだった。

当時まだアオは十歳。俺にはペアのキコがいた。アオとキコは俺を兄のように慕っていたし、俺自身キコをペアとして大切にしたいと思っていた。

ただその感情がいつの日からかアオに向いていたことに気付いた。

キコへの気持ちよりも、更に強い気持ちだった。

これは言葉にしてはいけない感情だと瞬時に理解したし、軽々と口にするほど子供ではなかった俺は、その気持ちを誰にも知られないように心の奥にそっと閉まった。

それでもアオもまた、俺と同じ感情を抱いてくれるのではないか、と都合のいい期待までしていた。そんな矢先だった。両親が亡命を計画していた事実を知ったのは。

俺はもちろんついて行くと応えた。

今の気持ちのままキコと一緒になる自信はなかったし、そして周りを偽り続けることにも耐えられそうになかったからだ。

例え制度とはいえ、将来を共に生きるはずだったキコ。

何も知らず、何も疑問に思わずに生きていくであろう彼女に、俺は何ができるだろうか?

心では別の人間を愛している夫をもつ事に、何の幸せがあるのだろうか?

そう思った俺がキコに告げた言葉は誠心誠意の本心だった。

彼女にとって聞いたことのない言葉だっただろう。

ただ、彼女が幸せに生きていくために必要な事だった。


「今から話す事は、絶対誰にも話しちゃいけないよ?」

「どうして?」

「誰かに話すと、僕とキコは一緒にいられなくなっちゃうんだ。これは二人だけの秘密だよ。」

「ふたりだけの?キコとマヒルのヒミツ?」

「そう。二人の。」

「うん!キコ誰にも言わない!マヒルとずっと一緒がいいもん!」




「キコ、あのね…俺は、愛する事を知ってしまったんだ。」




願わくば、彼女の幸せを。

そして俺のこの思いが通じる未来を信じて、今もここでキモチを発信する。


  七、私と固定概念


「随分と節操のない町なんですね。」

そう私に問われたクオンは

「ん?」

と首をかしげる。

公共の場で口づけをかわす男女を指さしながらもう一度問う。

「ほら、ああいう事。」

クオンは驚いた様子もなく、

「ああ。日本ではあり得ない光景だろうね。」

と軽く笑った。

「この国では、公共の場でああいう事をしても誰も気にしないよ。みんな他人だからね。そういう事は気にしない文化なんだ。」

とクオンは言う。

そしてさらに続ける。

「この国はね、自由を重んじている。犯罪や違法行為でない限りは個人の常識に任せているんだよ。キコ達の国では放任国家、なんて呼ばれているかもしれないけれど。」

そう言ったクオンの横顔が、少し悲しそうに見えた。

国によって常識が違う、という事は知っていた。でも、実際目の当たりにすると、なかなか受け入れられるものではなかった。

「ついでに言うけど、結婚だってもちろん個人の自由だよ?人種も性別も問わない。キコの国では確か、ペアと呼ぶんだっけ?」

「うん。結婚はペアとすることになっているよ。もちろん人種も性別も決められている。同性同士では子孫を残せないしね。クオン、それ日本人にはあまり言わない方がいいよ?そういう話題嫌うから、日本の人って。」

軽口のつもりだった。

笑い話程度に流してもらえればいいと。

「そうだね。生物学的に子孫は残せない。でも、それでもねこの国では同性同士でも異民族同士でも一緒にいたいのなら、それが叶うんだよ。僕もその一人だしね。」

そう言ってクオンは私に微笑みかける。

背筋が凍る気がした。私はクオンを軽蔑している。心が警報を鳴らしている、危険な思考だと。

「この国はペア制度を取り入れていないと聞いているけど、正直私にはペア制度がない事自体理解出来ない。想像出来ない。ペア以外の人と結婚するだなんて。ましてや同性や異民族。」

そうだ。想像出来ない。アオ以外の人と結婚して生活していく未来なんて。

「キコ、君たちの事情(国の法律)をとやかく言うつもりはないけど…そうだね…うん。そうだ、君はきっと頭のいい女性だ。だから、広い視野を持って自分の世界を広げてみて欲しいと思う。」

ただのガイドにこんな事言われるのは不快かもしれないが。

そうつぶやくクオンの背中を見ていると何も言えなくなった。

どうして今日初めて会った異国の人にこんな事言われなければならないのか、という畏怖の念と同時に、なぜだかわからないが、心のどこかでふつふつと言葉にできない感情が沸き上がってきた気がした。

この日は、それ以上この話題に触れることなくホテルで休むことになった。明日の朝、ロビーに迎えに来てくれる事だけ約束して、クオンはホテルを後にした。

明日からは仕事が待っている。

その夜、静まり返った部屋で考えていた。何度も何度もクオンの言葉を思い返していた。

ペアの居ない世界、自由を重んじる国、個人の常識。

ああ、なぜだろう。全く想像出来ないくせに、無性にわくわくしている自分がいる。

日本で何不自由なく生きてきた。不満もなく、ただ平穏な日々を送ってきた。それが、与えられたものだとは分かっていた。

すべての国民に幸せを。

それが国の方針なのだから。

みんな同じように、争い競い合うことからは何も生まれない。そう教わってきた。

ペアだってそうだ。始めから決められているのだから、将来を気に病むことはない。一人で生きていくのではないのだから。一緒に歩んでくれる人がいるという事は、それだけでとても心強いものだと知っている。

ここでの滞在はま始まったばかり。毎日が発見になるだろう。それはきっと私の知識となり、今後の人生を豊かにするのだろうと思っていた。

他人を軽蔑したことも、理解のできない国の方針も、帰ったらアオに話そう。

抱えきれないほどのおみやげ話を持って帰ろう。

アオが待つ私の世界に早く帰ろう、と。

この地で、彼と再会するまではそう思っていた。


  八、眩しさと君


 さて、と。

今回は年に二、三度行う海外視察の為、ベトナムにやってきた。

いつもはヨーロッパがメインなのだが、今回は未開の地、東南アジアにしようという事になったのである。

実を言うと、いつもは親父が視察場所を決めて一緒に行くのだが、今回はどうしても都合がつかないらしく俺一人で行く事になったのだ。

ジメジメした気候が嫌いではないし、アジア人として一度は訪れてみたかった土地だった。

親父が湿度に弱く、過ごしやすいヨーロッパを好むのでこの機会を逃すわけにはいかなかったのである。

空港についた瞬間から独特の香りと、蒸されるような湿度と暑さに一瞬眩暈がした。

愛想の一つもない税関を通り抜ける。そこは何とも言えない簡素な空港ロビーだった。

タクシーは、っと。あ、あった。

タクシーが数台停まっている方向に向かう。

運転手らしき人物は車には乗っておらず、外でタバコをふかしながらお喋りに興じている。それもほとんど皆だ。わあお。早くも軽いカルチャーショックを受ける。

アメリカでもそうだったが、やはり国が違えば人の雰囲気もがらりと変わるものだなと。

業に入れば業に従う、の精神でこちらも持ち前の適応力を発揮しようじゃないか。

「Hi!!」

と声をかけ、行き先を告げる。

渋々、といった感じで車に乗り込むおじさん。

取りあえず連れていってはくれるみたいだ。顔色なんて窺ってられるかよ。俺はここに仕事をしに来たんだから。

まずは目的地に行き、アポを取っている人物に会い、そこから会食。

ちんたらしている暇はないのだ。

ホントは旅行会社を通せば送迎付きで楽なのだが、そこは何事も経験という気持ちから、いつも海外では現地でタクシーをつかまえることにしている。

変わり者だと言われるが仕方がない。だってその方がずっと面白いんだから。

今日会う予定の相手は俺の公演内容に興味をもってくれた団体の会長だ。

労働者のあり方について考えている団体なのだそうだが、会長が個人的に俺の公演に興味を持ってくれたらしい。

今回はぜひベトナムで講演をしてくれないか、という有難い申し出と親父の都合がつかなかったおかげで実現したものだった。

会長にメッセージを送り、到着を知らせる。

返信が遅い事は承知していたので、今回の公演内容を軽く見返すことにした。


会長との会食は思っていた以上に価値のある物になったと思う。流石、大きい団体をまとめ上げる人物だなと。

何様だと言われれば返す言葉は無いが、そういう意味ではなく純粋に尊敬したのだ。

トントンと公演内容についての詳細が決まり、会場までの送迎付きだという事だった。なんとまあ至れり尽せりな事だ。

さすがにタイトなスケジュールだったので疲れていたのだろう、その日はベッドに横になるとすぐに意識を手放した。

翌日、ホテルのモーニングコールで目覚める。

朝食の為ロビー横のレストランに向かう途中、タイミングよくエレベーターがきたので小走りで乗り込む。

先に人が乗っていたのでSorryと手をあげた。

アジア人の女性だった。

あまりじろじろ見るのも失礼なのですぐに視線を逸らす。

色の白さからいって現地の人では無さそうだ。パッと見、とても細身で身長も高そうだ。

きれいに切りそろえられた黒髪に興味をひかれた。

あれ、なんていうんだっけ。

あの、日本の木彫り?みたいな、

「そうだ、こけし!」

思い出したことにテンションが上がってつい大きな声を出してしまった。

やばい。これは気まずい。相当気まずい。

慌てて女性の方を向きヘラリと愛想笑いを送った。

「こけし?って、あのこけしですか?」

と応え、驚いた顔でこちらを見ていた。

白い肌、下がり気味の眉、切れ長の瞳、への字に下がった唇。

あれ?見覚えが。

いや、でも自分にこんな若い女性の、まして日本人の知り合いなんて。

鳥肌が立った。無意識に彼女の腕を掴み、確かめるように問う。

「君、君は、君は、キコ?ですか?」

さっきより瞳を大きく見開き、瞬時に眉根をひそめる彼女。

「あ、あの、どこかでお会いしましたっけ?手、ちょっと、

「キコ、だよね?」

彼女の話を遮って、もう一度問う。

キコには十年以上会っていない。

別れた時はまだ幼かった彼女のことがわかる筈もないと、そう思っていた。

でも彼女だ。すぐにわかった。間違いない、キコだ。

遺伝子レベルで彼女の識別ができるんじゃないかと思う程はっきりと言える。

彼女がキコだ。

エレベーターが一階に着き、扉が開く。

キコを掴んでいた手を放し、それでもなお互いに身動きが出来ずそこに居た。

扉は閉まり、そこはまた二人の空間となった。

もう一度だ。

「キコ。俺だよ、マヒル。君のペアだった。」

彼女はその場に立ち尽くしたまま、瞬きも忘れこちらを見つめていた。

眩しかった。とても。

昔と変わらぬ眩しさの君が、とても懐かしかった。

曇りのない輝きがそこにあって安心したのと同時に、その輝きの後ろに嫌悪の影を見た。

そうか。

君は、俺を歓迎していない。

こんなにも嬉しいのは俺一人だと、そう言われている気がした。


  九、花束と僕


 僕は月に一度ここに来る。街から程よく離れたこの場所に。

車で片道四十分。そこからさらに歩いて十分のこの場所は、ひっそりと、しかしはっきりと存在している。

小さな林を抜け小高い丘を登ったその先が僕の目的地である。

花束を一つ。大きくはない。

両手に溢れるような、そんな花束の似合う場所ではないのだ。

そして何より彼女はそんな花束(もの)、好きではない。

きっと彼女は包み隠さず、とても不服そうに応えるだろう。

小さめの花束を贈ることは僕なりの精一杯の譲歩である。

春には春の、秋には秋の、その季節毎の花を贈る。

しかし誰一人、この場所に花束など持ってくる人はいないのだが。

石碑に「KIKO」の文字を確認し、その上に花束を置く。

そして僕は心の中で思う、

「親愛なる妻へ、やはり僕は君を愛するに値する人間ではなかったようだ。」と。

返事はなくとも、僕には彼女の応えが安易に想像できる。

それだけ長い年月を過ごしてきたのだ。お互いをお互いと認識することも忘れてしまう程に。

風が囁く。ここはそう感じさせる場所だ。

僕は彼女の居ないこの現実と向き合う術をまだ知らない。

僕たちの選択が正しかったのか、それとも間違っていたのか、未だにわからない。

きっとその理由が見つかる日まで、僕は彼女に語り掛けるのだろう。見つかることのない答えを探して、深い深い海の底を、明かりも無しに一人で歩いているようだ。

「アオは馬鹿だなあ。そんなの水圧に負けて死んじゃうわ。」

はは。考えただけで笑いがこみ上げる。

そうだった。例え話なんて彼女が最も嫌いな話じゃないか。

「難しい話をされても理解できないの。話しの要点を簡潔にお願い。」

と何度もなじられた。

僕たちは基本的に違う種類の人間だった。

彼女のはっきりとした態度や、包むことを知らない言葉たちは僕をひどく楽しませてくれたし、毎日が発見だった。

そしてそれが心地良く、僕と彼女は自然に同化していったのだ。

彼女の眩しかった笑顔も、嵐のような涙も、二度と見ることは出来ない。

キラキラと彩られた世界が滑稽に見え、そこで生きている自分もまた滑稽な人間に思えてしまうのだ。

僕が終わるその日まで、世界は白く霞んだままだ。


  十、ヒーローと私


 「キコ。俺だよ、マヒル。君のペアだった。」

心から再会を喜んでいる表情だった。

本当にずっと会いたかったヒーローに会えた子供のように、その瞳はキラキラと輝いていた。

とても不愉快だった。

見ず知らずの男性に自分の存在を知られている事が怖かったし、何よりこの男は私を捨てた元ペアだということが自分でもはっきりと分かってしまったからだ。

幼い時に離れて以来一度も会っていないし、写真すら残っていなかった。

それなのになぜだろう。

この男は間違いなくマヒルなのだ。

彼は私が十歳の時に亡命した。

その日から、ペアに亡命されたかわいそうな子として周りから憐みの視線を向けられた。私の両親は酷く憤っていて、マヒルの事は忘れなさい。そんな子居なかったのよ。と毎日のように言い聞かせられた。

同じ頃、ペアを病気で亡くしたアオがいた。

元々近所に住んでいた私たちは、お互いの両親の申請によりすんなりと新しいペアになった。

言い方は悪いが、私にとってはとても有難い事だった。

いつまでもペアがいない状態で、かわいそうな子、のレッテルを張られたままは嫌だった。

幸い、アオのご両親も同じ考えだった様で、何も問題なくペアになれたのだ。

マヒルが居なくなった頃、私は毎日彼を夢に見た。

夢の中のマヒルはいつも私を大切に扱い、先頭に立ってわくわくする遊びを教えてくれた。その後ろについて行くのが私とアオだった。

三人で学校の裏の山を冒険したり、だれが一番珍しい虫を捕まえられるか競ったり。

でも最後には夜になって、私だけが必ず迷子になるのだ。

さっきまでケラケラと笑っていたマヒルの姿は無く、光のない闇の中を彷徨う。

私は怖くて寂しくて心細くて、我慢できずに泣いてしまうのだ。

すると後ろから腕を引っ張られ、驚いて振り返る。

そこにはアオがいて、しっかりと私の腕を掴んでくれていた。ここだよ、僕はここにいるよ、と。

そして安心して大泣きする私を優しく見つめながら笑うんだ。

アオはいつも私を助けてくれる、ただ一人のヒーローだ。

そして、マヒルは絶対に帰ってこない。

目覚めは最悪で、涙が頬を伝う。

悲しい。寂しい。マヒルに会いたい。

その気持ちと同時に、ただ漠然と捨てられた、という気持ちが残った。

彼を憎むことで、捨てられたという現実と、もう会うことが出来ない彼への情を忘れようとしたのだと思う。

これが当時の私が自分を守る為にできる精一杯の方法だったのだ。


  十一、私と元ヒーロー


 「貴方の事は存じ上げません。」

知らない。知らない。知らない。

こんな人、知らない。

ずっと言い聞かせてきたんだから。

だから絶対に知らない。

「いいや。知っているはずだよ。俺は、マヒル。」

「存じ上げません。失礼します。」

早口になった。少し声が震えていたかもしれない。

そう言ってエレベーターを後にしようとした時、力強く腕を掴まれた。

咄嗟に、離せと言わんばかりに男を睨みつける。

「キコ。お願いだ。話しをしよう。」

「話すことはありません。腕を、離してください。」

それでも掴む手の力が緩まることはなく、狭い室内に沈黙が流れた。

「君が、話を聞いてくれるまで、俺はこの腕を離さない。声を上げるならその口を塞いでしまう。だからお願いだ、少しでいい。少しでいいから俺の話を聞いてくれないか?」

なんて自分勝手な。

頭に血が上った。

でもどうしたってこの場から逃げ出すことは出来ないし、力で敵う相手では無いことくらい理解できた。

これは、譲歩だ。

身を守るために仕方がなくこの男の話を聞いてやるのだ。

でないと何をされるか分からない。現に今、狭い室内で腕を掴まれ軟禁状態なのだから。

「わかったから。少しだけなら聞きます。だからこの手、離して下さい。」

「逃げたら追っかけるからな。」

「わかってる。だから早く離して。」

きつく握られていた手が離れ、私の腕はやっと解放された。腕には彼の手形と汗が、しっかりと残っていた。

 「明日、十時、○○ビルの特別ホールで講演会がある。俺はそこに登壇する。だからキコ、この講演会に来てほしい。そこで俺が話すことが、今の俺の全てなんだ。お願いだ、必ず来てほしい。このパスを見せれば会場に入れるから。絶対に、約束だからな。」

そう言って私の胸元にカード型のパスを押し付け、返事も聞かずにエレベーターから出ていった。

何を今更。

何を理由にわざわざ彼の講演会に行く必要があるのだろうか。解放もされた、押し付けられたパスは捨てればいい、仕事だってある。行く必要なんて一つもない。


 翌朝、私はクオンの迎えを断って仕事をキャンセルした。鞄に財布とパスを放り込み、ホテルにタクシーを呼んだ。

九時五十分、私は○○ビルの特別ホール受付前に居た。

これは譲歩だ。

彼を知りたい。この十年間の彼を。

元ペアとしての情か、それとも彼を憎んだ自分への当てつけか。許すも許さぬもない。今の彼を知りたいと思った。

譲歩という建前をぶら下げ、私は彼の話を聞こうと、そう決めた。

 私の、元ヒーローの辿った軌跡を知り、あの頃の気持ちにケリをつけたかった。

ただそれだけのつもりだった。


  十二、マヒルの軌跡


私は、日本で生まれ十五歳まで日本で育ちました。

皆さんは知っていますか?

日本にはペア制度というものが存在し、今もなお国民はその制度に従って生活していることを。

ペア制度とは、生まれ落ちたその日、人生が決まる。

学校に職業、住む場所、そして生涯を共にする相手まで決められるのです。

そこに本人の意思は関係なく、国がすべてを管理しています。ペア制度を生きてきた私の両親は、この制度に疑問を持ちました。

すべてが決まられた人生が、果たして人生と呼べるのだろうか、と。決して哲学的な話ではありません。

ただ、本人の意思が存在しないままに生きることが、人のあるべき姿なのかと。そう考えるようになりました。

ペア制度は私たち国民を守るためのものです。

何も心配することなく、間違いのない道を歩むことが出来る。少子化が止まったのもこの制度のおかげです。

一見、とても幸せな制度だと思います。しかし、両親は私にこう言いました。

誰かを愛せる人に、家族を心から愛せる人になってほしいと。

ただ漠然と言われた言葉でしたが、私は妙にすんなりとその言葉を受け入れることが出来ました。

両親が疑問を抱いたように、もしかしたら私も気付かぬうちに同じ思いを抱いていたのかもしれません。

しかし、愛する、という意味を知らなかった私には両親の言葉の全てを理解することは出来ませんでした。

そして毎日たくさんの本を読みました。ほとんどの本には、愛するといった単語は出てこず、言葉の意味も書かれていません。

のちに知りましたが、日本で発行される出版物には意識的にそれらの言葉が省かれていたようです。これでは理解できるはずあるませんよね。

国が、大人たちが、思想にフィルターを掛けていたのですから。

私は医者であり研究者でもある両親のおかげで、愛することの意味を知りました。

それは一冊の小説でした。

一冊の古い恋愛小説にその言葉と意味が書かれていました。焼かれずに残った数少ないそれらの古い書物は、所持しているだけで法に触れます。

その為、ペア制度が導入された当時は貴重なそれらの書物を手放さずにはいられなかったそうです。

誰かの勇気が後世に残した遺産。

それがこの書物です。

主人公が好きになったのは病気で入院している少女でした。その少女には幼馴染の男の子がいて、その男の子もまた少女の事が好きでした。

先が長くないことを知らされた少年たちは、彼女の為に何ができるのか、どうすれば彼女を救えるのか奔走します。

彼らの努力もむなしく、少女はこの世を去ります。

そして最後に彼らにこう言うのです。

二人に出会えてよかった、こんな身体だったから二人の気持ちに応えられなかったけれど、生まれ変わってもまた私を見つけてね。

そして私に『恋』をさせてほしい、大好きだったよ。と。

よくある恋愛ものでしょう。

ですが私にとっては衝撃でした。

こんなにも胸が痛くて息が苦しくなるなんて初めての経験でした。

人は誰しも概念に囚われている生き物だと思います。『恋』や『愛』という概念が意図的に削除された世界で、誰がそれを感じることが出来るでしょうか。例え感じていたとして、感情に名前は無いのです。ただ、心の奥底から出ることのないものになってしまうのです。

私は、この国の、日本のこの制度の廃止を望んでいます。

以前日本に居たころ、私にもペアがいました。その女の子と結婚し、家庭を築く事に何も感じていませんでした。だってそれが当たり前ですから。

ですが、いつの間にかペアの女の子とは違う別の子のことが気になるようになっていました。しかも同性である男の子です。その頃、両親に『愛すること』を知識として教わった私は、この気持ちがそれなのだとすぐさま理解しました。

ペアが居る事、同性だという事、たった二つの問題でしたが、どうすることも出来ない問題でした。

両親の亡命に伴い、私は日本を出ましたが、でもどうしてもペアであった女の子の事、思いを寄せる男の子の事が忘れられませんでした。いつの日か、堂々と日本の地を自らの足で踏めるような男になる為に、今こうして皆様の前でお話をさせて頂いているわけです。

私が日本に帰る時、それはこの制度が廃止された時です。

国が生まれ変わる時、ようやく私は人として、彼らに会えるのです。

その日まで何年、何十年かかるかわかりませんが、私はこうして発信することを続けていこうと思います。

大きな一つの国を敵にして、きっと跳ね返されるでしょう。伝わらないでしょう。でも、きっと誰にも伝わらない事なんて無いと思うんです。私のような気持ちを抱いた人に伝えたい。それが『愛すること』だよと。そしてそれを貫いてほしい。

外側から発信するだけでは弾かれてしまう思いでも、内側から声を上げてくれる人がいれば、それはきっと届くはずです。

その気持ちは恥ずべきものじゃない。誰もが抱くことが出来る感情です。

今はそこに自由が無いけれど、一声上げてほしい。

誰かのひと声が重なり合って、大きな歌になれば、それはきっとたくさんの人の耳に届くものになります。

だからどうか、選んでください。自分の未来を、選べる自由を、愛しい人を。



深々と一礼をし、壇上を後にする。

決して上手いとは言えないその演説は、きっと多くの人の胸を打つ。彼には何か人の心を惹きつける魅力があるのだ。現に私もこうして講演会に来てしまっているのだから。

マヒルの言葉は、私が想像もしていないものだった。彼の気持ち、当時の状況、そして私とアオの事。

理解できたか、と問われればはっきりNOと答えるだろう。それでもこれが彼の軌跡で、私にはそれを否定する権利は無いのだ。

帰ろう。

アオの元に。

伝えなければ。

今の気持ちを。

マヒルの公演が私にもたらしたのは、幸か不幸か彼を許すという穏やかな気持ちだった。

マヒルとは、もう会うことはない。

だって、私がいつも感じている気持ちの名前がわかってしまったから。彼を許して、そしてアオと生きよう。

きっとこれが『愛する』という事なのだろう。アオを想い、マヒルを許した私は二人を愛しているのだ。どうしようもなく愛しているのだろう。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ