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超能力者になりたいと思っていたのは間違いなく本心だった。超能力は万能で、超能力があればどんなことも実現し、何でも思い通りになると信じていた。もちろん、何の根拠もない究極のない物ねだりなのかもしれない。それでも願わずにはいられなかった。
ところが、ない物ねだりのはずが、もしも第三者から『あなたには超能力がある』と言われたらどうだろうか。今度は、本当に私なんかに超能力があるんだろうか、と疑問を抱き、その存在を安易に肯定しようとしない自分がそこにいた。
他人からすれば矛盾しているようにも映るが、要は自分自身が信じられないだけなのだ。私はテストで0点を取るようなことはあっても決して百点を取れるほど頭脳明晰ではない。そんな自己暗示を常にかけ続けていた弊害だろうか。
確かに私が念じたスプーンは曲がっていた。が、それはあくまでも後日談で、自分自身スプーンが曲がる瞬間を見たわけではなかった。時計の件にしても同様だ。
かと言って、紀子や初対面の藤井らが私を担ごうとして演技をしているようにも見えない。ましてや私を騙すためにスプーンを曲げたり時計を止めたりするだけの遊び心をお母さんや美樹が持っているとは到底思えなかった。
唯一、ESPカードを五枚連続で当てたこと、藤井の目の前でも連続でカードを当てたことについては否定はしない。ただし何十枚もあるカードから五種類の模様を五枚連続で正解することは確率的にはゼロではない。本当に単なる偶然だった可能性は十分考えられる。
『あみん』で自分はエスパーだと自覚したと思っていたが、それからの自分の行動が自覚する前とこれっぽっちも変わっていないことで、私の中の自覚は次第にまた元の疑心暗鬼へと戻っていった。
本当に私はエスパーなんだろうか。
煮え切らない思いが自分の中で渦巻いていた。夜、布団に潜ってからもその思いはずっと頭の中を交錯し、翌朝起きたときもまだ脳裏に焼き付いていた。
朝から雲一つない快晴の見本のような好天に恵まれた。が、私は朝起きたときから全く晴れ晴れとすることはなく、鉛色の気分のまま鉛を履いたような足取りで登校した。今日は数学の答案が返される日なのだ。
ほぼ白紙の状態で出した答案に点数がつくとは到底思えず、小学校から今までの十年間の学生生活の中で未だに0点を取ったことがなかったのが不出来な生徒なりの唯一の誇りだったのに、とうとうその最後の砦さえも失われようとしている。
「何よ、朝から浮かない顔ね」
紀子の言葉に作り笑いも返せずに席に着くと、大きく溜息をついた。まるで死刑宣告を受ける直前の被告人のような心境だった。
「わかってるくせに。今日は一限目から赤羽の授業なのよ」
「あ、そっか。テストが返ってくるんだっけ」
「うちのクラスでも、今回のテストはかなり難しかったって話題になってたわ」
素子とミエも思い出したくないものを思い出してしまった、というように渋い表情をしてみせた。
「平均点が五十点行かないんじゃないかって言ってた」
「あたしも自信ないよぉ。答に何て書いたか覚えてないもん」
どうやら素子は曲がりなりにも何か答えらしきものを書いたようだったが、私は覚えてるも何も、何にも書いていないのだからもっとひどい。
私達の落ち込み度合いとは関係なく、時間通りに予鈴が校内に鳴り渡った。刻一刻とその時が近付いていく緊張感を共有しながらミエと素子は自分達の教室へ戻っていった。
二人の後ろ姿を見送っていた紀子が私の方に向き直った。
「いいじゃん、数学の点数が悪くたって。だってあんたにはもっとイイもの持ってるんだから」
紀子が「イイもの」と言っているのが何であるかはすぐわかった。だが、それをどう使いこなせばいいのかもわからない自分にとっては、彼女の言葉をそのまま素直には喜べなかった。
やがて本鈴が鳴った。いつもならこのタイミングで定刻通りに教室に入ってくる赤羽が、この日はまだ現れずにいた。
一分、二分と時間が過ぎ、最初はおとなしかったクラスメートも次第に私語が増え、ざわめきも大きくなっていった。結局十分間のSHRに彼は現れず、とうとう一限目の本鈴が鳴っても一向に赤羽が現れる気配すらなかった。
すると、どこからか男子生徒の声がした。
「おい、学級委員。職員室に行って様子見てこいよ」
その声に背中を押されるように男女の学級委員二名がそろそろと立ち上がり、教室の戸口まで近付いたところで、急に引き戸が勢いよく開いた。扉に手をかけようとしていた女子の学級委員は思わずその手を引っ込めて「ひゃっ!」と小さく叫んだ。
そこに現れたのは赤羽ではなく、副担任の尾久だった。
「日直、号令」
職員室から教室まで小走りでやってきたのか、少し息が上がっていた。
「今日、赤羽先生は急用ができて来られなくなった。さっき職員室に先生から電話が入った」
「先生、今日返される予定だった数学のテストは返ってくるんですか?」
どこからか聞こえてくる生徒の問いに尾久は即答した。
「テストは赤羽先生が保管しているそうだから、後日赤羽先生から直接返されることになる」
ということは、今日の死刑宣告はなくなったと言うことか。厳しい現実に直面するのが少し先延ばしになったことで私はひとまずホッとした。先延ばしになったところで点数は変わらないが、もう数日は現実を直視しなくても済むのは精神衛生上好ましいことではあった。
急遽自習となった一時限目を終えると紀子はそそくさと教室を出て行き、そのまま休み時間が終わるまで戻ってこなかった。その後も紀子は休み時間の度に教室を出て行った。
お昼休み、いつものように教室にやってきた素子は紀子の姿を見つけると一目散に駆け寄った。
「紀子ちゃ~ん、会いたかったよ!」
素子が紀子の胸に飛び込んで顔を埋めた。帰宅したご主人に興奮するペットをあやすように素子を抱きしめながら、紀子は何度も彼女の髪を撫でた。
「私も会いたかったわよ~」
「今日は紀子ちゃん、休み時間の度にどっかへお出かけしてたよね」
素子が潤んだ目で紀子を見上げながら言った。
「ひょっとして、昨日いっぱいお水飲み過ぎたせい?」
「何それ?」
「だって、ずっとトイレに行ってたんでしょ?」
「いくら何でも毎時間トイレに行くわけないじゃない! どんだけ私のタンクが小さいのよ」
二人のやりとりを見ながら、ボケとツッコミというのは漫才の基本スタイルなんだなぁと、ぼんやり思った。
いつもの和気藹々としたランチタイムを終え、素子とミエが自分達の教室に戻っていくのを見計らってから紀子が私に向かって言った。
「今日、学校が終わったらちょっと付き合って」
「また『あみん』に行くの?」
紀子は首を横に振った。そして私の方に顔を近づけて小声で囁いた。
「病院よ」
病院? と私が聞き返すと、彼女は黙ってうなずいた。
「どうやら赤羽は病院に入院しているらしいの」
彼女の言葉に少なからずショックを受けた。赤羽が休んでいる理由が入院だったとは。しかし、彼女が病院に行きたがっている理由がわからなかった。ひょっとして紀子は密かに赤羽のことが好きだったのか? 休み時間中ずっと教室を出ていたのは赤羽の状況を知るために職員室で情報収集していたからなのか。
「紀子、あなたそれほどまでに赤羽先生のことを……」
私は紀子の一途な思いに胸を打たれた。親子ほども歳が離れてはいるが、恋愛で重要なのは年齢差ではなくどれだけ相手のことが好きなのかということだと思う。ちょっと嫌味な口調が生徒には不評だが紀子はそんな風評には耳を傾けないだけの一途な想いがあると言うことか。
「勘違いしないで」
紀子はピシャリと冷めた声で言い放った。
「私、赤羽には興味ないの。興味があるのはあんたの超能力だけよ」
彼女の無感情な言葉は、私の独りよがりなロマンスの妄想を否定するには十分すぎた。
「病院へ行って試してみたいことがあるの」
病院で試す? 何を? 私がポカーンとしていると紀子はやっと口許を緩めた。
「正確には、病院で入院している赤羽にあんたの超能力を試してみたいってこと。あんたにヒーリングができるのか確かめたいのよ」
紀子は私にちゃんと説明したと思っているようだが、私の中に湧き上がった“?”はまったく減ることはなかった。
「いい? ヒーリングって言うのは“治癒”のことで、れっきとした超能力の一種。あんたにヒーリングの能力があるのか、もしあったとして、そのヒーリングで赤羽が元気になるのかどうかを試したいの」
私は一応うんうんと小さくうなずいて見せたが、まだ頭の中で彼女の言葉を整理することができずに目は宙を泳いだままだった。
「とにかく一緒に病院へ行くわよ」
午後の授業が終わると同時に私達は教室を出て、駅とは逆方向のバスに乗り込み、目的地に向かった。二日続けて素子とミエに黙って先に帰るのはちょっと気が引けたが紀子は意に介さなかった。
「二人には結果が出てからで良いわ。いちいち説明するのも面倒だし、それにみんなでわいわい病院へ押しかけたら迷惑でしょ」
紀子はバスの吊革に掴まりながら前を向いたまま答えた。
「紀子、病院の場所はわかってるの?」
「もちろん。ちゃんと地図ソフトで検索済みよ」
紀子は地図ソフトが表示されたスマホを振りかざした。どうやらGPS機能で目的地までの道のりをトレースしてくれているようだ。
バスの車内アナウンスがとあるバス停の名を告げた。そして、
「○○病院へご用の方はこちらでお降り下さい」
という言葉に機敏に反応した紀子は目にも留まらぬ早業でボタンを押した。
バスを降りてすぐに病院と思われる大きな建物が目に入った。これなら方向音痴の私でもわかる。わざわざ地図アプリとGPSを駆使するまでもなかった。
紀子自身もスマホなど見ることなく目の前の大きな建物に向かってずんずんと歩いていった。
正面玄関を入ると広いロビーになっていて、すぐに大きな受付カウンターがあった。紀子は受付嬢に赤羽の名前を告げ、面会に来たことを伝えた。
「それでしたら三階のナースステーションで受付を済ませていただけますでしょうか」
病院の制服に身を包んだ若い女性事務員は営業スマイル全開で答えた。
「三階へはあちらのエスカレーターをご利用いただきますと便利です」
事務員はちょっとだけ身を乗り出してエスカレーターの方を指差した。そこには一階から三階に直結している大きなエスカレーターがあった。
一階にはこれから会計を済ませようとする患者が待合用の椅子に座り、自分の順番が呼ばれるのを待っていた。紀子はそんな患者達には目もくれず、エスカレーターの方に向かった。
病院は一階から三階までが吹き抜けとなっていてとても明るく開放感があった。地元の病院はどこも古ぼけていて薄暗く、薬品の臭いが鼻について、しかも窮屈だというイメージが強かったので、うっかりすると迷子になりそうなほど広く清潔感のある院内の景色に半ば感動すら覚えた。
エスカレーターに乗って中程まで来ると下の方で「あっ!」という子供の声が聞こえた。思わず振り返ると、三歳くらいの女の子が上を見上げたまま立ち尽くしていた。
女の子の視線の先にピンク色の風船がフワフワと浮き上がっていくのが見えた。きっとあの女の子が持っていたもので、うっかり手から離れてしまったのだろう。
「ゆかり!」
紀子も風船に気付いたらしく、私に声をかけた。
「こういうときこそあんたの腕の見せ所よ。わかるわね?」
どうやら私に超能力を使えと言っているらしい。まだ本当に超能力があるのか疑わしい状態ではあるが、女の子のために努力だけはしてみようと思った。
「お願い、こっちに来て」
心の中で念じるながら取り敢えず手を伸ばしてみたが、風船との距離は四、五メートルほどもあっていくら身を乗り出してみても届くとは思えなかった。
もう一度、さっきよりもより強く念じてみた。すると、それまで私達と並行して飛んでいた風船がちょっとだけこちらへ近付いてきたような気がした。下の方でまた女の子の「あーっ!」という声が聞こえた。私はさらに強く念じた。
風船は見てわかるほどみるみる私の方に近付いてきた。
「ゆかり、いけるよ!」
つま先立ちになって全身を伸ばす私の下半身に紀子が抱きついた。
「大丈夫、落としやしないから!」
紀子のサポートをもらって私は限界ギリギリまで手を伸ばした。風船に付いている紐がかろうじて私の手に触れた。私はこのチャンスを逃すまいと、飛びつくようにして紐を掴んだ。その瞬間、階下からどよめきと拍手が聞こえたような気がした。
「ナイスキャッチ!」
「すげえな、姉ちゃん!」
一階にいた人達から歓声が上がっていた。ふと我に帰ると、自分の腰から上は完全にエスカレーターの手すりを越えていた。紀子は私の身体をエスカレーターに引っ張り込むと大きく息をついた。さっきまでは夢中だったのであまり高さを気にしていなかったが、下を覗き込んで改めてエスカレーターの高さに目を見張った。急に膝に力が入らなくなってその場にへたり込んだ。それでもしっかりと風船の紐を離すことはしなかった。
エスカレーターを上がりきった私達は再び下りのエスカレーターに乗って女の子のもとに向かった。
「ちょっと、その風船貸して」
紀子は私から風船を取り上げると、ポケットから何やら取り出した。それは普段使っている髪ゴムだった。その髪ゴムを紐の端に結びつけるとまた私に手渡した。
「これで女の子の手にはめてあげれば、安心でしょ」
なるほど、と大きくうなずいた。
「それにしてもあんたグッジョブだったわね。やっぱりアレも超能力なんでしょ?」
私には超能力を使ったという実感が湧かなかった。カード当てやスプーン曲げのときのように手の甲が光ったりビリビリと指先がしびれたわけでもなく、これと言った自覚症状もなかった。
「でもあんたが手を出した途端に風船の軌道が明らかに変わったわよ。やっぱりそれって超能力ってことなんじゃない?」
紀子は何としても私に超能力があるのだという事実関係を証明したいらしい。
エスカレーターの降り口付近ではあの親子が私達を待っていた。私はエスカレーターを降りるとすぐに風船を女の子に渡した。
「こうすればもう風船が飛んでいかないからね」
手首に髪ゴムをはめてもらった女の子はとても満足そうに微笑んだ。
「ありがとう」
「どうもありがとうございます」
一緒にいたお母さんが深々と頭を下げた。
「城南高校の生徒さんですよね」
そのお母さんは私達の制服を見ながら言った。制服を見ただけでわかるなんてひょっとしたらかつての卒業生なのだろうか。
「私、赤羽の妻です。いつも主人がお世話になっています」
予想だにしていない言葉を聞いて、私達はもう少しで大声を張り上げそうになった。赤羽が結婚していたことも意外だったが、それ以上に赤羽とはミスマッチすぎるほど奥さんはとても綺麗で、娘さんもとても愛らしかった。
「赤羽先生って、結婚してたんですか」
紀子の質問は私の心境と見事にシンクロしていた。
ええ、と奥さんは優しく微笑んだ。
「へぇーっ、赤羽って結婚でき……」
とまで言いかけて、紀子は慌てて口を塞いだ。
「大抵の生徒さんはみんなそうおっしゃるみたいですね」
奥さんの微笑みはまるで菩薩様のように柔和で、神々しくさえ映った。赤羽はこの奥さんの前でも学校にいるときのように仏頂面で嫌味ったらしく喋るのだろうか。
「えっと、私達赤羽先生のお見舞いに来たんです」
「あら、それはそれは。病室にいるはずですから一緒に行きましょうか」
奥さんと娘さんに先導されながら赤羽のいる五階の病室まで辿り着くことができた。
赤羽は六人部屋の真ん中のベッドに上体を起こした格好で文庫本を読んでいた。彼は足音に気付いて顔を上げ、一瞬口許を緩めた。が、私達の存在を知った途端、また口を真一文字に結んだ。
「なんだお前達か」
「何だってことはないでしょ、先生。せっかくお見舞いに来てあげたのに」
「お見舞いなら、まさか手ぶらと言うことはないだろうな」
「まぁ、何てこと言うの」
奥さんが赤羽を叱りつけた。すると赤羽はフフッと笑った。
「冗談だよ。お前達、よくここがわかったな。先生達には内緒にしておくように言ったんだが」
「そりゃ、大好きな赤羽先生のことですから、あらゆる情報網を張り巡らせて探し当てましたよ」
紀子の歯の浮くような言葉に背中がくすぐったくなった。
「パパー」
女の子が赤羽に向かって手にした風船を見せた。
「お、真理亜、風船かい。いいね」
赤羽は真理亜ちゃんをひょいと抱え上げ、ベッドの端に彼女を座らせた。真理亜ちゃんは嬉しそうに風船を見上げながら足をブラブラとと揺らしていた。
「あのね、ふーせん、おねーちゃんにとってもらったの」
真理亜ちゃんが私の方を指差した。
「病院で真理亜が風船を手放しちゃったのをエスカレーターのところでナイスキャッチしてくれたのよ」
「へぇ、白岡も人の役に立つようなことをするんだな。いや、ありがとう」
私達は奥さんがどこからか持ってきてくれたパイプ椅子に腰を下ろした。
「ところで先生、お身体は大丈夫なんですか? 見たところ大きなケガもしていないみたいですけど」
赤羽の話では、車で学校へ向かう途中の交差点で信号無視をしてきた乗用車に側面から追突されたらしい。幸い外傷は見られないものの衝突の際にドア側の窓に頭をぶつけたこともあり、救急隊員から念のため検査を受けるように言われて入院したという。
「ケガよりもローンの残った愛車がボコボコになったことの方が何倍も痛いよ」
「何を言ってるんですか先生。命あっての物種ですよ。どうせ自動車保険に入ってるんだから全部ペイできるじゃないですか」
気が付くと、奥さんの姿が見えなくなっていた。
「ところで先生、せっかくなのでちょっと試したいことがあるんです」
本題に入った彼女が身を乗り出した。赤羽はキョトンとした顔をしている。
「これがうまくいけば、先生のケガがたちまち治るはずなんです」
「何だ、インチキな薬か怪しい宗教団体の勧誘か」
紀子の言葉だけ聞いたら大抵の人はそう思うだろう。
「先生、超能力って信じますか?」
「超能力? ま、あれば良いなとは思うけどな」
「実は白岡さんにはその超能力があるんですよ!」
紀子が私の肩を叩いた。赤羽はほぉー、と小さく驚いてみせたが、その顔には不信感がありありだった。
「ヒーリングという能力なんですが、彼女の超能力を使って先生の身体を治してみたいと思います」
「ほぉ」
「さ、先生、手を出して」
赤羽がイエスともノーとも言わないうちに紀子は彼の右手をぐいっと引っ張り、私の前に差し出した。
『どうやればいいのよ?』
さっき聞いたばかりでどうすればいいのかもわからない私は弱々しい草食動物のような目で紀子に訴えた。
『いいから、とっととやるのよ!』
一見穏やかそうに見える紀子の瞳のその奥はどう猛な肉食動物のように鋭く、私に拒否権はないのだぞという強い意志が感じられた。
私は観念して取り敢えず赤羽の手を取り、彼の手のひらに自分の手のひらを重ねると、目を閉じ心の中で「どうか治りますように」と三度呟いた。
目を開け、恐る恐る紀子を見た。紀子は呆気にとられた顔で『もういいの?』と言いたげにこちらを見ていた。
「先生どうですか、何か変わったような気がしませんか?」
赤羽は首を捻って少し考えてから、
「んー、何だか少し身体が軽くなったような気がするな」
「そうでしょう、そうでしょう」
紀子は大きくうなずくと、私に向かって満足げに親指を突き上げ、ニヤリと笑った。
「なあに? どうしたの?」
真理亜ちゃんがキョトンとした顔で尋ねた。
「お姉ちゃんに『パパが治りますように』っておまじないしてもらったんだ」
「そうなんだぁ! 良かったね、パパ」
そう言って屈託なく笑う真理亜ちゃんを見て、軽い罪悪感に苛まれた。
「明日には退院して、早くお前達に数学の答案を返さないとな」
赤羽が元気になってくれるのはそれはそれで良いことなのだが、その後赤羽から皮肉の一つでも言われながら答案を返される悲惨なシーンを想像してちょっと複雑な心境になった。
そろそろおいとましようと腰を浮かせたところに、奥さんの声がした。
「ごめんなさい。自動販売機がなかなか見つからなくて」
奥さんは人数分のペットボトルを抱えていた。
「結局一階のロビーまで降りちゃったの」
そう言いながら奥さんはみんなにお茶のペットボトルを配った。真理亜ちゃんは嬉しそうに一〇〇%果汁のオレンジジュースを握りしめていた。
「そうだ、お前達これも持っていけ」
赤羽はベッドの横のテーブルに置いてあったどら焼きとせんべいを二人に渡した。私達は恐縮しながら病室を出て行った。
翌朝、またも尾久が教室に入ってきた。赤羽はもう一日くらい静養するつもりなのだろうか、と安易に考えていたが教室に入ってきた尾久の顔色が悪いのを見て、どうも様子が変だと直感した。
「赤羽先生は大丈夫なんですか?」
男子生徒の質問に尾久は即答せずに少し間を置いてから答えた。
「赤羽先生は今日も大事を取ってお休みです」
やはりそうか、と頬杖を突いていた私に紀子が振り返って言った。
「おかしい。あんたのヒーリングが効いてないはずがない」
私自身もまだ自分が本当に超能力者なのかどうか半信半疑だというのに、紀子のその根拠のない確信は一体どこから来るのかわからなかった。
赤羽の様子が気になるのなら赤羽の自宅に電話を入れれば良いだけなのだが、紀子はどうしても自分の目で確かめたいようだった。
「授業なんか受けてる場合じゃないわ」
紀子がカバンを手にして立ち上がると私もそれに続いた。そして周囲に気付かれないようにこっそりと休み時間の教室を抜け出した。
病室では赤羽が寝ていたはずのベッドが綺麗に整頓され、荷物も見当たらなかった。当然奥さんや真理亜ちゃんの姿もなかった。
「本当に退院して家にいるのかな」
廊下を歩いていた看護師を呼び止めて赤羽について尋ねると、その看護師から予想外の返事が返ってきた。
「赤羽さんは昨夜容体が急変して、今ICUに入ってますよ」
私の背筋に悪寒が走り、貧血でも起きたかのように目の前が急に真っ白になった。膝から崩れ落ちる私を紀子が抱きかかえてくれたおかげで何とか持ちこたえることができた。
それからの記憶はあまり覚えていなかった。紀子に手を引っ張られ、気が付いたときには集中治療室の大きな扉の前にいた。”手術中”の赤い表示灯が目に入ったとき、ようやく我に返った。
通路に置かれた長椅子には赤羽の奥さんと、その膝の上に抱かれて眠る真理亜ちゃんの姿があった。
奥さんは私達に気付くと静かに微笑んだ。が、瞳の奥は決して笑っていないように見えた。
「先生は?」
奥さんは黙って小首を傾げた。
「まだ主治医からは詳しい話を聞いていないの」
冷たい通路に響く声がどこか虚しく聞こえた。奥さんの声は落ち着いていて、顔色にも狼狽の色は全くうかがえなかった。
「危険な状況なんでしょうか?」
「明け方に病院から電話があって、病院に着いたときにはもう集中治療室に入った後だったから。私もまだ主人の顔を見ていないの」
紀子は表示灯を見上げたまま固まったように動かなかった。そしてゆっくりと真理亜ちゃんの方に顔を向けた。
「よく寝てますね」
「病院に着いてからずっと泣いてたの。さっきやっと泣き止んで寝付いたばかり」
三人の目が真理亜ちゃんに注がれた。真理亜ちゃんはスースーと寝息を立てて熟睡していた。よく見ると真理亜ちゃんの頬の上に涙でできた白い線が左の頬と右の頬に一本ずつ描かれていた。真理亜ちゃんが泣きじゃくっていた姿を想像すると胸が締め付けられる思いに駆られた。
一体何があったのか? 赤羽はどんな状態なのか? 私が原因でこんなことになってしまったのか?
私は紀子に促されてヒーリングを行っただけなのだ。いや、厳密には、どうすれば良いのかもわからない状況でヒーリングのモノマネをしただけに過ぎない。超能力のモノマネが他人に災いを及ぼすものなのだろうか。超能力とはそんなに危険なものなのか。
何が何だかわからなかった。
ふと、紀子の姿が見当たらないことに気付いた。私は奥さんにかける言葉が思い浮かばずに黙ったままその場に立ち尽くしていた。ほんの数秒のことがそのときの私にはとてつもなく長く感じた。
「白岡さん」
奥さんが静かな声で私に声をかけた。
「ちょっと狭いかもしれないけど、こちらで良ければ座って」
私は促されるままに奥さんの隣に腰を下ろした。静かな通路には真理亜ちゃんの規則的な呼吸音しか聞こえなかった。何か話しかけようと考えれば考えるほど言葉がまとまらず、私の唇はますます重くなっていった。
「……ごめんなさい……」
ひょっとして自分のヒーリングが赤羽の症状を悪化させてしまったのかもしれない、という気持ちが心の中のどこかで引っかかっていた。だから思わずそんな言葉が口からこぼれた。
足許の白い床を見ている奥さんの顔からは表情がなくなっていた。
昨日ね、と奥さんは床に目を落としたまま口を開いた。
「二人が帰った後、主人がベッドの上でテストの採点をしていたんです。いつもなら怖い顔をして採点してるんだけど、昨日は『可愛い教え子にパワーをもらったから、もうすっかり元気になったぞ』って言いながらとても嬉しそうだったんです」
奥さんの横顔は透き通るほど白かった。私は思わずその横顔に見入っていた。
「だから、絶対に自分を責めるようなことは考えないで下さいね」
奥さんがこちらを向いて静かに微笑んだ。私はその微笑みに救われた気がした。
小さな声で、はい、と答えた。
「気持ちよさそうに寝てるでしょ」
奥さんが私の方に真理亜ちゃんの寝顔を見せた。紅潮した真理亜ちゃんの頬はつるつるしていてとても柔らかそうだった。
「ほっぺたつっついてみる? すっごく気持ち良いのよ。私なんか、いつも真理亜が寝てるときにほっぺたをツンツンしてるの」
奥さんが表情を崩した。それにつられるように私も笑った。
コツコツコツ、と靴音が聞こえた。
「ゆかり、これから藤井さんに会いに行くわよ」
紀子の言葉にうなずくと、すくっと立ち上がった。
「奥さん、ごめんなさい。私達はこれで」
紀子はお辞儀をすると踵を返した。
「来てくれて、どうもありがとうございました」
奥さんにお辞儀をしてから紀子の後を追いかけた。
早足で病院の廊下を歩きながら、どうすれば赤羽を救えるのかを考えた。超能力で赤羽を助けることができないのか。超能力は何でもできるんじゃないのか。
あれやこれと考えてみたがこれといった妙案も思いつかないうちに『あみん』の入り口まで来てしまった。
「やぁ」
こないだと同じ席に座っていた藤井がこちらに向かって手を挙げた。
「急に呼び出してすいません」
紀子が頭を下げてから席に着いた。
「いいえ。お二人の一大事だと聞いて、本当は収録が入っていたんですけどスケジュールを変更させてもらいました」
「えーっ、大丈夫なんですか? 本当にごめんなさい」
紀子が頭を下げているところに、マスターが水とおしぼりとメニューを持ってやってきた。
「嘘々。今日は収録なんてないんだって」
マスターは眉間にシワを寄せながら大袈裟に手を左右に振った。
「共演者が急病で倒れちゃってリスケになっただけなんだから」
藤井はハハハと笑い飛ばした。
「スタジオに入ってから聞かされれましてね。せっかくなので、そのままの格好で来ました」
確かに初めて会ったときよりも髪型もちゃんとしているし、スーツもちょっと高級感があった。
「スーツは体型に合っていないとテレビ映りが悪いというので、全てオーダーメイドなんです。爪もそう。テレビだと大抵手がアップで映りますからね。だから手だけはエステに通って綺麗に手入れしてもらってるんですよ。こういうのって結構お金がかかるんですよね。ほんと、馬鹿にならないんですよ」
私達がメニューに視線を落としている間に彼はカップのコーヒーを一気に飲み干した。「どうぞ私のおごりですから好きなものを頼んで下さい。もうじきお昼ですからお食事でもどうですか。ここのナポリタンは絶品ですよ」
二人ともあまり食欲がなかったせいもあって、アイスレモンティーとアイスカフェオレを注文した。藤井もブラジルコーヒーのお代わりをした。
「さて、それでは本日の本題に入るとしましょうか」
赤羽の事故と私達がヒーリングを試したことを時系列で話した。藤井は黙って紀子の話に耳を傾けていた。
「……というわけなんです。これって、ゆかりのヒーリングが関係してるんでしょうか?」 紀子が言い終わってからも藤井は黙ったまま考え事をしていた。私達も黙って彼が話し出すのを待った。
黙り込む三人の前に飲み物が運ばれてきた。
藤井はコーヒーにミルクを注ぎ、スプーンで二度三度とかき混ぜてから一口飲んだ。そして一つ息をしてからようやく口を開いた。
「そうですね……今の話からすると、白岡さんのヒーリングが原因だとは断定できませんが、何らかの関与があったのではないかという疑惑は拭いきれませんね」
藤井のどっちつかずの言葉を聞いて私の気持ちは余計にモヤモヤしてしまった。
「ヒーリングには、二つのタイプがあると言われています。一つは相手にパワーを送り込むタイプ。そしてもう一つが相手のマイナス因子を吸収するタイプです。方法は異なりますが、お互いを通じてパワーやエネルギーを疎通させるという点では共通です。今回の状況からすると、白岡さんは後者のタイプだったと考えられます。ひょととすると白岡さんはマイナス因子を吸収できずに、逆にプラス因子を吸収してしまったのではないかと。それによって先生の体力が急激に奪われて容体が急変したと考えることができます。ま、これらはあくまでも仮定にすぎませんが」
それ以外に原因が考えられない以上はたとえ仮定であったとしても、やはり私が原因であることには変わりはない。私はガックリと肩を落とした。そしてゆっくりと深く、長い溜息をついた。
集中治療室の前にいた奥さんと真理亜ちゃんの顔が脳裏に浮かんだ。そうだ、落ち込んでいる暇ではない。こうしている間にも赤羽の容体がますます悪化してしまうのだ。私は奥歯をぐっと噛みしめ、顔を上げ、睨み付けるように藤井の顔を見た。
「私、赤羽先生を助けたいんです。どうしたら先生が助かるのか教えて欲しいんです」
藤井は私から視線を逸らし、木目調の壁紙をじっと見つめた。私も紀子も身じろぎせずに藤井を見つめていた。やがて藤井はゆっくりと視線をこちらに戻すと静かに口を開いた。
「これは真面目な話ですから、決して笑わないで下さい」
そう前置きをした後で彼は顔の前で手を組み、テープルの上に両ひじを突いた。
「超能力を使えば、先生を救えるかもしれません」
藤井の言葉に私は無意識のうちにうなずいていた。私自身も超能力でしかこの状況を打開する方法はないと頭の片隅で思っていた。
「超能力で、何をすれば良いんですか?」
「方法は二つあります。まず一つ目は」
藤井は手を組んだまま人差し指だけを立てた。
「もう一度ヒーリングを行うことです。正しい方法でヒーリングができればきっと先生は回復するでしょう。ただ、集中治療室に入っている状態の先生に対してヒーリングを行うことはかなり困難です。テレポテーションで集中治療室に移動するか、遠隔からヒーリングを念じなければならないでしょう。どちらにしてもほぼ不可能に近い」
私は嘆息した。身を乗り出していた紀子も顔を曇らせながら背もたれに身体を埋めた。
「二つ目は」
藤井が人差し指を立てたまま中指を立てた。
「過去に時間遡行することです」
『じかんそこう』という言葉の意味はわからなかったが、『過去に』というキーワードとの組み合わせで、過去に遡ることではないかと解釈した。
「過去に移動するなんて、そんなことできるんですか?」
私が聞こうとしたことを私より一瞬早く、紀子が質問した。
「可能です」
藤井は手をほどき、カップをつまみ上げるとコーヒーを口にした。
「お二人は記憶違いという経験をしたことはありませんか? 自分の記憶ではこう、と思っていたことが実は違っていた、みたいな経験です」
私は自分の中の記憶を辿ってみた。そして先日起きたある出来事を思い出した。
母に宅配便の荷物を出してくるように言われて近くのコンビニまで行ったときのことだった。荷物を預けた際に店員の女性が荷札を見るなり驚いたように急に私に声をかけた。
「白岡さん? 私覚えてる?」
笑顔で私を見る店員は何となく見覚えがあるような気がしたが、名前が出てこなかった。すると彼女は小学校のときの同級生だと自ら名乗った。その名前を聞いて私はやっと顔と名前が一致した。だが、彼女はたしか小六のとき卒業と同時に父親の転勤でどこか遠くへ転校していったはずだった。
「あれっ、またこっちに戻ってきたの?」
「いやだ。誰と勘違いしてるのよ。私はずっとこっちにいたわよ。ま、中学校が別々だったからそう思うのも仕方ないか」
私の記憶の中では彼女は地元にはいないことになっていた。が、事実はそうではなかった。今藤井が言っていたことはこんなことなのか。
紀子にも心当たりがあるのか、しきりにうんうんとうなずいていた。
「それはひょっとすると記憶を操作されているかもしれません」
藤井が私達に向かって真顔で言った。
「記憶というのは、個々のデータが繋ぎ合わさって一つの事象を形成するものです。白岡さんの例で言えば、小学校の同級生というデータと引っ越したというデータが繋がって、彼女が引っ越したという一つの記憶となっています。では、なぜ白岡さんは事実ではない、彼女が引っ越したという記憶を形成してしまったのでしょうか?」
私はあからさまに眉間に皺を寄せた。
「白岡さんの記憶が改変されたとしたら、どうでしょう?」
私は首を傾げた。
「でも、記憶を改変するなんてこと、できるんですか?」
紀子が身を乗り出して尋ねた。その言葉に私はうなずいた。
「簡単です」
藤井は即答した。
「本人に実体験をさせれば良いのです。そうすることで違う記憶が上書きされます。誰かが白岡さんに『彼女が引っ越した』と吹聴するだけでも十分記憶を上書きすることが可能です。つまり、何らかの形で白岡さんの記憶上に同級生が引っ越したことを既成事実として認識させればいいのです」
「でもどうやって?」
さっきよりもさらに身を乗り出した彼女のトーンが上がった。ここまで言われてもまだ私にはピンとこなかった。紀子は眉間に皺を寄せて渋い顔をしていた。
「どうやって実体験をさせるんですか?」
藤井は薄笑いを浮かべながら、紀子の気を静めるように静かに言った。
「だから最初に言ったじゃないですか。時間遡行する、とね」
あ、と紀子が口を開いた。
「向こうで赤羽が事故に遭わないようにすればいいんですね」
藤井は大きくうなずいた。
しかし、別の疑問が私の中に渦巻いた。
「あのう……超能力で過去に行くなんてことができるのでしょうか?」
超能力さえあれば何でもできると思っている私でも、タイムマシンのように時間の壁を越えるなんて芸当ができるなんては思っていなかった。
「できます。が、とても難しいです。エスパーの中でもかなりハイテクニックな部類になります」
「私なんかでも時間遡行は可能なんでしょうか?」
藤井は腕を組みながら答えた。
「今の白岡さんでは、残念ながら難しいとしか言えません。でも」
でも? と、紀子が聞き返した。
「何人かのエスパーが協力すれば、できないことではありません」
藤井がニヤリと笑って目配せをした。私は「あっ」と声を漏らした。
「できの善し悪しは別として、取り敢えずここには二人のエスパーがいますからね」
二人というのは藤井と私のことか、と考えた。ま、私はほとんど無力に近いからほとんど藤井任せでしかないが。
「ただし、時間遡行というのはとてもリスクを伴います。過去に遡ると言うことは、逆に言えば再び過去から現在に戻ってこなければならない。過去から現在に戻ってくるときにも強力なパワーを必要とします。それに向こうの世界でエスパーに出会えなければ、こちらの世界に戻って来られないかもしれません」
「なんだか宇宙旅行みたい」
紀子の感想は的を射ていた。あまりにも漠然とした話に私自身も実感が湧かなかった。
「それでも、白岡さんは時間遡行を希望しますか?」
その言葉は藤井からの最後通告のように聞こえた。私の中にあのさみしげな赤羽の奥さんと真理亜ちゃんの顔が思い浮かんだ。もうここで後戻りするわけにはいかなかった。
私は大きく深呼吸をしてから、ゆっくりと大きくうなずいた。
「赤羽先生を助けたい、というよりも奥さんと真理亜ちゃんを悲しませたくないんです。もう覚悟はできてます」
私はこのとき初めて真剣に藤井の顔を見た。
「わかりました。では、ここに手を置いて下さい」
藤井が差し出した白く細い手の上に自分の手のひらを重ねた。
「人間の手のひらからは本人の“気”が出ているそうです。また相手の“気”も手のひらから吸収することができるとも言われています。だから人が握手を交わすのは、お互いの“気”を交換し合っているのだという説もあります」
藤井の説明に納得できる事象を思いだしていた。ESPカード当てのときだ。手のひらをかざすことでカードの絵が透けて見えた。なるほど、そういうことだったのか。
「“気”を集中させます。目を閉じて、過去に遡行することを強く念じて下さい。いつ頃の、どの状況に遡りたいか、できるだけ具体的に想像して下さい」
遡行する時期についていつ頃に遡るのがベストなのか悩んだ。赤羽が入院中のときか、赤羽が事故を起こす直前か。いや、それよりももっと前、事故の前日辺りが良いのか……。私の中でなかなかターゲットを絞ることができずにいた。
突然、強烈な睡魔に襲われた。ガクンと頭が垂れ下がり、もう身体を起こしているのも辛いくらい全身が重たくなった。そしてそのまま自分自身が闇の中に落ちていくような感覚に陥った。
もう藤井の手の感触はなくなり、店内に流れるジャズの音楽も聞こえなくなった。
私が真っ暗な無重力空間に落ちていくその瞬間、私の肩にマスターの手が乗っていたことにもまったく気付かなかった。
遠くで声がした。最初は何を言っているのかわからなかったが、しばらくして誰かが私の名前を呼んでいるのだとわかった。
「ゆかりん」
私のことを『ゆかりん』なんて呼ぶ人物は二人といない。ならば声の主はおのずと限られている。だがここにミエはいないはずだという思いが強く、自らその答えを否定しようとする。
「ゆかりん、起きて」
もう一度聞こえた。私はやっぱりミエの声だと確信するが、それでもまだ受け入れることができなかった。
ミエとおぼしき人物は今度は私の肩をポンポンと叩いた。
「そろそろ秋葉原に着いちゃうよ」
アキハバラ、というキーワードを耳にして私は急に現実に引き戻された。
ハッとなって目を開けるとそこは電車の中だった。大きな窓から差し込む日差しと流れるビル群、平日とは違う土日特有の緩んだ車内の空気感。私はこれと同じような光景を以前にも見ていたことを思い出した。
私は確かめるように、ミエに尋ねた。
「今日って、何日だっけ?」
ミエは何の疑いも持たずに答えた。
「今日? 今日は十五日よ」
間違いない。中間テスト直前の、紀子の疑似デートを尾行する当日だ。赤羽の事故までにはちょっと日にちが空いている。
「ちょっと戻りすぎたのか」
「えっ? 何が?」
私が無意識のうちに漏らした言葉をミエは聞き逃さなかった。
「ううん、何でもない。独り言」
ミエもまさか私が未来から時間遡行してきたのだとは夢にも思ってはいないだろうが、変に怪しまれないようにと肝に銘じた。
「ゆかりちゃん、今日は紀子ちゃんの貞操を守るんだからね!」
素子の正義感に溢れた力強い言葉に、近くにいた青年がギョッとした顔をしたのを見逃さなかった。
駅のエスカレーターを降りながら、壁に貼られたアニメ映画のポスターを見た。前回も同じ絵柄のものを見たはずだったが、思い出せなかった。というより何を見ても皆同じものにしか見えなかった。
「わぁー、カワイイなぁ!」
素子が手当たり次第にスマホを掲げてバシャバシャと写真を撮り始めた。やがてそのカメラは通行する男性達へと向けられていった。
「あ、あれってオタクだよね! 記念に撮っておこー!」
「コラッ、勝手に他人を撮影しない! それに人様に対して『あれ』って言っちゃダメ!」
興味本位丸出しで写真を撮りまくる素子の行動は周辺にいる数多の外国人観光客と何ら変わりないか、むしろそれ以上に節操がなかった。
「アキバって凄いね~! どこもかしこもかわいい女の子の絵ばっかり!」
「とにかく、ノリちゃんのお店に行くわよ」
紀子のバイト先は駅前の交差点を渡ったところにあると記憶していた。私は無意識のうちに紀子のお店がある方向へと自然に歩き出していた
「ゆかりん、ひょっとしてお店の場所知ってるの?」
ミエに声をかけられてハッとなった。
「ううん、もしかしたらこっちの方かなぁって思っただけ」
「勝手に行っちゃダメよ。迷子になっちゃうからね」
私は慌ててミエ達のもとへ引き返した。
「ねぇ、見て見て」
素子が自慢気に自分のスマホの液晶画面をこちらに向けた。そんなに自慢したくなるような良い写真でも撮れたのかと思って覗いてみたら、そうではなかった。
「昨日ね、家の人に紀子ちゃんのお店を地図アプリで調べてもらったの。それでね、今いるところからお店までの道順がわかるように設定してもらったんだ」
よく見ると、地図の上にある☆マークと!マークが赤い線で結ばれていた。
「ジーピーエフとかって言うらしいんだけど、これで私達がいる場所をずっとマークしてくれるんだって」
「モコ、それはきっとGPSのことね。なるほど。これなら迷子にならずに行けそうね」
三人は素子のスマホアプリが示す道順に従って動き出した。
「ワーッ、これ私達が移動する度に星印が動くんだね!」
スマホを見ている素子のテンションがどんどん上がっていった。
「私達が止まると……止まる。そして動き出すと……おぉ、動くぅ」
新しいおもちゃを与えられたばかりの子供のような素子に先導され、私達は紀子のバイト先である『フェアリーテール』まで無事到着することができた。
決して綺麗とは言えない、狭い入り口の前に置かれたメニューボード兼メッセージボードを見て軽いデジャヴに襲われた。そうだ、こんな感じだった。見上げれば確かに見覚えのあるロゴとイラストがそこにあった。
「案外と地味ね」
ミエがぽつりと漏らした言葉は私が思っていた言葉そのままだった。
私達は紀子がお客とデートを開始する十一時までの間、物陰に隠れて二人が出て来るのを待った。
「この辺のお店って開くの遅いんだね」
素子が何気なく呟いた。周囲を見渡してみると、確かに十時過ぎだというのにほとんどのお店がまだ閉まったままで、道行く人影もまばらだった。
「まだ十時半か。ちょっと早く来すぎたかしら」
ミエがスマホの待ち受け画面で時間を確認した。
「なんか、こうしていると張り込み中の刑事みたいだね」
「そうね」
「ねぇ、牛乳とあんパン買ってこようか」
「え? 何それ?」
「よく刑事もののドラマとかであるじゃない。張り込み中の刑事があんパン食べながら牛乳飲むシーン」
「モコ、最近の刑事ドラマでそんなシーン出てこないわよ。それっていつの話? 昭和? あんた今何歳よ?」
ミエの言葉に同意した。刑事が牛乳とあんパンを持って張り込みをしているドラマなんて見たことがない。
「ねぇ、尾行ってどういう風にすれば良いのかなぁ。あまり近いとばれちゃうよね」
「目標物の約十五メートル後ろを歩くようにすると良いんだって。そしてあまり相手を見ずにさりげなくしていることが大事みたいよ」
ここでもちゃんと事前に調べていたミエに感心した。
私は特段何の準備もしていないが、私だけが今日の出来事を経験済みなのだ。だからこのままだと紀子達を見失ってしまうことはわかっているので、そうならないように行動することだけを考えた。私達が紀子を見失い、車に轢かれそうになったあの交差点をクリアすればきっと良い結果につながるはずだ。さて、そのためにはどうしなければいけないのか……。
「あ、紀子ちゃんだ」
私が頭の中で一人作戦会議を開いている最中に紀子と男が店から出てきた。
「あれっ? あの人いつの間にお店に入ったんだろ?」
素子の素朴な疑問に私もミエも即答できなかった。三人ともお店に人が入った瞬間を目撃していなかった。尾行開始前から早くもにわか探偵三人のスキル不足が露呈することとなった。
「とにかく、二人を尾行するわよ」
「オッケー、十五メートルだよね」
スタンダードなメイド服に身を包んだ紀子はまるで別人のようだった。服装もメイクも今まで見たことがなかった。大きなつけまつげとアイラインが目元を強調し、黒目も一回り大きく見えた。恐らくカラーコンタクトに違いない。鮮やかなピンク色のルージュが女の子らしさをさらに引き立てていた。そして見事なまでのツインテールが彼女の背中まで伸びていた。ウイッグだとわかっていても本物の髪の毛と見分けが付かなかった。
「紀子ちゃん、メッチャ可愛いね!」
素子が私の耳許で囁いた。普通に話しても紀子達には気付かれはしない距離だが、素子なりに気を遣ったのだろう。
「あの格好で毎日学校に通ったらアイドルになれるのにね!」
いや、アイドルになる前に騒ぎになってしまう。紀子だってさすがにあの格好で学校に来るだけの勇気はないはずだ。
二人は私の記憶通りの道順を辿り、例のクレープショップの前にやってきた。私はさりげなく素子を道路側へ譲り、自分自身は店側の方にポジションを変えた。素子が店頭に陳列された例の商品に興味を惹かれて尾行どころではなくなってしまうのを防ぐためだ。
幸い、素子は前方を歩く二人に集中していた。私は素子が心を奪われたイヌだかクマだかわからない扇風機付きのぬいぐるみを横目に見て、私だったら絶対に買わないと再確認した。
「腕なんか組んじゃって、デートみたいだね」
「ま、本気じゃないと言っても一応デートだからね」
胸やお尻以外であればボディタッチはセーフだと紀子が言っていたのを思い出した。いくら仕事とは言え、胸くそ悪い男と腕を組む紀子の心中を察して、強い同情の念を抱かずにはいられなかった。
二人はそれぞれクレープを持ちながら大通りを渡っていった。このとき歩行者用の青信号が点滅を繰り返していた。信号が変わる前に私達も渡らなければまた二人を見失ってしまうが、ミエも素子もまだ私の数メートル後方にいた。
取り敢えず最初の山場を乗り切り、内心安堵した。が、ここからは未知の領域である。どんな状況でも冷静に対処できるようにと、自分に言い聞かせながら紀子達を追いかけた。
その後二人はとあるカラオケボックスに入っていった。密室で人目を気にせずにメイドを愛でようというつもりか。私達も二人に気付かれないように時間差で店に入った。
紀子達の隣の部屋を借りることができたのは実にラッキーだった。ところが、防音壁のせいでほとんど隣の物音が聞こえなかった。カラオケの音楽と男の歌声だけがかろうじて聞き取れる程度だった。
「これじゃ、二人の様子がわからないわ。ヤバいわね……」
ミエが壁に耳をそばだてながら呟いた。
「ミエちゃん、ゆかりちゃん、ドリンク何にする?」
テーブルの上に置かれたメニューを見ながら素子が尋ねた。
「そんな場合じゃないでしょ」
「でも、何も注文しないのって、逆に変じゃない?」
「……それもそうね。そう言えばちょっと喉が渇いてきたしね」
素子は待ってましたとばかりにみんなのリクエストを聞くと、壁に掛けてあった受話器を取り上げた。
「あ、もしもし。オーダーいいですか? えーと、レモンスカッシュと、オレンジジュースとカルピスソーダをお願いします。それと、お手軽オードブルも」
電話を切った素子は鼻歌交じりでテーブルの上に置いてある端末の画面を指で叩き始めた。
「お手軽オードブルって何よ」
ミエが尋ねた。
「だってぇ、ちょっと小腹が空いちゃったんだもん」
素子が言い終わるが早いか、突如大音量と共に曲がかかった。
「モコ!」
「だってぇ~、せっかくカラオケボックスに来たら唄いたいじゃない」
「私達の目的はわかってるわよね? こんなにうるさかったら隣の音が聞こえないでしょ!」
はーい、とお気楽に返事をしながらマイクを持ち上げ、そのまま唄い始めた。
「カラオケボックスで唄わないなんて変だよね」
隣の部屋に入った意味がなかった。これなら向かいの部屋からガラス越しに監視していた方がよっぽどマシだと思った。どうせ男に顔を見られても初対面なのだから別に怪しまれることはない。ここでも探偵スキルの低さが災いした。
それまで壁にほおずりするようにして耳をそばだてていたが、ふと、藤井の『手のひらから“気”を感じる』という言葉を思い出して両手を壁に付けてみることにした。カード当てのときもそうだったように、手のひらを通じて何か伝わってくるのではないかと思ったからだ。
壁に手を当てた途端、私の耳には隣の部屋の二人の会話が聞こえてきた。この声は顔を壁から離しても鮮明に耳に届いていた。だが、手を当てて隣の様子を盗み疑義している姿はあまりにも不自然なので、一応耳を当てて聞いている振りをした。
「とってもかわいいよ」
カシャ。
「もうちょっと笑って」
カシャ。
「もっとこっち向いてよ」
カシャ。
カラオケを唄う紀子を次々と写真に収めているようだった。男に顔をそむけながら嫌々唄う紀子に対してカメラマン気取りで声をかけながら撮影しているのだろう。
「どう? 何か聞こえる?」
ミエが心配そうに尋ねた。
「うん。今のところはまだ大丈夫そう」
「お待たせ致しました」
店員が部屋に入ってきた。私とミエは慌てて壁から離れた。こんな姿を見られたら、間違いなく不審人物だと思われるに違いない。
テーブルにドリンクとスナック菓子が盛られたバスケットが置かれた。バスケットの中はポップコーンとポテトチップス、そしてチョコポッキーで溢れかえっていた。
「わぁーっ、おいしそうだね!」
素子が途中で唄うのをやめてポップコーンを口に放り入れた。店員が去った後、私はレモンスカッシュを一口飲んでから、再び隣の様子をうかがった。
「ねぇ、この歌知ってる?」
「うーん、どうかしら」
「ねぇ、この歌デュエットしようよ」
「唄ったことないから、わかるかな?」
「大丈夫大丈夫。歌詞を追っかければ唄えるから。ま、別に唄えなくたって気にすることねーべ」
会話だけ聞いていると普通のカップルの会話のようにも思えるが、いやらしい顔で言い寄る野郎と顔を引きつらせながら必死に営業スマイルを作っているメイドの姿を思い浮かべてはやはり異常な世界だとしか思えなかった。紀子はこのアルバイトを本当に楽しんでやっているのだろうか。
イントロが始まり、男が唄い始めた。かなりアップテンポの曲だ。紀子のパートは明らかに歌詞を棒読みして、リズムに合わせるのが精一杯という感じだった。これが本当に唄えなくて棒読みなのか、男への当てつけでわざと下手に唄っているのかまでは区別が付かなかった。
男が気持ちよさそうに自分のパートを唄う。紀子の棒読みパートが続き、やがて最初のサビへ。二人のユニゾンと、ノリの良い曲調がテンポ良く流れる。ユニゾンのはずなのに紀子が棒読みのせいで微妙にハモっているようにも聞こえるから不思議だ。
知らない曲を、それも嫌いな男と唄っている様は拷問に近いものがあるはずだ。以前、お母さんが『お金を稼ぐことは大変なことなのよ』と私に説教したことがあったことを、ふと思い出した。
「ねぇ、ちょっと!」
曲の途中で突然、紀子の怒声が聞こえた。
「何するのよ!」
男の声は聞こえない。
「もう、やめて!」
これは一大事だと直感した。紀子が危ない。私は二人に声をかけるのももどかしく、入り口の扉に向かった。私の異変に気付いたミエも呼応するように私の後に続いた。
「ゆかりん」
「え なに」
マイクを握りしめ、今まさにこれから三曲目を唄い出そうとしていた素子が私達を見て反射的に立ち上がった瞬間、
「ガツン!」
という鈍い音と、素子の悲鳴が部屋中に響いた。
「ウギャ~~~ァ」
悲鳴と言うよりもまるで野生動物の咆哮のようだった。
素子のトラブルに構っている場合ではない。今は貞操の危機に直面している紀子の方が大事だった。私は後ろを振り返る余裕もなく部屋を飛び出した。
私とミエが廊下に出るのと同じタイミングで、男が廊下に飛び出してきた。と言うよりは、廊下まで吹っ飛ばされた、と言った方が正しかった。
尻餅をつき廊下の壁に後頭部をしたたか打ち付けた男が苦悶の表情を浮かべていたところへ、続けざまにバックパックが彼の顔面にヒットした。
「な、何するんだ!」
「うるさいっ! 出てけ、このスケベ野郎」
「俺は客だぞ。客にそんなことしてただで済むと思うなよ!」
男の声は怒りに震えていた。
「あんたみたいな客に媚びるくらいなら、いっそクビになった方がマシよ!」
男は唇を噛みながらヨロヨロと立ち上がった。そしてこちらをチラッと一瞥すると憎々しげな顔でチッと舌打ちをして階段を降りていった。
私とミエが紀子のいる部屋に飛び込んでいくと、紀子は大型液晶テレビの前でマイクを持ったまま呆然と立ち尽くしていた。
「紀子、大丈夫?」
言葉もなくへなへなと力なく膝から崩れ落ちる紀子の手からマイクがコロコロと床に転がった。床は男が吹き飛ばされたときの勢いでジュースやお菓子が散乱していた。
「ノリちゃん、大丈夫?」
ミエの声に紀子は小さくうなずいた。
取り敢えず私とミエはテーブルの上にあった紙ナプキンで汚れた床を掃除し始めた。
「ごめんね」
まだぼぉーっとしたまま床にへたり込む紀子の声には力がなかった。
「いくらメイドカフェでもこんなセクハラまがいのサービスをさせるなんて、ひどい店ね。許せないわ」
ミエが床にこぼれたお菓子を拾い集めながら語気を荒げた。
「私、クビかもね……お客にひどいことしちゃったし」
「ひどいことをしたのはあっちの方よ」
「アキバの中でも結構時給の良いお店だったから辞めたくなかったんだけど」
床に落ちたお菓子を拾いながら紀子がぽつりと呟いた。こんな事態に陥っているにも関わらず自分の貞操とバイトの時給を天秤にかけている紀子が私には信じられなかった。私だったらこんな思いをするくらいなら躊躇なくお店を辞めている。もっともそれ以前にメイドカフェで働こうという発想そのものがないが。
「でも、悪いのはあいつなんでしょ。一体どんなことされたのよ?」
紀子の話によると、男はカラオケボックスに入るとやたらと接近し、手を触り、背中から腰にかけてなで回したりと、しきりにボディタッチしてきたらしい。デュエットのときには紀子に密着し、モニタを覗き込む振りをして顔をくっつけてきて、あわよくば紀子の頬や唇にキスでもしかねない状況だったようだ。
やたらと胸を強調させるようなポーズを強要したり、スカートの裾をめくらせて露わになった太腿をバシャバシャと撮影していたらしい。
「変態極まりないわね」
さらには自分の口にくわえたポッキーを限界ギリギリまで紀子に食べさせたりするゲームをさせるなど、聞いている私ですら鳥肌が立つくらいなのだから、紀子本人の精神的ダメージは計り知れない。
エスカレートした男が紀子の耳に生臭い息を吹きかけた瞬間、ついに紀子の我慢も限界に達し、あのような行動に出たのだという。
「でも私、ちょっと小突いた程度だったんだけど、あいつったら大袈裟に吹っ飛びやがって」
「小突くってどのくらい?」
「このくらいかな」
紀子が肘で軽く私を押した。ちょっとよろける程度ではあったが、少なくとも廊下にまで飛ばされるようなほどの力ではなかった。かと言って、男がわざと自分で飛んだとしても助走なしに、しかも後方へ四、五メートルも飛べるはずがなかった。
ひょっとして、という思いが私の脳裏をよぎった。
「ほんと、わざとらしいったらありゃしない。あんなのでクビにされたら、悔やんでも悔やみきれないわよ」
「いや、それってわざとじゃないかも」
紀子が急に怪訝そうな顔をした。
「わざとじゃないって、どういうことよ」
私は、うーん、とうなってから答えた。
「超能力なんじゃないかな」
紀子はポカンとした顔で私を見た。その顔には『あんた、それマジで言ってる?』と書いてあった。
ふと、廊下が騒がしいことに気付いて、片付けの手を止めて廊下に出ると、黒いスーツに身を包んだ女性が私達がいた部屋の入り口に立っていた。
「素子お嬢様を保護致しました。はい。ケガの程度はわかりませんが、ご自身では立てないようです。今、岡本がお嬢様を店の外へ連れ出すところです」
彼女は携帯電話で何やら話をしているようだった。その表情はまるで宝塚の男役のように凜々しかった。
部屋の中から全身黒ずくめの男が苦悶の表情を浮かべた素子を抱きかかえて出てきた。
「あ、ゆかりちゃん」
「素子、大丈夫?」
素子は力なく首を振った。
「だめ。膝のお皿割れちゃったかも……」
「素子、ごめんね。あたしのせいでケガさせちゃって」
私の背後にいた紀子が声をかけた。素子がケガをしたのは紀子のせいじゃなくて単なる自爆なのだが、というツッコミはここでは敢えてしないことにした。
「いいの。紀子ちゃんのために殉職できれば本望だわ」
いや、死んではいないから。と喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。
「とにかく病院へ」
黒スーツの女性が男を促した。
「素子お嬢様は私達が送り届けます。では、これで失礼します」
男の胸の中から素子が小さく手を振った。膝が痛むのか別れが惜しいのか、目がウルウルしていた。
「あれが噂のSPか。やはり実在したのね」
黒スーツの男女が素子を連れ去った後、廊下はまた元の静けさを取り戻し、別の部屋から微かに聞こえてくる素人の歌声が響いていた。
「さぁ、片付け済ませちゃおう」
ミエの号令で私と紀子はまた部屋に戻った。
私達がカラオケボックスから出てきた頃、アキバの街には朝見たときの十倍近い人の群れでごった返していた。
お店に戻る紀子の背中に哀愁を感じながら、私とミエはJRの駅に向かった。アキバの街に慣れていない私達は不規則な人の流れの中で対向する人をよけるのが精一杯で、駅に着いたときはまるで漂流者が孤島に流れ着いたときのような安堵感に包まれた。
「ふぅ~~~」
いつもよりちょっと長めの溜息が風呂場に響いた。この溜息はお風呂の気持ちよさにプラスして久々に味わう充実感がもたらしたものだった。
アキバから帰ってきたその夜、紀子から買い物に付き合って欲しいと電話があった。
「今日みたいにムシャクシャしたときは思いっきり買い物でもしてストレス発散しないとね」
買い物は若者ファッションで有名な原宿まで足を伸ばした。そこで最高のクレープを無事に完食することができた。あの憎たらしいカップルにぶつからないよう細心の注意を払った成果だ。財布も最悪の事態を考慮して二つに分けた結果、なくさずに買い物を済ませることができた。
さらに水色のワンピースを購入することができたのだが、このとき紀子が「土曜日のお詫びとお礼」と言って、洋服の代金を半分持ってくれたのだ。私は最初拒んだが、紀子も頑として譲ろうとしなかったので私の方が半ば折れるという形と相成った。複雑な気持ちだが最小限の出費で最大限の成果を上げることができて大変満足だった。
お風呂の中で大きく伸びをして、もう一度この日の充実感を味わった。過去の嫌な出来事をプラスに転じることができる力を私自身が持ち合わせていることに喜びと驚きを感じていた。
超能力は何て素敵なんだろう。
風呂から上がり、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、ごくごくと喉に流し込んだ。喉から胃を伝わり身体中に染み渡る清涼感がなんとも心地良かった。
リビングではお母さんが缶ビールを片手にテレビを見ていた。ただ前と違うのはお母さんの隣に美樹もいたことだった。
「お姉ちゃんも見るの?」
美樹がテレビを指差しながら私に声をかけた。
「それではこれより、今大変注目のマジシャン、藤井知洋による”サイキック・マジック”を皆さんにご覧いただきます!」
テレビに映る藤井を見て、自分の知人がテレビに出ているというなんとも言えない高揚感に襲われた。思わず二人に「私、この人と知り合いなんだよ」と自慢したくなる衝動に駆られ、我慢するのに必死だった。
藤井のマジックはマジックではなく、正真正銘の超能力だと本人から教えられていたので、どうしてもその目線で見てしまう。
「どんなトリックを使ってるのか全然わからないわ」
「どんなマジックにもトリックはあるのよ。私達みたいな素人には思いつかないだけよ」
いつになく目を輝かせている美樹と相変わらず斜に構えるお母さんの対比が私にはおかしくて仕方がなかった。それは超能力を使ってるからよ、と言ったところで二人とも本気にしないだろう。
「テレビの前のあなたも明日から……いや、たった今から超能力者になれるんです」
「テレビで見ただけで超能力者なんかになれるもんかねぇ」
「でも、本当になれたら面白いじゃない」
美樹はソファから立ち上がるとキッチンに向かい、そしてスプーンを持って帰ってきた。
「これを曲げることができたら、私も超能力者ってことよね」
スプーンを見つめる美樹の顔は『絶対曲げてみせる』という自信に満ちていた。しかし五分、十分と時間が経っていく以外何の変化も見られないまま、結局一ミリも曲げることもできなかった。
美樹に超能力の素養がないことを確信した私の心の中では当然だろうという気持ちと、ホッとした気持ちとが入り混じっていた。勉強でもスポーツでも美樹には全く歯が立たないだけでなく、最近では身長すら抜かれそうな状況とあって、私が妹に負けないものがあるとしたらもう超能力しか残されていなかった。
「なに嬉しそうな顔してんのよ」
懸命にスプーンを曲げようとする彼女を温かい目で見守っていた私を不満げににらんだ。
「ううん、別に。スプーンが曲がるとこ見てみたいなぁって思ってただけ」
「お姉ちゃんこそスプーン曲げられるのかしら?」
負けず嫌いの美樹が自分の持っていたスプーンを私の方に突き出した。それはスプーンを曲げるのを諦めた意思表示だと感じた。私はスプーンを受け取りながら彼女へ言葉を返した。
「私がスプーン曲げたらどうする? 何か一つお願い聞いてくれる?」
「いいわよ。何でも好きな望みを叶えてあげるわよ」
美樹の強気の態度には『どうせあんたになんかできるわけがない』という痛烈な批判の色が見て取れた。
普段は全く働かない私の脳みそがこのときだけ一瞬冴えた。この際お母さんも巻き込んでしまおうと思いついた。
「お母さんはどう? 私曲げられると思う? もしこのスプーン曲げられたらお小遣いアップしてくれる?」
「えぇ、いいわよ」
ほろ酔い気分で少し気が緩んだのか、いつもならお小遣いアップに関してはなかなか交渉の場に上がろうとしないお母さんがこのときばかりは二つ返事で快諾した。
「本当に曲げてみせたら、来月からお小遣い千円アップでいいわ」
当然のことではあるがお母さんも曲げられないと思っているようだ。初めから答えがわかっているクイズに答えて商品をゲットできるというおいしいシチュエーションに、背中がゾクゾクしてきた。
私は指先とスプーンに意識を集中させて、ゆっくりと、スプーンをこすり始めた。こすり始めてすぐに指先にピリピリとしびれるような感覚が訪れた。大丈夫、これならいける。そう確信するとさらに指先に意識を集めた。
そこからはあっという間だった。スプーンの頭がゆらゆらと揺れたかと思うと、呆気ないくらいあっさりとスプーンは曲がっていった。
美樹もお母さんも言葉を発するどころか目を見開いたまま息すらしていないのではないかと思うくらい硬直していた。
私は九十度に曲がったスプーンを美樹に手渡すと、
「こんなの、大したことじゃないわ」
と捨てゼリフを残して部屋に戻った。
部屋に戻ると壁越しに美樹の悲鳴が聞こえてきた。
「えーっ、なに今の ねー、これって変じゃない?」
「でも、曲がったのは本当よね」
「絶対あり得ないって! おかしいわよ! 何かトリックがあるはずよ!」
「あなたが曲げようと思って曲がらなかったスプーンでゆかりは曲げたのよ。現実は現実として受け止めることね。それにしても、どんなトリックを使ったのかしら?」
痛快、という言葉はこのときのためにある言葉なんだとしみじみ思った。スプーンを受け取るときにポカンと口を開けたまま目をまん丸くしていた美樹の顔を何度も思い出しながら一人笑いに耽っていた。
今まで美樹にへこまされていた私の人生の中で初めて果たしたリベンジの快感に浸っていたところへ、メールの着信音が鳴った。送信者は紀子だった。そのメールには件名も本文もなく、ただ一枚の画像ファイルだけが添付してあった。そのファイルを開いた途端、電気ショックが全身を襲った。そしてさっきの美樹のように驚愕とも恐怖ともつかない畏怖の念に苛まれた。
添付ファイルは、への字に折れ曲がったスプーンの写真だった。
やっぱり紀子はエスパーとして開花したのだ。こないだのカラオケボックスでの一件で見せた能力は間違いなく超能力そのものだったのだ。
手にしていたスマホがブルッと震えたかと思うと、呼び出し音が鳴り響いた。画面に映る“紀子”という文字を確認してから、電話に出た。
「あ、もしもし」
「ゆかり メール見た?」
紀子の声からは浮かれた感じは全くなく、何か幽霊でも見てしまった直後のように恐る恐る確かめるようだった。
「うん。見た」
「どうしよう」
紀子なら『どーよ、あたしってやっぱり凄いのね!』みたいなやや上から目線の口調だと思っていただけに、それとは裏腹なトーンはむしろ気味が悪かった。
「紀子もあのテレビ見てたの?」
「テレビでさ、あのマジシャンがあんなこと言ってたから、あたしもついその気になって試してみたら……曲がっちゃったんだよね」
「だから私が言ったじゃない。『紀子はエスパーかもしれない』って」
「うーん」
電話の声はまだ釈然としていないみたいだ。
「ところで、あんたはどうだったのよ?」
急に矛先が私に向けられて、正直に答えるべきか、それともとぼけてやり過ごした方がいいのか、一瞬言葉に詰まった。
「あんたなんか単純だから、すぐその気になっちゃうんじゃないの?」
今このタイミングで自分がエスパーだと告白することは賢明ではないような気がした。
「あ、それでさ、このことなんだけど、素子達にはまだ内緒にしておこうと思うの。出し惜しみとかじゃなくて、ちゃんと私がエスパーだという裏が取れてから言いたいんだ」 紀子はこの後、藤井知洋とコンタクトを取ることになるのだろう。
電話を切った後、歯磨きのために洗面所に向かった。もうリビングにはお母さんしかいなかった。美樹は自分の部屋に戻ったらしい。さっきまでのあの騒々しさがまるで嘘か夢じゃなかったのではないかと思うくらい静かだった。
翌朝学校に着いてから、今日から三日間の中間テストだと言うことを思い出してげんなりした。そして案の定、何の試験勉強もせずに当日に臨んでいるという自分は過去の失敗から何も学んでいないことを反省した。とにもかくにも、最終日の数学Bのテストだけは何とか0点を阻止しなければ。
教室では紀子とミエが机の上のカードを凝視していた。
「おはよう。なにやってるの?」
私にはそれがESPカードだとすぐにわかったが、この時点では知らないことになっているはずだ。
「おはよう。ESPカードでカード当てしてるの。これで自分の能力を高めるんだって」
カードを凝視したまま返事をしない紀子の代わりにミエが言った。
「あれ、素子は?」
「そう言えばまだ来てないわね。土曜日にケガしちゃったから、来るの大変なのかも」
カラオケボックスでの彼女の悲鳴がまだ耳に残っていた。あれは本当に痛そうだった。
「ねぇ、あれ凄い車じゃない? まるでヤクザの車みたい」
「本当にヤクザなのかもよ」
近くにいたクラスメートが窓の外を指差した。正門の方を見ると黒塗りのリムジンが正門の前に横付けしているのが見えた。
助手席から一人の男が出てきた。全身黒いスーツにサングラスという風貌は私達には素子のSPだとすぐにわかったが、知らない人からすればどう見てもカタギの人ではないと思うのだろう。
男が後部座席を丁寧に開けるのと同時に反対の後部座席からもう一人黒ずくめの人物が出てきた。こちらもサングラスをして顔はよく見えなかったが、スリムな体型からカラオケボックスで会った女性SPだとわかった。
素子はSPの補助を受けながらヨロヨロとぎこちない動きでリムジンから用意された車椅子に移動した。その後、素子を乗せた車椅子はSPに手押されてそのまま昇降口へと向かっていった。
「モコ、相当重傷みたいね」
いつの間にか私の横で外の様子を見ていたミエが同情するように言った。
紀子は素子の話にも我関せずといった風にずっと机上のカードをにらみつけていた。そしてカードをめくってはその都度肩を落としていた。
「全然ダメ。正答率一割にも満たないわ」
紀子が溜息をつきながらぼやいた。
「そんなにすぐに何でもできるようにはならないわよ」
落ち込む紀子に慰めの言葉をかけるよりほかなかった。
「ねぇ、ゆかり。あんたもやってみる?」
紀子がカードを集めてトランプのようにシャッフルを始めた。
今自分がカード当てをすれば百発百中、正答率十割を誇る自信はある。が、逆にそのことで紀子のプライドを傷つけはしないだろうかと、余計な心配が私の脳裏をよぎった。
私が自分で『あなたはエスパーだ』と伝えておきながら、『実は私もエスパーなんです』というのは、なんとも相手を見下した言い方に思えた。
「ま、当たらなくたって気にすることないわ。普通は当たらなくて当然なんだもの」
当たらなくて当然、と言う言葉で私の方向性は決まった。私は手の甲に映るマークとはことごとく違うマークを答えてハズレを連発した。
「やっぱりダメね」
十枚ほどやってみたところで私は降参の態度を示した。
「ゆかりには超能力者としての素質があると思ったんだけどなぁ」
紀子がカードを片付けながら言った。私のどこをどう見たら超能力の素質があるように見えるのだろうか。
「ほら、漫画とかラノベの世界だとさ、ゆかりみたいな普通の女のが実はものすごいエスパーだったり、世界を守る勇者だったりするじゃない」
紀子がチラッと私を見た。それは彼女が私の本心を探るための牽制球のようにも思えた。
「そんな漫画みたいなことがあるわけないなじゃない」
表情は平静を装ってはいたが、内心では心臓がバクバクしていた。うっかり声が上ずりそうになった。
「あ、モコ」
ミエが廊下の方を指差した。その先には松葉杖を突いた痛々しい素子の姿があった。どうやら車椅子は昇降口までだったようだ。
「ミエちゃーん」
素子は今にも泣き出しそうな顔で私達を見た。三人は揃って廊下に出た。
「大丈夫?」
素子は黙って首を横に振った。
「あのとき結構大きい音がしたから、ただ事じゃないとは思ってたけど」
心配そうに素子を気遣うミエだったが、何となく表情が半笑いなのが私にはわかった。車椅子や松葉杖がやけに大袈裟だと思ったのかもしれない。
「ぶつけたとこ、どうなってるのよ?」
包帯でグルグル巻きにされた膝を触ろうとする紀子を素子が大声で制した。
「ダメッ! 触らないでっ!」
「ひょっとして膝のお皿は割れちゃった?」
「重度の打撲だって。でもね、ひざこぞうがね、真っ黒くアザになっているの」
「ふうん、そうなんだ」
急に紀子のトーンが下がったのがわかった。確かに打撲程度のケガにしてはちょっと大袈裟だが、一流企業の社長令嬢ともなればこれくらい手厚いケアは当たり前なのかもしれない。当時担当していたSPは素子のケガを未然に防げなかったと、社長から手厳しく叱られたのではないだろうか。
私が宝積寺家の内情を妄想している間に、素子はひょこひょこと慣れない松葉杖を突きながら自分の教室に入っていった。
「さ、さっきの続きよ。今度こそ五割目指すわ」
紀子が威勢良く席に戻っていった。私はESPカードの正答率よりもこれから行われる中間テストの正答率の方が気がかりだった。
過去に遡行してわかったことがある。見覚えのある試験問題であっても、それを必ず正解できるかどうかは全く別物だと言うことだ。
記憶の中で問題と解答が紐付いていれば解答欄を埋めることができるのだが、私は目の前の問題に対する正解を知らなかった。せめて答案が返されて答え合わせをしてから時間遡行すれば正解することができただろうに、と悔やんだ。
結局二度目のテストだというのにまたしても解答欄へまともに答えを書き記すことなく、苦痛な時間を過ごす憂き目に遭いながらテスト初日を終えた。
テストは午前中で終わり、素子を乗せた黒塗りの車を正門で見送った私達は学校帰りのファミレスでランチを済ませた。そしてそれから延々と、テストとは関係のない話をしながら自分達の席とドリンクバーとを何往復もした。私達はテスト期間中だからと言ってみんなでテスト勉強をするようなことはしない。どうせ途中から無駄話が始まり、やがて無駄話の合間に勉強するみたいな逆転現象となり、結局ただ時間を潰して終わってしまうことにみんな気付いているからだ。
ベッドに横たわりドリンクバーでタポタポになったお腹をさすりながらウトウトしていると、紀子からメールが入った。
「来たよ! 正答率五十パーセント」
紀子は家に帰ってからもESPカード当てにトライしていたようだ。文末には、
「私ってやっぱりエスパーかな?」
と書いてあった。私はすぐさま、
「スゴいね! やっぱりエスパーなんだよ!」
と返信した。紀子が確実にエスパーとして覚醒しているのを実感した。
久し振りに早く帰ってきて一緒に夕飯を食べていたお父さんが、カレーライスを食べる私を見て不思議そうに尋ねた。
「ゆかりのスプーン、なんか変だね」
どうやら自分が曲げたスプーンを誰かが無理矢理戻したらしい。絵の部分がいびつに波打っていた。
「ゆうべ、ゆかりがスプーン曲げなんかしたから」
お母さんがしらっと言った。
「スプーン曲げだって? へぇ、ゆかりには超能力があるのかい?」
「いんちきよ。インチキ。きっと何か細工があるのよ」
美樹が不満タラタラ顔で不機嫌そうに言った。
「でもすごいじゃないか。今度お父さんにも見せてくれよ」
「うちのスプーンが何本も曲げられたらたまったもんじゃないわ」
お母さんの現実的な言葉でそれ以上この話題が膨らむことはなかった。お父さんも恐らくちょっとした手品くらいにしか思っていないのかもしれない。
新しいのを明日買ってこようと思いながら、食べづらいスプーンでカレーライスをすくった。
テスト二日目も当然のことながら、悶絶するような三時間を過ごして終わっていった。
私は小学校の頃から自分の家で宿題をするのが苦手だった。家に帰ると安心してしまって宿題や勉強をやる気が起きないのだ。だから宿題はいつも同じマンションの友達の家まで行ってやっていた。受験勉強も週三回塾に通い、それ以外の日は近所の図書館で勉強した。家では参考書を開くことすらしなかった。
美樹は全く逆で、毎日自分の部屋で深夜まで勉強をしていた。高校受験の時には学校に行く以外はずっと部屋に籠もっていた。その時期私は彼女の顔を半年近く見ていなかったように記憶している。彼女の場合は家に帰ると勉強モードに入るタイプなのかもしれない。
いつも部屋に籠もって勉強ばかりしている妹を心配する姉はむしろ自分の心配をしなえればいけないほどさんざんなテスト二日目を送った。
時間遡行する前はテスト中に超能力を試してみたりいろいろと悪あがきをしていた私も、こちらに来て結局どうにもならないことを悟ってしまってからはもうじたばたするのをやめて、静かに時が過ぎるのを待つことにした。
放課後、紀子とミエは午後からバイトがあると言ってまっすぐ家に帰った。素子は相変わらず痛々しそうにしながらも松葉杖は一本だけになった。この日も黒塗りの車が彼女を送迎していた。
私は帰り道に百円ショップに立ち寄って自分用のスプーンを探した。ネコの絵柄が付いたスプーンと、以前から買おうと思っていたスマホスタンドを買って家路に就いた。帰る途中で図書館に寄ろうかとも思ったが、何となく気分が乗らなかった。あの数学の問題は一夜漬けでは太刀打ちできないレベルだとわかっていたから余計にやる気が出なかった。
三日目のテストも私にはまるで苦行だった。問題を読んでも答えが思い浮かばず、どうすればいいのかもわからず、まるで初めて来た場所で地図もなく目的地を目指すように途方に暮れながら時間を過ごすことしかできなかった。しかも、もっとたちが悪いのは、私はこれと全く同じ問題をかつて目にしているにも関わらず、答えがわからないということだった。
帰りのSHRが終わると真っ先に紀子が私に声をかけた。
「あんた、どうせ今日暇でしょ。これから付き合ってくれる?」
私には彼女の言葉は予定通りだった。これから行く先ももうわかっていたが、何も知らない振りをして彼女に付いていった。
いつもとは逆方向へ向かう電車の中で紀子が口を開いた。
「昨日バイトに行ったんだけどさ」
紀子は例の疑似デート以来バイトを休んでいた。店にはテスト勉強を理由にしていたが、実際は心の傷を癒やすための時間が欲しかったようだ。だが、店長から人手が足りないからと泣きを入れられて渋々了解したとのことだった。
「そしたらあいつ、またお店に来てたんだよね」
紀子に吹っ飛ばされ、去り際に悪態をついておきながら、また店に来る男の行動と心理が理解できなかった。
「まさか、嫌がらせに来たの?」
「私だって最初はもちろんビビったわよ。ひょっとしたらここで刺されるんじゃないかって本気で思ったわ。しかもあいつ、また私を指名してきたから、これは本気でヤバいなって」
吊革に掴まって窓の外を見たまま紀子は話を続けた。
「さすがに私も観念して、もう刺されても仕方がないって半分思ったわ。だって私、あいつを吹っ飛ばしちゃったんだからさ」
「でもそれって、あいつが紀子にセクハラしたからじゃない」
紀子は微かに口許を緩めながらも目は依然として遠くを見ていた。
「バイト始めて間もない頃、店長に『我々はサービスを売り物にしてお金をいただいている。つまり客がお金を出してもいいと思えるようなサービスを提供してあげなければいけない』と言われたの」
「だからって」
「よく考えたら、あいつデート特典のために何回も通って何万、何十万も使ったのよ。そして私とデートしたいって指名してくれた。そう思ったら私は彼が払ったお金の対価としてちゃんとあいつにサービスできてたのかなって」
紀子の言っている意味は何となくわかる気がするが、金のためなら、客のためならどんなサービスもしてあげなければいけないのかという反発心は消えなかった。
「自分からあいつの席に行ってちゃんと謝ったの。頭も下げたわ。そしたらあいつ、素直に許してくれたの。それどころか感謝されちゃった」
「感謝? どういうこと?」
「私も、吹っ飛ばして感謝されるなんてどういうことだろうと思ったから聞いてみたの。そしたらさ『君のそういう気丈なところに惚れ直した』だって。それって、単にツンデレ属性に目覚めたってことよね」
私はますます男の気持ちがわからなくなった。というよりもマニアの心理が理解できないというべきか。
「だからさ、仲直りする条件として『他の女の子の悪口を言わないことを約束して』って言ったの。そしたらさ、あいつ何て言ったと思う?」
窓から見覚えのある風景が見えてきた。そろそろ目的の駅に着く頃だ。
「『大丈夫、もう君しか見えない。他の女性はみんなカボチャだ』だって!」
紀子は私に向かって苦々しい顔をした。が、その表情の向こう側にそんなことを言われてちょっぴり嬉しそうな顔も何となく見え隠れしていた。
私には紀子の心理すらもよくわからなくなってきた。
車内のアナウンスに導かれて電車を降りた二人は改札を出ると辺りを見回した。
「すずらん通り商店街ってどこかしらね」
紀子にしてみれば初めて降りる駅でも、私には既視感があった。古ぼけたアーケードが何だか懐かしくさえ思えた。
アーチ状になっている商店街の入り口を入り、細い路地裏を一本一本確かめるようにして歩いていった先に『純喫茶 あみん』の看板はあった。
カラン、とドアベルの音が私達を出迎えた。看板もベルの音も薄暗い店内も私が憶えているそのままだった。
カウンター越しにマスターが「いらっしゃいませ」と声をかけた。マスターも全く変わりなかった。
紀子は店の奥に座る藤井を見つけると、彼に向かって一目散に歩いていった。
「藤井知洋さんですか。はじめまして、蓮田です」
藤井は飲みかけのコーヒーを置くとやおら立ち上がり、にっこりと微笑みながら手を差し出した。
「どうも、はじめまして。藤井です」
紀子がちょっと緊張した面持ちで握手を交わした。すると藤井は私にも手を出した。
「ゆかり、知ってるでしょ? あの“サイキック・マジック”の藤井知洋さんよ」
「あ、はじめまして」
私はいかにも初めて会ったという顔をして、黙って手を握り返した。すると、
「あなたとは、はじめまして、ではありませんよね」
と、耳許で声がした。私は驚いて彼の顔を見返した。が、唇は全く動いていなかった。
「これはテレパスです。超能力の一種なんです。あなたにもできるはずですよ」
彼の声は鮮明に聞こえていた。私は「本当ですか?」と心の中で呟いた。
「本当です」
藤井が超能力者だということ以上に、こういう超能力の使い方があるというのを知ったことに衝撃を受けた。
「あんた、いつまで手握ってるのよ」
隣で紀子が苦笑した。私は慌てて手をほどいた。
「有名人に会って緊張しているのはわかるけど」
三人が腰を下ろすのと同時にマスターがおしぼりと水を持ってきた。そして二つ折りのメニューを紀子の前で広げた。
「ここのケーキはマスターの手作りなんですが、とてもおいしいと評判ですよ」
「藤井さんは召し上がったことはないんですか?」
「私、甘いのが苦手なので。あ、コーヒーゼリーは食べたことがありますよ。ここのはマスターの手作りなんです」
「コーヒーゼリーもちゃんとコーヒーを淹れて作るんです」
藤井の薦めで、紀子がチーズケーキとコーヒーのセット、私はホットケーキとレモンティーのセットを注文した。
「それと、僕にコーヒーのお代わりを。今度はブルマンで」
「コーヒーの味もわからないのに若い娘の前で見栄張っちゃって。いつもブレンドじゃないか」
「いいんだよ。今日はブルマンって気分なんだ」
紀子がクスクスと声を殺して笑った。
「藤井さん、今日はお忙しいところお呼び立てして申し訳ありません。そして私の無理なお願いを聞いていただいてありがとうございます」
急に紀子が改まって藤井に頭を下げた。
「いやいや、僕の方こそお礼を言いたいですよ。何たってあの番組を見て超能力に目覚めてくれたんですからね」
「そこなんです。本当に私に超能力があるのか、藤井さんの目で確かめていただきたいんです
紀子は身を乗り出し、カラオケボックスでの出来事を話した。
「つまり、蓮田さんのようなか弱き女性がちょっと手で軽く押したつもりだったのに、その男性はものの見事に部屋の外まで吹っ飛んだんですね……なるほど、そう簡単にできるものではありませんね」
「それで、私が言ったんです。『あなたには超能力があるのかもしれない』って」
私は紀子をフォローするつもりで言葉を付け加えた。藤井は顔を紀子の方に向けたまま目だけをこちらに動かした。
「なるほど、そういうことですか」
藤井はスーツのポケットから四角い紙の箱を取り出した。
「一番シンプルな方法かも知れませんが、この方法が最もわかりやすいんです」
それが何であるかは私にもすぐにわかった。藤井が取り出したのはESPカードだった。
「これは、ESPカードと言って、○、□、+、☆、波の五種類の絵柄があります」
藤井は五種類カードを広げて見せた。
「はい、実は私も持ってます」
「ならば話は早い。この五種類のカードを当てていただくだけです」
マジシャンらしく、流れるような手つきでカードをシャッフルすると、カードの山を紀子の前に置いた。
「カードに触れても結構ですが、めくって見るのはナシですよ」
「はい」
紀子が真顔で答えた。おそらく藤井はジョークのつもりで言ったのだろうが、紀子にはそれが通じなかったらしい。
藤井は動揺する素振りも見せずに話を続けた。
「では、取り敢えずこれから十枚のカードを当てて下さい、正答率五割以上なら蓮田さんを超能力者だと認めましょう」
紀子はテーブルに置かれたカードを食い入るように見た。一分近くかけてようやく彼女は「○」と答えた。
「私がめくると不正をしたと思われるので、ご自身でめくって下さい」
紀子はゆっくりとカードをめくった。出てきたマークは☆だった。
「では、二枚目を」
今度も一分近くカードを睨み付け、出した答えは+、そしてめくったカードは○だった。
「三枚目」
「……波」
初めて当たった。が、誰一人手を叩いて喜ぶ者はいなかった。紀子は大きく息を吐いた。
その後も淡々と進み、結局紀子の正答率は三割にとどまった。
「本当のところ、三割当たっただけでも立派なものです。ただ、これで蓮田さんをエスパーと呼ぶのは難しいですね」
背もたれに身体を預けた紀子の顔にはそれまでずっと集中していた疲労感と五割に届かなかった悔しさとが入り混じっていた。
「せっかくですから、白岡さんもやってみませんか」
藤井はすでにカードをシャッフルしながら私に声をかけた。
「手加減は無用です。どうせ私にはばれてるんですから」
藤井がまたテレパスで話しかけた。私が超能力者だと知ったら紀子は少なからずショックを受けるのかもしれないという後ろ向きな気持ちが藤井からの誘いを断った。
「ものは試しよ。ゆかりもやってみたら?」
「遅かれ早かれわかることです。それに」
藤井の声が耳許ではっきりと聞こえていた。見た目は唇が動いていないし、紀子には聞こえていない声が私にだけ届いているというのは腹話術以上になんとも不思議だった。
「あなたの能力に大変興味があるんです」
確かに元の世界では私が超能力者だということがばれている。それにいつまでも超能力者だと言うことを隠し通せるのか自分でも自信がなかった。
私がこっちの世界に来たのは、赤羽の事故を未然に防ぐことだ。そのためには超能力は唯一無二、絶対必須のものではある。が、今この場で敢えてそれを披露する必要があるのだろうか。すでにお母さんと美樹の前ではスプーンを曲げて見せたが、それは美樹の鼻っ柱をへし折ってやりたいという気持ちがあったからで、紀子に自分の超能力を見せつけるような真似はしたくはなかった。
「私もゆかりに超能力があるのか興味あるわ。もしそうだとしたらすごいじゃない」
紀子の言葉に私の気持ちがぐらりと揺らいだ。彼女の言葉を鵜呑みにしていいものかどうか迷った。いろんな思いが頭の中を駆け巡って、目の前がクラクラした。
「おまちどおさま、ケーキセットです」
銀色のお盆に載せたケーキと飲み物を運んできたマスターに藤井と紀子はは気勢を削がれたようだった。動揺していた私にとってはタイムリーな助け船となった。
「ごゆっくりどうぞ」
「せっかくですから温かいうちにいただきましょうか」
藤井は私達に勧めると何事もなかったように笑顔でコーヒーに口を付けた。
「うん、やっぱりブルマンは最高ですね。味、香りとも最高級だ」
カウンターに戻っていたマスターが振り向いた。
「藤井さんはやっぱり味音痴だね。それ、いつものブレンドだよ」
マスターがしたり顔で言うと、えーっ、と藤井が驚いた。それがやたらと大袈裟だったので私も紀子も思わず吹き出しそうになった。
「うそうそ。ブルマンだよ」
「イヤだなぁ。いくら僕だってブレンドとブルマンの違いくらいはわかりますよ。ね、ケーキおいしいでしょう?」
二人は同時にうなずいた。ホットケーキはちょうどいい感じにしっとりふんわりしていて、ホットケーキに染み込んだバターとメープルシロップのコンビネーションが不変のおいしさを醸し出していた。シンプルなのに今まで食べたホットケーキとはひと味違うおいしさに素直に驚いていた。紀子のパンプキンパイもいかにも手作りという感じで見ているだけでも十分おいしそうだった。
「シナモンティーにはこのお店だけの秘密があるんですよ。ね、マスター」
藤井はマスターの方を振り返った。
「そのシナモンスティックで好きな人の名前を窓ガラスに三回書くと思いが叶うんです」
「へぇー、本当ですか ロマンチック」
「ま、都市伝説みたいなもんでしょうけどね」
私達が食事をしている間、藤井は自分自身が本当に超能力者であることを証明するようにトランプを一瞬で赤いカードと黒いカードに分けて見せたり、紙ナプキンで作った人形を瞬間移動させたりした。その妙技に驚きはしたものの、やはり心の片隅ではちょっと気の利いたマジックを見ている感覚が残っていた。
「超能力者にとってマジックの世界というのは自分の力を存分に発揮できて、しかも誰にも自分が超能力者だと言うことがバレない、とても居心地のいいところなんです。今だってお二人が今目の前で見たことが超能力なんだとは思わなかったんじゃないですか?」
私は紀子も口をつぐんだままだった。
「私はマジシャンとして修行を積んだわけではありません。単にそれっぽくみせるための努力をしただけに過ぎません。マジシャンとしての技術は人並み以下ですよ」
どうやら彼はマジシャンを名乗ってはいるものの、真のマジシャンに対して少なからずコンプレックスを抱いているようだ。
「でも、超能力があれば何でもできるじゃないですか。それに」
藤井は首を横に振って紀子の言葉を遮った。
「超能力者は人の心が読めても、人の心を動かすことはできません。超能力なんかよりもそのシナモンスティックの方がよっぽど人を幸せにできると思います」
藤井の表情が曇った。
「超能力は道具の一つなんです。決して万能ではないんです」
自分に超能力があるとわかってからも、何か特別なことができるようになったわけではないことに最近薄々気付いていた。
急に勉強ができるようになったわけでもなく、スポーツ万能になったわけでもなく、友達が増えたわけでもなければ異性からモテモテになったわけでもなかった。結論から言えば、何も変わってはいなかった。
だから「超能力は道具」と言った彼の言葉が私の中に染みるように入って来た。
食事を終えた後、藤井から一方的に超能力にまつわる体験談やテレビ出演したときの裏話などの雑談が続いた。私達も彼の話に相づちを打ちながらまったりとした時間を過ごした。
藤井はカード当てを私に振るような素振りも見せず、いつの間にかESPカードは片付けられてテーブルの上にはもうなかった。
藤井の話が一段落した頃、紀子が彼に尋ねた。
「私に超能力者の素質はあるんでしょうか?」
藤井は表情を変えずに即座に答えた。
「もちろんです。超能力はある日あるとき急に覚醒することもあれば、日々の鍛錬によって徐々に開花することもあります。要は諦めずに信じてやってみることが大事なんです」
店を出るとき私は藤井に「また会いましょう」と心の中で言いかけて、やめた。どうせこの先何らかの形で彼とはまた会えると思った。彼も私に話しかけるようなことはせずに黙って見送った。
『あみん』を出ると日はかなり西に傾いていた。私達は大分長い時間喫茶店にいたことをそのとき知った。
乗り換えのために紀子は途中の駅で降りていった。私は吊革に掴まり流れるビルやマンションの影を出入りする夕陽を見るともなしに見つめながら喫茶店での出来事をぼんやりと思い出していた。
藤井が私にテレパスで話しかけてきたことには驚いた。と、同時に彼が正真正銘の超能力者であるということを改めて認識した。そして彼は彼なりに超能力者としての悩みを抱えていることも何となく感じた。超能力者故の悩みなんてものが思いつかなかった私はその思考をすぐに停止させた。
左から右に流れる景色を眺めながら、明日のことを考えた。明日は数学の答案が返される日だ。自業自得とは言え、赤羽から人生初の0点の答案を返されて、嫌味ったらしく小言を言われるのかと思うとちょっと憂鬱になった。
…………?
何となく胸の中でもやもやとした違和感を覚えた。最初は軽い疲労感からくるものだろうと思った。
………………………?
胸の奥がざわっとなった。最初小さかったもやもや感は空気を吹き込まれた風船のように次第に膨らんでいった。
……………………………………………
胸の中のもやもやが何であるかに気付いた途端、自分の中の風船が破裂した。そして体内の血液が頭の方からサァーッと一気に下ったかと思うと、そのままの勢いでまた足許から背骨を通って頭頂部に向かって逆流していった。
明日は赤羽が事故に遭う日ではないか!
私はこのことを未然に防ぐために過去へ時間遡行してきたのではなかったのか
こっちの時間軸での生活が長くなって、当初の目的を一瞬でも忘れてしまった自分に愛想が尽きた。私は一体何をしているのだ!
次の駅で降りると、ちょうどやってきた反対方向の電車に飛び乗った。激しい動悸を押さえようと深呼吸を二度してからこの先どうすべきかを考えた。少なくともこのまま自宅に帰るという選択肢はなかった。
最初に思い付いたのは赤羽に直接連絡することだが、あいにく彼の電話番号を知らなかった。カバンの中から生徒手帳を取り出して最初から最後まで目を通してみたが、教員の連絡先などは印刷されているわけもなく、赤羽の連絡先をメモした記憶もなかった。当然携帯電話のアドレス帳や着信履歴にもそんな記録などあるはずもなかった。
明日の事故を未然に防ぐためには赤羽に車を運転しないよう忠告するか、別のルートで学校へ行くように伝えなければならない。彼の連絡先を知らなかったことは致命的なことだった。
この状態からどうやって赤羽とコンタクトをとればいいのか。超能力でそれは可能なのか?
瞬間移動で赤羽の目の前にうまく現れればいいが、今まで瞬間移動などやったことがない私にそれができるかは疑問だった。それに、もしできたとしても都合良く彼の所へ行けるという保証はない。現に時間遡行だって思っていたよりも何日も前に来てしまったわけだし。
テレパスで赤羽に話しかけるという方法も考えた。が、ただ念じただけで相手には伝わるものなのだろうか。そもそもテレパスが超能力者でなく普通の人間に通用するのかどうかもよくわからない。
考えれば考えるほど思考回路は混乱していくだけだった。
真っ白になった頭の中でようやく出た結論は至極単純なことではあるが、取り敢えず学校へ行くことだった。学校へ行けばひょっとして赤羽がいるかもしれない。そうすればその場で彼に忠告できる。たとえ彼がいなくても他の先生から連絡先を聞き出すことができる。
学校に赤羽がいることを祈りながら学校へ向かった。遅刻ギリギリのときのようなもどかしいイライラした気持ちでバスに揺られていた。
夕暮れに黒く浮かび上がる校舎は薄暗く生徒が残っているような雰囲気はなかった。グラウンドもひっそりとしていて人影もなかった。
人気のない昇降口から入った私はそのまま廊下を抜けて職員室へ向かった。普段歩き慣れている廊下でも、暗い放課後の廊下を一人で歩くのは薄気味が悪かった。
職員室入り口の小窓から漏れる明かりを見たとき、あれは希望の光だと思った。明かりがついているということは誰かいる証拠だ。もしも職員室が真っ暗だったらその瞬間私は絶望に打ちひしがれていただろう。
はやる気持ちを押さえて私は職員室の扉をノックした。職員室の入り口には『テスト期間中につき生徒立ち入り禁止』という貼り紙がしてあった。
生徒は職員室に入るときには必ずノックをして「失礼します」と言わなければならないというルールがあるが、黙ってドアを開け、中に入った。
真っ先に赤羽の席を見たが、姿はなかった。と言うか、職員室には誰もいなかった。
人気のない職員室を一望しながら心の中のバロメーターが希望と絶望の間を行ったり来たりしていた。
「おう、どうした」
不意に背後から声をかけられて「ひゃっあ」と変な声を出した。と、同時に数センチは飛び上がったかもしれない。
振り返ると、そこには英語の渋谷が立っていた。
「こんな時間に何してるんだ?」
渋谷はもっぱら三年生を教えているため二年生である私達にはあまりなじみがない先生だった。
「あの、二年六組の白岡ですけど、赤羽先生はいらっしゃいませんか?」
「あぁ、赤羽先生だったら十分くらい前に帰ったよ」
渋谷の言葉を聞いて肩を落とした。が、落ち込んでいる暇はなかった。次の手を打たなければいけないという気持ちが自分を奮い立たせていた。
「赤羽先生に大至急で連絡を取りたいんですけど、連絡先を教えてもらえませんか?」
そういうことか、と渋谷は小声で呟きながら職員室の中に入っていった。私もその後に続いて入ろうとした途端、渋谷が声を上げた。
「テストの採点中だから入って来てはダメだ!」
その鋭い声に私の身体が硬直した。そして渋谷が教員専用の連絡簿と思われる冊子を見ながらメモを取っているのを直立不動の状態で見ていた。
「携帯電話と自宅の番号だ」
渋谷がメモを渡しながら怪訝そうに私の顔を覗き込んだ。
「大至急って、何かあったのか?」
「いえ、そんなたいしたことではないんですけど」
「ふうん」
渋谷の顔に疑念の色が浮かんだ。私はとっさに言葉を続けた。
「帰りのSHRで先生が明日のことについて何か言っていたみたいなんですけど、私聞き逃しちゃって」
「そんなの友達に聞けばいいだろ?」
「あ、あたしボッチだから……」
ボッチ、という言葉に渋谷が微妙に反応した。まずいことを聞いたかもしれない、とわずかに動揺したのを見逃さなかった。
「どうもありがとうございました!」
私は深々と頭を下げると小走りで職員室を後にした。最近の先生はボッチとか仲間はずれといったキーワードに敏感なのが幸いした。
学校を出てすぐに赤羽の携帯に電話した。が、聞こえてきたのは「現在電話に出ることができません」という無機質な音声ガイダンスだった。運転中なのかもしれない。電話を切ると今度は自宅へ電話した。
五回目くらいの呼び出し音の後、ボツッという音がした。誰かが受話器を取ったみたいだったが無言だった。私が話し出そうと口を開いた瞬間、電話の向こうから声がした。
「もしもし」
その声が真理亜ちゃんだとすぐにわかった。急に私の脳裏には真理亜ちゃんの姿が走馬燈のようにグルグルと浮かび上がった。病院で初めて会ったとき、病室で赤羽のベッドの上でお人形さんのように座っていたとき、そして手術室の前で泣き疲れて眠っているとき……。
そうだ、私がこの世界に遡行してきたのは真理亜ちゃんに悲しい思いをさせたくなかったからだ。
真理亜ちゃんはまだ赤羽が事故を起こして大変なことになるということを知らない。その無垢な心を傷つけるようなことは何としてでも阻止しなければならない。私の胸が急に熱くなると同時にぐっとこみ上げるものがあった。
「もしもし、あかばねさんのおたくですか」
泣きそうになるのを必死に堪えながら、真理亜ちゃんに聞き取れるようにゆっくりと、はっきりとした声で言った。
「はい」
真理亜ちゃんが短く答えた。
「あのう、おとうさんはいま……」
「はい赤羽です」
私が言いかけたところで向こうの声が急に凜々しくなった。奥さんに代わったのだとすぐに気付いた。
「ごめんなさい、夕飯の支度をしていたのですぐに電話に出られなくって」
「私、赤羽先生のクラスの白岡と言います。あの、赤羽先生はご在宅でしょうか」
「あいにく主人はまだ帰って来てないんです」
渋谷がさっき学校を出たと言っていたから、まだ帰ってきていないのは合点がいった。赤羽が事故を起こすのは明朝だが、まさかこっちの世界では今日だったりしないかと一抹の不安がよぎった。いや、そんなことはない……はずだ。
「あのう、先生に用事があるので折り返し電話をしていただくか、伝言をお願いしたいんですけど」
「はい、わかりました。それじゃ帰って来たら白岡さんに電話させますね。念のため電話番号を聞いてもいいかしら」
奥さんに自分の携帯電話の番号を教えて電話を切った。電話を切った後で赤羽の帰りを待つ二人の睦まじい様子が目に浮かんでまた泣きそうになった。
取り敢えず、今時点でできることはやった。あとは赤羽が電話をしてきたら明日は車を使わないか学校までのルートを変えるよう忠告すれば事故を未然に防ぐことができるに違いない。
私は駅へ向かうバスを待ちながらホッと一息ついた。これでもう大丈夫。そう思いながら、頭の中でもう一人の自分が私に囁いた。
「本当にそれで大丈夫なの?」
ん、どういう意味? と、反問する。
「もっと確実な方法があるかもしれない」
そいつはもう一度囁いた。その囁きは次第に私の中で大きく反響し、それに比例するように不安な気持ちが自分の中に充満していった。
赤羽は本当に電話をかけてくるのだろうか。どうせ明日会うのだからそのときでいいだろうと言って電話をかけてこないかもしれない。それに私が忠告したところで赤羽がそれに従うかどうかもわからない。百パーセント大丈夫だという保証がどこにもないではないか。
そう思うと急に落ち着かなくなった。
どうやったら絶対に事故が起こらないようにできるのだろうか。
バスに乗り、駅に着いてからも私はそのことをずっと考えていた。が、決定打となるような結論は出なかった。
駅のホームに電車が滑り込む。が、私はそれには乗らずに走り去るのを見届けてから再び反対方向の電車に乗った。外の景色はすっかり暗くなり、黒い窓には無表情の自分の顔が滲むように映っていた。
目的の駅に着き、商店街を歩く。色とりどりの電飾のせいか昼間よりも幾分活気に満ちているような気がした。
細い路地を曲がり、そこに向かって一直線に歩いた。看板には明かりが点いてはいたが、もうそれを見なくてもその店が『あみん』だとわかっていた。
カランカランとドアベルが必要以上に大きく鳴り響いた。
「やぁ」
数時間前に来たときと同じ席に座っていた藤井は私に向かって手を挙げた。
「何となく、あなたがまた来るんじゃないかと思っていましたよ」
私は彼に勧められるよりも先に向かいの席に座り、彼が何か言い出そうとする前に話を切り出した。
「藤井さん、教えて欲しいんです」
「まぁ、そう焦らずに。何飲みますか?」
藤井のゆったりとした口調がもどかしかった。
「いらっしゃい」
マスターがおしぼりとお水を私の前に置いた。
私はマスターがメニューを出すよりも先にアイスレモネードを注文した。マスターは静かに微笑むと音もなくカウンターの方へと戻っていった。
私はこの世界に時間遡行してきたこと、またその原因となった赤羽の事故のことについてできるだけ詳しく説明した。奥さんと真理亜ちゃんのことを話したら自分が泣いてしまうと思ったので、敢えて言わなかった。
藤井は途中で質問をしたり口を挟むようなことはせず、黙って私の話を聞いていた。
私の話が一通り終わった頃、マスターがアイスレモネードを持ってきた。
「なるほど。そういうことでしたか」
そう言って藤井はコーヒーカップを口にした。今日は何杯目なんだろうと頭の片隅で思いながら私もアイスレモネードのストローをくわえた。蜂蜜の柔らかい甘味と檸檬の酸味に加えハーブの清涼感が口いっぱいに広がった。
「そこまでして先生を救いたいとは。白岡さんは何て先生思いなんでしょうね」
微笑む藤井の顔を見て、絶対に勘違いされたと思ったが、とにかく今は赤羽を救えればそれで良かった。
藤井はカップを置くと真顔になった。
「ですが、こればかりは超能力でもどうすることもできません」
それまで“希望”の方に傾いていた心の針がいきなり“絶望”を指した。
藤井から「超能力は道具」と言われて薄々は気付いてはいたが、改めて藤井にそう宣告されるとやっぱりショックだった。
「超能力というのはあくまでも道具にすぎません。ですから道具をうまく使いこなせれば決して不可能ではないかも知れませんが、白岡さんは超能力をちゃんと使いこなせているんですか?」
“絶望”の針が一気に振り切れた。赤羽が危篤に陥った原因が見様見真似でやってみたヒーリングだったことを思い出した。確かにそうだ。私はまだ道具をちゃんと使えていない。
「超能力で全て何でもできると思うのは間違いです……もし目の前の建物で飛び降り自殺をしようとしている人を見つけたら、あなたはどうやってその人を助けますか?」
突然振られた質問にどう答えようと考えていると、彼は言葉を続けた。
「超能力で助けますか? 警察を呼びますか? どの方法が最もその人を助けることができますか?」
考えれば考えるほど頭の中は真っ白になっていった。
「簡単です。あなた自身が精一杯本気で本人を説得するんです。『死んじゃダメだ!』『考え直せ!』とね。そうしたらその人は心を動かされて自殺をやめるかもしれません」
私は言い返すこともできず、ただうつむくしかなかった。
堪えきれずポタポタと涙があふれ出た。スカートに丸いしみがいくつもできた。
「すいません。ちょっと言い方がきつかったですね……」
私はブンブンと首を振った。彼の言葉は正論だ。謝る理由などこれっぽっちもなかった。超能力を過大評価していた自分が悪いのだ。
「超能力では未来を予見することはできますが、未来を変えることはできません」
うつむいたままうなずいた。
「でも、人間は未来を変えることはできます。どうしてだと思いますか?」
急に出された問いにふっと冷静になって答えを探した。
「そうあって欲しい、そうなりたいと心に思って行動するからです」
私の中にあった真っ暗闇の中で、針の穴ほどのごくごく小さな光が見えた、気がした。 ゆっくりと頭を上げた。彼はとても柔和な顔で私を見ていた。彼の顔を見ながら頭の中で交錯するいくつもの言葉を取捨選択し、一つのセンテンスにまとめてからその言葉を口にしてみた。
「今自分にできる最善を尽くせ、ってことですか」
彼は黙ってうなずいた。そしてにっこりと微笑んだ。
心の針はもう消えていた。絶望や希望の針に一喜一憂したり超能力に頼って行動するのではなく、自分を信じて自分の意志で行動しろ、という意味なのだとその時気付いた。
「レモネード、おいしいですか」
マスターが伝票を藤井の前に置きながら話しかけた。
「はい。とっても」
「じゃんじゃんお代わりしていいですからね。みんな藤井さんに付けておきますから」
私はレモネードを一気飲みすると立ち上がった。そして藤井とマスターにお礼を言ってから店を出てすぐに赤羽の携帯に電話をかけた。
「現在電話に出ることができません。しばらく立ってからもう一度電話を……」
音声ガイダンスの途中で電話を切った。次に自宅へ電話した。
「はい、赤羽でございます」
今度はすぐに奥さんが電話に出た。
「ごめんなさい。帰って来てすぐに子供と本屋に行ってしまったんです。白岡さんのことはちゃんと伝言しておきましたから、後で必ず電話してくると思います」
そうですか、と電話を切ろうとしたとき奥さんは言葉を続けた。
「帰って来たら、もう一度伝えますね」
私は道端でお辞儀をしながら「お願いします」と懇願して電話を切った。赤羽の住所を聞いて朝一番で彼の家まで行くことも考えたが、奥さんに「うちの住所なんか聞いてどうするつもりなんですか」と問いただされたときにきちんと説明できる自信がなかった。
「実は明日の朝、先生が事故に遭って危篤に陥るんです」
と、説明して納得してくれるとは思えなかった。
今は奥さんと赤羽を信じることがベストの選択だと感じていた。
ようやく家に辿り着いた。学校を出てからどれだけの道草を食ったことだろう。玄関に入った途端、一気に全身が疲労感に襲われた。両肩と両足に重しを載せられたような感覚に陥った。小さな声で「ただいま」と言うのがやっとだった。脱いだ靴を揃える気力ももう残っていなかった。
部屋に入るとカバンを放り出し制服姿のままベッドに突っ伏した。
あと私にできるのは赤羽からの電話を待つことだけだ。赤羽のことだからちゃんと電話してくることだろう。そこで私からの忠告をどこまで信じてそれに従ってくれるのかは赤羽に委ねるしかない。
身体がベッドに沈んでいった。この感覚は眠りに落ちるサインだった。夕飯ができるまでの間ちょっとだけ仮眠しようと目を閉じた。携帯電話はマナーモードを解除しているから着信があればすぐにわかる。
大丈夫、と自分に言い聞かせた。ベッドのふかふかした感触が心地良かった。
私は突然遠くから聞こえる電子音で意識を取り戻した。が、まだ身体は起きようとはせず、目を閉じたままその電子音を聞いていた。そうだ赤羽からの電話だ、早く電話に出なければ。そう思いながら、ふと、それとは違う思いが頭の中をかすめた。
そう言えば自分の携帯電話の着信音はこんなにけたたましい音だっただろうか。まるで目覚まし時計みたいじゃないか。着信音を設定変更でもしたんだっけか?
目覚まし時計を頭の中で具体的な形にしてみた。目覚まし時計は自分の部屋にあって、毎朝私を叩き起こすものだ。良い夢を見ているときに鳴ると憎たらしく思うこともあるけれど、これがないと起きられない私にとっては欠かせない生活必需品だ。
目覚まし時計、目覚まし時計……。
私の寝ぼけ眼が全開し、全身に力がみなぎった。ビーチフラッグの選手のような勢いでベッドから跳ね起き、携帯電話を見た。
液晶画面には三件の着信履歴が表示されていた。いずれも見覚えのある同じ番号だった。赤羽の番号だった。
もう私の中からなくなっていたはずの針が、昨日よりももっと太く大きく“絶望”を指し示した。
すぐさま赤羽の携帯に電話した。が、やはり彼の電話からは例の音声ガイダンスが聞こえるだけだった。
頭の中が“絶望”という文字で埋め尽くされた。それでも最後の望みを託して自宅へ電話した。
「はい、赤羽でございます」
奥さんの声はいつもと変わらない、朝からとても透き通った綺麗な声だった。
「ええ、もう学校へ向かいましたけど」
それは最後通告だった。これで赤羽が事故に遭うことが確定事項となってしまった。
私は力なく電話を切った。
それでもまだ諦めてはいけないと自分を奮い立たせた。以前、テレビのインタビューでどこかのスポーツ選手が漏らした「諦めたらそこで終わり」というセリフをなぜだか思い出していた。
この非常事態で自分にできること。それはもう超能力に頼るしかなかった。
どうすればいいのかはわからなかった。とにかくサイコキネシスでもテレポテーションでも何でもいいから赤羽の車をいつものルートから外すことができれば、事故は回避できるかもしれない。でも、目に見えない彼の車に対してどうやって超能力を使えばいいのか思いつかなかった。
自分が瞬間移動で彼の車の近くまで行き、そこでサイコキネシスを使って彼の車をどこかに移動させることができれば、それでもいい。
果たしてそれが自分にできるのか、なんてことは考えても仕方のないことだった。
できるかどうかじゃない。やるしかないんだ。
そう思うが早いか私は部屋を出て玄関を飛び出していた。革靴のかかとを踏んづけたまま私はマンションの廊下を全力疾走していた。どうすれば瞬間移動できるのかなんてさっぱりわからないが、とにかく今は走るしかなかった。
そして、この先にある階段を飛び降りたらそこが彼の車の前だったりしたら良いのに、と真剣に思った。
階段の角を曲がる直前で考えを変えた。「だったら良いのに」じゃなく「そうなんだ」と。階段を飛び降りたらそこは赤羽の車の前なんだ──。
しかし、というか当然というか、もちろん角を曲がった先はいつもの階段だった。見慣れた十段ほどのコンクリート製の階段。無機質で何の飾り気もない、けれども管理人さんが毎日掃除をしてくれているおかげで目立ったゴミもなくサッパリと小綺麗な階段。
理想はいともたやすく崩れ去り、一瞬にして現実へ引き戻された。心のどこかで何かがポキッと音を立てたような気がした。
と同時に足首がグギッとくの字に曲がり、バランスを崩した身体はもう体勢を立て直すことができなかった。
あっ、と思ったときにはもう身体は宙に浮いていた。
瞬時に、危ない、という本能的な感覚が全身を駆け抜けた。死ぬかもしれないという恐怖に襲われた。
反射的に身体を捻った。顔面から落ちてしまったらひとたまりもない。
両手で自分の頭をかばい、ぐっと奥歯を噛みしめた。
そのときの私にできたのはそこまでだった。こんなときこそ超能力を発揮するグッドタイミングなのに、そんなことを一ミリたりとも考えられなかった。
地面に落ちるまでの一瞬が、そのときの私には何秒にも何十秒にも感じた。落ちている間はまるでスローモーション映像のようにゆっくりとした感覚だった。過去の記憶が走馬燈のように流れるようなことはなかった。
ドスン!
全身に衝撃と激痛が走る。私の意識はそこで途絶えた。
今、自分が生きているのか、死んでいるのか、わからない。
生きてるか、と自分に呼びかけてみる。が、声は出ない。ただ意識はあるようだ。
全身がジンジンとしびれて指一本動かすことができない。やっぱり死んでしまったのか。とすると、ここは黄泉国なんだろうか。
死後の世界では必ずと言っていいほど三途の川が登場するが、どうやらこの付近には見当たらない。それ以前に真っ暗で何も見えない。
こうなった以上、あきらめよう。自らの死を素直に受け入れよう。後悔はたくさんあるが、それらは全て自分が蒔いた種なのだから仕方がない。
一つだけ後悔するとしたら、やっぱり赤羽のことだろうか。自分が寝過ごすような凡ミスを犯さなければ彼を救えたはずだと思うと残念でならない。
いつも嫌味ったらしくあまり愛想のない先生ではあったが、あの病室では全くの別人だった。きっと病室での顔が本当の赤羽の顔で、学校にいるときの赤羽は威厳を保つためのものだとしたら、彼は彼なりに努力をしていたんだ。
奥さんと真理亜ちゃんが悲しむのは辛い。そうならないために時間遡行してきたのに、結局目的を達しないままジ・エンドになってしまった。
ごめんね、真理亜ちゃん。ごめんなさい奥さん。
藤井のアドバイスも無駄にしてしまった。
自分のマヌケぶりに悔し涙が流れた。
死後の世界でもちゃんと涙が出るんだ。今度紀子にも教えてあげよう……あ、私死んじゃってるんだ。
「……」
今、誰かに呼ばれたような気がした。
「……おい、……おか」
確かに声が聞こえる。でも真っ暗でよくわからない。どこか聞き覚えのある声だ。五年前に死んだおじいちゃんだろうか。でもそれにしてはちょっと若い感じがする。人は死ぬと若返るのか。
「白岡」
おじいちゃんは私のことを名字では呼んだりしない。
「おい、白岡」
この口調は、そうだ、授業中に注意するときの赤羽の声によく似ている。ということはやっぱり赤羽も私と一緒に死後の世界に来てしまったのか。返す返す残念でならない。
「おい、しっかりしろ」
頬の辺りにペシペシと平手打ちされているような感覚があった。痛くはない。そりゃそうだ、私はもう死んでいるのだから。
「こんな所で寝てたら大変だぞ」
こんな所って、ここは黄泉国なんでしょ。あぁそうか、黄泉国とは言えどこでも好き勝手に寝るわけにはいかないってことか。でも、身体が動かないのでどうにもならない。
身体の下に二本の腕が無理矢理ねじ込まれたような感覚と私の身体が地面を離れる浮遊感がした。
そこで初めて目を開けた。
まず最初に目に飛び込んできたのは赤羽の顔と真っ青な青空だった。
私は赤羽にお姫様抱っこをされていた。
赤羽は私を抱っこしたまま歩いていき、やがてゆっくりと私を地面に下ろした。
そこは信号の点いた交差点脇の歩道だった。
見覚えのない景色を見渡して、ようやく私は事態を理解することができた。車道にいた私を赤羽が歩道へ運んでくれたのだ。
「大丈夫か?」
私の顔を心配そうに覗き込む赤羽の顔を見て、自然と目から涙があふれ出た。
「ケガはないか?」
裸足のつま先に力を入れてみる。足の指も足首も痛みはあるものの取り敢えず動く。手や腕もところどころ擦り傷ができているが問題ない。私は黙ってうなずいた。
「とにかく、病院へ行くか」
「……大丈夫です」
身体のあちこちに痛みはあるがどこも骨は折れていないようだった。よろよろと立ち上がると、軽い立ちくらみに足をすくわれそうになった。それでも何とか踏ん張った。立っているという実感は同時に生きているという実感でもあった。
「じゃあ、家まで送ろう」
赤羽は私の住所をカーナビで検索すると、音声ガイダンスに従って車を走らせた。二人とも黙り込んだ車内で女性の機械的な声だけが時折聞こえていた。
「昨日、何度か電話したんだけどな」
赤羽が口を開いた。彼は前を見たままだった。「電話に出られずにすいません」と喉まで出かかった。
「うちに電話するくらいだから、お前に何かあったのかと思ったぞ。なのにちっとも電話に出ないし」
爆睡していて気付きませんでした、とはさすがに言えなかった。
「それで、どんな用事だったんだ?」
これも答えに困る質問だ。一度赤羽先生は事故に遭って、私がヒーリングなんて超能力を使ったばかりに危篤になっちゃったので時間遡行して事故を防ごうと思って、その忠告のための電話だったんです。とはいくら本当のことでもやっぱり言えなかった。言えば間違いなく外科ではなく脳外科か精神科の病院に強制搬送されるだろう。
「それにしても、さっきはびっくりしたぞ。急に白岡が飛び出してきただからな。よそ見してたら絶対にひき殺すところだった」
私は黙って頭を下げた。
「どうして朝っぱらからあんな場所にいたんだ?」
私は黙り込んだ。自分でもわからずにあそこへ瞬間移動してきたんです、と言ったら赤羽は信じてくれるだろうか。
「何かあったのか?」
「いいえ」
「まぁ、言いたくないのなら無理に言わなくていい」
そこからまた沈黙の時間が車内に流れた。
しばらくして車はマンションの前で止まった。
「今からだと遅刻は確定だが、今日だけは特別に免除してやるから、これからでも学校へ来いよ」
車から降りようとする私の背中に向かって言った。
「ただし、少しでも体調が優れないようなら無理せずすぐに病院へ行くんだぞ。わかったな」
私は彼へのお礼の代わりに、見えなくなるまでその場で車を見送った。車が角を曲がったのを確認してからエントランスに入った。
エレベータに乗りながら、これから何をしなければいけないのかを考えた。やるべきことはわかっていた。ただ、それを遂行するにはかなり他力本願な部分があるので本当に実現できるかどうか自信がなかった。でもそれを実行しないと私自身困ったことになってしまう。わずかな可能性に期待するしかなかった。
お母さんに見つからないようにそぉーっと家に入り込み、スクールバッグから財布と定期とスマホを持ち出すと、靴を片手に持ったまま、そぉーっと玄関を出た。
再びマンションを出た私は駅に向かった。が、もちろん学校へ行くためではなかった。
すっかり見慣れた駅を降り、真っ直ぐに目的地へ向かった。ちょっと寂れた商店街。狭くてちょっとわかりづらい路地。そして昔風の看板。『あみん』の文字を見つけたとき、なぜかちょっとだけホッとした。
扉を開け薄暗い店内を見渡す。
「いらっしゃい」
マスターが笑顔で声をかけた。特に驚いた表情もなく、まるで私が来るのをわかっているみたいだった。
朝早い店内にマスター以外の人影はなかった。私が入り口でキョロキョロしているとマスターはまたこちらを見た。
「藤井さんかい?」
「はい」
「彼なら今日から地方へ営業だよ。たしか朝一番の飛行機で長崎に行くとか言ってたかな」
早々に私の思惑が外れてしまった。このミッションにはどうしても藤井が必要だった。 ここへ来たのは自分を再び元の時間軸に帰してもらうためだった。それができるのは彼しかいなかった。私の顔に失意の色が濃く浮かび上がった。
「どうしよう……」
ドスン、といきなり背中を小突かれた。私はお客さんが来たのかと思って慌ててどいた。
「ごめんなさい」
背後の客の顔を見て私は目を見開いた。
「おはよ」
そこに立っていたのは、私服姿の紀子だった。
「びっくりした?」
いたずらっぽく笑う紀子に無言でうなずいた。
「困ってるあんたのために、こうして時間遡行してやってきた訳よ」
遡行、というキーワードを耳にして、目の前の紀子はどこか別の時間軸からやってきたのだと理解することができた。
「じゃあ、紀子もエスパーになれたの?」
「そうよ。最初の頃よりも結構腕を上げたんだから」
紀子も立派な超能力者になっているんだと思ったら、ちょっと感動した。
「でも、ここに来るにはやっぱり藤井さんとあんたの力を借りたんだけどね。あ、それと」
「お二人さん」
マスターがカウンター越しに声をかけた。
「そんなところで立ち話も何だから、お好きな席にどうぞ。今ならどこも空いてますよ」
私は迷わずカウンター席に向かった。この店に初めて入ったときからカウンター席に座ってみたいと思っていた。いかにも常連さんみたいな優越感に浸って、カウンターでマスターがコーヒーを淹れているところをじっくり拝見したいと思っていた。
「ちゃんと藤井さんにつけておきますから、安心してお好きなものを注文してください」
マスターは全く悪びれる様子もなく言った。私と紀子は見えない藤井に恐縮しつつ、アイスレモンティーとアイスカフェオレを注文した。
「それにしてもさ」
頬杖を突きながら私のことをしげしげと見つめてから、紀子は嬉しそうに口を開いた。「時間遡行ってあたしも初めてなんだけど、これって不思議なもんだね」
紀子は私を頭のてっぺんから明日の先まで舐めるようにしげしげと見つめた。
「今こうしてゆかりとあたしがいるけど、二人ともこの時間軸の人間じゃないんだよね」
紀子に言われて改めて今こうしていることの不思議さを実感していた。こちらの時間軸でも問題なく普通に生活していたので、どっちが本当の時間軸なのかわからなくなる。どちらもそうであるようにも思うし、その逆のようでもあるし。
「記憶が上書きされちゃうから、元の時間軸に戻ればこっちの記憶はなくなっちゃうのかもしれないけどさ」
マスターがサイフォンでコーヒーを淹れるとコーヒー豆の香ばしい薫りが漂い始めた。
「マスター、アイスでもちゃんとコーヒーを淹れるんですか?」
「既製品のアイスコーヒーではおいしくありませんからね。うちではホットコーヒーを冷やして出すんですよ」
アイスレモンティーも同じようにティーポットで淹れた紅茶を冷やしたものを出していた。手間暇を惜しまないところにマスターのこだわりと職人気質を垣間見た気がした。
二人に出された飲み物は味、香りともに申し分なかった。聞くと、氷も製氷機ではなくちゃんと氷屋さんから天然氷を仕入れているのだそうだ。
上等なドリンクと店内に流れるクラシックジャズにすっかり優雅な気分に浸っていた。
「さてと」
アイスレモンティーを飲み終えた紀子がまた私に向き直った。
「あたしが来たのはおいしいレモンティーを飲むためじゃなくって、あんたを元の時間軸に帰すためだったわよね」
「でも、元の時間に帰す方法なんて知ってるの?」
紀子は力強く親指を突き上げてウインクした。
「ちゃんと藤井さんに教えてもらってきたわよ」
紀子が手のひらを上にして右手を差し出した。私は彼女の手に自分の手を重ねた。
「そしたら目をつぶって、自分が元の時間軸のどの地点に帰りたいのかを頭の中で強く念じてみて」
すぐに思い浮かんだのはテストが返される日、つまり赤羽が事故に遭う当日の朝だった。
私が目を閉じようとしたとき、マスターが声をかけた。
「あの、元の世界に戻ってしまうんですか?」
私と紀子は同時にうなずいた。
「あちらに帰ってもまたお店に来て下さいね」
「はい、もちろんです」
マスターは私達がエスパーだの遡行だのという話をしているのにちっとも不思議そうな顔もしなかった。藤井の知り合いだからその手の話には慣れているからなのか。マスター自身は超能力を信じているのだろうか。
「あの、マスターは超能力って信じますか?」
マスターは表情を変えずに穏やかに答えた。
「否定するのは簡単ですが、信じることは大事だと思います」
さらに言葉を付け加えた。
「信じている間は可能性があると言うことですからね」
自分に超能力があると信じる。紀子にも超能力があると信じる。それだけで二人には超能力者の可能性があるということだ。二人に超能力があれば元の時間軸に戻れる可能性はゼロではない。
「じゃあ、いくわよ」
紀子が私の手をぎゅっと強く握った。目を閉じ、帰りたい日、帰りたい時間を頭の中で強く念じた。
「そしたら、頭の中を空っぽにして。明鏡止水の境地ね」
メイキョーシスイ、と言われて何のことだかわからなかったが、とにかく頭の中を無の状態にすることを心掛けた。
全身の感覚が鈍くなり、身体が重くなってきた。眠りに就く寸前の状態に近かった。次第に頭を上げているのが辛くなり自然と垂れ下がった。初めて時間遡行したときもこんな感じだったのを思いだした。
いつの間にかジャズの音色も聞こえなくなっていた。もう少しで落ちるんだ、と思ったとき、肩の辺りがほんのりと温かくなった。これも以前の遡行のときに感じたものだ。
次の瞬間、私の意識は遠のいていた。
ピピピピピピピピ。
目覚ましのアラームが遠くで聞こえていた。これがないと朝起きることができない。あまりのやかましさに時々ムカつくこともあるけれど、私の生活には欠かすことのできない必須アイテムだ。
目を開けると見慣れた天井が私を見下ろしていた。
ここが自分の部屋だということはすぐにわかった。枕元のスマホで日にちと時間を確かめた。木曜日、すなわち三日間の中間テストが終わり赤羽から数学Bの答案を返される当日ということになる。よく考えてみたら私はこの木曜日の朝を迎えるのはこれで三度だ。
なんとも不思議な気分でベッドから起き上がると、まずはこの時間軸に私を戻してくれた紀子に感謝した。彼女が立派な超能力者になっていたということは、こちらの世界で紀子が覚醒したことを表している。これもあのカラオケボックスでの出来事がトリガーになっているのだとしたら、とても興味深いことだった。
パジャマから制服に着替え、リビングでお母さんと美樹に朝の挨拶を交わした。
「あら、お早う。今日は早いのね」
すでに朝食の支度を終えていたお母さんはテーブルに肘を突きながらのんびりとモーニングカフェオレを飲んでいた。
「やだ、今日は雨か雪でも降るのかしら」
美樹が慌てて立ち上がり、カバンを持って私と入れ違いにリビングを出た。私よりも遠い学校へ通っている彼女はいつも早く家を出てしまうので、万年寝坊助の私と朝顔を合わせるのは本当に久し振りだった。
いってきます、と言う声を残して玄関のドアが閉まる音がした。
「今日はゆっくり朝ご飯食べていけるわね。ミネストローネだけど食べてく?」
私がうん、とうなずくとお母さんはキッチンに向かった。しばらくしてスープカップとネコの絵柄のスプーンが運ばれてきた。
私が遡行した向こう側の時間軸の世界で百円ショップで買った物だった。私はさりげなく尋ねた。
「ねぇ、このスプーンってもうどれくらい使ってるんだっけ?」
お母さんは首を傾げた。
「さあ。ずいぶん前から使ってたんじゃないの。確かあなたが自分で買ってきたんじゃなかった?」
「ふうん。そうだっけ」
スープをスプーンですくって口に入れた。トマトの酸味と塩加減が絶妙にマッチしていた。少々胡椒をきかせすぎてスパイシーな味付けになっているのは辛い物好きなお母さんらしかった。
時間に余裕を持って家を出た私はいつもの電車よりも三本ほど早い電車に乗った。遅刻の心配をせずに電車に乗るのは本当に久し振りだった。窓の外を見ているうちに油断したら鼻歌でも唄ってしまうのではないかと思うくらい良い気分だった。
学校に着き、いつものようにそのまま教室に入ってから、赤羽の無事を確かめる意味でも彼に電話すべきだったかと急に思った。今からでも職員室へ行って赤羽の顔を見ても良かったが、ネガティブな思考ルーチンに陥ることを拒絶している私の足はそのまま自分の席へと向かっていた。
「あ、ゆかりちゃんだ! おはよー!」
素子の元気な声が私を出迎えた。
「ゆかりちゃん、何か良いことあったぁ?」
両足で立っている素子のヒザにはサポーターや包帯はなく、本人も痛がっているような様子も見られなかった。もう良くなったのか、それとも元々そんなケガなどしていなかったのか確かめてみたかった。
「えー、どんな良いことかしら?」
ミエが興味津々という顔で私を見た。
「ゆかりの良いことなんて、たまたま早起きして遅刻しなくて済んだ、とかその程度よ」
鋭い推理力の紀子に思わず心の中を超能力で覗かれているのかと思って、ハッとなった。彼女は机の上のESPカードの山を睨み付けていた。
「うーん、□!」
と言ってめくったカードが×だったのを見て、紀子の身体が半分ほど椅子からずれ落ちた。
「やっぱりダメね。あたしには超能力の素養がないのかもなぁ~」
まだ紀子は覚醒していないみたいだ。
「大丈夫! 紀子ちゃんはやればできる子だよ!」
二人のやり取りを見てミエがニコニコしている。いつもと変わらない光景がどこか新鮮で、どこか懐かしい感じがした。三人の笑顔を見ていたら自分の0点のテストなどもうどうでもいいことのように思えた。
予鈴が鳴って、素子とミエは自分達の教室へと帰っていった。あちこちに散らばっていたクラスメート達も次第に自分の席へと戻っていった。
私は席に座っていつも本鈴と同時に教室へ入ってくるはずの赤羽を待った。いつものように無愛想な顔でこちらを一瞥している彼の顔と、病室で真理亜ちゃんを抱っこしながら私達に笑いかける彼の顔が交互にオーバーラップしていた。
やがて本鈴を告げるチャイムが鳴り響いた。
いつもチャイムと同時に教室に入ってくるはずの赤羽が、チャイムが鳴り終わっても姿を見せなかった。突然、尾久が息を切らせて駆け込んでくるシーンが脳裏をよぎった。いやそんなはずはないと否定しようと思ってもその想像が現実化するのではないかという不安に苛まれ、急に心臓がドキドキしてきた。
赤羽不在のままSHRの時間が過ぎていく。一分、二分と時間が経つに連れ私の不安はどんどん肥大化していった。
あのときと同じだ――。
不吉な過去の記憶が蘇ってきた。頭がクラクラして、目の前が真っ暗になった。
「おい、学級委員」
どこからか男子生徒の声がした。
男女の学級委員が仕方ないといった顔でのろのろと立ち上がった。
このシーンも前に見たのと同じだ。汗で手のひらがべっとりとしてきた。
そして女子の学級委員が職員室に向かおうと出入り口の扉に手をかけようとしたそのとき、勢いよく扉が開いた。
「ひゃっ!」
学級委員が声を上げた。
「どうした? 何かあったのか?」
立ち尽くす二人に仏頂面で話しかけたのは紛れもなく赤羽本人だった。
「一限目が俺の授業だから、ついでにその用意をしていたらちょっと遅くなった」
赤羽はしっかりとした足取りで教壇に上がると、小脇に抱えていた出欠簿やら教科書やらを教卓の上へ無造作に置いた。それらの中にはもちろんこれから返すであろう答案の束も混じっていた。
それまで張り詰めていた緊張から解き放たれた私はグッタリと机の上に倒れ込んだ。
「白岡」
赤羽の声で跳ね起きた。
「朝っぱらから寝てるんじゃないぞ」
普段と変わらない赤羽を見て、報われた気がした。いつもの嫌味もこの日だけはなぜかとげとげしさを感じずにむしろ嬉しかった。
全員の出欠を取り終え、諸連絡と五分間のトイレ休憩を挟んですぐに数学Bの授業が始まった。
「今回は敢えて難易度を少し上げてみんなの実力を確かめてみたが……散々たる結果に大変失望した。いかにお前達が理解できていなかったか。そしていかに俺の教え方が悪かったのかを痛感させられた」
いつも以上に辛辣な赤羽の言葉に教室内は静まり返った。そして赤羽は重苦しい溜息を一つ吐くと答案を返し始めた。
赤羽はいつも答案を返すとき点数順で返す。点数こそわからないがクラス内の順位はおのずと明白になってしまう。上位者にとっては刺激にもなろうが、下位に甘んじる者にとっては非情な宣告のようでもあった。
最下位が確定している私は何ら動じることはなく、とても穏やかな心境で名前を呼ばれるのを待った。これが紀子が言っていた『メーキョーシスイ』の境地なのだろうか。
「布佐」
まず最初に呼ばれたのは、一年の頃から毎回クラスでトップ争いを繰り広げている秀才の布佐だった。彼のライバルには成田がいるのだが、ちょっと根暗で見るからにガリ勉タイプの成田とは違い、陽気で陸上部のホープでもある彼はクラスでも人気者だった。
二年になって奇しくも布佐と成田が同じクラスになり、二年になって初めて行われる定期テストである今回の中間テストはその第一ラウンドとしてクラスメートの一部からは密かに注目されていた。
「よっしゃー!」
パン、と手を叩いて立ち上がった布佐は、ガッツポーズをしながら跳ねるように教壇へ向かった。彼の周りの友人達がおぉーっ、とどよめいた。彼の仕草が鼻につかないのは彼の人徳によるところが大きいのかもしれない。ルックスもそこそこで、女子生徒からも人気があるという噂だが、私と紀子のストライクゾーンからはちょっと外れている。
布佐に答案を渡した赤羽は間髪入れずに次の生徒の名を呼んだ。
「安食」
スッと立ち上がった女子生徒は、こちらも一年から学年トップ争いの常連で文系理系関係なく成績優秀、真面目で物静かだがミステリアスな雰囲気が一部の男子生徒の間で人気となっている。
ポーカーフェースで答案を受け取る彼女を周囲も当然という顔で見送っていた。
三番目に成田の名前が挙がるのだろうとクラスメートの視線が彼に集まった。彼もそろそろ自分の番だろうと少し腰を浮かせていた。
「蓮田」
私は一瞬自分の耳を疑った。いや、クラス全員がそうだったに違いない。さっきの布佐の倍以上の音量でクラス中が一斉にどよめいた。
当の紀子本人も不意に自分の名前を呼ばれてキョトンとしていた。
「蓮田、早く取りに来い」
慌てて席を立った紀子は赤羽から答案を受け取り、点数を確かめると目をまん丸にした。
「よく頑張ったじゃないか」
赤羽が紀子に声をかけた。紀子は少しはにかみながら軽く会釈した。
クラス中の視線が紀子に注がれている中、私は成田の方を見た。彼はまるで雪山で行き倒れになった登山家のように机に顔を埋めたまま動かなかった。
「紀子、すっごいじゃない!」
拍手で出迎えた私を少し照れくさそうな顔をした紀子はそれでもウインクをしながらサムアップポーズを決めた。やっぱり内心は嬉しいんだ。
「たまたまヤマが当たっちゃったみたいね。フロックかな」
赤羽のテストをフロックで高得点を挙げることなどあり得ない。間違いなく彼女の実力だ。
教室内が再び沸いた。成田がクラスのトップファイブから転落し、第六位となったのだ。テストを受け取る彼の顔は青ざめ、心なしか唇が震えているようにも見えた。
私だったら六番なんて超超超できすぎなくらい名誉なことなのだが、彼にとっては屈辱以外の何物でもないのだろう。
次々と名前を呼ばれ、赤羽の手許にはとうとう最後の答案用紙だけが残っていた。ここまでまだ私の名前は呼ばれていない。意地の悪い一部の男子生徒が「ビリはどいつだぁ?」という顔でキョロキョロと辺りを見渡していた。
「白岡」
黙って立ち上がると赤羽の方に向かって歩き出した。みんなからの哀れみともさげすみとも言えぬ視線を背中にビンビンと感じていた。
無表情の赤羽から顔色を少しも変えることなく答案用紙を受け取った。
人生初の0点のテスト。見るまでもない。空白ばかりでどこにも書き込んだ跡が見られない殺風景な答案用紙には○も△もなく、×を示すレ点だけが無味乾燥に踊っていた。
この0点は誰のせいでもない、自分自身の正真正銘の実力なのだ。改めて己への戒めと目の前の現実を再認識する意味も込めて、わかってはいるが敢えて点数を直視した。
私の名前の横に赤ペンで書かれた点数を刮目して私は驚いた。そこには0以外の数字が書かれていたからだ。
”2”
私は何度もまばたきをして、もう一度点数を見た。が、やはりその数字は”2”としか見えなかった。
最初赤羽のケアレスミスだと思ったが、正答のないこの答案で点数を間違える方が難しい。まさかもうろくしたわけではあるまいな。
私は赤羽の方を振り返った。すると赤羽はおもむろに生徒達に向かって口を開いた。
「実は今回のテストでは配点ミスがあり、全問正解しても九十八点にしかならないことが判明した。こんなことは俺の教師生活で初めての失態だ……そこで名前が書いてあれば無条件で二点やることにした」
たかが二点。されど二点。実質は0点であっても、この二点のおかげで人生初の不名誉な記録を阻止することができたということは、まだ世の中には神様が存在するのかもしれない。
赤羽は黒板の方に向き直り、各設問の解説を始めた。自分の答案用紙とにらめっこをしながら彼の解説に耳を傾けるみんなと同じように私も赤羽の話を聞いていたが途中からこんがらがってきて、聞くのをやめてしまった。後で紀子にじっくり説明してもらうことにしよう。
私は顔を上げて窓の外に目を向けた。
窓から見える空は雲一つない鮮やかなスカイブルー一色に染まっていた。どこまでも続く青い空は遠近感を失い、壁紙のようにのっぺりとしていた。
やがて私の視線に割り込むように黒い点がゆっくりと右から左へと流れていった。それは飛行機のようにも鳥のようにも見えたが小さすぎてよくわからなかった。誰かにあれはUFOだと言われても素直に信じてしまう自信があった。
黒い点を凝視しながら、もしも私の超能力であの点を自分の意のままに動かせたら、と考えてみた。上に行ったり下に行ったり、円を描いたりジグザグに飛んでみたり……それはそれで面白いに違いない。もちろん、何の得にもならないこともわかっていた。
スプーン曲げのように誰にもできないことだけど何の利益にもならないことと、テストで百点を取るように努力次第では誰でもできることのどちらが自分にとって大事なのだろうか。どちらも大事かもしれないし、どちらも大事ではないのかもしれない。どちらか片方を選択しなければならないとしたら、私は超能力の方を迷わず選ぶ。
空に浮かんでいた黒い点は、ゆっくりと上昇を始めたかと思うと急降下し、やがて右方向へ旋回したかと思うと、ジグザグ飛行しながら斜め下に進路を変えた。
「あっ」
私は思わず声を漏らした。と同時に机の上に置いてあったペンケースが床に落ちた。
ボトッ。
私は慌てて顔を窓の外から机に戻した。
黒板に向かって長い計算式を書いていた赤羽がちらっとこちらを振り返った。
「白岡、ちゃんとノート取ってるか。これが理解できないと赤点確実だぞ」
はい、と取り敢えず答えた私はペンケースを拾い上げ、また窓の外に目をやった。
黒い点はもうどこにも見えなかった。
(了)