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雪とワルツ  作者:
本編
9/17

悪い子猫

 執事さんが起こしに来たときには、すでにわたしは扉の前で待機していた。開けられた瞬間に廊下へ飛び出す。

 驚いた執事さんは、それでもわたしが旦那様の部屋の前で開けて開けてと言うと、くすりと笑ってそのとおりにしてくれた。今まで素っ気なくしていたことが堪えていたのか、旦那様も執事さんもほっとしたような顔をしていた。

 旦那様にいつもより長いあいさつをしてから、すぐに薪ストーブの前に寝そべって、ふたりの様子に耳をそばだてることにした。

 その結果。旦那様たちがお出かけするのは、明日の朝。道の雪かきがすんでからなんだって。雪が降っている間もずっと町の人たちが雪かきをしていて、今日頑張れば道がとおれるようになるらしい。とにかく、今日は出かけないということにほっとした。

 今日、雪崩が起きれば、旦那様たちは大丈夫。クローおじちゃんは今日か明日だって言っていた。もし、それが本当で、明日雪崩が起ったら……。

 もしものために、わたしはとびっきり元気にすごす。旦那様に飛びついて、お部屋のなかを駆けっこして、執事さんに頭をぐりぐりして、お庭で雪かきしているみんなに混ざって。

 今日はずいぶん元気だなあ。旦那様にそう言ってもらえて、わたしは機嫌よく返事をするのだ。




「シア、どうした」


 ぐったりとしたわたしに、心配そうな旦那様の声が降る。うっすら瞼を持ち上げると、眉毛をさげてこちらをおろおろうかがう旦那様。そのうしろに、眉を寄せた執事さん。ああ、とっても心配してくれている。

 ひと晩たった、旦那様たちの出発する日。昨日とは打って変わって、ソファーの上でぐったりと動かないわたし。

 様子がおかしいとすぐに気づいた執事さんは、迷うことなく旦那様へ報告した。


「腹でも痛いのか? ほら、おまえの好きな魚だぞ」


 さっきからいいにおいがしていて、魚があることも知っていたけれど。

 このまえ初めて食べたワカサギは本当においしかった。猫にとって魚って本当においしい。お肉もおいしいけど、魚すごい。格別。おいしい。

 ぺろりとたいらげて、それでも頂戴頂戴と鳴くわたしに旦那様がうれしそうにワカサギを追加してくれていたんだけど、与えすぎです! と執事さんに叱られてそれ以上もらえなかった。残念。

 そんなことがあって魚が大好きなわたしは、必死に鼻がひくつくのをおさえて、飛びつきたいのも我慢して、ぎゅっと目をつぶった。ふたりのそんな顔を見ていると、気持ちが揺らいでしまいそうだ。

 にゃあ、とちいさく鳴く。すると大きな手が、おそるおそるわたしを抱き上げた。これは旦那様の手だ。皮が厚くて硬い、大きな手。いつもわたしの毛を浮かせるくらいがしがしなでるくせに、今はガラス細工が壊れないようにするみたいに、そおっと、わたしを抱いてくれた。


「昨日は、元気だったよな? なんか変なもん、食っちゃったのかな? それとも、寒すぎたのか? くそっ、一緒に寝てればよかった。おい、シア、大丈夫か? どうしたんだよ……」


 旦那様のこんな声、初めて聞いた。

 驚いて目を開けてしまいそうだったけど、わたしは寸でのところで思いとどまる。危ない危ない。わたしは、具合が悪くなきゃいけないんだ。これで旦那様たちがお家にいてくれるなら、嘘はつきたくないけど、今は心を鬼にしてぐったりしなければ。

 そう、ひと晩わたしが頭を悩ませた結果、絞り出したのは仮病で旦那様たちを引き止めること。

 たかが猫の具合が悪いくらいで予定を変更してくれるかもわからないけれど、やってみるしかなかった。だからわたしは、今必死に、餌も食べずに走りもせずに、ただただぐったりとしているのだ。


「旦那様。一度、ベッドへ寝かせましょう」

「お、おう」


 冷静な執事さんの声に、旦那様がうなずいてわたしをカゴのベッドに運んでくれた。そおっと横たえて、動かないわたしをじっと覗き込む。

 すると執事さんが、手袋を取ったきれいな手でわたしの体をゆっくりとなでた。


「シア? シア、どうしました。いつものお転婆なあなたらしくないですよ」


 ああ、執事さん。執事さんまでとっても心配している。落ち着いた声なのに、いつもと少しだけ調子が違うもの。ううう、すごく申し訳ない。でもでも、だめだ。わたしは今、病気。今にも死にそうな子猫。


「医者にかける」


 旦那様の硬い声に、わたしはびくっとなった。


「旦那様」

「見せてわからないなら、しかたがない。でも、なにかわかるかもしれないからな。エル、呼んでくれ」


 お医者さん。ここって獣医というものが存在するんだろうか。うう、仮病ってばれちゃう? だめかなだめかな。

 違う意味で脈が速くなったわたしに眉を寄せた執事さんは、それでもまっすぐと旦那様を振り返った。


「旦那様、そろそろ出発のお時間でございます」


 どきんとわたしの心臓がまた跳ねる。

 どう、しよう。

 行っちゃうの? まだ、雪崩が起きていないんだよ。だめだよ、だめ。旦那様、行かないで。

 にゃあ。ちいさくちいさく、吐息とかわらないくらいに鳴くと、旦那様がはっきりと首を振った。


「シアがこんななのに行けるか」


 旦那様ー!! 飛びつきたいのを懸命に堪える。まさか、わたしがそんなこと思ってるなんて知りもしない執事さんは、驚いたわけでもなく、じっと旦那様を見つめて尋ねた。


「よろしいのですか」

「急ぎの用ではないからな。シアの元気な姿を見てからでも、遅くねえだろ。先方には連絡を入れてくれ」


 ああ、うれしい。引き止めることができた。引き止められるほど、心配をしてくれている。ああ、うれしいなあ。

 それなら一日、がんばってぐったりしよう。クローおじちゃんの言葉を信じて、全力でふたりを引き止めよう。ちょっとは恩返しになればいいけど、あれ、もしかしてこれ、恩をあだで返してる? 目を閉じながらもんもんとするわたしの心境は、幸い漏れていないはず。

 わたしの前にどっかりと腰を下ろした旦那様に、執事さんもうなずいた。


「かしこまりました」




 町のお医者さんは、やっぱり猫の病気はわからなかった。

 目を閉じたまま、わたしはこっそりほっとする。体温を測って、食べたものを確認して、ミルクを飲ませてくれるくらいで、あとは様子を見てくれとしか言えなかったようだ。

 旦那様たちも無理を承知で医者にかからせたから、落胆を隠してお礼を言っていた。そんなやりとりを聞きながらわたしはわたしで、無駄なお金を使わせてしまったと冷や汗をかいていた。


「だ、旦那様! 山で雪崩が!」


 待ち望んでいた報せは、お昼を少し過ぎたときに舞い込んだ。

 居間に駆け込んできた従僕さんに、部屋にいた人たちが勢いよく振り返る。

 わたしは思わず、パッと立ち上がって窓まで駆けた。お、おいシア?! 旦那様の声が聞こえたけど、そんなのはあとだ。雪崩雪崩! もうこれなら、大丈夫かな。巻き込まれちゃった人、いるのかな。


「被害は?」


 いきなり動いたわたしにぎょっとした旦那様のかわりに、執事さんが従僕さんをうながす。従僕さんは旦那様の大きな声に驚いていたけれど、すぐに執事さんへ姿勢を正した。


「馬車で通ろうとした商人たちが。今、町の若い衆が向かってます」

「警備隊も向かっただろうな。邸で動ける者も手を貸そう。至急玄関ホールに集めろ」


 わたしのことから一瞬で仕事モードに切り替わった旦那様は、居間にいたメイドさんや従僕さんたちに次々指示を与えていく。


「怪我人がすぐに手当できるように、診療所にも報せをしてくれ。先生にも駆けつけてもらうか、無理なら受け入れ準備をしてもらうように」

「俺が行きます」


 ひとりの従僕さんが出ていくのを確認すると、旦那様は執事さんを振り返る。


「エル。うちのコックたちに食事の準備も」

「支給用ですね、かしこまりました。――怪我人が多いようなら、ここへも運ぶように伝えてもらいましょう。客間を使えるように整えます」


 心得ている返事に、旦那様はうなずく。


「おう。――食事は支給するか、炊出しをするか、現場の様子にもよるか。とりあえず支給品から取りかかってくれ。陽が陰ったらまずい。松明も持って行ったほうがいいな」

「手配いたします」


 頭を下げた執事さんが、さっそくメイドさんたちに声をかけている横で、旦那様はまだ控えている従僕さんに視線を移した。


「救援に誰が向かったか名簿を作ってくれ。揃ったらすぐに向かえ。現場では隊長の指示に従うこと。救助が第一だが、まだ雪崩が起こる可能性もあるからな。くれぐれも気をつけろ」

「はいっ」


 部屋から駆けだす従僕さんを、旦那様の声が追う。


「いいか、自分が巻き込まれるなよ。被害は最小限に、だ」


 お邸に漂っていた悲壮な雰囲気は、一変して研ぎ澄まされてしまった。旦那様は、旦那様だ。この邸の、この土地の主だ。


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