夜の警報
うーん、と腕を組んでいる旦那様に、なになにー? と頭を擦りつける。ひょいと膝に抱き上げてくれた旦那様は、机に広げた手紙をわたしに示した。
「隣町にいる従弟からだ。先月、こどもが生まれた。女の子でな」
にっかり、ぴかぴかな笑顔でうれしそうな旦那様。
わー、いいないいな赤ちゃんかあ! かわいいんだろうなあ。よかったね、旦那様。
手紙を持つ手に頭をぐりぐり押しつけると、大きな手がゆっくりとなでてくれる。最近は力加減がわかってきたみたいで、執事さんまでとはいかないけれど気持ちいい。ああでも、わざとがしがしやられることはあります。旦那様は旦那様です。
「祝いの品は送ったけど、そろそろ顔でも見に行こうかと思ってる。やっとあったかくなってきただろ? 赤ん坊も落ち着いたみてーだし、エルに相談しねーとな」
旦那様、わたしも赤ちゃん見たいよう。わたし遊び相手になれると思うの! にゃおにゃお鳴くわたしの頭を、旦那様は言葉がわかっていないはずなのになだめるように叩く。
「どっちにしろ、シアは留守番だぞ。おまえもまだちいせえんだからな。隣町っても、山をひとつ越えなきゃなんねえ」
えーっ!
「それに、知らない土地に行って、もし迷ったら帰ってこれないだろ。俺は、おまえになんかあったら嫌だ。エルだってきっと反対するぞ」
えー! けちー! 旦那様のけちーっ! わたしいい子にできるのに。迷子にだってならないよ、失敬だなあ。お留守番やだよう。
たくさん異議を申し立てたんだけど、あとから来た執事さんにまで留守番と言い切られてしまった。しかも、執事さんも行っちゃうんだって! なんだよ、ふたりして。ふーんだ、もう知らないっ。
ぷいってしたわたしの心を表したかのように、この日の晩から雪がとっても強くなってしまった。わたしがここに来てから三か月。自分が猫だと気づいてからふた月。こんなに大きな嵐は初めてだ。
旦那様は執事さんと相談して、隣町に行くのはこの嵐が治まってからにすると決めた。ごうごうと大きな風のうなり声を聞きながら、メイドさんたちが旦那様のお出かけの支度をしている。
シアちゃんったら、拗ねてるみたい。お着替えを畳んでいるメイドさんの言葉に、わたしはつんと薪ストーブの前で聞こえないふりをする。拗ねてなんかないやい。おもしろくないだけだもん。旦那様も執事さんもいなくなっちゃうのに、わたしは一緒に行けないだなんて。ふーんだ。
旦那様が遊ぼうって言っても、知ーらない! てしてきた。ショックを受けた旦那様の声が追ってきたのも無視して、とととっとメイドさんのところに落ち着いたのが、一時間くらいまえのこと。執事さんにだって、なでてっておねだりするのはやめている。甘えん坊と言われいるわたしだって、やればできるんだ。……旦那様にも執事さんにもなでてもらえないのはさみしいけど。
シア、食事の時間ですよ。呼びに来た執事さんに、ぱっと立ち上がって返事をしちゃったのは、ええっと、あれだ、一時休戦なだけなんだから。
「え? おじちゃん、もう一回言って?」
しんと静まった真夜中。月や太陽を隠していた分厚い雲から、どんどん落っこちてた雪が高く高くお邸を包んでいる。でももう三日も降り続いたから、落ちる雪がなくなってしまったみたいだ。ごうごう唸って、窓をぶるぶる震えさせていた風も夕方にはやんでしまった。
そんな静かな夜に、フクロウのクローおじさんが窓際の枝にとまって首を回した。
「だからな、雪崩だよ」
しんとした、冷たい空気。なんの音もしない、静かな静かな夜に、おじちゃんの低い声が響く。
「山道の斜面が、やばいぞ。明日か、明後日あたり、くずれる」
「本当に?」
確かに、最近ちょこっとだけあたたかくなってきた。そのせいなんだろうか。旦那様たちの言う山を越えるっていうのは、山を登るわけではなくて迂回する道を使うのだそうだ。じゃあ大丈夫、ではなくて。クローおじちゃんが言う山道は、まさにその迂回路のこと。
本当の山道、本山道は冬の間は閉鎖しちゃうんだって。唯一通れるその道で、雪崩が起きるのだとおじちゃんは言っているのだ。
「おまえさんは初めての冬だもんな。いいか、ぜったい山に近づくなよ。嵐のあとの山は、雪崩が起きやすいんだ。――斜面に、ほんの少し亀裂が入ってる。さっき見たから間違いねえ」
亀裂。雪に亀裂。うまく想像ができない。じっと見つめるわたしに、おじちゃんはくるっと反対側に首を回す。真ん丸の黄色い目が、窓越しに見上げるわたしをとらえた。
「雪崩ってのは、雪の川みたいなもんだ。しかもすっげえ流れの強い。巻き込まれたら死んじまう」
「強い旦那様でも?」
「人間なんてダメさ。気づくのがおれたちよりも遅いもん」
やっぱり、だめか。ライオンみたいに大きくて強い旦那様でも、雪崩に巻き込まれたらただではすまない。
ファンタジーな世界でも、人間は人間なのか。ドーン! て一瞬で解決できる魔法があるわけではないらしい。どうすればいいんだろう。旦那様たちがかならず被害にあうとは限らないけど、とっても危ないことは確かだ。
押し黙ったわたしに、クローおじちゃんは続ける。
「明日か、明後日」
真ん丸の黄色い目。夜の闇に、お月様みたいに浮かんでいるふたつの目。ぴたりとわたしを見すえて、低く鳴く。
「いいか、ぜったいに近づくな。ちっこいおまえさんなんて、あっという間にひと呑みだ」
嵐は去った。去ってしまった。この嵐が治まったら、旦那様たちはどこへ行く? 山の向こうの、隣町。――どうしよう。
眠れないまま……いや、ちょこっとだけ寝ちゃったけど、空が白んでくるまでわたしはちいさな頭を悩ませた。
旦那様と執事さんがもし雪崩に巻き込まれたら……。そんなの嫌だなあ。どうやったら避けられるかなあ。猫のわたしに、今なにができるんだろう。
言葉は伝わらない。ジェスチャーができるわけでもない。雪崩が起きます、なんて言うはずもないちいさな猫なのだから。
悩んで悩んで、絞り出した答え。
――決めた。わたし、悪い子になる!