親の心子知らず
「おかしい」
エリオットが首をかしげて廊下に目を凝らす。端から端をながめても、お転婆な姿はない。
いつもならこの時間、シンシアは居間の暖炉の前でまるくなっているはずだ。炎の熱であのクリーム色の毛があたたかくなっている。それをなでてやると、目をとろんとさせて喉を鳴らすのだ。
邸のなかを探し回ったけれど、あの愛らしい姿は見当たらない。体がちいさいから、どこかに入り込んでしまっているだけならよいのだけれど。ただ、どこかに閉じ込められてしまっているとか、高いところから降りられないとか、はたまた、誰かに連れて行かれてしまっているなんてことは――。
眉を寄せた執事長に、従僕がため息をこぼす。
「エリオット様、外を探してみますか?」
なかなか賢い猫だ。呼べば返事くらいはするはず。しかし、もう陽も暮れ始めた。これだけ探してなにも反応がないとなると、邸にいない可能性は高い。
「……そうだな。臆病だから遠くへ行ってはいないだろう」
「ですが、なにかに夢中になって駆けて行ってしまったかもしれませんよ」
従僕の言葉に、エリオットは眉を寄せる。
たしかに、考えられなくはない。臆病なくせに、驚くほど大胆なこともする。邸の敷地外には出て行ったことがないはずだが、どうだろうか。
「帰り道がわからない、なんてことになっていなければよいが」
手すきの数人に指示を出し、エリオットは自室でコートを羽織る。冬の日暮れはあっという間だ。あのちいさなレディが凍えることのないよう、祈りながら彼は白い庭先へと向かった。
陽が暮れても、シンシアは帰ってこない。
もう外は真っ暗で、黒い空に猫の爪が走ったような、細い三日月が雪を照らしている。
玄関を閉めるかどうするかで一時間ほどもめた結果、防犯の線から結局いつもどおり施錠するに至る。雪がまだ降っていないだけ救いだが、寒さはきびしい。
玄関のすぐ横に、出入り口をくり抜いた箱を置いて重石を乗せる。なかには毛布と皿にのせた鶏肉。もし夜のうちに帰ってきたら、少しでも寒さと飢えをしのげるだろうと考えた末のことだ。
シンシアが帰ってこないだけで、邸のなかはとても静かに思える。
いつもなにかと軽口を叩くベルンハルトでさえも、この日の晩はそわそわと窓の外を気にしていた。気落ちしたふうに眉をさげて、色の濃い金髪をがしがしと混ぜる。行儀が悪いと咎めるべきエリオットも、一度だけそれを口にしたが、あとはもうため息をこぼすだけだ。
メイドや従僕たちも、それぞれ気にしている様子だった。すっかり夜の帳が落ちると、しくしく涙をこぼすメイド。灯りを片手に何度も外に出る従僕。
自室の窓を開けておくと言い出す者もいたが、エリオットは厳重にそれを禁じた。動物はこういうときに自分の生命を守るよう動くはず。それならシンシアも無理に邸に入ることはせず、どこかでじっと身を潜めて朝を待つだろう。彼女の賢さに賭けるしかなかった。
真夜中を過ぎたころまで起きていたエリオットは、数時間の浅く短い眠りから覚めると、すぐに身支度をして玄関へ向かう。施錠をはずし、外へ出る。
空には分厚い雲が広がって、ちらちらと雪を落としていた。
傍らに置いた箱に跪く。なかをうかがうと、空だった。用意した鶏肉にも手はつけられておらず、昨晩の内には帰ってきていないのだと察する。ため息が真っ白に染まった。
「駄目か」
玄関扉から顔を覗かせたのは、ベルンハルトだった。立ち上がって姿勢を正したエリオットに、領主は太い眉を寄せる。
「今日は俺も探す。人手は多い方がいい」
「旦那様。心配なお気持ちはわかりますが、下の者にお任せください。それぞれの役目があることをお忘れですか」
「エル」
主人がどれだけ渋い顔をしても、エリオットは毅然と先を続ける。
「シンシアにだけ時間を割いてはいけません。あなたはこの地の領主です。シアの件があるからといって、他の仕事をおろそかにしてよいことにはなりませんよ。……探している間に、邸に戻ってくることも考えられます。旦那様はそれをお待ちください。それも立派な役目です」
主人を諌めることも部下の仕事。シンシアのことが心配なのは百も承知。だが、だからといって見誤ってはいけない。
冷静なエリオットに、ベルンハルトはふっと眉間をゆるめて肩をすくめる。もうすっかりいつものベルンハルトの顔である。
「……本当におまえは嫌なやつだな」
「褒め言葉として頂戴いたします」
エリオットがきれいにお辞儀をした。
***
ばいばい、おばあちゃん。頭をぐりぐりとすりつけてから、わたしは玄関から飛び出す。雪が降っていて道がさくさくした。はらはらと降り続く雪で、視界は真っ白である。
窓から家のなかをのぞいたわたしは、狙い通りメイドさんのおばあさんに発見されることになる。寒さに凍えて迷い込んだと思われたみたいで、窓からなかに招いてくれた。あたたかなお湯で体を洗って、お夕飯に作っていた肉団子をわけてくれたのでとってもよい人である。
わたしの愛らしい容姿にしわしわの顔をもっとしわしわにしたおばあちゃんは、気をひこうと懸命になるわたしをひと晩かわいがってくれた。
窓のところに置かれた、なにも植わっていない植木鉢にため息をついていたけれど、そのときに必ずわたしがすり寄るようにした。すると、ふっと目を細めてなでてくれる。三度繰り返したところで、わたしの意図に気づいたのか、とてもとてもよろこんでくれた。落ち込んでばかりじゃダメねえ。つぶやかれた言葉に、そうだよ元気出してと鳴くと、今晩はもう遅いから泊まっていきなさいと肉団子をくれたのである。おいしかった。
ちょっとは力になれたかなあ。あのメイドさんもおばあちゃんも、これでため息つかなくなるかなあ。考えながら、わたしはパン屋の横の道をとおって、大通りへと差し掛かる。
カァと聞きなれた声がして、見上げるとヤっさんがパン屋の屋根にいた。
おーい、ヤっさん。わたしちゃんと用事すませられたよー。にゃおにゃお言うと、いいから早く帰れと呆れた声に急かされた。……少しくらいほめてくれてもいいのに。
雪が降っているせいか、大通りは昨日よりも人が少ない。馬車は何台かとおっていくけど、馬の人はいなかった。傘をさして雪をさえぎって歩く町の人も足早だ。左右をよく見て、わたしは一気に通りを渡る。ひかれちゃ困るから、ここは全速力だ。
無事に反対側につくと、ヤっさんがお邸との交差点になるあの家の屋根に飛んでいくのが見えた。なんだかんだで帰りも送ってくれているから、ガラが悪いのにやさしい。カラスも見かけによらないなあ。
雪が背中に積もってしまいそうで、今日は隠れ身の術を使わないでまっすぐと通りを駆けた。はあはあと息がはずむ。ちいさな心臓がばくばくだ。
「玄関は開いてねえけど、呼べば誰か出てくるだろ」
ヤっさんがお邸の門にとまってそう言った。鉄柵の隙間からお邸の敷地に入ったわたしは、門の上を見上げてうなずく。
「わかった! ヤっさん、どうもありがとう!」
ふん、と鼻で笑われたけれど、きっとあれは照れ隠しだ。いいカラスだなあ。わたしはほくほくしながら雪を蹴散らす。雪にはいっぱい大きな足跡があって、これならわたしの体が埋まることはなさそうだ。
きっちり閉められた玄関扉を前に、お座りをして首をのばす。
ただいまー! 帰ってきましたよー! 入れて入れて! にゃあにゃあ。玄関扉は厚くて重たいから、わたしの声は届くのかなあ。だめだったら、どこかの窓から覗いてみよう。それか厨房の勝手口が――
「シア!」
バンッと勢いよく扉が開いて、わたしは目を真ん丸にした。ノブに手をかけたまま、執事さんが出てきたけれど、いつも洗練された物腰の執事さんの慌てた声にびっくりする。
はい、シアです。帰ってきました。あたたかな玄関にぴょんと飛び込む。体についた雪がむずむずして、わたしはぶるるっと体を震わせた。肉球がとっても冷たくなっているからぺろぺろと舐めてやる。はあ、あったか――
「どこに行っていたんですか。みな、とても心配したんですよ」
ひょいとわたしの体を持ち上げた執事さんに、わたしは得意げに鳴く。
おばあちゃんが元気になったと思うの! あとねあとね、わたしひとりでおばあちゃんのところ行けたんだよ! ヤっさんにちょこっとだけ手伝ってもらったけど、ちゃんと行って帰ってきました! ふふん、と得意げに鼻を鳴らして見上げると、執事さんは眉を寄せていた顔を、降参とばかりにゆるめる。
「お帰りなさい」
あまり遠くへ行くのはだめですよ。きちんと小言も忘れずに、執事さんはわたしを抱いて階段をのぼっていく。二階から大きな足音が聞こえた。
「シア!」
部屋から飛び出したらしい旦那様にも、わたしは得意げににゃあと鳴いてみせた。