冒険フラグ
旦那様のお部屋で運動会、バルコニーでおしゃべり、からのメイドさんたちの休憩室である。だいたい、一日の巡回は順番が決まっている。
顔を出したわたしに、お姉様方はぱっと笑みを浮かべた。
「シアちゃーん、おいでおいで」
「もうごはんは食べたぁ?」
わたしの人気は相変わらずです。そりゃあね、この愛くるしいまん丸の瞳に、もふもふした毛並みですから。執事さんがお手入れをしてくれているので、身嗜みは完璧なのだ。
いろんな情報が聞けるし、女の人たちとは仲良くしたいのもあって、わたしは休憩室によく顔を出す。顔を出すたびに喜んでもらえるんだから、こちらも気分がとってもよいのである。……ナルシストになっちゃったらどうしよう。
「お菓子はだめよ? エリオット様に厳しく言われてますからね」
「こっそりあげてもすぐばれちゃうだろうし……」
マフィンをぱっくり割ったメイドさんに、紅茶のおかわりを淹れているメイドさんが苦笑した。
「このまえのクッキーだって、旦那様が叱られていたようだし」
クッキー! あれね、旦那様がくれたあれですよね!
一枚を砕いて手のひらから食べさせてくれたんだけど、そのあとですぐ執事さんが旦那様を叱っていた。たぶんメイドさんの話はそのことです。
「さすがはエリオット様ね」
しみじみと、腕を組んでメイドさんがうんうんしている。
そっかあ、執事さんはエリオットっていうんだなあ。旦那様め……ずっとエルさんだと思っていたじゃないか。
はあ、とこぼれたため息にわたしはきょとんと顔をあげる。
さっきまでわたしの頭をなでてくれた手は、いつの間にか止まっていて、メイドさんの視線は窓の外に向けられていた。
ひとしきりおしゃべりに花を咲かせてから、メイドさんはそれぞれ思い思いのことをしだした。刺繍をしている人、お菓子をつまんでいる人、身嗜みを整えている人、やっぱり話に花を咲かせている人。
賑やかなそのなかで、わたしは窓際に腰かけていたメイドさんの膝の上で咽喉を鳴らしていたところである。
どうしたの? なんだか今日は、元気がないですねえ。首をかしげて鳴くと、メイドさんはわたしに苦笑を返した。
「シアちゃん、心配してくれるの? ありがとうね」
ぐりぐりと額をなでられて瞼が閉じてしまう。ううう、気持ちいい。
やわらかい手に、もっともっとと頭を擦りつけておねだりする。しょうがないわねえと笑って、彼女はゆっくりとわたしの毛並みを整えてくれた。
「おばあちゃんがね、大事にしていたクレマチスの鉢植えが枯れてしまったんですって。今まで、なんとか冬を越えてきたのに、今年はうんと寒いものねえ……」
鉢植えですか、ほうほう。
「亡くなったおじいちゃんが、聖誕祭の夜に買ってきてくれたんだって。もう十年も前のことよ? おばあちゃんはそれはそれは大事にしていて」
おお、おじいちゃんやりますね! すてきすてき!
「だから、枯れてしまってとっても気落ちしているみたいなの。お母さんからの手紙が、昨日届いて。旦那様はお優しいから、お休みのお許しをくださるとは思うけど、病気とか怪我をしたとかじゃないし。おばあちゃんも、わたしが仕事を抜けてきたなんて言ったら余計に気にするだろうし」
ああ、たしかに。逆に気をつかっちゃうこともありますもんねえ。ふんふん言ってるわたしをなでてから、メイドさんは窓の外にもう一度視線を向ける。
「わたしの家、すぐそこなのよ。大通りにあるパン屋さんの裏側。赤いポストにクレマチスの絵が描いてあって、窓に置かれた鉢植えとセットみたいに見えたのよ。まあ、その鉢植えが枯れちゃったわけだからねえ」
ふう、ともう一度メイドさんはため息をこぼした。
「そんなに心配することはないと思うけど、気になっちゃって。ちょっとでも元気になってくれたらいいなあ」
さあ、もう仕事に戻らないと。ほかのメイドさんたちに続いて、その人も椅子から立ち上がる。抱き上げたわたしをそっと床におろしてから、聞いてくれてありがとうとほほえんだ。
これは、わたしが元気づけてあげたらいいんじゃないか? この愛らしい見た目なら、大抵のことは許されるしみんなプラスに見てくれると思う。自分で言うのもなんですが。
幸い、メイドさんは実家の場所まで教えてくれた。
大通りのパン屋さんの裏。赤いポスト。冒険がわたしを呼んでいます。よし、行こう行こう! 今の時間なら、厨房の勝手口が開いているはずだ。善は急げ。出発進行ー!
お邸からはあっさりと出られた。
誰かに見つかると、危ないからとすぐ抱き上げられてしまうから、わたしは顔半分で行く手をうかがいながら、ちょこちょこと進んでいった。抜き足差し足忍び足。忍者になれそう。
お邸の外はまっ白い雪に覆われていて、人が通れるように道のところだけ雪かきがしてある。白い道に飛び出すと、肉球がきゅっと冷えた。
「おい、ちびっこ。どこいくんだよ」
お邸の門まで駆けて、鉄格子の隙間から街道へぴょんとおりたつ。すると、上から声が降ってきた。
「あ、カラスのヤっさん。こんにちは」
ヤっさんは、朝と晩にお邸の門にとまって町の人をながめる日課がある。今の時間はもういないはずなのに。わたしを見つけて飛んできてくれたのかもしれない。
「おまえ、いいのか邸出てきて。町に行ったことあんのかよ」
「前に旦那様が馬車に乗せてくれたよ」
凍った雪ですべらないように気をつけながら、わたしはふふんと胸を張る。
銀行に行くのに、散歩になるぞと連れ出してくれたのだ。もちろん執事さんも一緒。旦那様たちが用事をすませている間、わたしは馬車の御者さんの脇で馬のお兄さんと遊んでいい子にしていた。にいさんのしっぽはとっても魅力的で楽しかった。
「……おまえなあ」
鋭い目をすがめてわたしを見下ろすヤっさんは、呆れのため息をついて空気を白く染めた。……まったく行ったことがないよりいいじゃない。馬車で移動中はずっと外を眺めていたから、大通りまで出るくらいなら覚えているもの。
「それで、どこいくんだよ」
「メイドさんの実家。パン屋さんの裏で、赤いポストなんだって」
「ああ、あの家か」
ヤっさんはすぅーっと空をすべる。お邸からまっすぐ伸びた道を飛んで、大通りとぶつかる角の家におりた。雪が落ちて覗いている煉瓦の屋根で羽を閉じると、早く来いよと鳴いた。あそこから見たわたしは、たぶん米粒くらいしかないだろう。ヤっさんが案内してくれるつもりだと知って、わたしはうれしくて一生懸命走った。
とととととっと駆ける。雪がしゃりしゃりと音を立てて楽しい。わー! お外楽しい! るんるん走るわたしを、歩いている人が目を丸くして眺めていた。あらあら、とほほえましげなので、わたしはますまするんるん駆ける。首輪の鈴がご機嫌に弾んだ。
はあ、着いた! ヤっさんがとまっている家まで来ると、体はずいぶんとぽかぽかした。息も上がっている。
距離でいうと二百メートルくらいだと思うけれど、いかにしてもわたしの足は短くて体はちいさい。ものすごーく時間がかかったし、疲れてしまう。足の毛がびしょびしょだ。
「ちびっこ。おまえまだちいせぇんだから、やっぱやめとけよ。ここまで来るのにこれじゃねーか」
「大丈夫だもん! 行けるもん! ヤっさん教えてよう。わたし、大丈夫だよう」
「……人間が多くなるから、気をつけろよ」
「うん」
雪に猫パンチして地団駄踏んだわたしに、ヤっさんはまたため息をこぼす。
「あと、水路に気をつけろ。ちっこいおまえからは見にくいけどな、雪の塊の先にある。落ちたら死ぬからな」
「うん」
雪かきをした雪は、道に沿って固められている。水路もそれに沿っているのだろう。雪の量が多いから、たしかにこんな子猫だと命に関わる。
うなずいたわたしを一瞥すると、ヤっさんはばさっと翼を広げて大通りへ飛び立つ。
右にむかっていったのを確認して、わたしも急いで駆けだした。角から通りへ出ると、すぐ目の前に大きな革靴が迫る。びくっとしてわたしは咄嗟に脇に跳んでゴミ箱の裏に滑り込む。
危ない危ない。そうだ、ここはもう人のたくさんいる大通り。
顔半分だけを出して窺うと、雪を避けながら歩く人々の流れが見える。目と鼻の先を、買い物かごを抱えた女の人がとおっていったっし、ぶるると鼻を鳴らした馬までも行き交う。道の真ん中を馬車が走っていくのをじっと見つめたわたしに、向かいの家の屋根からヤっさんが呆れた顔をした。
だ、大丈夫。行けるもん。首を振るわたしに、ヤっさんはため息を返す。
人がとおりすぎたのを見計らって、わたしはゴミ箱からさっと駆けた。音も立てずに飛び立つヤっさんを追って、街灯の影、雪の山、郵便ポスト、靴屋の看板、それぞれに身を隠しながら進む。
今だ! ヤっさんの声を合図にわたしは通りを横切る。馬車や人の途切れたタイミングで駆け、轍のあとを懸命に越える。人間ならすぐなのに。子猫の足では一苦労だ。
なんとか渡り切ると、わたしの尻尾の向こうを馬がとおるのがわかる。ああ、間一髪だった。ふう。胸を撫でおろすとはこのことである。
すると、ほわんといいかおりがしてパンの形をした看板がぶら下っているのが見えた。ヤっさんがお店の裏側に飛んだ。わたしはそれを追って、普通の家との間の細い道を進む。
「ほら、ここだろ」
窓際にポスト! 玄関扉の隣に、四角いポストがあった。雪を頭に積もらせているけれど、投函口の下にクレマチスの花の絵。
「ヤっさん、ありがとう!」
「……帰りは?」
「道を覚えたよ。大丈夫大丈夫。どうもありがとう!」
にこにこ笑うと、ヤっさんはじっとわたしを見つめたあとで、じゃあなと空に戻っていった。
はあ、疲れた。足はびしょびしょだし、お腹の毛まで濡れてる。……わたし、本当に太ったのかしら。
ちょっと眠くてあくびが出たけれど、わたしの用事はここからが本番だ。
ポストのすぐ横にある窓は、人の胸ほどの高さ。外には植木鉢が並べられた棚があって、そこからなかが覗けそうである。しめしめ。雪の積もったその棚に、わたしは勢いをつけて飛び乗ったのである。