子猫事情
お昼寝から目が覚めると、わたしは旦那様の部屋の前に座る。きちんと背筋を伸ばして、扉の向こうの旦那様を呼んだ。
にゃーん、にゃーん。旦那様はいるかな。忙しいかな。なかの音を聞き逃さないように耳を澄ませる。旦那様ー。遊んで遊んでー。
「おう、シア。どうした」
ずっしりした足音が、大股に七歩。それから分厚い扉が開けられた。満面の笑みを浮かべた旦那様に、わたしはすぐに駆け寄って足にあいさつする。頭ぐりぐり。わーい、出てきてくれた。
にゃあと鳴くと、大きな手が伸びてわたしの体をひょいっと抱き上げる。ぐんと旦那様のにおいが濃くなった。
旦那様は部屋に戻ると、わたしを執務机の上に下ろして首輪を整えてくれる。このまえ、執事さんがつけてくれたそれは、リボンに鈴がついたもので。わたしの動きに合わせて、ちりんとちいさな音を立てた。
机の上には紙や本が広げられているけれど、旦那様は気にしていないみたいだ。踏んでもいいのかなあ。たぶん、旦那様はいいと言うけど、執事さんは怒るだろうな。念のため避けておこう。
健気にもそう思っているわたしの意を、くみ取ってくれる気はなかったらしい。
旦那様は書類にはお構いなしでわたしをぐしゃぐしゃなで始めた。強い力でがしがしやられるから、わたしもその場に転がってしまう。紙とインクのにおいが鼻をくすぐる。
「本当、おまえはかわいいなあ。またちょこっと重くなったか?」
ごろんと見せたお腹をたぷたぷする手に、わたしはすかさずかみついてやる。レディのお腹まわりをはかるなんて! だめだめ! しかも体重が増えたなんて! 旦那様はデリカシーがないなあ!
硬くて厚い手の皮にキバを立てると、こら、と旦那様が口のなかで指を動かす。加減しているから痛くないはずだもの、気がすむまではぐはぐしてやる。
大きな手にぎゅっとしがみついて攻撃しているのに、旦那様はにこにこ楽しそうである。琥珀色の鋭い瞳を、今はほほえましげに細めている。おちょくるように動く指がうれしいような、腹立たしいような気持ちにさせた。
「旦那様」
ノックの音に、振り向きもせずに返事をした旦那様。静かに入って来た執事さんは、そっちのけでわたしをかまっている主人にため息をこぼした。
「シアを机上にのせるのはおやめくださいと、前にも申し上げたはずですが」
「いいじゃねか、シアだって広い場所でごろごろできるほうがいいだろ」
な! と同意を求めるように、旦那様はわたしの頭にぽすんと手をのせる。ちりんと鈴が鳴った。旦那様、わたしは一応気にしたんですよ。でも旦那様が有無を言わせず机でなでたんですからね。わからないです、とわたしは目をぱっちり開いて首をかしげた。こういうときはとぼけるに限る。
あざとく可愛らしさを全面アピールしたわたしを見てから、執事さんは眼鏡に手を添えてため息を落とす。
「シアのせいになさるなんて、嘆かわしい。先日、王都へ提出する書類を汚したことをお忘れですか。領主が無駄な仕事を増やしてどうするのです」
「はいはい、悪かったよ。――シアー、エルはうるせえなあ。でも、おまえも汚れちまうから、そっちにいってようなー」
唇をとがらせた旦那様が、わたしを床におろしてくれる。
にゃあ。鳴いたわたしは、ぴょんと跳んで執事さんの革靴を目指した。きちんと結ばれた紐に猫パンチをする。すると、旦那様がいっそう不満そうにした。
「おいー、もうちょっと寂しそうにしろよ。おまえはすぐにエルのところに行っちゃうからなあ」
「日ごろの行い、と申したでしょう」
「……おまえが餌やってるから懐いてるだけだろ」
「子どものようなことをおっしゃらないでください」
ふて腐れた旦那様に、執事さんが呆れている。わたしはふたりのその表情を見上げてから、執事さんの足にぐりぐり頭を押しつけた。お腹がすきました!
このごろは、朝と晩に鶏のササミなどのお肉をもらえるようになった。あとはお昼にミルクを一回。
ちょっと噛みにくいときがあるけれど、お肉おいしい! 人間のときと比べると薄味、というかむしろ素材の味だけなんだろうけれど、そんなことはぜんぜん気にならなかった。おいしいです。
爪がむずむずすることも多くなったけど、ここのお家は立派な家具がたくさんあるからすごく困る。まさかあのアンティークなテーブルの脚で爪とぎするわけにはいかないし。
なにかちょうどいいものは、と日々探していたわたしの目に、玄関マットの存在が輝いて見えた。
雪のついた靴で入ってくる人が、そこで雪を落としてるみたいで、いつも執事さんが従僕さんたちに指示を出してこまめに取り換えている。あれがぐじゅぐじゅに汚れているときならいいんじゃないか。
思い立ったらすぐ行動。わたしは食事を終えて執事さんに存分にあまえてから、居間を出て、廊下を駆け、一階への階段を順々に飛び降りて玄関ホールへやってきた。
一階の方が寒いなあ。玄関は閉まっているけど、冷たい空気が自慢の毛皮を包んでくる。
階段がとっても疲れたので、わたしは一番下でひと休み。メイドさんたちがお掃除をしているのを、あくびをしながら眺めた。ふう、眠たくなっちゃうなあ。むむむ。ここは寒いから、お昼寝は、窓際か……薪ストーブ……ぐう。
起きたら居間に戻っていました。わあ! 瞬間移動! ……親切な誰が運んでくれたんでしょうね。うわーん、また階段おりるのかあ。諦めたらそこで試合終了です! わたし頑張ります! 再挑戦です!
居間からまた階段へ出て、ひょこひょこ一段ずつ飛び降りていく。リズムよく、勢いでいけばなんとかなるはず。鈴がそれに合わせてちりちり鳴った。
もうちょっと体が大きかったらいいのになあ。そうすれば階段なんて楽々だし、もしかしたら手すりに飛び乗って下り坂歩行ができるかもしれない。今後の目標にしよう。
なんとかまた階段を降り切ると、わたしは休まずに玄関マットに飛び乗った。肉球に冷たい生地の感触が伝わる。濡れてる。これは、取り換えどきってことだから、わたしが爪とぎしてもいいよね? ね?
にゅっと爪を立ててばりばりと引っ掻いてみる。
おおー、これはストレス解消できそう! 緩衝材のプチプチを雑巾しぼりしたような快感が得られる。わー! これからはむずむずしたら爪とぎしよう、そうしよう。
「……シア」
びくぅ! 思わず跳ねたわたし。おそるおそる振り返ると、眼鏡の向こうのアメジストがこちらをじっと見つめていた。
わー、執事さん! あのあの、なんにもしてませんよー! 玄関でお出迎えの準備ですよー! そそくさとマットからおりて、にゃあんと鳴いてみたけれど、自分の耳がイカみたいに平たくなっているのがわかった。
わたしはちっとも執事さんの方を見れないのに、ものすごく視線を感じる。まっすぐとわたしをロックオンです。……うわあ、もしかして、怒ってる? 執事さん怒ってます? ご、ごごごめんなさい! マットで爪とぎしました。猫には必要なんですよ!
「こんなところで……まったく。汚れてしまっていますよお嬢様」
にゃおにゃお言い訳をしているのに苦笑してから、執事さんはひょいとわたしを捕獲すると、通りかかったメイドさんにマットを取り換えるように指示を出した。わたしを抱えた手袋が、ほんのり茶色に汚れている。わわわわ、あそこはそんなに汚かったのか。
「もうお夕食のお時間が近いですが、そのまえにお風呂ですね」
ため息をこぼした執事さんに、身が縮こまる思いである。
ぬるめのお湯で体を洗ってくれた執事さん。ふわふわのタオルでわたしを拭くと、ごはんまでの時間つぶしに旦那様の部屋へと閉じ込める。
旦那様の足にまとわりついて遊んでいればすぐに時間が経ってしまって、ごはんですと呼びに来た執事さんが居間へ連れて行ってくれた。そこには四角い麻布? があって、わたしは執事さんとそれとを見比べる。初めて見るものには警戒心がわくスキルがあるのです。
床に置かれた麻布の塊の上にわたしをおろすと、執事さんがこちらをうかがう視線を感じた。
くんくん。においをかぐ。でも麻と木のにおいしかしない。硬さもあるし、木の板に麻布を巻きつけたものみたいだ。これ、きっと爪とぎとして用意してくれたんだろうな。
検分がすんだわたしは嬉々として爪を差しだす。おおお~! 爪が引っかかる~! わたしの爪にはちょこっとだけ目が粗い気がするけど、これなら思う存分がりがりできる。
ぴょんと爪とぎからおりたわたしの頭を、よくできましたと執事さんがなでてくれた。




