澄んだ世界
あるとき、ぱっと視界が晴れた。
まるで眠りから覚めるみたいに、はっと目の前がすっきりして、わたしは飛び込んできたものにびっくりしてしまった。
アメジストを思わせるような、きれいなきれいな紫色。
切れ長のきれいな瞳は眼鏡ごしにこちらを覗いて、伸した手がやんわりとわたしの額をなでた。白い手袋をはめたその手は、とてもやさしい。布ごしに伝わるにおいは、今までずっとそばにあったものだ。きっとこの人がわたしの世話をしてくれているのだろう。
わたしの世話。そう、まぎれもなく、世話をされていたはず。
驚いたまま、わたしは自分の体をながめる。白い毛が全身をおおって、ちいさな爪が隠れた手足。ピンク色の肉球に、長い尻尾。猫だ。どう見ても猫。
ふかふかのクッションが敷かれたかごのなかで、ごろんごろんと身をひねる。天然の毛皮をまとって、尻尾までついている。猫だ猫。マジか。
手袋の人はそんなわたしにまたたいたけれど、わたしがもがきながらコロンと一回転したところでふっと笑みをこぼした。あらやだ、美形。美形のほほえみを、こんな間近で見てしまった。
また手が伸びて、鼻先をなでられる。むむむむ。こそばゆい。がしっと手と足で手袋にしがみつく。人差し指がぐにぐにと鼻と口をなでるから、それに思わず歯を立てた。
「お腹がすきましたか?」
お腹? すいたすいた! ちゅくちゅく手袋に吸いついてそう言うと、にゃあと高い声が出る。ああ、そうか、わたしは猫なのかあ。
「今日は一段とお元気なご様子ですね。それでは、お食事にいたしましょう」
アメジストの瞳を細めてそう言ったこの人は、わたしからするりと抜いた手で頭をなでる。にゃあにゃあ。鳴いたわたしをすっぽりと手袋の手が抱いて、それが気持ちよくて瞼が落ちる。ごろごろ鳴っているのが自分の咽喉だと、ようやく気づいてしまった。
手袋の人はわたしを抱えたまま、部屋の中央にあるテーブルへついた。ミルクのにおいだ! 鼻をくすぐるかおりにいっそうお腹が減ってしまう。もごもご手と足を動かすけど、手袋の手はびくともしなかった。
「おとなしくなさいませ。レディが食事を前に暴れるだなんて、はしたないですよお嬢様」
レディ! お嬢様! 初めて呼ばれた! びっくりしてきれいな紫の瞳を見上げると、相手もおやとまたたく。動きをとめたわたしをまじまじと眺める。
「今日はずいぶん聞き分けがよろしいですね。結構です」
言いながらわたしを膝の上に座らせて、白い手袋を外した。テーブルには哺乳瓶があって、その五分の一にも満たない量のミルクが見える。長い指の手がそれを取って、手のひらで瓶を何度か触る。
まあいいだろう。彼は小さくつぶやくと、わたしをまたその手でくるみ、口元に吸い口を寄せる。もうわたしのまわりはミルクのにおいでいっぱいで、我慢できずにかぶりついた。ほんのりあたたかいそれがおいしくておいしくて、わたしはごくごく飲みくだす。ごくごく、は気持ちだけで実際にはちゅぱちゅぱだったけど。
うまく吸えずに口からこぼれる分は、やわらかなハンカチで手袋の人が受け止めてくれた。けふっとゲップが出るころには、ちょうどミルクもなくなった。すごい、ぴったりだ。
「おいしかったですか? よかったですね」
やさしく瞳を細めるその人は、わたしの口元を丁寧に拭うとそっと床におろしてくれる。
わたしはまだミルクが残っているんじゃないかと、せっかく拭いてくれた口元をぺろぺろと舐めた。毛がまとわりつくけど、意外と気にならない。ミルクの味がなくなったところで今度は、んー、と伸びる。背中が気持ちよい。
すぐそこに、ぴかぴかに磨かれた革靴があって、黒いズボンに、黒い上着、白いシャツ。細身だけど背が高く見える。見上げると首がつってしまいそうだ。ああ、わたしがうんとちいさいのか。
さらさらした黒髪に、紫色の瞳。銀縁の眼鏡。白い手袋に、丁寧な物腰。映画や漫画に出てくる執事そのものである。そして、たぶん、そのまんま執事なんじゃないかとわたしは思う。
じっとわたしを見おろしていたその人は、足音を立てずに一歩踏み出す。わずかにゆれた靴ひもが目について、わたしも一緒になってはねた。ぴかぴかの靴を追って駆けると、目の前には扉。わたしはまた彼を見上げる。
「旦那様のところへ行きますか?」
旦那様! どんな人だろう。行く行く! にゃあにゃあ。足にまとわりついて鳴くと、くすりと笑ってその人は扉を開けてくれた。
すっと伸びた廊下が目に入った瞬間、なんだか楽しくなってしまってわたしは勢いよく飛び出す。広いし、肉球が埋まる絨毯がおもしろい。
ととととっと走ると、うしろの気配がわたしを追った。廊下の端までまだたどり着いてないわたしに、執事さんは苦笑して声をかける。
「お嬢様。旦那様のお部屋はこちらですよ」
さっき出た扉のすぐ隣。姿勢を正した執事さんの声に、わたしは振り返って首をかしげる。なーんだ、そんなに近いのか。
おいで。ちいさく呼ぶ声に渋々と従う。革靴の横まで走って戻ると、こんこんこんとノックの音がした。応じる声を聞いてから、扉を開ける。できた隙間からのぞくわたしの目に、まぶしい陽の光が届いた。
「失礼いたします」
ぺこりと頭を下げた執事さんがなかへ入るけれど、わたしは顔半分、右目だけでそっとうかがう。こげ茶色で艶のきれいなテーブル、ベルベッドの椅子、積み上げられた書類にぎっしり詰まった本棚。仕事をする部屋であるそこに、金髪の大柄な男の人がひとり。
「おう、シア。飯食ったか?」
シア。わたしを呼ぶ声。向けられた視線はまっすぐわたしに届く。シア、シア。わたしの名前なのかな。
ライオンみたいな男の人だった。黄味の強い金髪がたてがみに見える。はっきりした鼻筋に彫りの深い目元。琥珀色の目が悪戯っぽく細くなる。
「旦那様。そのような言葉遣いは感心しません」
「硬いこと言うなよ、いいじゃねえか客がいるわけでもねえんだし。――それより、シア。なんでそんなところにいるんだよ。入ってこいよー」
執事さんがおさえてくれている扉には、人がひとりとおれるほどの隙間ができている。右目だけだったわたしは、すすすっと重心をかえて両目でなかをながめた。
それから傍らを見上げると、こちらを見つめている執事さんと目が合う。彼は警戒しているわたしに首をかしげた。
「行きたくなければ、行かなくてもよいのですよ」
「おい、エル。余計なことを言うな。――シア、おいでおいで。俺と遊ぼうー」
執事さんに眉を寄せたときより、ちょっとだけ高い声をだして手招く。ずいぶんと気さくな旦那様だ。
わたしは執事さんと旦那様を見比べる。旦那様のにおいにも覚えがあった。見た目は勇ましいライオン。怖そうなのに、わたしを呼ぶ顔は気をひこうと必死である。人間だったわたしは、あの人なら近づいても大丈夫だと思うのに、猫のわたしが警戒心をうすめてくれない。
おそるおそる入ると、執事さんが扉をそっと閉めてしまった。たったそれだけなのに、一気に警戒心が高まる。もう逃げ道がない。素早く執事さんの足のうしろに跳んだ。
「……エル、おまえばっかりずるいぞ」
「日ごろの行いでございます」
すまし顔で執事さんがこたえると、旦那様がくやしげに口元をゆがめた。