その後の子猫
「ベルンハルト、久しぶりだ」
淡いピンクがかった金髪の紳士が、旦那様とにこやかに握手をした。きりりと冷たそうなのに、目元を和らげてくれたおかげで、紳士はふわりとした雰囲気をまとった。
指の長いきれいな手を、旦那様のがっしりした手がぎゅっと握る。上等な上着をぽんと叩いて、太陽みたいな笑みを浮かべた。
「よく来てくれた、ウェッブ。先日はすまなかったな」
「いや、大事に至らなくてよかった。大きな雪崩だったと聞いているから、巻き込まれずにすんでなによりだ」
「立ち話もなんだ、居間へ行こう。奥方も、長旅を強いて申し訳なかった」
旦那様がいつもより丁寧な物腰で促すと、お客さんたちはぞろぞろと旦那様に続いた。
わたしは階段の上から、そんな様子をじっと見ていた。朝からお邸がざわざわしているのである。今日は、旦那様の従弟にあたる人が、ご家族でいらっしゃる日なのだ。
雪崩があったあの日、本当は旦那様たちが出向くはずだったのだけれど、何度か手紙のやりとりをした結果、みんなで来てくれることになったのだそうだ。
落ち着かない空気に、わたしまでそわそわしてしまう。朝のうちは執事さんについて歩いていたわたしは、そのうち旦那様の部屋に閉じ込められて、さっきお客さんの到着と同時に開放されところ。
初めて会う人たちに、ちょっと緊張してしまう。こういうとき、猫の警戒心が出てくるので、そこは逆らわずにひっそりと様子を見ようと思う。
階段をちょこちょことおりて、居間の入り口から顔半分だけでのぞく。ソファーにゆったりと腰かけた旦那様と、そばに控える執事さん。向かい側には紳士と、ちいさな男の子と、にこやかにほほえんだ貴婦人がいて、お付きの女の人が貴婦人に赤ちゃんをそっと手渡していた。あうあう声が聞こえる。ぐるんぐるん元気に腕を回した赤ちゃんを落とさないように抱くのは大変そうだ。
赤ちゃんを囲んで談笑するみんなは、絵に描いたような貴族に見えた。ものすごーく、貴族、である。まるで、映画のワンシーンだ。
「元気だなあ! 頬が薔薇色だ」
目尻にしわを寄せてくしゃりと笑った旦那様に、ちいさなお姫様はあうあう答えている。伸ばした太い指を、ちっちゃくてやわらかそうな手がぎゅっと握った。
「ベルンハルトは、見かけによらず子ども好きだったな」
「……おまえに言われたくないな。この堅物が、まさかこんなに顔をとろけさせているなんて、今まででは想像もできなかったぞ」
「大きなお世話だ」
意地悪く笑う旦那様に、従弟さんは嫌そうに顔をしかめた。あれはきっと照れ隠しってやつですね。隣に座っていた奥さんがくすくすと笑っている。
わあ、みんなお上品だなあ。旦那様もああいう貴族っぽいことができるんだなあ。お仕事モードだと、まったく違う顔になるのってすごいなあ。わたしは妙に感心してしまった。
執事さんの指示でメイドさんたちがお茶の準備を整え、廊下と部屋を行ったり来たりしている。ばたばたしているはずなのに、慌ただしく見えないようにするのもすごい。貴族や貴族に仕える人って、そういう教育を受けるのかな。大変だな。
執事さんになでなでしてもらいたいところだけれど、わたしにはまだ部屋に入る勇気がない。隠れるようにドアに身を寄せて覗いているわたし。もちろん、お邸のみんなは慣れたもので、わたしの居場所なんてお見通しだ。
さっきから執事さんがちらりと視線を寄越してくるし、メイドさんたちだってちゃんとわたしを避けて出入りする。まだ様子見なんです、怖いわけじゃないし、拗ねてるわけでもないんですよ! 本当ですってば! メイドさんが忍び笑いをこぼすので、言い訳くらいさせてもらいたい。
でも、いつまでも顔半分でいられないのもわかっている。まごまごしているうちに、とうとう旦那様がわたしに向かってにっこり笑いかけてしまった。
「シア、そんなところにいないでこっちにおいで。みんなにごあいさつしてごらん」
聞こえないふりや、わからないふりはだめですか。今まで散々人の言葉がわかりますよ、な顔して生活していたしわ寄せが、こんなところでくるなんて。
渋い顔でなかをうかがうわたしは、旦那様のその顔に弱い。おいで、とやさしく呼ぶ声に、観念して足を踏み出した。
「この子が、手紙で言っていたシアか?」
まじまじと見下ろす従弟さんに、旦那様は得意げに笑った。旦那様の近くまでいって、椅子に隠れるようにしたわたしをひょいと抱き上げる。ちょ、ちょっと待って旦那様。いきなりすぎますよ!
手と足をわちゃわちゃ動かして逃げようとしたって、旦那様にはかなわない。
「そう。シアのおかげで雪崩に巻き込まれずにすんだんだ。かわいいだろう? まだちいさいのに、なかなか賢い猫なんだ」
旦那様はわたしを手でくるんで持つと、奥さんの腕にいる赤ちゃんにそっと近づけた。むんと汗とミルクのにおいがする。くりっとした碧の目がわたしにまっすぐと向けられた。
あうあう言葉にならない声がなにかを言って、ちいさな手をいっぱいにのばす。ちょ、ちょっと待って、それわたしのしっぽですよ! 旦那様、しっかりしまってよう! これじゃあつかんでくださいと言わんばかりですよ!
嫌な予感がして、必死にしっぽを動かして手から逃れようとするけれど、それがますます興味をひいたらしく、渾身の力で握られてしまった。
わー! 無理無理無理っ! しっぽが取れちゃうっ!!
悲鳴を上げながらもがいて、四苦八苦旦那様の手から抜け出す。ダッシュでソファーの下に潜り込むと、火がついたように赤ちゃんが泣きだした。な、泣きたいのはこっちですよう。
ああー! ごめんな、びっくりしたなあ? よーしよしよし。なんて大人が慌ててあやし始めるのはおもしろいけど、今のわたしにそれを楽しむ余裕はなかった。
もぞもぞ匍匐前進してソファーを抜けると、執事さんと目が合って、その視線にしょうがないですねえと言われた気がした。
たたたっと足早に居間を出る。ちいさな子は苦手かもしれないなあ。触る力加減って大事なんだなと改めて思った。
今晩は泊まっていく従弟さん一家を、旦那様も執事さんもかかりっきりでご接待している。
わたしは例によって顔半分でその様子をうかがう。
赤ちゃんが寝てしまえば、わたしも旦那様たちのところに行くことはできた。さっき、奥さんの膝の上に乗せてもらったし。大人とは仲良くできそうです。
赤ちゃんが目を覚ましたら、そんなこと言っていられないけど。目が合った瞬間、一目散に廊下へ逃げたわたしを、押し殺した笑いが見送るなんて屈辱です。
それでまた顔半分生活に戻ったわたしを、馬鹿にするのは人間だけじゃなかった。
なにやってるんだよ、と呆れた声がしたのでますますわたしはむっとする。どこからか勝手に入ってきた黒猫が、声と同じく呆れた顔でわたしを見下ろしていた。
彼はカラスの一件のあと、なぜか邸に通うようになった。毎日ここに来ては、わたしと日向ぼっこしたり、追いかけっこしたり、ちょこっとだけ狩りをしたりして過ごす。ヤっさんにあいさつするわたしを見張ったり、執事さんが用意してくれた餌を一緒に食べたりもする。半分邸に住んでいるような状態だ。
第一印象が最悪だったわりに、この黒猫は意外とやさしい。それに、一緒に寝るのはあたたかくて気持ちがよいのである。
お客さんがいるの、と部屋のなかを示すと、ふーんと興味なさそうな返事がされる。上からわたしの耳をぱくりと食べてくるので、くすぐったくて猫パンチをお見舞いしてやった。
「シア。落ち着かなくてごめんなー」
夜も更けた旦那様の部屋。
従弟さんたちも客室に行ってしまって、ずいぶんと静かだ。ぱちりと薪のはぜる音が、このときようやく耳に届いた。
執事さんが火を落としてから、おやすみのあいさつをして出ていく。わたしは旦那様のベッドにご一緒する約束をしていたので、大きな手に抱かれてシーツに潜り込んだ。
皮の硬い大きな手が、ゆっくりゆっくりなでてくれると、勝手に瞼が重たくなっていく。ごろごろ咽喉が鳴るわたしに、旦那様がくすりと笑った。
「おまえも連れていきたいって手紙に書いたら、ウェッブのやつ、気をつかって自分が家族と向かうって言ってくれたんだ。慣れない場所でおまえが迷子になるのも困るって思ったんだろうなあ」
わたしの体調不良のおかげで、雪崩を回避したって話が相手には伝わっている。それが仮病だったことを、旦那様が察しているのかはわからないけれど、こんなふうに言われてしまうと、わたしはなんだか居たたまれない。今日のわたしの態度は、とてもお客様を相手にしたものじゃなかったからだ。
「だからさ、明日はもうちょこっと、頑張ってくれな」
いつもの砕けた口調で、くしゃって笑う旦那様。
しょうがないなあ。旦那様にそう言われちゃうと、そうしないわけないじゃないですか。赤ちゃんの相手は無理かもしれないけど、かわいく愛想を振りまくことにするよ。まかせてください。
ぼんやりした意識のなかで、にゃあと返事をする。
おやすみ、と笑った声が心地よくて、あっという間に眠ってしまった。
翌朝、朝から居間に陣取っていたわたしが、お客さんを盛大に出迎えたなんてことは言うまでもない。