子猫とカラス
子猫
黒い翼が降りたって、門がぎしりと揺れた。
あー、ヤっさんだ! わたしは居間の出窓からぴょんとおりて、玄関を目指す。ててててっと駆けると、塗れた玄関マットにあっという間に到着する。階段を下りるのにも慣れたものです。
玄関扉の前でにゃおにゃお言っていたら、とおりかかったメイドさんがちょっとだけよと開けてくれる。玄関周りの掃除をしながら、メイドさんはわたしの面倒も見てくれる気らしい。
大丈夫、ちゃんと敷地のなかにいますよー。勝手にお出かけしませんよー。胸を張って返事をしたわたしは、門に止まっているヤっさん駆け寄る。おーい、と気持ちでは手を振りながら走ると、あと十メートルというところで、行く手に黒い影が落ちた。
「チビ。なにしてんだよ」
立ちふさがった黒猫に、わたしはふー! と毛を逆立てる。またこの猫か! このまえここで会ってから、ちょくちょく邸の周りに出没するのである。そしてわたしが窓の向こうから威嚇すると意地悪く笑うんだ。
「わ、わたしはヤっさんのところに行くんだもん。朝のあいさつだもん」
あなたには用はないの、と言外に述べたのに、黒猫には通じなかったらしい。長いしっぽを大きく振って、ちらりと背後のヤっさんを見た。
「のんきなこと言ってねーで、家に入れ。おこちゃまに外は刺激が強すぎる」
「そ、そんなことないもん。平気に決まってるでしょ。知ってる顔もいっぱいいるもん」
それにわたし、頭のなかは人間と一緒だし。たまに猫の本能に負けるときもあるけど、普通の子猫よりは身の危険を回避できると思うし。
むっと顔をしかめたわたしに、黒猫はこれ見よがしにため息をこぼした。
「知ってる顔だって、関係ねーだろ。あいつだって、おまえに懐かれたところで、パクッと食っちまうかもしれないぜ? ああしてすました顔で、隙をうかがってな」
「ヤっさんはそんなことしないよ!」
思わず声を荒げると、じっと、黄色の鋭い瞳がわたしをとらえた。
「なんでわかる」
おちょくるのでもない、低く、まっすぐな声。それにわたしははっと息をのむ。びくりと体が震えた。
「カラスもフクロウも、ちいさい動物は獲物だろう。どうして、危険がないとわかる。襲いかかられて、勝てる要素があるのか? そのちいさな爪と牙で、おれにさえ怖くて後ずさってるおまえが」
猛禽類は子猫も餌である。カラスが猫を襲うことだってざらだ。そんなこと、知っている。そう、知っていた。けれども、今自分が子猫で、その危険がすぐそこにある意識はなかった。
だって、みんな驚くほどよくしてくれている。困っていれば助けてくれたし、暇をしているわたしの話し相手を買って出るやさしい彼ら。
「だからあのカラスは、いつもあそこから動かねーんだろ。あれ以上自分からは近寄らない。でも、絶対はないぞ。腹が減ってりゃ、食いたくなる」
わたしでさえ、猫の自分に勝てない。動くものには飛びつきたくなるし、お腹がすけば食べられるものを探す。さっき自分でそう思ったはずだ。否定できない事実に、わたしはなにも言えずに立ちすくむしかない。
黒猫は、目をそらさなかった。
「おまえだって、ネズミや小鳥がいれば狩る。そういうことだ。それがわかねーんなら、家から出るな。人間に飼われてるのが似合いだ」
ふんと鼻を鳴らした黒猫。しっぽを揺らして茂みの向こうへ行ってしまった。
今のやりとりはヤっさんにも聞こえているはずだ。彼は門の上からわたしをじっと眺めたあと、カァとひと鳴きして飛び立っていった。
シアちゃん、もう入ろう。メイドさんの声にも、わたしは動けない。首をかしげた彼女ではなく、心配して覗きにきた執事さんの手に抱き上げられるまで、空を見上げることしかできなかった。
***
カラス
ヤっさんは、わたしを食べるだろうか。
クローおじちゃんも、たまに屋根に休みに来る鳶のおばさんも。
わたしは、キツツキの姉さんを食べるだろうか。
玄関先に座って、わたしは曇った空を見上げる。雪はまだ降る季節。寒いけれど、やっぱり外には出たいなあと思ってしまう。
ちいさくため息をつくと、ほんのちょっとだけ白く染まった気がした。
そりゃあね、みんな動物だもの。お腹が空けば、食べるよね。人間みたいに理性が働く動物と同じではないんだ。
まだ飼われているわたしはいい。けれども、外で生きる彼らは空腹が命にかかわる。
そんなことも、言われるまで現実味を帯びていなかっただなんて。
あの黒猫の言うことは正しい。腹が立って仕方がないくらいだ。でも、腹が立つ相手は自分なのだから、まったくもう手に負えない。あれからヤっさんとも話せていないし。もう一度ため息がこぼれた。
そのとき、ばさりと音がしてわたしは顔を上げた。
ヤっさんが来るにはちょっと時間が遅いけれど、顔を出してくれたのだろうか。
玄関の軒下から出るけれど、門にカラスの姿はない。もっと近くで短い羽音が響き、わたしの肩は大きく跳ねた。
すぐ近くの屋根に、一羽のカラス。
ヤっさんではない。たまに、屋根の上にいるのを見かけたことがあったかもしれないが、話したことはない。
ぎらりと鋭く目を光らせ、わたしを見ているのに背筋が凍った。明らかに、捕食者の目だ。
「逃げろっ!」
黒い影が一直線に飛んできて、わたしの真上で羽を広げた。地を蹴って跳んだけれど、相手は思いのほか大きかった。いや、思いのほか、わたしがちいさかったのだ。
とがったくちばしが振り下ろされるとき、それとは違う衝撃が走って、わたしは地面に放り出される。転んでからどうにか足で踏ん張ると、わたしは一目散に玄関に飛び込む。飾り棚とソファとの隙間に身をすべらせると、ふーふーいきり立つ自分の荒い息が耳についた。
黒猫が、カラスの首に牙を立てていた。
もがくカラスのかすれた声と、蹴り上げる鉤爪。ばさばさと飛び散る羽根。つんざくような、叫び声。
黒猫は執拗に首にかみつく。太い四肢で抑え込み、羽根をむしって急所を確実にとらえていた。ぶちぶちとなにかがちぎれる音がする。かすれた悲鳴が上がった。びくりと痙攣するカラスから顔をあげた黒猫は、口元をべっとり血糊で汚していた。ぺろりとそれをなめてから、物陰にいるわたしをじっと見る。
目をとじて耳をふさぎたいのに、わたしは瞼を動かすことさえできない。
動物たちの生き方に、今までわたしが触れることがなかったのが不思議なくらい、それは当たり前のことである。
親猫がいたら、こんなに平和ボケしなかったのだろうか。
黒猫はカラスくわえると、引きずりながら茂みの向こうへ行ってしまった。
騒ぎを聞きつけた邸の人が、なんだなんだと外に出ていく。カラスの声も、黒猫の怒った声も聞こえただろうし、羽根と血が散らばっているからなにがあったか言うまでもない。
シア! 執事さんが玄関を飛び出してわたしを呼んでいるけれど、隙間から出る気にはなれなかった。みんなの靴が目と鼻の先を行ったり来たりする。ぎゅっとちいさくなっているわたしに、誰も気づかない。
すると、むんと血のにおいが鼻をついた。
「もういねーよ。出てきて平気だ」
黒猫の声だった。
視線だけ向けると、開け放たれた玄関から一歩入ったところでぺろぺろ毛づくろいをしている。
外では執事さんが指示を出している声がして、みんながばたばたと動いている気配がする。執事さんのにおいも近くなったけれど、わたしはまだそこから動けないでいた。
「だから言っただろ。無闇に外に出るんじゃねーよ」
彼は迷わずにわたしのいる隙間まできて、ひょいと首をくわえる。びっくりして抵抗することも忘れてしまった。ぶらんぶらんと歩みに合わせて揺れる体は、不思議なことに力が入らない。されるがまま、わたしは棚の前に引っ張り出され、ぽとりと絨毯に放られた。
玄関から執事さんのにおいがして、はっと息をのむ音も聞こえた。それにこたえようとする前に、黒猫がわたしにおおいかぶさる。すんすんと鼻が鳴る音。押さえつけられるような、なでられるような、初めての感覚を顔中に受ける。な、なにこれ。
「く、くすぐった……むむっ」
「じっとしてろ」
ああ、これ、なめられているんだ。
わたしの周りにいるのは人間ばっかりだから、こんなことされたことはない。あたたかくて、くすぐったくて、こそばゆい。
べろんべろんなめられて、なんだか落ち着いてしまった。
はふん、と息をつくと、黒猫はにやりと笑って足早に出ていく。風みたいにすばやくて、あっという間の出来事だった。
残されたのは、呆然とした執事さんと、寝っころがったわたし。なんとも言えない顔をした執事さんは、このあとわたしを念入りにお風呂に入れてくれたのだった。