旦那様と執事さん
「シア~、こっちこーい」
カーテンの隙間から顔を出すと、にこにこした旦那様と目が合った。
旦那様、お仕事終わったのかな。さっきまで執事さんになにかを頼んだり、書類を積み上げたりしていたはずだけれど。今は椅子から立ち上がってんーと伸びをしている。わあ、気持ちよさそう。わたしもつられて背中を伸ばしてあくびをした。
なあに、旦那様。遊んでくれるの?
てててっと寄っていったわたしを、大きな旦那様の手が捕まえる。顔の高さまで掲げると、旦那様は大きな鼻とわたしのピンク色の鼻を合わせた。
「おまえ寒いんじゃねーか? 大丈夫か?」
窓のところにいたからたしかに毛皮が冷えてきた。もしかしたら手で触ると冷たいのかもしれない。
うーん、寒くはないけど、あったかいほうが好きだよ~。旦那様は寒いのかなあ。
にゃあにゃあ言っていると、にっかり笑った旦那様はひょいとわたしを胸元に押し込んだ。
わ?! わわわ! 旦那様なにするの!
「おおっ? 暴れるなよ。ここならぬくいだろ、ほら」
ボタンを閉めて、わたしの顔だけ出す格好にした。もぞもぞ動いて、わたしも自分の体が安定する位置を探す。旦那様のにおいでいっぱいだ。
「なにをなさっているのです」
部屋に入って来た執事さんが、そんな旦那様とわたしを見てほんのわずか眉を動かす。大きな体で怖い顔をしている旦那様の胸元に、ひょっこりわたしが顔を出している光景はシュールだと思う。いや、これが執事さんでもシュールだけど。
「いいだろ~エル。あったけえぞ」
「旦那様……」
呆れた顔でこめかみをおさえる執事さん。うんうん、ご苦労されてますね。わたしが言うなって感じですけど。
飽きたらすぐに執事さんのところに行きますから!
機嫌よく鳴いたわたしに、執事さんは苦笑を浮かべた。
***
居間の暖炉のまえでまるくなっていると、執事さんのにおいがぐんと強くなった。まどろんでいたわたしがそれを意識するのと同じくらいに、扉が開いて執事さんがやってきた。
「シア、おいで」
執事さんに呼ばれて、わたしの耳はぴくりと立った。ううーん、よく寝た。ふああとあくびをしてから、気を取り直して執事さんのところへてててっと駆けつける。
なあに? ごはん? さっき食べましたよね??
首をかしげて見上げるわたしを、白い手袋がやさしくなでる。背中をなでる手にあわせて絨毯の上でお座りすると、執事さんは膝をついてわたしの前に跪いた。
遊んでくれるの? 駆けっこする? 駆けっこする??
白い手に額を押しつけると、やんわりとなでてくれるので咽喉が鳴る。でも駆けっこじゃないらしい。なんだろう。見上げると、執事さんは胸のポケットからなにかを取り出す。
ちりん、と音がした。
ちいさな鈴のついた紐を、わたしの首にあてがう執事さん。
迷いのない手つきで結ぶと、結び目と鈴の位置をちょうどいいところにしてくれる。
「よくお似合いですよ」
きれいなかんばせをとろけさせて、見上げたわたしの頭をなでた。
ちりん、ちりん。
澄んだ音がわたしの首元でゆれている。
***
このお邸の旦那様とその執事さんは対照的だ。
旦那様はガツガツ前に進んでいく、勢いのよいライオンでこの町の王様。普段はへらってしてるのに、お仕事のときはすごく真剣でみんなに慕われている。独裁っぽく見えるけど、実はみんなにいろいろ相談してから決めているみたいだ。
「シア、ほら」
でも、やっぱりみんなにこっそりすることもある。そしてだいたい執事さんに見つかって怒られちゃうんだけど。
わたしの目の前に、お茶請けに出されたマフィン。わたしのひと口サイズだけ残してくれたらしい。前にクッキーもこうやってくれたんだけど、そのあとで執事さんに怒られていた。やっぱり懲りていない。
でも、くれるって言うなら、よろこんで!
わーい! と飛びついたわたしはぱくりとそれを飲みこむ。ふわふわした生地にバターのかおり。猫には贅沢な濃い味です。
「うまいか。よかったよかった」
はぐはぐしているわたしをなでる旦那様はご満悦だ。旦那様の手までぺろぺろ舐めて、自分の口の周りまで舐めて、滅多に食べられないあまいお菓子を味わう。
「旦那様」
ビクゥ! と旦那様と一緒に肩がはねてしまった。
振り返ると、何通かの封筒を手にした執事さん。
「お、おう。エル」
「……届いたお手紙をお持ちいたしました」
執事さんはそろりと視線をそらした旦那様とわたしをじっと見つめると、最後に、机の上にある空のお皿で目を留める。一拍の間をおいて、こめかみをおさえながらため息をこぼした。
「旦那様」
「んー」
「なにか私に言うことがあるのでは」
旦那様、これはばれてますよ。
ちらりと見上げると、琥珀色の瞳もこちらを見下ろしていて目が合う。旦那様はそおっと執事さんをうかがい見たけれど、じっと向けられる強い視線に耐えかねて眉をさげる。
「……シアが、かわいかったんだ」
「そんなことはわかっております。――うしろめたく思うのでしたら、まず行動を改めてください。人間の食べ物はシアにとって毒ともなることをお忘れですか。いくらかわいいからといって軽はずみに与え続けた結果、病気になって死んでしまったなんてことになったら後悔するのは旦那様でしょう。シアのためと思ったことが、裏目に出ることもあるのです」
「……はい」
「おわかりいただけたなら結構です。次はありませんからね」
「……はい」
しゅんとする旦那様は、大きな手でわたしの頭をなでた。ごめんな、シア。大きな旦那様がちっちゃく見えるくらいしょんぼりしている。もしかしたら、わたしが死んでしまったときを思い浮かべたのかもしれない。
素直に謝ってくれた旦那様に、わたしはぐりぐりと額をおしつけて返事をした。次はわたしも食べないようにしますね。
執事さんは、柳のように涼しげでしなやかな印象を与える。仕事は抜かりなく、いつだって冷静。
さっきみたいに旦那様が相手でも言いなりにはならず、きちんとたしなめている。お邸の従僕さんやメイドさんたちからは、ちょっと怖いけどすごい人だと思われているようだ。
でも慕われているなあと、わたしの目から見て思う。従僕さんたちがとくに尊敬のまなざしを向けている。この顔で同性がそういう態度ってことは、嫌味な部分も少ないんだろうなあ。メイドさんたちはもちろん頬を染めてきゃっきゃしてることはあるけど、仲を深めようっていう強者は今のところ見かけない。休憩室のお姉様情報だと、高嶺の花扱いなんだとか。
そんな執事さんは、旦那様曰くわたしにいっとうあまいらしい。
「どうされました、お嬢様」
旦那様に仕事を渡した執事さんは、わたしを抱き上げて部屋を辞すと隣にある居間へと向かった。
火の入った暖炉の前におろしてくれたので、わたしはじっと執事さんを見上げる。ほんのわずかに首をかしげて、整った顔に笑みを浮かべた。眼福である。
暖炉の前の絨毯は、他よりも分厚くてわたしのお気に入りのひとつなので、そこで執事さんになでてもらえるなんて気持ちがよいに決まっている。毛づくろいを手伝うように丁寧になでてくれる執事さんはさすがです。
咽喉を鳴らしながらごろんと寝っ転がって、よいしょと足を広げたわたし。すると執事さんは、わずかに眉を寄せた。
「そのようにはしたない格好は、レディにふさわしくございません」
だって、体の後ろとか下の方はこうしないと届かないんだよ。お手入れだよ、執事さん。
ね、ね? と執事さんの靴にじゃれつく。わちゃわちゃしていると、紐の輪がほどけてしまった。
「こら、シア。おいたがすぎます。めっ」
めっ?!
し、執事さんからそんな言葉が出るなんて!!
わたしが固まった隙を逃さず、執事さんはわたしを抱き上げてしまった。
「私は旦那様の執事でもありますが、お嬢様の執事でもあります。きちんと躾いたしますので、覚悟なさってくださいね」
さっと眼鏡を外してほほえんだ執事さん。アメジスト色の瞳が、まっすぐとわたしを見つめている。
ここぞというときに眼鏡を取るなんて、執事さんめ。自分の魅力をよくわかってるってことですね。ううう、イケメンだなあ。けしからんですよ。
旦那様も執事さんも癖のある人たちだなあと、わたしは今日もしみじみなのでした。