NAME
【シンシア】
まだ手のなかにすっぽりおさまる子猫を、ベルンハルトはじっと見つめる。
ただいま、ミルクの時間。
エリオットが哺乳瓶をかたむけて食事の世話をしていた。夢中になってミルクを飲む子猫。昨日の夜にベルンハルトとエリオットが見つけた、ちいさな命である。
「なあ、エル。それメスだろ? 名前どうするかなあ」
淡いクリーム色の毛並みは、尻尾と耳の先だけこげ茶色だ。
目やにを取ってやった瞼の向こうには、みずみずしい緑色の瞳。
昨日はあんなに弱っていたのに、今ではすっかり元気になって、エリオットが用意した大きな木箱のなかでにーにー鳴きながら動き回っている。
食事のときにエリオットが抱き上げて、こうしてミルクを与えているのだけれど。その光景をまえに腕を組むベルンハルトはとても真剣だ。エリオットが子猫から視線を上げる。
「……どうして性別が断言できるのか不思議です」
「あれ? 違ったか?」
もう昨日からメスだとばかり思っていたのだけれど。だって、どう見ても女の子の雰囲気じゃないか。
驚いて頬杖を解くと、エリオットが首を振る。
「いえ、たぶんおっしゃるとおりかと。まだちいさいので、もしかしたら見落としの可能性もありますが」
もっともっとと前足で吸い口を蹴る子猫へ苦笑を浮かべるエリオット。彼がそういうのなら、やはりメスなのであろう。
「まあ、違ったら違ったでなんとかなるだろ。うーん、なにがいいかなー」
ちゅくちゅくとミルクを飲んでいるちいさなレディを、じいっとながめて考え込む。イヴリン、レティ、ジリアン、マリーベル、アリシア……。女の子の名前が次から次へと浮かんでは消えていく。
「もうここで飼うことは覆らないということでよろしいですか」
「ほかにどこで飼うんだよ。俺の邸にいたんだから、俺のところで面倒見るのがどおりだろ」
なにを言っているんだ。きょとんとしたベルンハルトに、エリオットは紫色の瞳を向ける。長い付き合いだ。ベルンハルトの考えなどお見通しのくせに、あえて聞いているのである。その証拠に、エリオットはあっさりとうなずいた。
「かしこまりました」
それでは、寝床などもそろえます。
そう言いながら、彼がもうすっかりちいさな姫君に瞳を細めているのも、ベルンハルトにはわかっている。うん、いいことだ。エリオットにも息抜きは必要だろう。たぶん、あのちいさな女の子は、彼の日頃の疲れも癒やしてしまう。
かわいらしくて、愛しくてたまらなくなる、そんなちいさな貴婦人。
「――うん、シンシアにしよう。シア、シア、シンシア……どうだ?」
ぴんと浮かんだそれに、ベルンハルトはエリオットを振り返る。すると彼は手のなかを見つめてから、にっこりとほほえんだ。
「旦那様からそのようにまともな名前が出て来たことが奇跡です」
「おい」
まったく、口が減らない。生意気なエリオットにむっと眉を寄せたけれど、異論はないのだろう。
ベルンハルトは機嫌よくちいさなシンシアを呼んだ。
【エリオット】
紅茶をいれるエリオットへ、ベルンハルトが扉の向こうを気にした様子で口を開いた。
「エル、シアはどうだ? 元気か?」
まだちいさい子猫は、トイレも自分でできるかあやしい。タオルを敷いた木箱のなかで、飛んだり跳ねたりしていることだろう。
エリオットが付き添えるときは、箱から出して部屋のなかに放してやっている。今はエリオットも仕事中なので、居間の木箱のなかだ。
「ええ、今日も変わりございません。目につくものに興味津々で飛びついております。――それより、旦那様」
「んー」
生返事で書類をめくる主へ、エリオットは姿勢を正してはっきり申した。
「お忘れかもしれませんが、私の名前はエリオットです」
金色にも見える琥珀色の瞳が、憮然としてエリオットを見上げる。無骨で厳ついこの男が、子猫の木箱を俺の部屋に置けと駄々をこねたなんて信じがたいだろう。もちろんエリオットはそれを説き伏せ、主の気が散ることのないよう努めたが。
ベルンハルトがそのときと似たような顔で唇をとがらせる。
「知ってらい」
「でしたら、変なふうに略すのはおやめください。もうこれまでに何度も申しておりますが、一向に改善されないご様子」
「かったいこと言うなよ、もうガキのころからの話じゃねーか」
エリオットが初めてベルンハルトと出会ったのは、五歳になった夏だ。そのとき、ベルンハルトは三歳。大変活発で意地っ張りな子どもだった。そのときから、この主はエリオットのことをエルと呼ぶ。言うまでもないが、そう呼ぶのは後にも先にもベルンハルトだけだ。
「ですから、いい加減に直してくださいと申しているのです」
「やだね。エルはエルだろ。いーじゃねえか、俺しか呼ばねえんだから」
何度も訂正しているのに、いつもこういう流れで話は終わってしまうのである。体面上はそう言っていても、エリオットもそう呼ばれることが嫌ではないから困ったものだ。加えてこの主人は、他人がいるときにはきちんとエリオットと呼ぶ。だからこそ、強くは言えない。言ったところで治らないのもわかっている。
ぷいと顔をそらした主に、エリオットはちいさくため息をつく。そして困ったように笑みを浮かべるしかない。
今回もまた、エリオットはエルのまま話の幕が閉じるのである。
【ベルンハルト】
「旦那様」
ぴかぴかの革靴に付き添ってお部屋に入ると、革靴の持ち主である執事さんは旦那様に一礼をする。
「おう、エル。さっきの門の補修のことだけど。早く直さねーと危ないから、書類と同時進行で作業かかっちゃえよ。怪我人が出ても困るだろ」
ばさばさと書類の山に手をかけながら、旦那様は顔も上げずに口を開いた。
「今、見積額だけ出してもらいましたので、こちらに旦那様のサインをください。すぐに取りかかるようにいたします」
「おう」
執事さんが渡した書類に、旦那様はがりがりとペンを走らせる。あと、これとこれとこれにも、なんてたぶん違う案件の書類にもサインをさせて、執事さんは一度部屋を出て行った。いつもながら、鮮やかなお手並みです。
執事さんに置いて行かれたわたしは、旦那様の立てる音を聞きながら薪ストーブの前に陣取る。この部屋ではここが一番あたたかくて、眠りの魔法がかかっている場所だとわたしは踏んでいる。だってすぐに眠くなっちゃうもの。
旦那様がお仕事をしているときには、なるべく邪魔をしないようにわたしはこの定位置についている。
そういえば、旦那様は執事さんをエルって呼ぶけれど、執事さんは旦那様を旦那様としか呼ばない。お邸のメイドさんも従僕さんも、旦那様は旦那様だなあ。……あれ? もしかしてわたし、旦那様の名前知らないんじゃないか。
はっとして頭のなかで名前検索したけれど、やっぱり旦那様は旦那様だった。わあー、マジですか。わたし、ちょっとうっかりしすぎじゃないですかこれ。
でも、まあ、そのうちにわかるだろう。たぶん。お客さんが来れば名前で呼ぶだろうし。それまでに、なんて名前か…予想……ぐう。