小さな宝箱
夜になろうとしている薄闇の空には雲ひとつない。その町では大きな通りを冷たい風が吹き抜け、家路を急ぐ人を急き立てる。
通りの街頭に明かりが灯り始めた。看板やネオンサインが光る。夜でも比較的明るい道を、あおいは自転車で走っていた。彼女はその通りを大学とその近所のバイト先、そして自宅のワンルームをここ3年ほど毎日往復している。
「あれ? 」
大通りの奥に、見たことのない小路が続いていた。通い慣れたいつもの景色のはずだったのに、あおいはたった今その事に気が付いた。
小路には特別変わった雰囲気ではないのに、どういうわけか気になって仕方がない。そう感じると同時にブレーキを握ったあおいを、後ろから続いていた自転車の男性が怒鳴りながら追い抜いて行った。
人がすれ違うのもやっと、というくらいの道幅の小路へ、あおいは自転車を押して入って行く。少し歩くと、小さなアンティーク店が現れた。
こじんまりと、ひっそりと小路に佇む店構えは古びている。けれど、どこかおしゃれで懐かしい洋館風の建物だ。もしもこの小路にガス灯でもあれば、明治時代に入り込んでしまったのではないかと思わせるようなレトロな雰囲気の店だ。だんだん暗くなりつつある景色に良く映えている。
「こんな店、あったんだ……」
道草を決めたあおいは、自転車を店の脇に停めた。かじかんだ手をさすって、自転車に鍵をかける。
冷たい風がビルの隙間を通ってびゅうと音を立て吹き抜けて行く。あおいは思わずマフラーに顔を埋めた。
黒いショートボブを耳にかけ、あおいは店先のショーウィンドウを眺めた。
飾られている商品は、縁飾りに細かな彫刻を施された手鏡、波打つような繊細な模様が美しいガラスの香水瓶など、どれもこれも手の込んだ凝った作りのものばかりだ。年代物であろうそれらの品々は古びてはいるが、思わず目移りするほど、どれも魅力的に映る。
あおいは俄に胸がときくのを感じた。心が踊るような感覚は久しぶりで、刺すような寒く冷たい空気も一瞬にして忘れてしまいそうだった。
「お母さんも、こういうの好きだろうな」
あおいはふと、母親の顔を思い浮かべる。けれど、瞬時に打ち消した。昨日、あおいの帰宅時間が遅いと電話で喧嘩したばかりだ。
「バイトくらいしたいわよ。もう」
あおいは勉強もバイトも楽しくて仕方がない。忙しくも充実した生活だ。とはいえ、あおいの帰宅が深夜に及ぶような事はこれまで一度もなかった。親にすればいくらでも心配だろうが、気を付けていても尚口を挟まれる事が、あおいには気に食わないのだ。
その時、ショーウインドウから店の真ん中に置かれた棚が見えた。そこに陳列されている小さな箱があおいの目に留まる。やや薄暗い店内でも、それは一際目を引いていた。
あおいはまるでその小箱が自分を呼んでいるかのように感じた。その瞬間から喧嘩の事も忘れ、他の商品は一切目に入らなくなった。吸い寄せられるようにして店に入ると、あおいは小箱を手に取った。
小箱は、例えば勇者が旅の途中で見つける宝箱を、手のひらに収まるサイズに縮めたような造りだった。円柱を縦半分に切ったような形をした蓋と、長方形の箱の部分の外側にはキラキラ光る赤い小石がいくつも散りばめられている。
一見かわいらしく見えるが、古ぼけてくすんだような金色の縁取りには重厚感がある。蓋を開けて中を見ると、内側には深い緋色のビロードが張られている。つやつやとした布の感触がなめらかで、何とも心地良い。また、その緋色とくすんだ縁取りの色合いが、開けた瞬間に中からモンスターが飛び出してきそうな怪しい雰囲気を醸し出している。
あおいはこの宝箱がすっかり気に入ってしまった。それは一点物で、貧乏学生には少々高い。けれど意志は揺るがない。所謂「一目惚れ」、そして「衝動買い」である。それでも後悔はしないと確信し、既に買う以外の選択肢はなかった。
会計を済ませたあおいは、いそいそと帰宅した。
家に帰ると、あおいは蛍光灯からの紐伸びる紐をぱちんと引っ張った。少し遅れて明かりが灯ると、物の少ないがらんとした部屋が壁までよく見える。
鞄をハンガーラックの足元に置いて、マフラーを外す。それを上着と一緒にハンガーにかけた。そしてラックの側の壁に付けてあるリモコンを操作し、エアコンのスイッチを入れた。
宝箱の入った包みを取り出し、あおいは丁寧に包装紙を開いてゆく。宝箱とのご対面だ。あおいは良い買い物をした満足感に浸り、宝箱を手に取ったままうっとりと見つめた。
ひとしきり眺めると、あおいは宝箱をワンルームの部屋の真ん中にあるコタツの上にそっと置いた。いよいよ蓋を開こうとしたその時、箱の中からゴトリと音がする。重そうな何かを床に置いたような、鈍い音だった。
宝箱の中は、確かに空だったはずだ。けれど、あおいには空耳とはても思えなかった。あおいは箱を持ち上げて、耳元に近づける。そのまま箱を上下に軽く降ってみると、今度はカシャカシャと金属が擦れたような音がした。それと同時に、「ぐえ」と潰れたカエルような声も僅かに聞こえた。
あおいはもう一度、宝箱をこたつに置いた。この中には何かが居る。恐らくそれは物ではない。生きている何かだろう――あおいの第六感が訴えている。
あおいは宝箱から目を離さずに大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。この行程を数回繰り返した後、何か武器になるものはないかと部屋の中を見渡した。
ベッドには枕くらいしかないし、ハンガーラックのハンガーは全て服で埋まっている。台所の物は使いたくない。部屋を眺めていると、玄関先に置いていた殺虫剤が目に留まる。あおいはそれを手に取った。
「本当にモンスターが出てきたりして」
あおいは一人ごちて、牙を剥き出しにした竜が火を噴く姿をを想像してしまった。
「まさか、ね」
流石に竜はない。あおいはは期待を込めて、想像の竜を即座に打ち消した。いつの間に入り込んだのかはわからないが、せいぜいゴキブリやその類だろうと考え直す。あおいは宝箱の蓋をゆっくりと開いた。
しかし、箱の中から出てきたのはゴキブリでも竜でもなかった。甲冑を纏った剣士がぬっと顔を出したのだ。その瞬間に、あおいは彼としっかりと目が合った。
あおいははっと息を飲んだ。呼吸を忘れて驚く。けれど次の瞬間、彼女は慌てて宝箱から手を引っ込めた。その勢いのまま尻餅をつく。
剣士は薄い紫色の瞳を見開いて、容赦ない視線であおいを睨みつけている。彼は左手で兜を抱え、右手に握るサーベルの切っ先を真っ直ぐにあおいの喉元へ向けていた。その様子はとても勇ましいが、彼の身長は15センチほどだ。手のひらサイズの剣士である。
剣士は赤茶けた髪を高い位置で一つに結い、しっぽのように肩まで垂らしている。西洋風の鎧を身に付け、その下には和服のような群青色の襟が見えた。
鎧で隠れているが、裾を絞った袴ような形の薄い灰色のズボンを穿いている。その上にこげ茶色の膝下まであるブーツを履いていた。手には上着と同色の手甲を付け、その指には幾つかの指輪が光っている。
目つきは頗る悪いが、よく見ると整った顔をした少年だ。右の頬を怪我していて、そこから血が流れている。血が彼の肩を伝い、服や鎧を汚していた。けれど、それらを差し引いても綺麗な顔つきだ。
暫くの間、あおいと剣士は睨み合いを続けた。ベッド脇に置いた時計がカチカチと時を刻むのが、あおいの耳に嫌味なほど響く。
お互いに目をそらすことのないまま数十秒経つ頃、遂に剣士が口を開いた。
「……お前は誰だ。ここは、どこだ」
剣士はあおいを見張るように注視しつつ、同時に周りの様子も窺っている。見慣れない場所への戸惑いと、焦りの色が色濃く見えた。敵に攻め込まれているかのような険しい表情で、今にも張り裂けそうな殺気を放っている。その刺々しさは、あおいに抜き身の刀を連想させた。
だが、同時に剣士の痛々しいほど張りつめた雰囲気からは、納めるべき鞘の無い、何かの拍子にポキンと折れてしまいそうな危うさも感じられる。
剣士の頬からは相変わらず血が流れている。血の滴がぽたりと彼の肩に落ちた。
「あなたこそ、誰よ。何も入っていなかったのに……」
掠れる声を振り絞り、やっとのことで言い返した。とはいえ、あおいも困惑しきっている。
心の準備はした。けれど、起こったのは「まさか」で片付けた事とそう変わらない。
現れた本人は相変わらず目を吊り上げてかなり興奮しているし、どう接するべきかなど、あおいには咄嗟には思いつかなかった。
「知るか。いきなり閉じこめられた身にもなれ」
「わたしだって知らないわよ。小物入れから人が出てくるなんて思わないもの」
小さな剣士は切っ先をあおいに向けたまま、素早く兜を被った。あおいから目を離さずに少しずつ移動する。そして、箱から足をそろりと出して素早く跨いだ。流れるような身のこなしは、彼が相当な手練れあると伺える。
「お前、帝国の手の者か」
「……帝国? 」
あおいは眉をひそめて聞き返した。
今時、帝国などという国などあっただろうか。考えを巡らせていると、剣士は苛立ったように畳み掛ける。けれど、知らないものは知らない。
「モルトベーネ帝国の者かと聞いている」
「だから、そんなの知らないわよ。いい加減にして。だいたい、剣なんか振り回して危ないじゃない」
まくしたてるように強く言い返したものの、あおいはますます分からなくなるばかりだった。
あおいは帝国など知らない。だが、剣士はあおいがしらばっくれていると思っている。どうも会話が噛み合わなかった。
それに、自分よりもはるかに大きなあおいに、剣士は畏れおののいている。彼はますます殺気立った。
剣士の頬の血は止まる気配がない。ぽたぽたと落ちる血が、彼の顔や首を伝って服や鎧を汚していた。
あおいはよくわからない帝国よりも、剣士の怪我の方がよほど気になっていた。見れば見るほど痛々しい。
「それより、あなた。頬を怪我しているわ。早く手当てしないと」
「……え? 」
剣士は左手で傷をさっと触れた。彼はあおいに指摘されるまで、怪我に全く気付いていなかった。心配するあおいに、彼の纏う空気はほんの少し緩んだ。
「これくらい、ただのかすり傷だ。舐めておけば治る。気にするな」
剣士はそう言うと、構えていたサーベルを静かに下ろした。同時に厳しい表情も少し和らいだが、目つきは据わったままで眼光も鋭い。抜き身のサーベルはしっかり握ったまま、まだ警戒を解かないでいる。
「舐めて治るような怪我には見えないわよ。ちょっと待ってて。救急箱を取ってくるから」
そう言ってあおいは部屋の隅にある押し入れへ向かう。あっさり背を見せて離れて行くあおいを、剣士は呆気にとられて見送った。
押入はこの部屋で唯一の収納場所だ。生活に必要な物は大抵、ここに仕舞ってある。
あおいは押入の襖を開けた。中に積み上げていた物を、一つずつ下ろしていく。
あまり整理できていない押し入れの中は、雪崩こそ起こさないが整頓もされていない。目的の物を探すあおいの足元は、既に物で溢れかえっていた。
一方こたつの上では、剣士が次々と積み上げられていく生活用品をしげしげと興味深そうに見ていた。サーベルを鞘に納め、押し入れを漁るあおいの背と荷物を交互に見比べる。
あおいは掃除機を手に、一度こたつの脇に戻って来た。そしてこたつに掃除機を立て掛けると、彼女はまた押し入れに引き返す。剣士は長く大きなそれにまた驚いて、サーベルの鞘でつついた。
剣士はしばらく様子を窺ったが、掃除機がひとりでには動かない事を確認すると、彼はつつくのを止めた。あおいが何の警戒もなく扱うのだから問題はないだろうと結論付けたが、剣士には気になって仕方がない。今度は近寄って、掃除機の青いホースまじまじと眺めた。
あおいは救急箱を見つけ出すと、台所の棚からティッシュ箱も掴む。剣士の手当てをしようと、あおいはこたつへ戻って来た。
剣士の頬からは血が流れ続け、こたつテーブルにもぼたぼたと赤い滴が落ちている。あおいは剣士に折り畳んだティッシュを渡し、それで傷口を押さえさせる。その間にあおいはテーブルをティッシュで拭い、ガーゼを小さく切り始めた。
「ねえ、どうして怪我したの?その剣は本物? 」
「ああ、そうだ。傷はさっきまで斬り合いをしていたから、その時に付けられたんだろうな」
気付かなかったな、と剣士はぽつりとこぼした。あおいが彼の顔を見ると、彼もあおいを見る。
「帝国でないなら、いい。悪かったな」
あおいがほほえんで頷くと、剣士も小さく笑った。
剣士の頬の血をを押さえるティッシュがみるみる赤く染まってゆく。あおいは替えのティッシュを折り畳み、彼に手渡した。血みどろになったティッシュをポリ袋に捨てて、ガーゼ切りを再開する。
「どうしてそんなに小さいの? 」
「お前が大きいだけだろう」
剣士は再びあおいをギロリと睨みつけた。彼はふてくされたような顔をして、コタツの上にアグラをかく。そして決まり悪そうにあおいから顔を逸らし、ぶすっとしたままアグラの上に頬杖をついた。頭上の蛍光灯までもが不機嫌そうに瞬くので、あおいの焦りは倍増する。
剣士はさも面白くなさそうに、拗ねた顔をして黙り込んだ。あおいはハサミを動かしながら、なんとか場を取り持とうと次の話題を考える。
「ご、ごめん。そんなに怒らないでよ。ええと、そうだわ、あなたの名前は? 」
「……アベル・アグアイル」
アベルはそっぽを向いたまま、ぼそりと答えた。まだあおいを見ようとはしない。
「アベルは幾つなの? 子供があんなもの振り回したら危ないわ。ヒヤヒヤしたわよ」
「15。もう元服したんだ。俺は子供じゃない」
アベルはそっぽを向いたまま、ますますむくれた。彼は更に機嫌を損ね、頬を膨らます。明後日の方を向き、あおいとは目も合わせようとしない。
あおいは気まずくなった空気をどうしたものかと、焦りで回らない頭で考える。だがそれを察するように、アベルもまたちらちらとあおいの様子を伺っていた。
「乱世に生まれた以上、致仕方ないだろう。戦わねば殺される」
アベルは腰のサーベルを見つめて、暗い顔をした。目を伏せた彼の表情に悲しい影が走る。あおいもつられて、アベルのサーベルや鎧へ視線を移した。
アベルの鎧もその下の服も、どろどろに汚れていた。彼の服には相当な量の血や泥が染み込んでいて、汚れた部分は既に黒っぽく変色している。
「15じゃまだ子供よ。ご両親は反対しなかったの? 」
「もう死んだ。とっくに」
あおいは返事ができなかった。彼女がアベルを見ると、彼は「何を言っているんだ」と言わんばかりの怪訝な顔をしている。
「お袋は帝国兵から俺を庇って死んだ。親父は戦に殉じた」
あおいの動きが完全に止まった。アベルの精悍な、且つどこか思い詰めたようなきつい顔つき、彼の纏う殺伐とした雰囲気からも、とても嘘には聞こえない。
あおいは遂に思考も止まった。視線をアベルに向けたまま、頭の中で彼の言葉を反芻する。
次第にアベルは居心地悪そうにし始めた。渋い顔をしてアベルがあおいを見つめると、あおいはアベルの視線にはっとした。じろじろと見てしまったことをアベルに詫びて、視線を手元のガーゼに戻す。そして黙ってアベルの言葉を待っていると、彼はニヤリと口角を上げた。
「君はどうなんだ。そんなにぼやっとしていると、すぐに殺されてしまうぞ」
「生憎そんな経験ないわ。だいたい、本物の武器なんて初めて見たんだから」
あおいが少しムッとして答えると、アベルは小さく笑った。
「そうだろうな。その調子なら、危なっかしくてとても見てはいられん」
「まあ、失礼ね」
あおいはからりと笑うアベルを軽く睨みつけながら、切り終えたガーゼをこたつに置いた。そして彼の頬からティッシュをはずすと、頬の血は止まっている。あおいはほっと息をついた。
「目と口、瞑ってなさいよ。消毒液をかけるから、少ししみるわよ」
あおいはスプレータイプの消毒液を、アベルの頬に吹きかけた。彼は歯を食いしばり、しみる傷口に顔を歪ませる。アベルは一言も弱音は吐かなかった。さほど痛がりもせず、じっと耐えていた。
アベルの傷は浅かったが、大きかった。右の頬骨から右の口角の近くにまで及んでおり、本当ならば縫うような怪我だ。
けれど、さすがに病院に連れて行けないし、あおいには医療の知識も技術もない。上から圧迫するだけではまた傷が開くかもしれないが、あおいにはこれ以上どうすることもできなかった。
「君は多少危なっかしそうだが……それでも、いつも死ぬ心配をしなくても生きられる世の中なのだろう。良いことだ」
そう言って、アベルはにっこりと笑った。それまでの暗い影が払われたかのような、明るい笑顔だった。
この子はこんな顔もするのか。アベルの笑顔を見たあおいは意外な気持ちがした。
アベルは必死で背伸びして大人ぶっている。けれど、彼の本当の顔はこちらなのかもしれないと、あおいは推測する。
「そう、ね。今日死ぬかもしれないなんて、今まで考えたこともなかったわ」
あおいはアベルの頬に張り付いて固まった血を濡れガーゼでふき取った。そして新しいガーゼを傷に当て、その上からテープで固定する。
「よし、これでいいわ」
「ありがとう。すまないな。すっかり世話になってしまった」
アベルは頬に手を遣り、ガーゼの感触を確かめた。
「わたしは、あおい。真田あおい。18歳だから、わたしの方が少しお姉さんね」
「あんまり変わらないだろう。偉ぶらないでくれ」
アベルは唇を尖らせて抗議する。けれど、そうしてすぐに拗ねるところが子供っぽくてかわいいと、あおいは心の中でくすりと笑った。
「あら、3年の差は大きいのよ」
わたしがそう言うと、アベルはまた不満そうにぷうと頬を膨らませた。傷が痛むらしく一瞬でやめてしまったが、今度も随分拗ねてしまったようだ。
「ふふ、拗ねるな拗ねるな」
いちいちむくれるのがとにかく可愛いと、あおいは人差し指でアベルの頭を撫でてやる。すると今度は照れているのか、アベルの顔が少しばかり赤くなる。
アベルはまたそっぽを向いた。けれど、決して怒っているわけではない。
いつの間にか効き始めていたエアコンの暖かい風が、ふわふわとアベルの束ねた髪を掠めて行った。
手当をした後、あおいはアベルのために寝室を用意した。台所で深めの皿を見繕い、タオルやフェルト、ハンカチを敷き詰めてベッドを作った。出来上がったのでアベルを呼ぶが、返事がない。
「アベルー?どこー? 」
あおいは台所を出ると深皿を抱えたまま、アベルを探し始めた。名前を呼びながら、こたつの周りを見渡すが一向に返事はない。あおいはかがんで宝箱を見下ろした。
アベルはこたつの上に置いたままにしていた宝箱の脇にいた。彼は宝箱の壁に寄りかかるように座ったまま、サーベルを抱えて眠っている。よほど疲れていたのだろう。手当が終わるとすぐに寝てしまったらしい。
起こしてしまうのも悪い気がして、あおいは慌てて口を噤んだ。アベルの肩に上からタオルハンカチを掛けて、そのまま動かさないようにしておくことにした。
翌朝、元の世界に帰れないことに落胆するアベルを慰めるところから一日が始まった。彼は一旦は酷く落ち込んだ様子だったが、少し気持ちが落ち着いてからは気丈に振る舞っている。
アベルは朝食前に、日課だという朝の鍛錬を始めた。爪楊枝を木刀替わりに素振りをしている。汗を飛ばしながらひたすら爪楊枝を振るう姿は、まるでそこに相手がいるかのように激しかった。
あおいに剣のことは分からない。けれどアベルの一振り一振りが彼の不安を振り払うかのように見えて、いたたまれなかった。
アベルの様子を見ながら味噌汁と卵焼きを作った。そして冷凍庫から余った米をおにぎりにしておいたものを取り出す。おにぎりをレンジにかけている間に、おかずを皿によそう。
朝の講義に間に合うように早起きしたものの、あおいはすっかりアベルに気を取られていた。大急ぎで食事してドタバタと鞄を掴んでダウンジャケットを着込む様は、アベルが「まさかここも戦場だったのか」とあおいに確認したくらいだった。
あおいはいつものように大学へ行った。バイトもこなして、夜に帰宅するとアベルと夕食を食べた。
食後にお椀に湯を張って、あおいはアベルに風呂を勧める。あおいはその間に彼の汚れた服を洗ってやることにした。
アベルは返事をするや否や、その場で服を脱ぎ始めた。あおいは目のやり場に困って目を泳がせる。けれど、うっかり見てしまった彼の身体に、あおいは釘付けになった。
アベルの身体には、肩、背中、腕、足、腹に到るまで、身体のあちこちに幾つもの傷跡が残っていた。中には最近出来たであろう新しい傷もあり、彼の生活の激しさを物語っている。
アベルのこれまでの人生には戦いしかなかった。彼の姿にそれを確信したあおいは、2度目の大きなショックを受けた。
アベルはあおいの様子が変わった事にすぐ気付いた。脱ぎかけていた上半身の服を脱ぎ終えると、すまなさそうな顔であおいを見上げる。
「すまない。驚かせてしまったな。俺は見られても構わないが……見てもあまり気分のいいものではないだろう」
「ごめんなさい。そうじゃないの。なんだか、悲しくなってきちゃって」
あおいは慌ててアベルから目を逸らす。鼻の奥がつんとするのを感じたあおいは、慌てて涙を堪えた。
傷は確かに恐ろしい。けれど、それよりもあおいは彼に同情してしまった。つらいことばかりだったのではないか、子供らしい生活をしたことなどないのではないか、などと考え始めるとキリがない。余計なお世話かもしれないが、そう思わないではいられなかった。
ふと、おおいは左肩に重みを感じていることに気が付いた。アベルがいつの間にか、あおいの肩によじ登って来ていた。アベルはそこに腰を下ろし、心配そうにあおいを見上げている。
アベルはズボンのような袴のような服を、小さな拳できゅっと握った。
「どうしてあおいが悲しむんだ」
「だって、身体中傷だらけじゃない」
「俺は気にしていない。どれもほとんど治っているし、今更どうという事はないさ」
悲しげな目をして、あおいは黙ってしまった。アベルは困ったような、曖昧な笑い方をしてひとつ息をつく。
「ここにいると、本当に戦わなくていいんだな。俺はずっとこんなだから、どうもピンとこないんだ」
アベルはどこか遠い目をしてそう言った。
戦わない生活は、アベルにとって普通ではない。けれど決して望んで戦っているわけでもないのだろうと、あおいは思っている。
「ここにいる間くらいはゆっくりしてね」
「ありがとう。あおいは優しいな」
アベルは笑った。明るい方の、無邪気な笑顔だった。
それから数週間の間、二人は穏やかに過ごした。その間にアベルの頬の傷は大方癒えたが、跡はくっきりと残ってしまった。
「ああ、きれいな顔なのに。勿体ない」
アベルの顔からガーゼをはずすあおいの口から、ポロリと本音が出た。役目を終えたガーゼをコタツに広げたビニール袋に入れて、あおいは袋の端をきゅっと結ぶ。
「そうか? そりゃあ、ない方がいいけど、今更消せないし……」
こたつに胡座をかいたアベルは困ったように笑いながら、傷の真横の皮膚をポリポリと掻いた。
「そんなことよりも、俺は世界の情勢が気になるよ。仲間達は今頃どうしているのか……」
アベルは深くため息をついた。思い詰めたような顔で、こたつの上の宝箱を見ている。彼はため息をつくと、ブーツの爪先をじっと見つめた。
「俺はいつまでこの生活を続けるのだろう。今もきっと、仲間は戦っているのに」
「帰る方法がわからないんじゃあ、どうにもならないわね。あの宝箱も調べてみたんでしょう? 」
「ああ。でもお手上げだ」
アベルは肩をすくめて、また一つため息をついた。
アベルはこの数日、宝箱の本体はもちろん、蓋の部分や箱の裏側までひっくり返して調べていた。けれど、出てきたものは隙間に挟まった埃くらいのもので、大した収穫はない。いくら彼が帰りたくても、どうにもならなかった。
アベルはすっと立ち上がった。そして、少し歩いてこたつテーブルに肘を付いていたあおいの左腕に手をかける。彼はセーターの編み目を上手く使いながらするすると登り始めると、鮮やかにあおいの肩に腰掛けた。
いつしかあおいの左肩は、アベルの指定席になっていた。用事がある時や話がしたいときにはいつも、彼はここへよじ登ってくる。
「そういえば。あおいはよく出かけているな。とこに行っているんだ? 」
「大学よ」
「……なんだそれは」
アベルの顔にクエスチョンマークが浮かんだ。その反応に、あおいも同じように戸惑った。
アベルの国には大学が無いのかもしれない――そう思い至ったあおいは、別の言葉に言い換えられないかと思案する。
「学校ならわかる? 勉強しに行っているのよ」
「学校……ああ、学問をするところだな」
アベルは合点がいった、というような顔で答えた。
「俺は学校に行ったことがない。でも、新時代が来たら学問が必要だから、お前も本を読んでおけと上司に言われた。何冊か借りていたんだが、全部置いて来てしまった」
アベルは「いつか読破するのだと意気込んでいたのだが」と自嘲気味に笑う。
「いつから戦ってるの? 」
「俺が生まれた頃には既に革命は始まっていた。親父が死んだ後からだから……2年くらいか」
あおいは返事に困った。聞いてもよかったのだろうかと、今さら迷っている。アベルはあおいの不穏を察知すると、努めて優しい声を出した。
「気にするな」
「ごめん、わたし……」
しどろもどろしながら、あおいは言葉を探した。アベルからすれば恐らくぬるま湯の生活しか経験のないあおいには、どこまで踏み込んで良いのかすら判断がつかない。
するとどこかさっぱりとした面もちで、アベルは自身のこれまでの事を話し始めた。
「俺達の国は、嘗てはイアサント王国と呼ばれていた。農業と産業で栄え、美しく平和な国だったらしい」
「らしい? あ、そうか。生まれる前から……」
あおいがそう言うと、アベルは残念そうに笑った。
「20年ほど前にモルトベーネという政治家が現われたらしい。今の混乱は、こいつのせいだ」
アベル曰く、モルトベーネはクーデターを起こし、有らぬ罪をでっち上げて王族を抹殺した。国を崩壊させ、モルトベーネは自身を皇帝とするモルトベーネ帝国を興す。そこから彼の恐怖政治が始まった。
「モルトベーネは民衆に法外な税を課している。誰も払えないほどな。反抗する者は一族全員を捕えて処刑さ」
アベルは手刀を作り、自身の首を切る真似をした。あおいは背筋に寒いものを感じる。
モルトベーネは、自分に近しい者や追随する者には貴族の身分を与え、彼らに民衆を管理させている。町は荒れ果て貧困に喘ぐ者で溢れる一方、ごく一部の者だけが贅沢で怠惰な生活を送っているという事だ。
「ひどい体制ね。生活できないじゃない」
あおいは眉間にシワを寄せている。そんなのは国ではないと我が事のようにプリプリしているあおいに、アベルは嬉しそうに微笑む。
「ああ、酷いもんさ。だから戦う。俺には剣があるから」
やがて耐えかねた民衆達は反乱軍を結成する。アベルが所属するのももちろんそれだ。彼らは革命を起こした。しかしそれから20年経った現在も、決着は着いていない。今も内乱が続き、収まる気配すらなかった。
アベルは剣の師匠でもあった、亡き父の意志を継いだ。今はその剣の腕を買われて、遊撃隊として働いている。
「この戦いがいつまで続くかわからないし、今日どこで誰が死んでもおかしくない。俺だって、もう何人の敵を斬ってきたかわからない」
アベルの中を深い闇が覆い尽くすように、深く沈んだ顔色でうつむいた。
アベルは人を斬りながら、自分も深く傷ついていた。そして数多の十字架を一生背負い続ける。そこから逃れることは、もうできない。
「人々が人間らしい生活できる国を作りたい。親父の遺志も守りたいし、帝国に虐げられてきた人達の幸せも守りたい。子や孫の世代のためになるならばと、そう思って剣を取ったつもりだった」
アベルは、より暗い顔をした。彼は視線を落とす。
「でも、最近それもよくわからなくなっていた。人間同士で、それも同じ国の者同士で殺し合って作る平和が、本当に正しいだろうか。本当に守れるのか、と」
15歳の少年にはとても残酷だった。大人にすら抱えきれないものを、アベルは懸命に背負ってきた。必死で背伸びして、大人のフリをして、今にも潰れそうだ。それなのに、彼はさらに抱え込み、前へ進もうとしている。
「ここへ来た時も、砲撃されて慌てて近くの小屋に飛び込んだんだ。伏せた瞬間に兜が外れて、あたりが真っ暗になった。すると次は地震が起きて、小屋の床と天井に交互に叩きつけられた。天井が開いたから顔を上げると、君がいた」
その地震の元凶はあおいだ。彼女が宝箱を買った日、箱から音が聞こえたために耳元で振った。
「ごめん。その地震、たぶんわたしよ」
「何だって? 地震が? 」
アベルはあおいの肩に座ったまま、怪訝そうな表情で見上げる。
「そう。振ったの。あの箱を」
あおいがその時の状況を説明すると、アベルは驚いた。だが、「君に悪気がないのはわかっているから」と言って笑った。
「ここで骨休めね」
「そうだな。こんなにも穏やかな生活をしたのは生まれて初めてだ。少なくとも、一日中鎧を着なかったことなんて、この数年で一度もなかった」
アベルは穏やで柔らかい、安堵に満ちた顔をしていた。
アベルはよく笑うようになった。顔つきも幾分優しくなり、鋭く据わっていた目も今では優しい光を湛えている。宝箱から出て来た時の鋭さや危うさは、鳴りを潜めつつある。
「でも、罪悪感もあるんだ」
そう言って、アベルは少し表情を曇らせた。彼は寝室になっている深皿を見遣る。皿の中には、彼の鎧一式とサーベルが隅に寄せて置かれていた。仲間や国のことは、そう簡単に忘れられない。
「ここにいる間は、命の洗濯と思って休めばいいのよ。帰れないんだし。ね? 」
あおいはにっこりと微笑んだ。
「そういうものなのか?」
アベルは難しい顔をした。そしてそのまま腕を組み、すっかり黙り込んでしまった。彼は根がまじめだ。じっと一点を見つめて、既にあれこれ思い悩み始めている。
あおいはどう言葉をかけるのが良いか、到底考え付かなかった。けれど、何でもいいからアベルの力になりたいと願っている。実際には何もしてあげられなかったとしても、放っておく事などとてもできなかった。
翌日、あおいは午前で講義が終わった。その上バイトも休みだった。こんな日は珍しい。あおいの足取りは軽く、うきうきしながら昼には家に帰った。
あおいが部屋に入ると、こたつが光っている。あおいは目を凝らした。強い光で見えにくいが、よく見るとこたつの上に置きっ放しにしていた宝箱が光っている事に気が付いた。
「あおい、これ……」
困惑しきった顔のアベルが、宝箱の脇からひょいと顔を出した。そしてテーブル板を走ってあおい方へ移動する。その時彼は、近頃身に付けていなかった鎧一式を着こんでいた。
次の瞬間、アベルは急に普通サイズの人間に変化した。あっという間に小人ではなくなり、バランスを崩したアベルは走りながらこたつから転げ落ちる。彼はフローリングにどさりと落ちたが、それでもアベルは咄嗟に受け身を取った。あおいが落ちていればけがの一つもしそうだが、アベルは無傷だった。
アベルは身体を起こすと、バツが悪そうにして立ち上がった。一連の出来事に、あおいの目は点になっている。ただひたすら驚き、持っていた鞄を床に取り落とした。その音であおいを振り向いたアベルは、互いに目を合わせた。
あおいの心臓は飛び出るのではないかと思うほど胸で大暴れしている。信じられない思いで、ただアベルを見つめた。
だが、あおいは同時に嬉しくもあった。もう会えないと思っていた友人に、ようやく会えような感覚を覚えている。
「アベル、意外と背が低いのね」
「……放っておいてくれ」
あおいはアベルと並んで立ってみた。彼の目の高さはあおいとあまり変わらない。あおいも背の高い方ではないけれど、アベルも男性にしては小さい。骨格も華奢な方だ。筋肉はしっかりしているが、線が細い。
アベルはまたむくれた。腕組みをして目を逸らし、口をへの字に曲げた。
「まだ15歳でしょ」
アベルは視線をちらとあおいに寄越す。不機嫌そのものの顔つきで、隠そうともしていない。
「ほら、これから伸びるかもしれないし」
あおいがニコニコしてなだめると、アベルは少し機嫌を直したらしい。まだ少しブスッとしながらも、またわたしに向き直る。
「ねえ、さっきの。何が起こったの……? 」
「わからない。ただ、今朝からそわそわして、どうも落ち着かった。何かに、呼ばれている気がして」
アベルは目線を鎧に落とした。彼の瞳は鋭く光り、昨日までの穏やかさとは変わって迫力がある。
「それで宝箱が気になって見に行ったら、中から剣戟が聞こえた」
アベルは宝箱から敵が出て来るのかもしれないと思い、慌てて装備を整えた。けれど音はすぐに消えてしまった。自分で宝箱を開けても、結局何も出て来ない。アベルが拍子抜けしていると、今度は宝箱が発光し始めた。そこへあおいが帰宅したのだ。
そこまで話すと、アベルは宝箱を振り返る。彼につられてあおいもそれを見た。宝箱は何事も無かったかのように、ちょこんとこたつの上に乗っている。アベルのサイズ以外はいつも通りだ。
あおいは急に焦りを感じ始めた。理由はわからない。けれどあおいの心は無意識のうちに黒い靄に覆われ、火山灰が降り積もるようにじわじわと不安が広がっていく。
アベルが遠い――そんな感覚が、あおいの頭を過ぎった。不確かな、けれどどこか確信めいたその予感が、急速にあおいを支配してゆく。
深い霧を払いのけるかのように、あおいは言った。
「ねえ、せっかくだから一緒に出掛けようよ。わたし、今日はもう用事ないんだ」
あおいは無理にでも明るい笑顔を作り、アベルを誘った。だが、彼は未だ落ち着かない様子だ。むしろ、あおいの発言に少し驚いて聞き返す。
「出かけるって、どこに」
「うーん、そうねえ。街でぶらぶら買い物して、おいしいものを食べるの。一緒に写真を取ったり……とにかく、楽しそうなことは全部しましょう。たまにこういう日があったって、バチなんかあたらないわよ」
あおいはどうしてもアベルを連れ出したくなった。今日を逃してしまえば、永遠にその機会を失うような気さえしていた。
激しい焦燥感をでき得る限りひた隠しにして、あおいは一方的にどんどん話を進める。
「しかし、今も同士達は戦っているんだ。俺ばかり遊んでいる訳には……」
アベルは困惑するが、あおいは二の句を継がせまいと矢継ぎ早に話しを続ける。
「今すぐ戻る方法はないんでしょ。アベルにも気晴らしになるはずだし。だから、行くわよ」
そう言って、あおいはアベルの上着をグイと引っ張り、玄関に向かって歩き始めた。彼も足をもたつかせながら、少し遅れて付いて来る。
「お、おいっ」
アベルは慌てた様子で声が裏返っていた。けれどあおいは気にしない。されるがままのアベルを引きずるように、グイグイ引っ張った。
「あ、でも」
玄関に出る直前、あおいはアベルの服装を思い出した。彼を掴んだままピタリと足を止める。その勢いであおいの背中にアベルがぶつかって、彼女の後ろで恨み言を呟いている。あおいはくるりと彼を振り返り、彼の出で立ちを確認した。
アベルは兜を被って鎧を着こみ、サーベルがしっかり腰に収まっている。どう見ても、現代の日本の街へ出かけられるような装いではない。
「サーベルも鎧も兜も全部外してね。変に目立っちゃうわ。警察沙汰は嫌よ」
アベルは意外と素直に応じ、鎧を脱ぎ始めた。
アベルの鎧の下は、洋服に着物の衿に紐をを付けたような上着と、スラックスのウエスト部分に袴のような構造を持たせたような格好だ。これはこれで悪目立ちしそうなので、その上からあおいの生成のパーカーを羽織らせた。そして、頬の傷は肌色のテープを張って隠してしまう。アベルが鎧を外している間に、あおいも簡単に身支度をすることにした。
鏡の前に立ち、髪を手櫛で手早く撫でつける。前髪を右に寄せて、ピンク色の小さなリボンが付いたバレッタで留めた。ついでに淡いピンク色のグロスを塗り、服装を確認する。
今日はチャコールグレーのミニワンピースに、えんじ色のタイツを履いていた。黒い小さなカバンを肩から掛けて、黒いショートブーツを履いて出掛けよう。あおいがそう考えたところでアベルの準備も整ったようだ。玄関の壁際にアベルの鎧兜とサーベルが立てかけてあるのが見える。
二人はは街に出た。気になる店を冷やかしながら、ぶらぶら歩く。靴屋と靴下屋、あおいのお気に入りのアパレルショップ、雑貨屋……どちらかと言わなくても、あおいの行きたい店にアベルを連れ回している。けれど、彼もそれなりに楽しんでいた。どこに行っても珍しそうにきょろきょろとあたりを見回して、あれはなんだこれはどうだとあおいに質問する。
アベルは雑貨屋で見つけたムーンストーンが付いた何かの紋章のようなストラップを、いたく気に入った。せっかく出て来たのだからと、あおいはそれを彼にプレゼントした。
アベルは申し訳なさそうにしつつも喜んで、早速腰紐に括りつけている。ストラップを何度も嬉しそうに眺める姿を見ると、あおいも嬉しかった。
その後、クレープ屋の行列に並び、プリントシール機で写真を撮った。アベルはイチゴと生クリームのクレープを、あおいはチョコバナナのクレープ頬張った。
アベルは満面の笑みを浮かべて夢中で食べている。あちらの世界では甘いものを殆ど食べたことがなかったと言い、随分美味しそうに食べていた。
プリントシール機では、写真の技術にとても驚いていた。アベルの世界には写真がない。どんな顔をして撮ったらいいか分からないと言うので、あおいは撮る瞬間に彼の脇をくすぐって笑せた。
そして、何種類か撮った内の写真の一つには、落書き機能を使ってアベルを女装させた。あおいは、アベルが怒るだろうなと思いながらもリボンを描き、化粧を施す。するとアベルは人形のようにとても可愛く仕上がった。アベルはまたむくれたけれど、あおいは気に入っている。
アベルは家を出る時こそ渋っていたものの、出掛けてみると実に楽しそうに、溌剌とよく笑った。こんなに遊んだことはないと言い、ずっとニコニコしている。
ただ、アベルはあおいが会計をする度にバツの悪い顔をして居心地悪そうにしていた。よその世界から来たのだから仕方がないあおいは言っているのだが、彼は奢られ続けることが腑に落ちない。
けれど、あおいにすればアベルが現れてから今までずっと、彼女が養って来たのだ。そんなもの今更だった。そんなアベルを引っ張って、今度はボウリング場に入った。
アベルの世界にもボウリングに似たスポーツがあった。彼は初めてだったが、あおいよりもずっと上手だった。
幾度となくガーターに泣くあおいとは大違いで、アベルはストライクやスペア、さらにターキーまで決めて高得点を叩き出す。
アベルの何度目かのストライクに手を取り合って喜んでいると、2人組の男達が声をかけてきた。
「お姉さんたち。ボウリング上手いねえ。僕らともう1ゲームしない? 」
金髪の赤いシャツを着た男が、さも親しげに話しかけてくる。その男の隣にいる色白の男は鼻ピアスを光らせて、クチャクチャとガムを噛んでいる。こちらを見てはニヤニヤしていて薄気味悪い。ナンパだろうとわたしが困った顔をしていると、アベルが不思議そうにわたしと2人組を見比べている。
「あいつら、あおいの知り合いか? 」
「ううん、知らない。関わりたくないから、返事しないで」
あおいがアベルにこそこそと耳打ちしていると、金髪赤シャツ男が勝手に話に割り込んできた。
「つれないなあ。いいじゃん。ちょっとくらい付き合いなよ」
鼻ピアスの方も値踏みするような目で、あおい達をじろじろ眺めている。二人は卑しい笑いを浮かべる男達に背を向けて、無視を決め込んだ。
淡々とボウリングの玉を転がして、二人組の男たちを相手にしないようにしていた。だが、しつこい。あの手この手で無理やり関わろうとする赤シャツに、あおいはだんだん怖くなってきた。けれど、2人組の男はこの場を離れる気はないらしい。ついに同じベンチに腰を下ろした。
初めはきょとんとしていたアベルだったが、彼もこの状況に苛立ってきたようだ。顔つきがだんだん険しくなり、忌々く不機嫌な顔でベンチに座っている。
あおいがゲームを切り上げて逃げようかと思案し始めた時、あおいの腕を赤シャツが掴んだ。あおいがアベルに目で助けを求めると、アベルは赤シャツを射抜くような目で睨みつけて静かに怒っていた。そこへ、鼻ピアスがさっと移動し、立ち上がろうとしたアベル目の前に立ち塞がる。
「ねえねえ、ポニーテールの君さ。そんなに怖い顔しなくてもいいじゃん。せっかくかわいいんだから」
「俺は男だ。いい加減にしろ」
アベルは鼻ピアスを押しのけて立ち上がり、低く唸るように言った。そして鼻ピアスの胸ぐらを掴んで、今にも切りかかりそうなほどの殺気をぶつけている。鼻ピアスの方がアベルよりも背が高いので、引きずられそうな格好だ。
鼻ピアスは必死の形相でもがいているが、アベルは上手く押さえ込んでいる。鼻ピアスは全く抵抗できない。
赤シャツは唖然として、わたしの腕をそっと放した。更にアベルが赤シャツにもひと睨みすると、彼は一瞬で青ざめてしまった。冷や汗をかきながら足をもつれさせて、鼻ピアスと共に一目散に逃げて行く。
殺気立ったアベルは、手のひらサイズだった時とは比べものにならないくらいの迫力と凄みを纏っていた。あおいですら、そばに居るだけで腰も抜かしそうだった。
アベルそんなあおいの様子に気付くと、「しまった」というような顔をした。
「あおい、ごめん」
「何で謝るの? 」
「いや、驚かせてしまったようだから……」
アベルは肩を落とし、下を向いてしゅんとしている。先ほどまでの殺気は嘘のように消え去って、すっかりしおれて落ち込んでいた。あおいは首をブンブンと横に振る。
「そんなことないわ。助けてくれてありがとう。アベルと一緒で良かったわ」
そう言ってにっこり笑うと、アベルは「そうか」と、ほっとしたように微笑んだ。
ボウリング場を後にし、近くの食堂で食事をした。帰宅する頃にはすっかり暗くなっていて、夜空に丸い月が浮かんでいる。
あおい達はいつの間にか手を繋いでいた。あおいにはアベルの体温が心地よく、ごく自然に馴染んだ。それはアベルも同じで、互いがそのことに気付いてからもずっと手を繋いだまま、二人並んで帰路についた。
玄関に入るなり、アベルはあおいを呼んだ。それは慈しむような、とても優しい声だった。彼は陽だまりのように穏やかな、けれどひどく神妙な顔つきであおいを見ている。まるで運命と取り組むかのような、真剣な表情だった。
「アベル? どうしたの? 」
あおいの返事に、アベルは押し黙っている。すると彼が身に着けている指輪の一つを外し、あおいにぎゅっと握らせた。
それは艶のある金色の細身の指輪で、外側の全面に唐草模様に似た美しい彫刻が施してある。よく見ると、指輪の内側に小さな白い石が一粒はめ込まれていた。
「あの、これ…… 」
あおいが戸惑ってアベルの顔を見ようすると、次の瞬間には彼に抱きしめられていた。あおいはそれを理解するのに数秒かかった。そしてわかった瞬間からは、血が逆流しそうなほどの緊張に襲われる。
「俺には返す物が何もないから……君は、あの根付けの石をむーんすとんと言ったか。イアサントにもよく似た石があって、守り石として身に付けるんだ。その指輪にも同じ石が付いている」
アベルはあおいを抱きしめたまま話し続ける。あおいの耳元にかかる彼の息がこそばゆい。けれど、ひどく心地よかった。
「今日は初めての事ばかりで楽しかった。根付の礼だ。この指輪は君が持っていてくれ」
抱き合ったまま、アベルはあおいの顔を覗き込む。あおいは彼の顔が目の前にあるのが照れくさくて、どこを見ていいのかわからない。おもわず目を泳がせながら、ちらりと彼の顔を伺う。
「ありがとう……ムーンストーン、ね。そんなの気にしなくても、いいのに」
いや、とアベルは軽く首を横に振った。
「今までありがとう。君と出会って、俺が守ろうとしていた物の正体が分かった気がするんだ。幸せがどんなものかもわからずに、ただがむしゃらなだけだったから」
抱き合ったまま、アベルはあおいの頬を自身の手のひらで撫でた。あおいが思わず彼の目を見ると、アベルは幸せそうに笑っていた。けれど、あおいには彼の優しい微笑みが却って苦しかった。あおいはぎゅっと胸を締め付けられるような痛みに襲われる。
「けれど、俺はそろそろ帰らないといけないらしい」
「……なんで分かるの」
「呼ばれているんだ」
静かに、はっきりとアベルは言った。悟ったような、まっすぐな目をしている。
「そんなの、急すぎるわ」
「俺だって嫌だ。でも、俺はこの世界の人間ではない。俺たちはもともと、相容れない者同士なんだ」
あおいいつの間にかは泣いていた。涙が頬を伝って、アベルの肩を濡らしている。彼の赤茶けた髪が揺れて、あおいの頬に張り付いた。
「きっと、これが今生の別れになるだろう。だから、今だけはこのままで居させてくれ」
そう言って、アベルはあおいを抱く力をより一層強めた。
どのくらいそうしていただろう。数秒だったかもしれないし、数分だったかもしれない。暖かくて離れがたくて、大事な時間だった。
やがてどちらからともなくそっと離れると、いつの間にかアベルの体が透け始めていた。
つい先ほどまでアベルが着ていた筈のパーカーは、いつの間にか廊下に置かれていた。そればかりか脱いで立てかけてあったはずのサーベルや甲冑を、アベルは既に身に纏っている。頬のテープも消えてなくなり、傷以外は宝箱から現れた時と同じ姿になっていた。
アベルの周りの空気がきらりと輝いた。更にホタルが飛び交うような光も舞い始め、どんどん幻想的な雰囲気に変わっていく。その間にも彼はどんどん透けていき、あおいにはもう触ることもできなくなっていた。
やがて微かに銃や刃物がぶつかるような音が聞こえ始める。遠くに悲鳴や怒号も聞こえ、それはあまりにも生々しい。あおいはぶるりと震え上がった。
あおいは恐ろしくなってアベルを見ると、彼は「大丈夫」と言ってふわりと笑った。けれどその瞬間、アベルは消えてしまった。音も悲鳴も、もう何も聞こえない。
あおいはしばらくの間、その場から動くことができなかった。長い夢をみていたかのような気持ちで、ぼんやりとアベルに貰った指輪を見つめる。上がり框に腰掛けて、ただじっと眺め続けた。
やっとの思いで部屋に上ると、宝箱がこたつの上にちょこんと乗っている。中を覗いても空っぽで、もう何も出てくる気配はない。
もはや別の物だったのではないかと思うほど、すっかり何の変哲もない小箱に変わったようにすら見えた。
あおいは鞄から2人で撮ったプリントシールを取り出した。並んで笑っていたのがつい数時間前の事なのに、ずっと遠い昔のようだ。「胸にぽっかり穴が空いたみたい」というのはきっとこの事をいうのだろうと、あおいはため息をついた。アベルは今もどこかで戦争している。そう思うとやりきれなかった。
翌日、あおいは宝箱を買ったアンティークショップのことを思い出した。そういえばアベルが現れて以来、ずっと忘れていた事に気づく。あおいは、あの店に行けば何か手がかりが見つかるかもしれないと思い至った。
一縷の望みを懸けて、あおいはバイト帰りに店へ向かった。しかし、アンティークショップだった筈の店はなく、変わりにケーキ屋が建っていた。奥まった路地も見当たらず、ケーキ屋は大通りに面して建っている。
あおいが店主に聞くと「アンティークショップなんて知らないし、そもそもここで10年前からケーキ屋をしている」と言っていた。
完