これは『お手』ではない。
買い物に行くにあたり、まずはさくらに何を着せようかと悩む。
早朝の散歩はまだ肌寒いし近所の神社までなので、Tシャツの上に僕の学校ジャージを羽織らせているが、日中はそうもいかない。
悩んだ末に、ただでさえ着込むことを嫌がるさくらなので、長袖Tシャツの上にポロシャツを重ねる。
「いや、私はもうこういう服とかは結構ですから、暑いですし」
ポロシャツとTシャツを一気に捲りあげ、おへそが見えたところでさくらの手を押さえる。
「頼むから着てくれ」
僕も今まで女子のTシャツ一丁というのがあんなに危険なものだとは知らなかった。
正直、家の中に女物の服がないわけではない。
おそらくさくらにはサイズもちょうど良いだろう。
だけど、僕はまだそれがあるあの部屋に足を踏み入れる気持ちにはなれなかった。
さくらに服の重要性を改めて説明し、耳対策に麦わら帽子をかぶせる。
ここ数日の間に尻尾だけは意識すれば隠せるようになったが、耳は感情に対してものすごく敏感に反応するようで、好奇心の塊のような今のさくらでは隠し続けることは難しい。
門扉を開け、外に出る。時間は十一時を回ったところ。
こんな日中に外に出るなんてンか月振りで、早朝とは違う活動的な空気に――って、
「おい」
「はい! ご主人!」
「立て」
「は?」
「四つん這いになるな。立て」
カエルのように地面に両手をついてこちらを見上げるさくら。
「いえ、さくらはこっちで大丈夫ですのでおかまいなく」
「僕がかまうんだよ」
「そうですかぁ……あっ!」
返事も途中にして、さくらが急に電柱に向かって四つん這いのまま駆け出す。
そして片足をあげる。
「さくらっ!」
ビクッとなったさくらがその体制のままこちらを向く。
僕は周りからの視線をかい潜り、さくらの脇に腕を差しいれて立ち上がらせる。
「やめなさい」
「え?」
「そこでするのはやめなさい」
「じゃあ、どこでしろと」
「トイレでしなさい」
「しかし、これは私にとっては大切なことなんです!」
さくらは豊かな胸に手を当てると、当然の権利だとばかりに力強くそう主張する。
「さくらは人間になりたいんだろ?」
「たいです!」
「じゃあ、やめなさい」
「でも人間だってやります! 昨日の夜、部屋から男の人がここでおしっこ
しているのをさくらは見ました!」
年頃の女の子が公衆の面前でおしっこという単語を吐かれるやるせなさといったらない。
おそらくさくらは近所の酔っぱらったおっさんが用を足しているのでも見たのだろう。
「さくら、とにかくそれをしたらもううちの子じゃないからな」
「うぅ~、厳しいお言葉です」
「あんまりうろちょろすんな」
「でしたら、はいっ」
さくらが手のひらを差し出す。
「何だこの手は」
「何って昨日もやってくれたじゃないですか」
ああ。そう言えば昨日の散歩の時あまりにちょろちょろするわ、かと言ってリードするわけにもいかないわで手を握った。
「ああ、あのな、あれは朝限定だ」
「そうですか……」
さくらが残念そうに眉を寄せる。
朝の人がほとんどいない時間帯ならまだしも、この時間に手をつないで近所を歩くというのは僕にとってはものすごくハードルが高い。
しゅんとした顔をしていたさくらだったが、また、あっ! と声をあげたかと思うと脊髄反射で転がってきたボールを追いかける。
そのまま道路の真ん中へ飛びだそうとするさくらの手を僕は慌てて自分の方へと引っ張った。
わひゅっ、という変な声を吐いて僕の胸にさくらが飛びこむのと、
原付バイクがクラクションを鳴らしてさっきまでさくらがいた場所を走り過ぎるのとは同時だった。
普段の倍速で鳴る自分の心臓の音を六回ほど聞いたところで、
僕のTシャツの胸のところをぎゅっと握りしめているさくらに向かって声を荒げる。
「危ないだろうが、バカ!」
「すみません……」
今度こそ、これ以上ないというぐらいにしょんぼりとするさくら。
その顔を見てしまうとこちらもさすがに切っ先が鈍る。
「ああ、何だ、道路は急に飛びだしたら危ないんだ。犬のときだってそうだっただろ?」
叱られた子供のように唇をあひるにしたさくらがこくりと頷く。
あまりにもヘコみ過ぎたその顔に、保護欲というか愛おしさのようなものがこみあげてくる。
素直にかわいい。何だかんだいってもまだ犬だなと思う。
たまらず頭を撫でてやると気持ちよさそうに目を細める。
しばらくすると、さくらは上目づかいで「いいんですか?」と小さな声で窺いを立ててきた。
……かわいい。い、犬として。
「何がだ?」
わずかに動揺しつつ訊き返すと、さくらが目線で自分の左腕の先を示す。
そこで初めて自分の手がさくらの細い指を握りこむようにして繋いだままな事に気付く。
混ざり合ってどちらのものとも判らない汗が、手のひらをしっとりと湿らせている。
しばらく僕が黙ったままでいると、さくらは何かしらまた叱られると思っているのか、
帽子の下で耳がへたっているのが見えそうほどに、太眉をハの字に曲げて不安そうにこちらを見上げてくる。
さっきとは違う動悸が僕の心臓を襲う。
「きょ、今日は特別に握っててやるよ」
……男のツンデレほどみっともないものはない。
「ありがとうございます。えへへ、何かいいですね、これ」
それでも、そんな言葉に素直に応え、なお且つぎゅっと小さな手のひらに力を入れられようものなら、ぶっちゃけ高二の男子なんてひとたまりもない。
こんなに長く女の子と手を繋いだことなんて幼稚園にまで遡るんじゃないだろうか。
情けないぐらい手のひらの汗腺が全開しているのが自分でもわかる。
それでも嬉しそうに手をぶんぶん振りながら、ときどきさくらが覗きこんでくると、僕の顔は気温とは関係なく火照るのだった。