隠居したい未亡人ですが、王命で年下王子の妻になりました
虹ができていた。
じょうろの先から、水が撒かれる。
丹精込めて育てた薔薇。
水滴に朝の光が弾かれ、温室全体がキラキラと輝いて見えた。
「あら、こちらの薔薇も、もうすぐ咲きそう」
彼女は花に顔を寄せる。
艶やかな黒髪と黒い瞳。どこか眠たげに細められたその瞳には、長いまつげで影ができていた。
紅も引いていないのに、血色の良い唇は、まるで薔薇のよう。
隣で屈んで作業していた庭師の老齢の男も立ち上がる。
「おぉ、奥様。楽しみですね」
「ね、本当に」
二人で小さく笑う。
穏やかな朝。
柔らかい白い光。
甘い薔薇の香り。
こうして未亡人オリヴィア・アッシュクロフト公爵夫人の朝はいつも優雅に始まる。
だが――
今日は違った。
温室の扉がけたたましく開けられる。
「奥様! 大変です!」
駆け込んできたメイドが声を上げた。
オリヴィアは手袋をはめた手の片方をそっと頬に添える。
「あら。何かしら。
クロテッドクリームが足りない?
なら別のものでもいいわ。
朝食にはたっぷりクリームのスコーンが食べたかったのだけど……仕方ないわね」
「そ……それが――」
「ごきげんよう。オリヴィア」
メイドの後ろから顔をのぞかせたその女性は、小さく手をあげた。
ダークブラウンの髪を美しく結い上げた彼女は、誰にも劣らぬ程の品の良いモーニングドレスを纏っている。その唇が弧を描いていた。
メイドが慌てて端に寄り、彼女に道を譲る。
オリヴィアは、ため息をついた。
「ヴィクトリア……まだ朝なのよ」
ヴィクトリアこと――アルディオン王国の第一王女ヴィクトリア・アルディオンは早足でオリヴィアに近づいた。
「オリヴィアこそ朝から薔薇を愛でるなんて……いかにも“隠居生活”してるんじゃないわよ!」
「実際にそうなんだから、別にいいじゃないの」
庭師の男と目を見合わせ「ねぇ」なんて言いながら頷き合う。
ヴィクトリアは彼女まで近づくと、ハッとし、遅れて悲鳴をあげた。
「何を持ってるのよ! あなた!!」
オリヴィアは持っていたトングの先を見る。
「……毛虫ちゃん」
「け……!」
毛虫ちゃんを庭師が持っていた袋にぽいと入れると、オリヴィアは改めてヴィクトリアに向き合った。
「何か用?」
ヴィクトリアは胸に手を当てて呼吸を整えると、後ろにいた侍女から一枚の紙を受け取る。
「結婚しなさい。オリヴィア」
「え……嫌」
「あなた……未亡人とはいえ、歴史あるアッシュクロフト公爵家の血を継ぐ公爵家当主代理人でしょう?
その上まだ二十代半ばよね。
それでいて、まだ跡継ぎがいない。
再婚しないなんて許されるわけないでしょう」
「嫌」
オリヴィアがぷいっと顔を背け、王女は眉を歪めた。
「残念だったわね。王命よ!」
「わたくしは他でもないアッシュクロフト公爵家当主代理ですよ。
今、この国では王命を断ることができる唯一の立場です。
従って――断ります!
絶対嫌!」
ヴィクトリアがオリヴィアに顔を寄せる。
「……王家お抱えの庭師が開発した薔薇の品種の苗……譲ってあげてもいいわよ」
オリヴィアがゴクリと息を呑む。
「白に、ほんの一筋の濃いピンクが入っているの。大きな花よ。香りも豊か。
少し育てるのが難しいけど、きっとあなたなら美しく咲かせられるわ……」
オリヴィアが瞳をギュッと閉じる。
「う……」
ヴィクトリアはオリヴィアの肩に両手を添えると、その耳元に言葉をそっと落とした。
「……まだ足りない? なら、そうねぇ……。
王家お抱えのパティシエが作った特別なジャムをあげるわよ。
好きでしょう?
ジャムとクリームたっぷりのスコーン。
あなたの大好きなマーマレード三種。
完全にすり下ろされた舌触りが滑らかなもの。
あえて皮がゴロゴロ入っているもの。
食感が楽しいわよね。
それから、花の香りを足した、王家だけに許された……伝説のマーマレード」
オリヴィアの白い喉が、またコクリと鳴る。
「……そ、そのマーマレード、苦味は?」
「ちゃんと残してあるわ」
オリヴィアは顔を覆った。
「……私、結婚する」
ヴィクトリアは勝ち誇った顔をすると、彼女を離れ、王の署名入りの書類を押し付けた。
隣にいた庭師がオリヴィアに代わって仕方なく受け取る。
王女は踵を返した。
「じゃ、明日あなたの夫を連れてくるわ!
結婚の手続きは王家の方で終わらせるわね!」
「え!」
オリヴィアは顔を上げると、奔放な王女を目を剥いて見つめた。
「これ、命令書だけじゃない! 相手の方の身上書などは!?」
「無いわ! じゃ、また明日!
――ごきげんよう!」
王女が侍女を伴って温室を去っていく。
「え……歴史ある公爵家の結婚が……そんなでいいの……?」
オリヴィアは呆然とその背を見送った。
なんとも言えずに立ち尽くしている庭師とメイドは、目を見合わせる。
隠居生活を楽しんでいた未亡人オリヴィアの優雅で穏やかな生活は、こうして突然終わりを遂げたのだった。
彼女はため息をついて、持っていた空のトングを握りしめた。
公爵邸の車寄せに、数台の馬車が入ってきた。
それを並んで待つ公爵家の使用人たちはみな、疲れた顔をしている。
前夫が亡くなってから数年が経つが、当主の部屋も寝室もほとんど手を付けていなかった。その部屋をたかだか一日で整え直したのだ。オリヴィアが特別手当を出すと宣言しても、なかなかに無理のある注文である。
相手の情報がないので、とりあえずウォールナット材の調度品と、無難な青いリネンで揃えた。
当のオリヴィアも目の下に薄っすらと隈を浮かべた顔で、馬車を迎えた。
黒塗りの馬車から、王宮の使用人たちが降り、公爵家の執事の指示に従って荷物を運び入れている。
続いて、王女が踊るようにして馬車から降りてきた。
「ごきげんよう、オリヴィア! 隈が個性的だけど、今日も美人ね!」
「……誰のせいだと思ってるのよ」
「見て。彼よ」
オリヴィアが振り返る。
王女は、馬車から降りてきた青年を手で示した。彼はこちらに向かって、丁寧に頭を下げる。
癖のあるダークブラウンの髪と澄んだアクアマリンの瞳。
肌は少し色が濃く、どこか海を思わせる男だった。
「背も高くて、なかなか美男子でしょう?」
ヴィクトリアが自慢げに笑うが、オリヴィアは眉を寄せた。
急いでヴィクトリアの肘を引くと、彼女だけに届くように声を落とす。
「若いじゃない! おじさんだと思ってたわ」
「あなたのような立場のある女性におじさんをあてがうと思う?」
「私、年上が好きなのよ」
「え、それは知らなかったわ」
二人はそっと、青年に目をやる。
彼は柔らかく瞳を細め、会釈した。
「彼、若いっちゃ若いけど二十一歳よ。あなた二十五でしょう?」
「そういう情報は昨日のうちによこしなさいよ」
「それは一理あるわね!」
オリヴィアは咳払いをすると、ヴィクトリアを離れ、彼の前に立った。
ゆったりと、カーテシーをする。
「はじめまして。わたくしは、オリヴィア・アッシュクロフト。
オリヴィアとお呼びくださいませ。公爵家当主代理をしておりました。
でも、今日からあなたが公爵家当主ね。期待しております、旦那様」
――まだ、どこの誰だか知らないけど……。
青年は少しだけ頬を染めると、小さく頭を下げた。
「僕は、セオドア・フェアウェル。フェアウェル伯爵家から参りました。
セオ……と、お呼びください」
落ち着いた、ゆっくりとした話し方。
――フェアウェル伯爵家?
ご当主はご高齢だったはず。
適齢期のご子息がいらしたなんて聞いたことがないけれど……。
彼は、アクアマリンの瞳で彼女を見つめたまま、跪き、手を差し出した。
「突然のことでしたが……。僕を受け入れてくださり、ありがとうございます。
夫人……いえ、オリヴィア」
――所作も、紳士的で美しい。
オリヴィアは瞳を細めると、その手に指先を添えた。
――で、結局、彼は何者?
オリヴィアが微笑むと、セオドアも微笑んだ。
雲のないまっさらな空の下。
セオドアの透き通るような深い色の瞳を、オリヴィアは静かに見つめた。
その夜。いわゆる初夜。
オリヴィアは夜着には着替えず、ドレス姿のまま夫婦の寝室に入った。
執事を始めとした使用人を複数連れて。
大きな夫婦のためのベッドが置かれている。急遽用意したリネン類だが、質は悪くない。
窓際に置かれた肘掛け椅子に座っていたセオドアは、驚いたように立ち上がった。
使用人たちが、壁に並ぶ。
セオドアの座る椅子の前に置かれた小さなテーブル。その上に置かれた燭台の火が、ゆらりと揺れた。
オリヴィアがゆっくりと近づき、彼の向かいの椅子に腰を下ろした。
「セオ、座って」
彼は頷くと、静かに席につく。
「セオ。
我がアッシュクロフト公爵家は、歴史ある家門です。初代は臣籍降下した王族で、“公爵”に叙された者です。それからは幾度も我が家から王妃が生まれました。
そのくらい、このアッシュクロフト公爵の名は、重い」
セオは姿勢を正し、頷いた。
「あなたは何故、この家に?
王女は何も私に教えてはくれなかった」
二人の間に呼吸が落ちる。
彼はちらと、壁に並ぶ使用人たちを見た。
「今はまだ……」
「王女が身元も明かさず送り込む男。そんな人が、ただの伯爵令息なわけがないでしょう?」
「申し訳ありません。今はまだ……お話できないのです」
「そう。分かりました」
オリヴィアは静かに席を立つ。
「それでは……白い結婚を」
「え……」
セオドアも立ち上がった。
「あなたは男性ですから、ここできちんと初夜を終えても、さほど再婚には影響しないかもしれないけれど」
「再婚……? 離縁を考えておいでですか……?」
セオドアの声が、わずかに震えている。
「私だって、得体のしれない子どもを身籠るわけにはいかないのです。
私、オリヴィア・アッシュクロフトも、ただの女ではないのだから。
この公爵家の血を継ぐ女です」
オリヴィアがその眠たげな黒い瞳で、セオドアの青の瞳を見つめた。
彼は奥歯を噛み締める。
「……はい」
オリヴィアはちらと向こうの扉を見た。
セオドアの私室へ連なる扉だ。
「部屋にもベッドを用意してあります。
もう、見ましたよね?
そちらで――」
「僕は……こちらで夜を過ごします。
よろしいですか?」
オリヴィアは少しだけ目を見開く。
「あなたを……僕は待ちます。来ていただかなくてもいい。でも、いつか、あなたの気が向いたら……」
「私は……」
「白い結婚で構いません。
でも、希望を持つくらいは許されるでしょう?」
オリヴィアは返事をすることもなく、踵を返した。
「朝食は、一緒にとっていただけますか?
……オリヴィア」
彼女が振り返る。
「……えぇ」
セオドアはほっと息を吐きだすと、柔らかく笑った。
一瞬、オリヴィアの鼓動が跳ねる。
燭台の火。
二人の離れた影を、壁に大きく映し出していた。
朝食の前にオリヴィアが温室で薔薇の世話をしていると、その扉がそっと開く。
そこから顔をのぞかせた男のダークブラウンの髪が、ふわりと揺れた。
ガラス張りの温室は今日も朝の光で満たされ、穏やかな空気が漂っている。
「いた。オリヴィア」
セオドアが目元を緩めた。
オリヴィアが顔を上げると、彼は早足で彼女のそばに寄る。
「セオ……おはよう。もう、朝食?
ごめんなさいね。迎えに来させてしまったのかしら」
作業する手を止めずに淡々とそう言うと、セオドアは小さく笑った。
「いや。オリヴィアがここにいると聞いて、来てみただけです。朝食はゆっくりでいいですよ。
――ねぇ、僕に手伝えることはありますか?」
「ないわ」
セオドアは声を立てて笑う。
「公爵に土いじりはさせらないわ」
「“公爵夫人”はいいんですか?」
オリヴィアと庭師が目を合わせる。
「私は隠居生活中だからいいの」
「新婚の間違いじゃなくて?」
庭師が「ごもっとも」と言って笑うと、オリヴィアは庭師の男を睨みつけた。
セオドアは二人をよそにふと手を伸ばす。
そして、小さな緑色の芋虫を掴み上げた。
「あ、素手で触らないほうが――」
「こいつは大丈夫です」
「……詳しいの?」
「勘」
オリヴィアは思わず吹き出した。セオドアは庭師の持つ袋にそれを放り投げると、シャツで手を拭う。
「ふふ。雑だわ。昨日はとても丁寧な青年なのかと思ったのに」
「芋虫可愛いですよね。でもまぁ……葉を食べてしまうから、薔薇の敵だ」
「それは言い過ぎよ。……ねぇ、芋虫可愛いって思う?」
「思う」
オリヴィアの眠そうな瞳がぱっと輝いた。それをセオドアは静かに見つめる。
「……みんな嫌がるのに。あなたとは気が合いそうだわ」
「そう?
……今夜は寝室に来たくなりましたか?」
「行かない」
二人で笑った。
オリヴィアはにっこりと笑んでセオドアを見た。年相応の若々しい顔で。
「スコーンは好き?」
「好き」
「何を合わせて食べるのが好き?」
セオドアは視線を温室の壁に逃がすと、少しだけ不敵に笑う。
「僕は、あなたの好感度をあげられる答えをもう知ってますよ」
オリヴィアがきょとんと彼を見つめた。
「マーマレードとクロテッドクリームでしょう?
特別なマーマレードは、僕と一緒に馬車に乗ってここへやってきた」
「そうだわ……。大切なことを忘れてた」
オリヴィアは道具を庭師に押し付けるようにして渡すと、さっさと歩き出す。
「……オリヴィア?」
彼女が振り返ると、その黒髪に朝の光が静かに滑った。
「何してるの? 朝食よ。“伝説のマーマレード”を食べるの!」
セオドアは庭師と目を合わせると、声を合わせて笑う。そして彼女に駆け寄り、並んで歩き出した。
「僕よりマーマレードかぁ……」
「得体のしれない男よりも王家のマーマレードが勝つに決まってるじゃないの」
「それは確かに」
セオドアが手を差し出す。
オリヴィアはその手を見てから、彼の瞳を見上げた。
「邸宅まで、エスコートをしても?」
オリヴィアはふっと笑う。
「いいわ。許します」
彼の手のひらに、指先を添えた。
「あなた変な子ね」
「よく言われる」
「やっぱりね」
セオドアが笑うと、オリヴィアもたまらず笑い出した。
葉擦れの音。
公爵邸の木立の葉が、風に穏やかに揺らされている。
公爵邸執務室。
並んだ縦長の窓から差し込む光は、淡く、白かった。ソファや執務机の足元に鈍い影を作り出している。
壁際に並ぶ暖炉の上のマントルピースには、歴代の公爵家当主たちが受け取った金杯がきちんと並べられていた。
毛足の長い絨毯の上に置かれているのは、使い込まれた黒壇の机。隅に公爵家の家紋が彫られたそれは、古くともよく磨かれている。
そこにセオドアは帳簿をいくつも並べていた。背もたれの高い公爵のための椅子に腰掛け、顎に手を添えた。
「へぇ……。
五年前の干ばつは、公爵領はほとんど問題なく乗り越えたんですね。
フェアウェル伯の領地では、対応に追われたものですが……」
セオドアの隣に椅子を置き、そこで彼の実務能力を測っていたオリヴィアは小さく首を傾げる。
セオドアは干ばつ前年の帳簿を開き、数字を視線で追っていた。
「相当な規模の備蓄をしている。他領にも提供できるほどの量だ。すごい……。
それから、農地開発や作物研究にもかなり資金を投入していますね……。
伯爵家ではここまで大々的にお金はつぎ込めないな」
オリヴィアはほとんど口を挟まずに彼の横顔を見つめた。彼女が答えずとも、彼自身で勝手に答えを見つけるからだ。
「余った備蓄はどうしてるんだろう……。あぁ、なるほど……それで……」
「セオは……仕事が好きそうね」
セオドアは顔を上げる。
「え?」
「そんなに帳簿を楽しそうに読む人、初めて見た」
執事が二人の前におかわりの紅茶を静かに注いだ。
「楽しそうでした?」
「えぇ。私は公爵領をあなたに押し付けて、薔薇の世話ができると確信を得たわ」
セオドアは眉を下げ、小さく声を上げて笑った。
「それはそれは……」
彼はカップを持ち上げ、口に当てる。
セオドアの視線が琥珀の水面にふと落ちた。
「オリヴィアはマーマレードが大好きですけど、紅茶に入れたりはしないんですか?」
「……紅茶に?」
「どこかの国では紅茶にジャムを入れると聞きましたよ。マーマレードでも合うんじゃないかな。
それに、マーマレードならそのままお湯割りにして飲んでも良さそうですよね。
でも、いつもオリヴィアが飲んでいるのはミルクティーかストレートティーだから……あまりそういう飲み方はしないのかなって」
オリヴィアはカップを持ったまま固まる。
そして、壁に控えていた執事を見た。二人は頷き合うと、執事は隣にいたメイドに素早く指示を出した。
「セオ……あなた、天才ね!」
「……え?」
帳簿を持ち上げていたセオドアの手をオリヴィアは掴み取り、両手で包むようにして持った。
「素晴らしいアイデアだわ!」
「いや……考えたのは僕じゃなくて」
セオドアはオリヴィアの瞳を見つめ、遅れてふわりと笑う。
「まぁ……でも、あなたに褒められるのは悪くない」
「本当?
たくさん褒めてあげるわ。数字も正確に読み取れているし、所作も完ぺき。マーマレードへの私の愛を否定しないところもいいわね。
見た目だけじゃなくて、中身も伴って、あなたは素敵な紳士だわ」
セオドアの頬がじわじわ染まっていく。
「ぼ……僕の見目はあなたの好みですか?
中身も――」
「あなた、誰から見ても美男子でしょう?」
「そんなことは――」
執務室の扉が開き、先ほどのメイドがポットと瓶入りのマーマレードをワゴンに乗せて入ってきた。
オリヴィアは目を輝かせて立ち上がる。
「来たわ!」
「あっ……」
セオドアは離れていったオリヴィアの手を目で追った。
そして、そっと息を吐きだす。
「やっぱりマーマレードには勝てないなぁ……」
「何か言った?」
「いえ?」
オリヴィアは紅茶にマーマレードを入れてもらうと、あどけないほどの笑みを浮かべてそれを口元に運んだ。
セオドアはそれを静かに見つめる。
「美味しいですか?」
「えぇ! とっても!」
「そう。良かったです」
セオドアはまた帳簿を開く。
メイドが壁に下がる衣擦れの音。
部屋を満たす光は、とても穏やかだった。
夜。
オリヴィアは、私室の書き物机に向かっていた。ペンを置き、そっと息を吐く。
――セオドアと過ごしてみて分かったことがある。
彼は、不自然なほどに高水準の教育を受けた男だった。
それから、公爵家の金と権力を使って調査をしても、フェアウェル伯爵家に養子となる前の彼について調べることはできなかった。
読んでいた報告書を、そっと裏返す。
「ヴィクトリアめ……」
肘をつき、頬を預けた。
瞳を伏せる。
瞼の奥に浮かぶのは、彼の姿。
確かに、魅力のある男だ。
妙に人目を引く見目と高い教養。
それでいて、虫に素手で触ったり、歯を出して大きく笑うようなところもある。
紳士的な大人の振る舞いをするかと思えば、少年のようだったりと、どうもあべこべな男と言えた。
――だから、つい見てしまう。
「セオ……。あなたは誰なの?」
ふっと息を吐くと、オリヴィアは報告書を引き出しにしまった。
その時――
物音。
オリヴィアは息を止めて耳を澄ませる。
(隣の部屋? ということは寝室。セオのところね)
重なる足音。
――まさか……侵入者?
彼女は立ち上がり、寝室へ続く扉に耳を当てた。
高い金属音。
何度も、それは打ち鳴らされる。
――剣戟?
オリヴィアは急いでベッドのそばに寄ると、隠しておいたダークナイフを手に取った。
呼吸を一つ。
そして、祈るように柄を額に当てる。
鞘をベッドの上に放り投げ、彼女は駆け出した。
寝室へと続く扉。
それを勢い良く開ける。
燭台の火が、揺れた。
壁際で、セオドアと刃を交える黒衣の男。
夜着姿のままのセオドアは、そのアクアマリンの瞳を見開いた。
「オリヴィア! 来ちゃいけない!」
セオドアが持つ刃物は、刃が反り返った独特な形のものだった。
彼は、男のナイフを弾き返す。
橙の光の筋が一本走る。
オリヴィアが見れば、床に落ちているのは、壊された呼び鈴の紐。
風に揺れるカーテン。
その向こうの窓ガラスは綺麗に割られている。
黒衣の男の視線が、オリヴィアに滑った。
男が踏み込み、一歩で彼女に距離を詰める。
「待て!」
セオドアがそれを追う。
男の服を掴み、刃を振りかざした。
男はそれを振り払う。
身を返し、セオドアに一瞬だけ身体を向けたその時――
オリヴィアは男の背に、ダークダガーを突き上げるようにして刺した。
「侵入者!! 応援を!!」
オリヴィアが声を張る。
男はうめき声を上げながらも彼女から急いで離れる。
しかしセオドアに髪を捕まれ、引き倒された。
部屋の外から、騎士たちが駆けつけてくる足音。
セオドアは男の背に跨り、ナイフを振り上げる。
「セオ! 殺してはだめ!」
だが、セオドアのナイフが振り下ろされるより早く、男は血を吐き出し、痙攣し始めた。
セオドアはそれを男に跨ったまま、静かに見下ろした。
「……自害を選んだようだ」
動かなくなった男から視線を外さないまま立ち上がり、ナイフの汚れを夜着の裾で拭う。
火が、揺れた。
部屋の扉が開け放たれる。
「奥様!」
公爵家の騎士たちが部屋に雪崩込んで来た。
オリヴィアはその一人に血に汚れたままのナイフを渡す。
「セオを狙ってきた。
その男、所属を調べられたら調べて。
それから、窓の修復を」
騎士たちの金属鎧の擦れる音が、部屋に響く。
「セオ。あなたの部屋へ」
セオドアがゆっくりと顔を上げ、オリヴィアを見た。
弱い灯火。
ろくに互いの表情は見えなかった。
「はい……」
寝室は騎士たちに任せ、二人は隣のセオドアの部屋へと入っていった。
「何故、声を上げなかったの。私がすぐ隣にいたのに」
セオドアは部屋の壁に据えられた燭台に火を灯して回ると、彼女から距離を取り、壁に背を預けて立った。
「……あなたが、隣にいたからこそです」
「ヴィクトリアから聞かなかった? 私は剣術ができると」
アクアマリンの瞳に、橙の火がゆらりと差し込む。オリヴィアはゆっくりと彼に近づいた。
「セオのナイフを見せて」
「嫌です」
セオドアは腕を組み、顔をそらせる。
「あなたは何者なの? あの侵入者は暗殺者よね? なぜあなたを?」
オリヴィアは彼の眼前に立ち、背の高い彼を見上げた。
セオドアの胸ぐらを掴む。
「話しなさい。
私はあなたが暗殺者に狙われていることを知ってしまった。
これ以上だんまりが許されると思って?」
セオドアの視線が、ゆっくりとオリヴィアの黒い瞳へ向く。
彼は組んでいた腕を解くと、オリヴィアの両肩に手を添えた。
そして、顔を寄せる。
「僕に、身体を預ける勇気はありますか?
この……得体の知れない男に」
視線が絡む。
「あなたが僕に身体を開かずにいる間は、僕は所詮“公爵家の居候”にすぎない。
ただの客人です。
秘密を話す義務はないと、僕は思います」
「あなたはもう……」
「オリヴィアは署名していないでしょう?
王家が勝手にした結婚の手続き。
でも、あなたは署名していない。
アッシュクロフト公爵家当主代理人であるあなたなら、いくらでもこの結婚は覆せる。
忘れたふりして――わざとでしょう?」
セオドアは彼女の肩を離すと、またオリヴィアから距離を取った。
「あなただって、ずるいではないですか」
「だって私は公爵家を守らなければならないもの……」
「……オリヴィアはまだこの部屋にいますか?
僕を尋問しますか?
それとも――僕に押し倒されるのを待ってる?」
オリヴィアはただ、彼の瞳を見つめた。
「そんな人だったの……?」
彼は近くのソファに身を預けると、ふっと笑った。
そして、不敵に笑う。
「純朴な……かわいい青年だとでも思ってました?」
「セオ……」
「僕はこれでも男ですよ。
力と女を欲する……そういうつまらない男なんです」
遠くで、騎士たちが歩き回る足音がする。
オリヴィアは小さく息を吐くと、視線を下げた。
「明日、ヴィクトリアを呼ぶわ。きちんと話してもらう」
「……そうですか」
踵を返し、廊下へ出るための扉へ近づく。
木の扉に、そっと手を触れた。
「セオ……もう少し私を頼っても……いいのに」
「あなたは僕のことを何も知らないのに?」
「教えてくれないのは、あなたじゃない」
セオドアの言葉を待たずに、オリヴィアは部屋を出た。
爪を噛む。
――あの女狐。
とんだ厄介者を押し付けてくれたわね……。
急いで自分の部屋へ。扉を閉め、その扉に背を預ける。
どうしてか、胸がひどく締め付けられた。
“あなたは僕のことを何も知らないのに?”
「そうよ。
私、セオのこと、何も知らない……」
――公爵家の人間として無力を感じる。
「違う」
――単純に、彼のことを知りたいと思ってしまっている。
オリヴィアはその場にしゃがみ込み、自分の膝に顔を埋めた。
「……隠居生活……もう無理かな……」
風に揺らされ、窓枠が小さくカタリ――と、鳴った。
「あ、ごめんなさい。
私ちょっと急用を思い出して――」
「ヴィクトリア」
アッシュクロフト公爵邸。
王女ヴィクトリアは馬車から降りてオリヴィアの顔を見るなり踵を返しかけたが、あえなく失敗する。冷気を発している公爵夫人に肩を抱かれるようにして、邸宅の中へと連れて行かれたのだった。
執務室へと押し込められたヴィクトリアは、ソファセットのソファの一つに身を預けて悠々と紅茶を飲んでいるセオドアを見つけると、慌てて駆け寄った。
「セオドア! なぜオリヴィアが怒っているのか教えて!」
一人掛けソファに座り、二人を見据えているオリヴィアの姿をチラと見ると、セオドアはカップをテーブルに置く。
「昨日暗殺者がきて――」
「暗殺者!?」
「僕が処理する前に見つかってしまった」
ヴィクトリアの顔から血の気が引いた。彼女はセオドアの隣に座ると、彼の頬や肩に触れる。
「怪我は!?」
「擦り傷」
「一人で応戦したの?
オリヴィアや公爵邸の騎士を頼れとあれ程――」
「何も教えていないのに、頼れると思う?」
二人は視線を合わせた。
ヴィクトリアは諦めたように息を吐くと、正面を向く。
「……ずいぶんと、お二人は仲がよろしいのね」
冷えた、低い声。
ヴィクトリアの肩が震えた。
オリヴィアは公爵夫人らしい、感情の読めない微笑みを浮かべながら、ヴィクトリアを見つめる。
「お話しください。王女殿下」
「……はい」
ヴィクトリアはセオドアを横目で確かめるように見てから、オリヴィアの方へ身体を向けた。
「セオドアは、弟なの」
オリヴィアの眉がぴくりと動く。
「腹違いの弟よ。非嫡出子。
――でも、オリヴィア、あなたなら分かるでしょ?
この子には玉座に座れるだけの器がある」
「……ヴィクトリアは彼を王位に据えようと?」
王女は頷いた。
「なぜそれを初めから説明しなかったのです」
「言ったら断ったでしょ!?」
「当たり前でしょう!」
ヴィクトリアは一度咳払いをすると、姿勢を正し、視線を下げて話を続ける。
「兄上を、私は追い落としたい。彼は王の器じゃないもの。父上は私たち側の人間よ。宰相もね。でも、王太子派の貴族たちを、私はまだ抑え込めていないの。
――まだ、足りない。
でも……そんな時に、兄上はセオドアの存在に気づいてしまった。
フェアウェル伯爵にセオドアを預けていたけど、伯爵では王太子から彼を守れない。
――かくなる上は」
「かくなる上は……?」
オリヴィアが、息を呑む。
「オリヴィアに任せちゃえば万事解決かなって!」
ヴィクトリアがウィンクをした。
オリヴィアは目を剥き、立ち上がる。
セオドアは静かにカップに口をつけていた。
「ふざけんじゃないわよ!
だったらなおさら説明しなさいよ!!」
「だってもう本当に後がなくて……!
父上も宰相も“アッシュクロフト公爵夫人ならなんとかしてくれるんじゃない?”って……」
「どいつもこいつも……!!」
ヴィクトリアが静かに立ち上がる。
途端に、部屋の空気が冷える。
「でもあなた……」
二人の視線が交わる。
「自分から“結婚する”って言ったのよ」
オリヴィアの眉がゆがむ。
「そして……受け取ったじゃない」
王女が、目を細める。
「……美味しかった?
“伝説のマーマレード”は……」
オリヴィアは両手で顔を覆った。
そして、その場にしゃがみ込む。
「……美味しかった!!」
「そう。また木箱にたくさん詰めて贈るわね」
ヴィクトリアはにこやかに笑むと、スキップしそうな勢いで執務室の扉へ向かう。
「じゃ、後は二人でよく話し合ってね。
ごきげんよう!」
扉が閉まる。
セオドアはそっと息を吐くとカップをテーブルに置き、オリヴィアの隣にしゃがみ込んだ。
「あの……オリヴィア……」
オリヴィアが顔をあげる。
セオドアの瞳とまっすぐに視線を合わせた。
「またマーマレードくれるって!
嬉しいわね」
セオドアはぽかんと口を開けた。
遅れて、声を立てて笑い出す。
「王の非嫡出子より、マーマレードかぁ……」
「美味しいもの」
「……あなたは強いのに、可愛い人だ」
オリヴィアは驚いて、そのアクアマリンの瞳を見つめる。
「僕は“伝説のマーマレード”より、“あなたと食べるマーマレード”がいいです」
彼は手を差し出した。
「お茶にしませんか?
スコーンとクロテッドクリームと……マーマレードで」
オリヴィアは少し戸惑う。
しかし、やがて彼の手に指先を添えた。
指をしっかりと握られる。
大きな手。
彼に強く引かれて、立ち上がった。
葉擦れの音。
鳥のさえずり。
公爵邸庭園に置かれたティーテーブルの上には、紅茶とスコーン。もちろんマーマレードも添えられている。
セオドアは、スコーンを嬉しそうに食べているオリヴィアを見つめた。そっと、自分の分の皿を彼女の方へと押しやる。
「……いいの?」
「賄賂ですよ」
セオドアがふっと笑うと、オリヴィアは片眉を上げた。彼はソーサーにカップを戻し、視線をわずかに下げる。
「僕の母は島の女でした」
「島? もしかして――」
「そうミストラル島です。このアルディオン王国を囲うようにある諸島ですね。
――陛下が、島に訪れた時にお手つきになった」
オリヴィアの眉が寄った。
それを見てセオドアは苦く笑う。
「ふふ。そんな顔をしないで。
母はきちんとした愛妾にもなってはいないけど、陛下はさほど不誠実でもなかった。
国王陛下は、ミストラル島の自治を認め、緩やかな協定関係を結んだんです」
「協定については知っているわ。
……あなたの母の存在が理由だったの?」
「さぁね。
もともとミストラル島とアルディオン王国はさほど仲良くはしていなかった……。
協定を結びに交渉にきたら母に出会ったのか、母に出会ったから協定を真面目に結んだのか。
陛下しか分からないんじゃないですか?」
オリヴィアがフォークを置くと、セオドアがかわりに手を伸ばしてそれを取った。
彼女の皿に添えられたフルーツを刺し、オリヴィアの口元に運ぶ。
「ほら」
オリヴィアが眉を下げると、セオドアは小さく笑った。
「僕は、昔話をしているだけ。食べてください」
「でも……」
セオドアは少しだけ不敵に笑うと、フルーツを自分で食べる。そして、オリヴィアの方に寄せていたスコーンの乗った皿に手を触れた。
オリヴィアは慌ててその手を掴んだ。
「これはもう私のもの」
セオドアは吹き出し、声を立てて笑った。
「食い意地が張りすぎているよ。僕の奥様は。あははは!」
「いいから早く続きを話して」
オリヴィアはスコーンの皿をセオドアから取り返すと、自分のそばに置く。
セオドアはひとしきり笑うと、紅茶を一口飲んだ。
「ミストラルの人間にとっても、悪くない協定だった。
何よりこれまでアルディオン王国はミストラル島をずっと侵略しようとしていたわけだから、自治を認めてくれたのは大きい。
ミストラルも、アルディオン王国の船に対して海賊行為をすることはやめた」
オリヴィアは大きく頷く。
アルディオン王国が海路を使って貿易をしようとすると、必ずミストラルの支配下にある海を通らねばならなかった。
ミストラルの海賊は、アルディオン王国にとっては長年の悩みの種だと言える。
「でも、そうやって仲良くやっていけると思った矢先――
王太子が軍を放った。
島に火を放ち、僕らの船も、人も、島の森も、何もかもを焼いたんです」
「それは……感染力の強い病が見つかったからと……」
「そんなのでたらめですよ」
「……でたらめ?」
「王太子は僕たちが気に入らなかった。
それだけ。
――あんなの……ただの虐殺だ」
「王家はそれを隠してきたのね。私もあの頃はまだ子どもだった……。
だから、知らなかったわ」
オリヴィアは細く息を吐きだすと、セオドアの瞳をまっすぐに見つめた。
「腑に落ちたわ。
ヴィクトリアが兄である王太子を嫌っているのは知っていたけど……。
あのおおらかな彼女にしては意外だったのよ」
「ミストラルの人間は、僕の血筋をみんな知ってた。
だから、命がけで僕を逃がしてくれたんです……」
彼は立ち上がってオリヴィアの脇に立ち、それから片膝をついた。
「僕はあの男が憎い。
そして、僕にその力があるのなら、僕はあいつから玉座を奪いたい。この国の頂点に立ち、ミストラルとアルディオンの和平を、やり直したいんだ。
ただ仲良くするわけじゃない。両国が手を組むのは、軍事的にも経済的にも価値がある。
僕はそれをやり遂げたい」
セオドアのアクアマリンの瞳。
海の支配者の民であった、その証。
「僕はそのために、あなたとの結婚を利用した。
僕を支えてくれないか。
――アッシュクロフト公爵夫人」
オリヴィアは瞳を伏せる。
そして、静かに席を立つと彼の前に膝をついた。
口角を持ち上げる。
いつも眠たそうなその黒い瞳には、光が宿っていた。
「アルディオン王国の民の一人として、謝罪します。
それから――
あなたが生き延びてくれたことには、感謝を」
オリヴィアはセオドアの肩に手を添えると、彼を立たせた。
「いいでしょう。
あなたのために、私はまた“公爵夫人”として立ってあげる」
「公爵夫人では終わらない。
あなたは王太子妃となり、王妃となるんだ」
「いいわ」
セオドアは瞳を柔らかく細めた。
だが、ふっと眉を上げる。
「……そうしたら“伝説のマーマレード”を毎日食べられるから?」
オリヴィアはハッとして目を見開いた。
「それもそうね!
セオ、早く王太子になりなさい!」
セオドアは思わず笑った。
「やっぱりオリヴィアは玉座よりマーマレードなのかなぁ」
夜。
窓際に置かれた肘掛け椅子に座り、本を読んでいたセオドアは顔を上げた。
「え、本当に来たんですか?」
「何よ、その言い方」
彼は笑いながら本を閉じると、それをテーブルに置いた。テーブルに置かれた燭台の火が、ふっと揺れる。
オリヴィアは彼の向かいの席に座ると、手に持っていたワインボトルとグラスを並べた。
セオドアが、それを注ぐ。
「ねぇ……。
前の旦那様について、聞いてもいいですか?」
「いいわよ」
グラスを軽く当て合った。
「私が十八の時に、同盟国の第二王子がアッシュクロフト公爵家に婿入りした。
結婚式の日に初めて顔を合わせた。
そのまま初夜を迎えて、三日後、彼は国に帰ったわ」
セオドアの眉が寄る。
「彼の国の王太子が暗殺されたのよ。
我が家の騎士と、アルディオン王家が出してくれた護衛を引き連れて大慌てで国へ帰った。
だけど、国に入ってしばらくして、彼も暗殺された。
もう向こうの国土にいたからアルディオン王国が責めを受けることは無かったわ。
むしろ、謝罪されたくらいよ」
オリヴィアがグラスを煽った。
「じゃあ……三日だけ?」
「そう。三日だけ。
処女は捧げたけど、あまり顔も覚えていないのよね」
「……そうですか」
セオドアもワインを飲み干すと、静かにグラスを置いた。
「僕は……長生きします」
アクアマリンと黒の瞳が交わる。
「あなたと、マーマレードを食べたいから。
明日も、明後日も……。そのもっと先の日まで。
それから、薔薇についた虫もとってあげる」
「この先……薔薇を手ずから育てる時間的な余裕はあるのかしら」
「さぁ。やってみないとわからないかな」
セオドアがゆっくりと席を立つ。
一歩だけベッドに向かって歩くと、彼は振り返った。
「……オリヴィアはまだこの部屋にいますか?
僕の昔話をもっと聞く?
それとも――僕に押し倒されるのを待ってる?」
オリヴィアはふっと笑う。
彼女も席を立ち、セオドアの前に回り込んだ。
彼の首に、腕を回す。
「……待ってる」
「よろこんで」
彼は彼女の腰に手を添えた。
「一つ、願いが叶いそうだ」
「玉座? 協定?」
セオドアは首を振る。
そして、オリヴィアの黒い瞳を見つめた。
「あなたが欲しかった。ただ一人の男として」
二人で、笑う。
その後――
ヴィクトリア王女と公爵家の後ろ盾を得たセオドア・アッシュクロフトは、王太子からその席を奪い、やがてアルディオン王国の国王となった。
悲願を果たし、ミストラル島との協定を再締結。彼の政策はアルディオン王国の経済的な発展を促した。
また、彼を献身的に支えたオリヴィア王妃。
彼女は時に男たちを押しのけて前に立った。その様はまさに“女傑”と呼ばれ、歴史に名を残すこととなる。
オリヴィアが憧れた隠居生活は、残念ながらかなり先までお預けになった。
けれど、仲の良い夫と薔薇を愛で、伝説のマーマレードを食べる毎日は、彼女が思い描いていた隠居生活と、それほど変わらない幸せだったのかもしれない。




