スライムまみれの夜に乾杯を
市場の奥、裏通りの突き当たりにある井戸のそば。
夕日が建物の隙間から差し込み始める時間に、リシェルは革手袋をはめてしゃがみこんでいた。
桶の底には、ぷるん、と半透明の物体──スライム。冒険者の依頼書では駆除対象とされているが、リシェルにとっては貴重な素材だ。
「よく育ってるねえ。いい油が採れそう」
柄杓でスライムの表面をすくうと、うっすらと光る液が滴り落ちた。魔導具の潤滑用に、また、金属を磨けば光沢を蘇らせることもできる、万能オイル。
ちょうどその時。
「リシェル! それ、まだ生きてるよ!」
屋根の上から、澄んだ声が降ってきた。
銀灰の髪を風になびかせ、細身の少年が屋根からひらりと飛び降りる。軽やかな着地の瞬間、桶の中でスライムがびくんと震えた。
「ティーカ、静かにして。怖がらせると泡が出る」
「あわ?」
「そう、命の泡。出したら消えちゃう。この子は大事な商売道具なんだから」
リシェルがスライムの表面を撫でると、ぷにぷにと音を立て、液体が透明から琥珀色に変わった。採取の合図だ。
「ん、いい感じ」
「さっきと色が違う」
「体温で変質して粘性が増すの。だから、人の手で触るのがいちばんいい」
「へええ」
「こうやってすくって……」
ティーカは不思議そうに手を伸ばし、その指先に黄金色のしずくを一滴受け取った。まるで朝露のように輝く。
「リシェル。これ、どうするの?」
「瓶に詰めて、ギルドに納品。残りは自分で使う用だね」
「飲まないの?」
「飲まないよ!」
「だって、美味しそうな匂いがする」
「それは竜の感覚だからね?!」
興奮したティーカの翡翠の瞳が金色に輝く。首元にはうっすらと鱗が見えた。
少年の正体は、竜だ。訳あってリシェルに懐いている。他の魔物と比べれば珍しいが、神話の中の生き物というわけでもない。静かな森に群れで暮らすのが常にもかかわらず、この子竜は、人に化けてはしょっちゅう街へと遊びに来ているのだった。
「こんなに小さいと、すぐなくなっちゃいそう」
「うん。無駄にしないようにしなきゃ」
ティーカもしゃがみ込み、バケツの中を覗いた。スライムはのんびりぷるぷると震え、陽光を反射している。
瓶に最後の一滴を落とし終えたリシェルは、腰を伸ばしてふっと笑う。
「よし、今日は終わり」
「これだけ?」
「これくらいが丁度いい。欲張ると、あっという間に台無しになる」
小首をかしげるティーカに、「それに」と続ける。
「こいつを捕まえるの、すっごく大変だったんだから!」
「そうなの? スライム一匹じゃん」
空の支配者に悪気はない。リシェルは遠い目をした。
「いや、ちょっとした事故がね……」
昼間の出来事を思い返す。
今朝は早くから、冒険者ギルドの新人に混ざってスライム退治の応援に駆り出されていたのだ。
といっても、スライムは人間からしてもほぼ無害な魔物。軽い仕事――のはずが。
誰がぶっ放したか、スライムの集団に向かって爆発魔法。おおかた、覚えたての魔法を使いたくてしょうがない新人がいたのだろう。当然、そこらじゅうに泥や破片が飛び散る大惨事となった。
おかげさまで、居合わせた者たちは全身ぬるぬる。リシェルは辛うじて生き残った個体を一匹だけ受け取り、さっさと帰宅して即、まず体をきれいにした。
つい先ほど、ようやく泥まみれの装備や服もすべて洗い終えたところだ。正直、もう何もしたくない。
「……そういえばティーカ、翼の調子はどう?」
「ばっちり! 今日も飛んできた」
言うなり彼は、ぐっと身を縮めるような動きをした。途端に風に包まれた小柄な体が、美しい薄青の竜へと変化する。まだ馬くらいの体躯だが、そのうちあっという間に、リシェルなど見下ろす大きさに成長するだろう。
広げてみせた翼膜の片側には、銀色の糸で縫い合わせた形跡がある。それに、小さな金属の留め具も。
「ん、今のところは問題なさそうだね。痛くなったりしたらすぐに言って」
「はぁい」
「じゃ、また来るね」と器用に尾を振って、ティーカは空へと羽ばたいた。彼の住処は近くの洞窟だ。ゴツゴツとした暗がりの良さは、きっと竜にしかわからないに違いない。
◆◆◆
その晩。手早く夕飯を食べ終えたリシェルは、食器を片付け、机を拭いた。
食卓は、作業場から仕切りを隔てたすぐ横にある。錆やオイル臭のなかで食事をとるのも、すっかり慣れてしまった。この古くて小さな建物が工房であり、リシェルが生活する家だ。
机上へと代わりに置くのは、小さなグラスと蜂蜜酒。養蜂家の老婆が作る手製酒で、瓶の封に季節の押し花が貼ってあるのが可愛らしい。
「さて。ここからが本番」
食べるのは体のため、飲むのは心のため。リシェルにとっての晩酌は、今日を終えるための小さな儀式だ。
「おっとと、忘れちゃいけないー」
呟き、食糧をストックしている戸棚へ。
木の床はところどころが磨耗し、黒光りしている。踏みしめるたびにきいきいと鳴いては、かすかに油の匂いが立ちのぼった。
いそいそと取り出したのは干し肉。近くの露店で買える保存食で、「三日は保つが、二日で食べ切ってしまう」と冒険者たちに評判の、定番保存食だ。
魔導ランプの灯りを少し落とし、革の加工に使うライターも持ってくる。慣れた手つきで着火して、干し肉を慎重に炙れば、すぐに香ばしい脂の香りがたってきた。
ひらひらと軽く振って冷まし、むしるようにかじりつく。途端に、濃縮された肉のうまみがじわりと舌に広がって、少し遅れて香辛料の香りが鼻に抜ける。
そこに、冷えた蜂蜜酒を一口。そのまま食べるにはからい塩気も、飲み物と合わせるとちょうどいい。甘じょっぱくてついつい進む、お気に入りの組み合わせだ。
(今日も、よく働いた)
椅子にもたれて杯を傾けながら、奥の作業場をぼんやりと眺める。
壁一面に並んだ工具が、灯に照らされ鈍く金属光を返す。作業台の上には、先週の依頼で使った部品の残骸。片付けなければと頭でわかっていても、必要に迫られるまでは億劫だ。机上にまだ、余白はあるし。
奥の魔導炉は火を落とされ、青白い余熱が呼吸のように明滅している。そういえば、蓋のネジが弛んでいたことを思い出す。魔導石の加工依頼が入るまえに、留め直さなければ。
あちこちにガタがきている古い工房だが、直せばまだ使える。修繕士の工房としてはおあつらえ向きかな、と自嘲混じりの感想がよぎったところで。
「……あっ」
苦い匂いが鼻をかすめた。物思いに耽っていたら、肉を焦がしてしまったらしい。まあ、さすがに炭を食べる趣味はないが、これはこれで味わい深いかも?
(ほら、完璧は不自然って言うし。――だよね? 師匠)
壁の、最も目立つところで額に入れられた設計図へ目をやる。この工房と共に、リシェルの師匠が遺したものだ。紙は黄ばんで一部が焼け焦げていたが、緻密な線は未だ息をしているよう。
何年経っても読解できない数式や記号をにらみながら、リシェルの口元には微かな笑みが浮かぶ。
いくら試しても再現できない魔導回路。その技術は他の誰とも違っていて、しかし職人心を惹きつけてやまない。彼は世間的には変わり者というやつで、いわゆる天才と評される人種だった。
大きな光は残せなくても、小さな灯を絶やさないこと。
言い聞かせるよう呟いて、手にしたグラスを灯りにかざす。
先週直した魔導灯、磨き直したナイフ、……どれもが誰かの手に戻り、また動き始める。
「さ……明日も頑張りますか!」
ただ同じ場所で、壊れたものを直す。日々の積み重ねをコツコツと。たとえ大それた発明はできなくとも、それがリシェルの、修繕士としての仕事だ。




