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嫌われ令嬢は黒百合と咲く  作者: 九葉


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第4話

辺境伯領へ向かう馬車の旅は、静寂に満ちていた。

豪華な装飾が施された公爵家の馬車とは違う、実用性だけを重視した堅牢な馬車。その揺れが、私が新たな現実へと運ばれていくのを実感させた。


向かいの席に座るアシュレイ様は、窓の外を眺めているかと思えば、時折、読書に没頭している。

その横顔は彫刻のように美しかったが、やはり表情はほとんど変わらず、何を考えているのか全く読めなかった。


(気まずい……)


会話がない。

何か話すべきだろうか。でも、何を?

『北の氷狼』と二人きり。緊張で喉がカラカラに乾いていく。


そんな私の心中を見透かしたかのように、彼が不意に口を開いた。

「……すまない。退屈だったか」

「い、いえ! そんなことは……!」

慌てて首を横に振る。


彼は読んでいた本を閉じると、それを傍らに置いた。

「長旅になる。何か必要なものがあれば、遠慮なく言ってくれ」

「ありがとうございます。……あの、アシュレイ様は、どうして私を?」


ずっと胸の中にあった疑問が、思わず口からこぼれ落ちていた。

我ながら、あまりに直接的な質問だ。

けれど、どうしても聞かずにはいられなかった。


彼は、銀色の瞳で私をまっすぐに見つめた。

その視線に射抜かれ、心臓がどきりと鳴る。

「君が必要だと思ったからだ」

「……私が、ですか?」

「ああ」


それきり、彼は口を閉ざしてしまった。

ますます分からない。

花を枯らすだけの、不吉な魔女。そんな私が、この百戦錬磨の辺境伯に必要とされる理由など、どこにあるというのだろう。


旅の三日目。

休憩のために馬車が停まった野原でのことだった。

少しだけ空気を吸おうと外へ出た私は、足元に可憐な青い花が咲いているのを見つけた。

思わず、その場にしゃがみ込む。


(綺麗……)


ずっと、花が好きだった。

この力さえなければ、庭を花でいっぱいにしたかった。

そんな叶わぬ夢を思い、胸がちくりと痛む。


その時だった。

バランスを崩した私が、とっさに地面に手をついてしまった。

その指先が、運悪く青い花に触れてしまう。


「……あ」


しまった、と思った時にはもう遅い。

生命力に満ちていた青い花びらは、私の指先から黒いインクが染み出すように、瞬く間にその色を変えていく。

瑞々しかった茎は水分を失い、まるで燃え尽きた炭のように、ぱさぱさと乾いて崩れ落ちた。


また、やってしまった。

美しいものを、私のせいで。

自己嫌悪と絶望が、再び心の底から湧き上がってくる。


「……何をしている?」


背後から、アシュレイ様の低い声がした。

振り返ることもできず、私はただ、黒く枯れ果てた花の残骸を見つめることしかできない。

きっと、彼も幻滅したに違いない。

噂通りの『魔女』だと、気味悪がっているに違いない。


涙が、ぽろりと地面に落ちた。

「……ごめんなさい」

「なぜ、謝る」

「……花を、枯らしてしまいました。不吉、ですわよね……。気分を害されたことでしょう」


俯く私の隣に、彼がゆっくりとしゃがみ込む気配がした。

覚悟を決めて、ぎゅっと目を瞑る。

どんな罵倒の言葉が飛んでくるのだろうか。


しかし、聞こえてきたのは、予想とは全く違う言葉だった。


「……美しい」


「……え?」


思わず顔を上げる。

アシュレイ様は、私が枯らしてしまった黒い花を、その軍人らしいごつごつとした指先でそっと摘み上げていた。


「まるで、夜の闇を閉じ込めた黒曜石のようだ。……私は、美しいと思う」


彼の銀色の瞳は、嘘を言っているようには見えなかった。

ただ、純粋な賞賛の色を浮かべて、その黒い花を見つめている。


「う、美しい……のですか? こんな、枯れてしまったものが……?」

「枯れたのではないだろう。君の力で、別のものに生まれ変わっただけだ」


生まれ変わった。

私のせいで、死んでしまったのではなく?


彼は、その黒い花を私の手のひらにそっと乗せた。

「リディア。君のその力は、呪いではない」

「……!」


祖母以外の誰かに、そんなことを言われたのは初めてだった。

凍りついていた心の表面が、ぱきり、と音を立ててひび割れる。

その隙間から、温かい何かが、じんわりと染み込んでくるようだった。


手のひらに乗った、黒い花の残骸。

それはもう、不吉な呪いの象徴には見えなかった。

アシュレイ様の言葉を通して見ると、本当に、夜空の欠片のように、静かで、不思議な美しさを放っているように思えた。


「……ありがとう、ございます」


やっとのことで絞り出した声は、涙で震えていた。

でも、それは悲しみの涙ではなかった。

生まれて初めて、ありのままの自分を肯定された喜びで、胸がいっぱいだった。


『北の氷狼』と恐れられる人は、私が思っていたよりもずっと、温かい心を持った人なのかもしれない。

その時、私の心に、小さな小さな希望の蕾が、芽生えた気がした。


---


長い旅路の果て、ようやく辿り着いたクレイヴァーン辺境伯領は、私の想像以上に荒涼とした土地だった。

空は常に薄暗い鉛色に覆われ、空気はどこか重く、淀んでいる。

大地は痩せ、育っている植物も、どこか生命力に欠け、くすんだ色をしていた。


「……これが、瘴気だ」


城へ向かう馬車の中から、アシュレイ様が静かに言った。

「長年、この土地は北の魔物たちが発する瘴気に蝕まれ続けている。浄化の儀式も、気休めにしかならない」


彼の横顔に、領地を憂う領主としての厳しい表情が浮かんでいた。

城は、質実剛健という言葉がぴったりの、飾り気のない巨大な石造りの砦だった。

けれど、使用人たちは皆、温かく私を迎えてくれた。彼らの主君が連れてきた未来の奥方に対し、興味と、そしてどこか期待の入り混じった視線を向けているのが分かった。


その日の夜。

夕食を終えた私は、アシュレイ様に城の奥にある一室へと案内された。

そこは、古い礼拝堂のようだった。ステンドグラスは割れ、祭壇には厚く埃が積もっている。

そして、部屋の中央には、黒く変色し、まるで石のように硬化した巨大な木の根のようなものが、床を突き破って鎮座していた。


「これは……?」

「瘴気の源だ。城の真下にある霊脈が、汚染され、具現化したものらしい」


近づくだけで、肌が粟立つような邪悪な気配がする。

息が詰まりそうだ。ここにいるだけで、生命力を吸い取られていくような感覚に陥る。


「リディア」

アシュレイ様に名前を呼ばれ、私はびくりと体を震わせた。

彼は、私のすぐそばに立つと、その銀色の瞳で私をまっすぐに見つめた。

「怖がらせてしまったら、すまない。……だが、試してほしいことがある」


彼は、祭壇に置かれていた一輪の白い百合を手に取ると、それを私に差し出した。

「この花に、触れてみてくれ」

「……! いけません! 枯れてしまいますわ!」

思わず後ずさる。

彼に「美しい」と言ってもらえたとはいえ、自ら進んで花を枯らすことへの抵抗は、まだ根強く残っていた。


「大丈夫だ。君を、信じている」


彼の静かで、力強い声。

その言葉に背中を押され、私はおそるおそる、震える指先を白い百合の花弁へと伸ばした。


触れた瞬間。

いつものように、百合の花が急速に黒く染まっていく。

けれど、今回は何かが違った。

ただ枯れていくのではない。黒く変色した花びらが、まるで黒い水晶のように、キラキラと光を放ち始めたのだ。


「まあ……!」


驚いて目を見開く私に、アシュレイ様は「それを、あの木の根に」と促した。

言われるがまま、黒い水晶と化した百合を、邪悪な木の根にそっと触れさせる。


その瞬間だった。


パァァッ、と黒い百合から眩い光が溢れ出した。

光は、邪悪な木の根に触れると、まるで闇を喰らうかのように、その黒い汚染を浄化していく。

ジジジ、と黒い煙が上がり、瘴気の塊が霧散していくのが見えた。

そして、浄化された後には、小さな黒い花の結晶が、キラキラと輝きながら残った。


「……これが、私の力……?」


目の前で起きたことが信じられず、私はただ呆然と立ち尽くす。

呪いではなかった。

花を枯らしていたのではなかった。

私は、植物の生命力を聖なる力へと変換し、その力で邪気を浄化していたのだ。


「……やはり、そうだったか」

アシュレイ様が、安堵の息を漏らした。


彼は、ゆっくりと語り始めた。

「幼い頃、一度だけ王都を訪れたことがある。その時、庭園で迷子になり、泣いていた私を慰めてくれた少女がいた」

「……え?」


「その少女は、私が怪我をした指に、庭の花を触れさせてくれた。すると、花は黒く変色したが、不思議と痛みがすっと消えたんだ。……それが、君だった、リディア」


忘れていた、遠い日の記憶。

そうだ、確かにそんなことがあった。庭で泣いていた、銀色の髪の少年。

彼が、アシュレイ様……?


「私はずっと、君を探していた。君のその稀有な力が、この瘴気に汚染された土地を救う唯一の希望だと信じていたからだ」


王太子との婚約が決まったと知った時は、全てを諦めようと思った、と彼は言った。

けれど、私が婚約を破棄され、家からも追放されると聞き、彼はすぐさま馬を走らせたのだという。


「君を、道具として利用したいわけではない。だが、君の力を必要としている民がいることを、知っておいてほしかった」


呪われた魔女。

家族の恥。

不吉な存在。


そう言われ続けてきた私が、誰かの希望に?

この力が、この地を救える?


「私は……、私、は……」


言葉にならない感情が、涙となって溢れ出した。

それは、絶望や悲しみの涙ではない。

生まれて初めて、自分の存在価値を見出したことへの、歓喜の涙だった。


アシュレイ様は、そんな私の肩を、そっと、壊れ物を扱うかのように優しく抱き寄せた。

彼の胸の中から、トクン、トクン、と力強い鼓動が伝わってくる。


「リディア。君は、魔女などではない」

耳元で囁かれた彼の声が、私の心に深く、深く染み渡っていく。

「君は、この凍てついた地に春を呼ぶ、唯一無二の聖女なのだ」


彼の腕の中で、私は、この人のために生きたいと、心の底からそう思った。

この温かい腕の中でなら、私はきっと、何度でも咲き誇ることができる。

黒百合の聖女として。

そして、アシュレイ・クレイヴァーンの妻として。

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