第3話
時が、止まった。
書斎に満ちる重苦しい空気が、アシュレイ・クレイヴァーン辺境伯の言葉によって凍りつく。
私の目の前で片膝をつく、黒衣の辺境伯。
その銀色の瞳は、冗談や気まぐれなど微塵も感じさせない、真摯な光を宿して私だけを捉えていた。
(……けっこん?)
思考が追いつかない。
ついさっき、長年の婚約者から婚約を破棄され、家族からは勘当を言い渡されたばかりだというのに。
なぜ、ほとんど面識のない『北の氷狼』が、私に求婚を?
最初に我に返ったのは父だった。
「へ、辺境伯……! 何を、仰っているのですかな!? この娘は、その……いわくつきの身。触れた花を枯らす『魔女』なのですよ!?」
父は、まるで欠陥商品を売りつける詐欺師だと疑われるのを恐れるかのように、必死で私の欠点をまくし立てる。
なんて惨めなのだろう。実の父親に、そこまで言わせるとは。
しかし、アシュレイ様は私から視線を外すことなく、静かに言い放った。
「存じ上げている。その上で、申し上げているのです」
「し、しかし……!」
「公爵。あなた方は、この方を修道院へ送ると決めた。それはつまり、ヴェルフェン家から籍を抜き、縁を切るということでしょう」
アシュレイ様はゆっくりと立ち上がると、今度は氷の視線で父を射抜いた。
その圧倒的な威圧感に、父だけでなく母や弟も息を呑む。
「ならば、もはや誰の所有物でもないこの方を、私が妻として迎え入れても、何人にも文句を言う権利はないはずだ」
その言葉は、どこまでも正論だった。
そして、あまりにも冷酷な事実。
私は、誰の所有物でもない。誰からも必要とされていない、ただの私なのだ。
父の顔が、欲望と猜疑心で歪むのが見えた。
『黒百合の魔女』という厄介者を追い出せる上に、北の辺境伯家と縁続きになれる。公爵家にとって、これほど都合の良い話はない。
だが、その裏に何か罠があるのではないかと、勘繰ってもいるのだろう。
「……リディア」
アシュレイ様が、再び私の名を呼ぶ。
「君の意思を聞かせてほしい。私と共に、北の地へ来てはくれないだろうか」
私の、意思。
そんなもの、これまで誰かに問われたことなどあっただろうか。
公爵令嬢として、王太子の婚約者として、常に「あるべき姿」を求められ、自分の気持ちを殺して生きてきた。
北の地は、王都から遠く離れた過酷な土地だと聞く。
目の前の人は、『氷狼』と恐れられる冷酷な武人。
幸せな結婚など、望めるはずもない。
でも。
このまま修道院で、息を潜めるように一生を終えるのか。
それとも、この人の手を取るのか。
どちらが地獄かなんて、分かりきっていた。
この家にも、王都にも、私の居場所はもうない。
ならば、たとえそれが茨の道だとしても。
この手を伸ばすしか、私には残されていなかった。
「……お受け、いたします」
か細く、けれど確かに、私はそう答えていた。
「あなた様の、妻に。……なっても、よろしいのでしょうか」
私の返事を聞いたアシュレイ様は、ほんのわずかに、その氷のような表情を和らげた。
それは、他の誰も気づかないような、微かな変化。
「ああ。君がいいのなら」
彼は私の手を取り、その甲に、誓いの証を立てるかのように、そっと唇を寄せた。
軍人らしく、少し荒れた彼の指先が触れた瞬間、心臓が大きく跳ねる。
不思議なことに、彼が触れた私の手は、何も変わらなかった。
「話は決まった。早速、発つ準備を」
アシュレイ様はそう言うと、有無を言わせぬ様子で私を促した。
父も母も、あまりに早い展開に口を挟むこともできず、ただ呆然と私たちを見送るだけだった。
弟に至っては、私が辺境伯という新たな庇護者を得たことに、どこか面白くなさそうな顔をしている。
誰一人、私に「幸せになりなさい」とは言ってくれなかった。
それでいい。もう何も期待しない。
私は一度も振り返ることなく、アシュレイ様に導かれるまま、生まれ育った屋敷を後にした。
これから始まる新しい人生が、たとえどんなに過酷なものであっても、この息の詰まる檻の中にいるよりは、ずっといい。
そう、信じるしかなかった。




