第2話
自室に戻り、侍女を下がらせて一人になった途端、張り詰めていた緊張が堰を切ったように崩れ落ちた。
ドアに背を預け、ずるずるとその場に座り込む。
「……っ」
声にならない嗚咽が喉から漏れた。
涙は、もう枯れ果てたと思っていたのに。熱い雫が次から次へと頬を伝い、高価なドレスの胸元に染みを作っていく。
(これで、よかったのよ)
自分に言い聞かせる。
エドワード殿下は、昔から私のことを気味悪がっていた。
初めてお会いした十歳の頃。私が差し出した挨拶の手に、一瞬怯えたように身を引いたのを、今でもはっきりと覚えている。
私の『呪い』は、その頃から始まっていた。
最初は、庭師が手塩にかけて育てた真っ白な薔薇だった。
あまりの美しさに、そっと指先で花弁に触れた瞬間、見る見るうちに薔薇は黒く変色し、ぱさぱさに乾いて崩れ落ちたのだ。
「きゃあああ! 魔女!」
一緒にいた侍女の悲鳴。
駆けつけた父と母の、信じられないものを見るような冷たい目。
弟は、私のことを「化け物」と呼び、それ以来、決して近寄ろうとはしなくなった。
それからだ。私が『黒百合の魔女』と呼ばれるようになったのは。
触れるもの全てが枯れるわけではない。なぜか、植物だけ。それも、生命力に満ち溢れた美しい花ほど、顕著に反応した。
原因は誰にも分からなかった。宮廷魔術師も、神殿の神官も、首を捻るばかり。
いつしか私は、自室に閉じこもるようになった。
誰かを傷つけたくない。何より、あの冷たい目で見られるのが、たまらなく怖かったから。
唯一の味方は、今は亡き祖母だけだった。
「リディア。それは呪いなどではありませんよ」
皺の刻まれた優しい手で私の頭を撫でながら、祖母はいつも言ってくれた。
「いつか、あなたのその力を、本当に理解してくれる人が必ず現れます。だから、自分を嫌いになってはいけません」
祖母は、私が枯らしてしまった黒い花びらを集め、「夜空の欠片のようで、なんて美しいんでしょう」と微笑んでくれた。
そして、亡くなる直前に、一つの腕輪を私に遺してくれた。
手首にはめられた、古びた銀の腕輪に目を落とす。
細かい傷がたくさんついた、何の変哲もない腕輪。けれど、肌に触れるひんやりとした感触が、不思議と私の心を落ち着かせてくれる。動くたびに微かに鳴る、カシャリという小さな音は、祖母の励ましの声のようにも聞こえた。
これが、私の唯一のお守り。
コン、コン。
不意にドアがノックされ、びくりと肩が跳ねる。
侍女のリズが、心配そうな顔で顔を覗かせた。
「お嬢様……旦那様がお呼びでございます」
「……お父様が?」
嫌な予感しかしなかった。
重い体を引きずるようにして父の書斎へ向かうと、そこには父だけでなく、母と弟の姿もあった。
三対の冷たい視線が、私を射抜く。
「リディア」
父が、地を這うような低い声で言った。
「王家へのこの度の不始末、どう落とし前をつけるつもりだ」
「……申し訳、ございません」
「謝って済む問題ではない! 我がヴェルフェン公爵家の名に、どれだけ泥を塗れば気が済むのだ!」
激しい怒声が、私の鼓膜を揺らす。
母も、扇で口元を隠しながら冷たく言い放った。
「ええ、本当に。あなたのような不吉な娘を産んだ覚えはございませんわ。我が家の恥です」
「姉さん、あんたのせいで、僕まで白い目で見られるんだぞ! いい加減にしてくれよ!」
家族からの容赦ない言葉の礫。
もう、慣れてしまったはずなのに。心の奥が、鈍く痛む。
父は、ぐっと言葉を飲み込むと、まるで汚物でも見るかのような目で、最終宣告を突きつけた。
「……お前には、辺境の修道院へ行ってもらう。もう二度と、我々の前に姿を現すな」
修道院。
それは、事実上の勘当と追放を意味していた。
ああ、そうか。
私は、王家だけでなく、実の家族からも、捨てられるのか。
私の居場所は、この世界のどこにもないのだ。
あまりの絶望に、目の前が真っ暗になる。
膝から力が抜け、床に崩れ落ちそうになった、その時だった。
「――失礼する」
重厚な扉が、重々しい音を立てて開かれた。
そこに立っていたのは、予想だにしない人物。
漆黒の髪。氷のように冷たい、けれど射抜くように強い光を宿した銀の瞳。
戦地を駆け巡る狼のように、引き締まった体躯を黒の軍服に包んだその人は、北の国境を守る辺境伯、アシュレイ・クレイヴァーン様だった。
『北の氷狼』『戦狂い』――数々の武勇と共に、冷酷無比な噂が絶えない人物。
その彼が、なぜここに?
父も母も、突然の闖入者に驚き、言葉を失っている。
アシュレイ様は、部屋の中を一瞥すると、まっすぐに私を見つめた。
その銀色の瞳が、私の手首にある腕輪に留まり、ほんの僅かに見開かれた気がした。
そして彼は、誰にも聞き取れる、凛とした声で言った。
「ヴェルフェン公爵。ご令嬢を、私が引き取ろう」
「……は?」
父の、間抜けな声が響いた。
アシュレイ様は、凍てついた空気をものともせず、ゆっくりと私に歩み寄る。
そして、私の目の前で片膝をつくと、銀色の瞳で私を真っ直ぐに見上げた。
「リディア・フォン・ヴェルフェン嬢。私と、結婚してほしい」




