第1話
ざわめきが、波のように引いていく。
王宮の夜会を彩っていた優雅な弦楽の響きも、楽しげな談笑も、すべてが嘘のように静まり返った。
全ての視線が、突き刺さるように私――リディア・フォン・ヴェルフェン公爵令嬢へと注がれている。
私の目の前には、この国の王太子であり、私の婚約者であるエドワード殿下が立っていた。
金色の髪を輝かせ、蒼い瞳を苛立ちに歪ませて。
そして、その腕の中には、庇護欲をそそる小動物のように寄り添う可憐な少女。聖女候補として最近神殿に迎えられた、男爵令嬢のメアリー様だ。
「リディア・フォン・ヴェルフェン! 貴様との婚約を、今この時をもって破棄する!」
キン、と甲高い声がホールに響き渡る。
ああ、やっぱり。
心のどこかで、ずっと前から分かっていた。この日が来ることを。
私はただ、静かにカーテシーを返す。感情を殺し、表情を凍りつかせて。公爵令嬢としての完璧な作法だけが、かろうじて私をこの場に繋ぎとめていた。
「理由は聞くまでもありませんわね?」
「ふん、分かりきったことを。お前のような『黒百合の魔女』が、次期王妃の座に相応しいはずがないだろう!」
『黒百合の魔女』
それが、社交界における私の通り名。
私が触れた花は、どんなに美しく咲き誇っていても、瞬く間に水分を失い、黒く変色して枯れてしまう。そんな呪われた特異体質のせいだ。
ひそひそと、侮蔑と好奇の囁き声が聞こえてくる。
「まあ、あの方に触れられたら枯れてしまうものね」
「不吉だわ。国の象徴である王太子殿下のお妃様が、魔女だなんて」
「それに比べてメアリー様は、なんと清らかでいらっしゃることか」
聞こえていますわよ、皆様。
その言葉が、どれだけ私の心をナイフで削り取ってきたことか、あなた方は知らない。
エドワード殿下は、怯えるメアリー様の肩を抱き寄せ、私を睨みつけた。
「メアリーこそ、この国を導く真の聖女だ! 彼女の周りでは、萎れた花でさえ息を吹き返すというのに! それに比べて貴様は……! その存在自体が不吉なのだ!」
(ええ、知っていますわ)
(あなたの瞳が、ずっと前から私ではなく、メアリー様だけを映していたことくらい)
でも、と胸の奥で小さな私が叫ぶ。
婚約は、あなたと私の意思だけで決められたものではないでしょう。国と、家と、次代のための契約だったはず。
それを、こんな衆人環視の舞台で、一方的に。
「リディア、貴様はメアリーの清らかな心に嫉妬し、彼女を夜な夜な呪っていたそうだな! 許しがたい悪行だ!」
「……呪い、でございますか?」
初耳だった。
嫉妬など、していないと言えば嘘になる。けれど、呪うだなんて。
そんな力、私にはない。ただ、花を枯らしてしまうことしかできないというのに。
メアリー様が、殿下の腕の中でびくりと震える。
「殿下、もうおやめくださいまし……。リディア様も、きっと悪気があったわけでは……」
「メアリー、君は優しすぎる! こいつは、その優しさにつけこむ悪女なのだ!」
ああ、なんて見事な茶番劇。
か弱いヒロインと、彼女を守る正義のヒーロー。そして、断罪されるべき悪役令嬢。
物語の配役は、もうとっくに決まっていたのだ。
私は、すぅ、と息を吸った。
背筋を伸ばし、公爵令嬢としての最後の誇りをかき集める。
「エドワード殿下。王家とヴェルフェン公爵家の名において結ばれた婚約です。その破棄、謹んでお受けいたします」
私の返答が意外だったのか、殿下は一瞬、言葉に詰まった。
泣いて縋るとでも思っていたのだろうか。
「ただし、メアリー様を呪ったという謂れなき罪は、決して受け入れられません。我がヴェルフェン家の名誉に関わります」
「なっ……この期に及んで!」
「真実ですわ。殿下は、私のことなど一度もご覧になってくださらなかった。私が何に苦しみ、何を望んでいたのかも、ご存じないでしょう?」
私の瞳が、まっすぐにエドワード殿下を捉える。
彼の蒼い瞳が、ほんの少しだけ揺らいだ。
けれど、それも一瞬のこと。腕の中の少女が「ひっ」と小さな悲鳴を上げたことで、彼はすぐに私への敵意を取り戻した。
「やかましい! 魔女め! お前がいるだけで空気が澱む! さっさとここから立ち去れ!」
その言葉が、最後の引き金だった。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れる音を聞いた。
私はもう一度、深く、深くカーテシーをした。
床の大理石に、自分の冷たい指先が触れるのを感じる。
そして顔を上げ、誰にも気づかれないように、ほんの少しだけ口角を上げた。
(さようなら、殿下)
(あなたの望む物語の結末を、どうぞお二人でお幸せに)
背を向け、一歩、また一歩と歩き出す。
背中に突き刺さる無数の視線が痛い。
けれど、涙は見せなかった。
ここで泣いてしまえば、本当に私は、惨めで嫉妬深い、ただの悪役令嬢になってしまうから。
黒いドレスの裾が、静まり返ったホールに擦れる音だけが、やけに大きく響いていた。
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