疲労税控除――眠るほど税金が増える国
疲れている人間は、国に貢献している。
その一文が、厚生労働省と財務省の共同記者会見で読み上げられたとき、会場にいた記者の何人かは笑った。比喩だと思ったのだ。
しかし大臣は笑わなかった。
「労働者の疲労は、これまで不可視の負担でした。長時間労働、通勤、育児、介護、慢性的な睡眠不足、精神的緊張。そうした社会を支える見えない努力を、国家が正当に評価する時代が来たのです」
翌月、制度の名称が発表された。
疲労税控除。
国民一人ひとりに配布された腕時計型端末は、心拍数、睡眠時間、歩数、姿勢、まばたきの回数、音声の震え、通勤時の混雑ストレス、職場で受け取った通知の頻度まで記録した。
それらはすべて、疲労スコアとして数値化された。
疲労スコアが高いほど、翌年の所得税が安くなる。
初年度、国民は戸惑った。
だが、二年目には慣れた。
三年目には、誰もが自分の疲労スコアを気にするようになった。
朝の電車では、吊革につかまった会社員たちがスマートフォンを見ながら囁き合った。
「昨日、八十一までいった」
「すごいな。俺、七十三で止まった」
「立ち会議を二時間入れると伸びるよ。あと、昼休みにちゃんと休まないこと」
「休まないことって、変な話だよな」
「でも控除になる」
その一言で、会話は終わった。
控除になる。
それは、この国で最も強い呪文になった。
◇
美佳が勤める株式会社ライフグリッドは、制度の開始と同時に大きく伸びた会社だった。
もともとは勤怠管理システムを売っていた小さな企業だったが、疲労税控除の導入によって事業内容は一変した。
いま社内で一番売れている商品は、最大疲労設計、通称MFDだった。
社員を違法に働かせるのではない。
あくまで、合法の範囲内で、最も効率よく疲労スコアを高める勤務設計を提案する。
たとえば、朝一番に重要度の低い会議を入れる。
人間の集中力がもっとも高い時間帯を、あえて削る。
昼休みの直前に確認作業を置く。
食事の時間を五分ずらすだけで、端末は軽度ストレスを検出する。
夕方には、返信の要らない通知を多めに送る。
小さな緊張が積み上がり、疲労スコアは安定して上昇する。
顧客企業は喜んだ。
社員は疲れる。
社員は控除を受ける。
会社は「社員の経済的利益に貢献している」と説明できる。
誰も損をしていない。
少なくとも、書類の上では。
美佳はMFD推進部の主任だった。
入社した頃は、労務改善の仕事だと思っていた。社員が無理をしなくて済むよう、働き方を整える仕事だと信じていた。
けれど三年経つと、会議で使われる言葉が変わった。
「この部署はまだ余白があります」
部長はそう言って、画面にグラフを映した。
「平均疲労スコアが六十二。業界平均は六十八です。あと六ポイント取れます」
余白。
美佳はその言葉を聞くたび、胸の奥が冷える。
余っているのは時間ではなかった。
体力でもなかった。
削られずに残っている何かだった。
「佐伯さん」
部長が美佳を見た。
「A社向けの改善案、どうなっていますか」
「資料は作成済みです。ただ、少し見直したい箇所があります」
「どこを?」
「夜間通知の設計です。二十二時以降の通知を増やす案になっていますが、睡眠の質にかなり影響が出ると思います」
会議室に小さな沈黙が落ちた。
部長は穏やかに笑った。
「それが目的でしょう」
誰も笑わなかった。
笑う必要がないほど、それは当たり前のことだった。
「睡眠の質が下がれば、翌日の疲労スコアは上がる。スコアが上がれば控除額が増える。社員の可処分所得は増えます。弊社の提案は、顧客企業の従業員利益に資するものです」
「ですが、健康面のリスクが」
「健康診断を組み込みます」
「診断を入れても、疲労そのものが減るわけではありません」
「佐伯さん」
部長の声が柔らかくなった。
「健康という言葉は便利です。硬い提案を、やわらかくできる」
美佳は黙った。
画面の中で、グラフの赤い線がゆっくり上へ伸びていた。
◇
昼休み、同期の拓瑠が屋上にいた。
彼はフェンスにもたれ、コンビニのゼリー飲料を片手に端末を見ていた。頬がこけ、目の下には影がある。それでも口元だけは明るかった。
「美佳、見て」
差し出された画面には、疲労スコア九十二と表示されていた。
「高すぎる」
「昨日、深夜二時まで資料作って、四時に起きた。朝は混雑率百八十パーセントの電車。昼はゼリーだけ。すごくない?」
「すごくない」
「来年の控除額、試算したら二十七万円」
拓瑠は笑った。
「二十七万円だよ。ほぼボーナスじゃん」
「体を壊すよ」
「大丈夫。壊れる前に控除される」
「冗談になってない」
「冗談じゃないからな」
拓瑠は空を見上げた。
薄い雲が、ビルの隙間でほどけている。
「母親の介護費、上がったんだ。妹も専門学校行きたいって言ってる。普通に働いてても足りない。でも疲れれば戻ってくる。変な国だけど、使えるものは使わないと」
「拓瑠」
「わかってるよ」
彼は笑ったまま言った。
「おかしいってことくらい」
その顔を見て、美佳は言葉を失った。
拓瑠は、自分が損なわれていることを知らないわけではなかった。
知っていて、削っていた。
「車、買おうと思ってたんだ」
「車?」
「昔から欲しくてさ。中古でいい。母親を乗せて、海まで行く」
「いいじゃない」
「でも、最近思うんだよな」
拓瑠は端末の画面を暗くした。
「車を買って、俺、どこまで運転できるんだろうな」
その冗談は、風に流れなかった。
美佳の胸の中に残った。
◇
疲労スコアは、やがて挨拶になった。
「おはようございます」は「ご加点さまです」に変わった。
社内のチャットでは、誰かのスコアが九十を超えると拍手のスタンプが並んだ。
月末になると、部署ごとの平均疲労スコアランキングが発表された。
一位の部署には、健康支援金が出た。
健康支援金で購入されたのは、高性能な仮眠チェアだった。
十五分だけ眠れる椅子。
十五分以上眠ると、スコアが下がる。
美佳は、その椅子に座るたび、眠りではなく処置を受けている気分になった。
ある日、社内ポータルに新しい告知が出た。
疲労貢献賞の新設について。
年間を通じて高い疲労スコアを維持し、組織の生産性および社会的控除効果に貢献した社員を表彰する。
副賞は特別休暇三日。
ただし、取得は翌年度以降、業務に支障のない範囲で調整。
美佳は告知を読み、思わず笑ってしまった。
疲労を競わせて、賞品に休みを渡す。
けれどその休みは、すぐには取れない。
誰もが疲れていた。
疲れているのに、休むことだけが遠かった。
◇
拓瑠が倒れたのは、十二月の朝だった。
会議室の前で、ノートパソコンを抱えたまま膝から崩れたという。
救急車が来たとき、彼の端末には疲労スコア九十八が表示されていた。
社内では、すぐに通知が流れた。
社員の体調不良に関するお知らせ。
個人情報保護のため詳細は伏せられた。
美佳が病院に着いたとき、拓瑠は集中治療室にいた。面会はできなかった。廊下の椅子に、彼の妹が座っていた。
まだ十代の顔だった。
両手でスマートフォンを握り、画面を見つめている。
美佳が声をかけると、妹は顔を上げた。
「兄の会社の方ですか」
「同期です。佐伯美佳といいます」
「兄、いつも言ってました。来年は楽になるって」
美佳は答えられなかった。
「疲れたぶん、お金が戻るからって。だから今年だけ頑張ればいいって」
妹の声は震えていなかった。
泣く前の人間は、案外、静かだ。
「今年だけって、何回も言ってました」
美佳は廊下の白い壁を見た。
白すぎて、何も書けそうになかった。
拓瑠は三日後に死んだ。
会社から送られてきた弔意文には、こう書かれていた。
深い哀悼の意を表します。
彼の勤勉な姿勢と高い責任感は、全社員の模範でした。
なお、当社は今後も社員の健康管理体制をより一層強化してまいります。
数日後、財務処理部から別の資料が回ってきた。
死亡退職に伴う控除処理、および高疲労継続勤務者に関する特別償却の確認。
特別償却。
美佳はその四文字を見たとき、指先が冷たくなった。
人が死んだ。
なのに、書類の中では、彼は償却されていた。
削りきったものとして。
◇
拓瑠の葬儀の帰り、美佳は駅前の喫茶店に入った。
喪服のまま座ると、店員が少しだけ目を伏せた。
注文したコーヒーは苦く、ほとんど飲めなかった。
スマートフォンには、会社からの通知が溜まっていた。
緊急確認。
資料修正依頼。
明朝会議のアジェンダ。
疲労スコアは八十九になっていた。
端末が震える。
本日の疲労状態は良好です。
控除見込み額が上昇しました。
美佳は腕から端末を外そうとした。
だが、外せなかった。
外すと、未計測時間が発生する。
未計測時間が増えると、会社に通知が行く。
会社に通知が行けば、面談になる。
面談では、必ずこう聞かれる。
何か困っていることはありますか。
困っている。
そう言えばいい。
けれど、困っていることを言葉にした瞬間、それは支援対象になり、管理対象になり、改善計画に組み込まれる。
悲しみまで、効率化される。
美佳は端末をつけたまま、コーヒーの表面を見つめた。
黒い液体に、喪服の自分が映っている。
疲れている顔だった。
疲れた顔をしていることに、少しだけ安心している自分がいた。
そのことが、一番怖かった。
◇
年が明けると、拓瑠は表彰された。
もちろん、本人はいない。
疲労貢献賞、特別功労枠。
社内ホールには、彼の写真が映し出された。入社式の日に撮られた写真だった。頬はまだ丸く、目の下に影もない。
社長は壇上で言った。
「彼の働きは、私たちに多くの示唆を与えてくれました。疲労を見える化することは、人生を見える化することです」
美佳は後方の席で、その言葉を聞いていた。
隣の社員が小さく鼻をすすった。
泣いているのかと思ったら、眠気をこらえているだけだった。
「今後、弊社は彼の志を継ぎ、より安全で、より効果的な疲労設計を社会に提供してまいります」
拍手が起きた。
美佳の手は動かなかった。
式のあと、拓瑠の妹が遺族代表として控室にいた。美佳は短く挨拶だけしようと思った。
しかし妹は、美佳を見るなり封筒を差し出した。
「兄の机から出てきました」
「私に?」
「たぶん」
封筒には、美佳の名前があった。
拓瑠の字だった。
帰宅してから開けると、中には一枚の紙が入っていた。
美佳へ。
これ読んでるってことは、俺、たぶんけっこうまずいことになってるんだと思う。
笑うなよ。自分でも馬鹿だと思ってる。
でも、止まれなかった。
疲れたぶんだけ戻ってくるって言われると、疲れない自分が悪いみたいに思えた。
休むと損する。
眠ると負ける。
そう考えるようになったら、もうだめだった。
美佳はたぶん、俺より早くおかしいって気づいてたと思う。
でも、お前も止まれなかっただろ。
だから頼む。
俺のぶんまで頑張るな。
俺のぶんまで休め。
あと、車は買わなくていい。
どこかに行くなら、歩いていけ。
計測されないくらい、ゆっくり。
最後の一行は、少し滲んでいた。
美佳は紙を膝に置いた。
泣くと思った。
けれど涙は出なかった。
その代わり、胸の奥で、何かが静かに外れた。
◇
翌朝、美佳はいつもより一時間早く起きた。
目覚ましではなく、自然に目が覚めた。
端末は枕元で充電されている。
画面には、今日の推奨行動が並んでいた。
起床後三分以内に照明を最大化。
冷水洗顔。
通勤時は混雑路線を選択。
朝食は糖質を抑制。
始業前に未処理通知を確認。
美佳は端末を見つめた。
そして、電源を切った。
部屋が静かになった。
あまりにも静かで、自分の呼吸の音が聞こえた。
美佳はカーテンを開けた。
冬の朝の光が、床に細長く落ちている。
照明はつけなかった。
冷水で顔を洗う代わりに、ぬるい湯で手を洗った。
朝食には、昨日買ったパンを温めた。
バターを塗りすぎた。
端末がないので、脂質過多の警告は出ない。
出ないことが、こんなにも自由だとは思わなかった。
駅へ向かう途中、いつもの近道をやめた。
大通りを避け、住宅街の細い道を歩いた。
小学生の列が横断歩道の前で止まっていた。旗を持った老人が、車の流れを見ている。
美佳は足を止めた。
誰に頼まれたわけでもない。
アプリに記録されるわけでもない。
地域貢献ポイントもつかない。
美佳は老人の隣に立ち、手を上げた。
子どもたちが渡っていく。
ランドセルが揺れる。
一人の子が、美佳を見上げて言った。
「ありがとうございます」
美佳は少し遅れて、笑った。
「どういたしまして」
その声は、久しぶりに自分のものだった。
◇
会社に着くと、すぐに上司から呼び出された。
面談室の机の上には、美佳の勤怠データが表示されていた。
ただし、今朝の欄だけが空白だった。
「佐伯さん、端末が未計測になっています」
「はい」
「故障ですか」
「いいえ」
「では、なぜ?」
「電源を切りました」
部長はしばらく黙った。
意味を理解するまでに時間がかかったようだった。
「それは、規定違反です」
「はい」
「疲労状態が記録できません。控除申請にも影響します」
「申請しません」
「何を?」
「今日の疲労を、申請しません」
部長は眉をひそめた。
「佐伯さん、感情的になっていませんか」
「なっています」
「一度落ち着いて」
「落ち着いた結果です」
面談室の空気が硬くなった。
部長は声を低くした。
「あなたは主任です。制度の意義を理解しているはずです」
「理解しています」
「なら」
「疲労を評価することと、疲労を作ることは違います」
部長の表情が消えた。
「その言い方は危険です」
「危険なのは、疲れている人を褒めることです」
「会社としては、社員の利益を」
「拓瑠は死にました」
名前を出した瞬間、部長は目を逸らした。
「その件については、非常に残念に」
「残念ではなく、結果です」
「佐伯さん」
「私たちが作った設計の結果です」
面談室の外から、チャット通知の音が聞こえた。
誰かが疲れている。
誰かが褒められている。
誰かが削られている。
美佳は椅子から立ち上がった。
「今日は有給を取ります」
「急に?」
「はい」
「業務に支障が」
「出ます」
美佳は初めて、はっきりと言った。
「でも、私は休みます」
◇
その日の午後、社内ダッシュボードに異常が表示された。
MFD推進部、主任、佐伯美佳。
疲労スコア欄。
測定不能。
最初に気づいたのは、隣の部署の若手社員だった。
彼は画面を見て、思わず声を上げた。
「測定不能って、何ですか」
周囲の社員が集まった。
誰も答えられなかった。
疲労スコアは、低いか、高いかだった。
正常か、異常かだった。
健康か、不健康かだった。
けれど、測定不能という欄は、これまで誰も見たことがなかった。
やがて社内チャットにスクリーンショットが流れた。
佐伯さん、端末外したらしい。
やばくない?
規定違反では。
でも、測定不能って初めて見た。
これ、控除どうなるの?
損じゃん。
損なのかな。
誰かがそう書いた。
その一言で、チャットの流れが止まった。
損なのかな。
誰もすぐには否定できなかった。
◇
美佳は会社を出て、あてもなく歩いた。
昼間の街は、思ったより明るかった。
平日の午後に外を歩くのは久しぶりだった。スーツ姿の人々は足早に通り過ぎ、カフェの窓際では老人が新聞を読んでいた。公園では、小さな子どもが滑り台を逆から登ろうとして、母親に注意されている。
どれも、記録されていない時間だった。
美佳は公園のベンチに座った。
鞄から拓瑠の手紙を取り出す。
俺のぶんまで頑張るな。
俺のぶんまで休め。
美佳は紙を折り直し、名札の裏に挟んだ。
そして、スマートフォンを取り出した。
退職届を書くつもりはなかった。
告発文を書くつもりもなかった。
ただ、社内の共有フォルダに、一つのファイルを作った。
タイトルは、
最大疲労設計に関する改善提案。
美佳は少し考えてから、「改善」を消した。
最大疲労設計に関する廃止提案。
本文の最初に、こう書いた。
疲労は資産ではない。
人間は、償却できない。
そこまで書いて、手が止まった。
こんな文章で何かが変わるとは思えなかった。
制度は大きい。
会社は強い。
疲れている人間は、疲れているほど抵抗できない。
けれど、美佳は続きを書いた。
拓瑠の名前は出さなかった。
彼を資料にしたくなかった。
代わりに、制度の仕組みを書いた。数字を書いた。夜間通知の影響を書いた。仮眠を十五分に制限する設計の危険性を書いた。疲労スコアを競わせる社内文化が、休むことへの罪悪感を生んでいると書いた。
最後に、こう書いた。
疲労を測ることが必要な場面はある。
しかし、疲労を増やす設計は、労務管理ではない。
それは、人間を削る技術である。
送信ボタンを押す前に、少しだけ迷った。
迷った時間は、どこにも記録されなかった。
美佳は送信した。
◇
翌日、美佳のアカウントは一時停止された。
その翌日、社内調査委員会が設置された。
一週間後、ライフグリッドの内部資料が匿名掲示板に流出した。
美佳が流したのではなかった。
誰が流したのかも分からなかった。
ただ、資料の中には、彼女の廃止提案に似た言葉がいくつも赤線で引かれていた。
疲労は資産ではない。
人間は償却できない。
ニュースサイトが取り上げた。
テレビが報じた。
国会で質問が出た。
政府は制度の見直しを検討すると発表した。
検討中。
以前の美佳なら、その言葉に失望しただろう。
けれど今は、少しだけ違った。
検討中とは、何もしないための言葉にもなる。
だが、止まっていたものが、初めて向きを変える前の言葉にもなる。
美佳は自宅の机で、電源を切った端末を見ていた。
端末はもう震えない。
控除額も出ない。
疲労も褒めない。
ただの黒い板だった。
窓の外で、夕方の光が薄くなっていく。
美佳は立ち上がり、靴を履いた。
どこへ行くかは決めていない。
歩数を稼ぐためではない。
ストレスを調整するためでもない。
疲れるためでも、疲れないためでもない。
ただ、歩きたかった。
駅とは反対方向へ進む。
小さな商店街を抜けると、川沿いの道に出た。
水面が夕陽を細かく砕いている。
美佳は足を止めた。
ポケットの中で、古いドラムスティックに指が触れた。
学生時代に使っていたものだった。いつから鞄に入っていたのか、自分でも覚えていない。
取り出して、軽く回してみる。
うまく回らなかった。
指から滑り、地面に落ちた。
美佳は笑った。
下手になっている。
けれど、下手でいいと思った。
上達しなくていい。
評価されなくていい。
記録されなくていい。
もう一度拾って、ゆっくり回す。
今度は少しだけ続いた。
川の向こうで、子どもたちの声がした。
風が吹いた。
疲れているかどうかは、分からなかった。
分からないままでよかった。
その夜、ライフグリッドの社内システムには、また一つ、測定不能の表示が増えた。
翌朝には三つになった。
昼には十七。
夕方には、数えるのが難しくなった。
ダッシュボードの端で、赤でも青でもない空白が広がっていく。
その空白を、システムはエラーと呼んだ。
社員たちは、別の名前で呼び始めた。
休み、と。
了




