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疲労税控除――眠るほど税金が増える国

掲載日:2025/10/06

 疲れている人間は、国に貢献している。

 その一文が、厚生労働省と財務省の共同記者会見で読み上げられたとき、会場にいた記者の何人かは笑った。比喩だと思ったのだ。

 しかし大臣は笑わなかった。

「労働者の疲労は、これまで不可視の負担でした。長時間労働、通勤、育児、介護、慢性的な睡眠不足、精神的緊張。そうした社会を支える見えない努力を、国家が正当に評価する時代が来たのです」

 翌月、制度の名称が発表された。

 疲労税控除。

 国民一人ひとりに配布された腕時計型端末は、心拍数、睡眠時間、歩数、姿勢、まばたきの回数、音声の震え、通勤時の混雑ストレス、職場で受け取った通知の頻度まで記録した。

 それらはすべて、疲労スコアとして数値化された。

 疲労スコアが高いほど、翌年の所得税が安くなる。

 初年度、国民は戸惑った。

 だが、二年目には慣れた。

 三年目には、誰もが自分の疲労スコアを気にするようになった。

 朝の電車では、吊革につかまった会社員たちがスマートフォンを見ながら囁き合った。

「昨日、八十一までいった」

「すごいな。俺、七十三で止まった」

「立ち会議を二時間入れると伸びるよ。あと、昼休みにちゃんと休まないこと」

「休まないことって、変な話だよな」

「でも控除になる」

 その一言で、会話は終わった。

 控除になる。

 それは、この国で最も強い呪文になった。

 ◇

 美佳が勤める株式会社ライフグリッドは、制度の開始と同時に大きく伸びた会社だった。

 もともとは勤怠管理システムを売っていた小さな企業だったが、疲労税控除の導入によって事業内容は一変した。

 いま社内で一番売れている商品は、最大疲労設計、通称MFDだった。

 社員を違法に働かせるのではない。

 あくまで、合法の範囲内で、最も効率よく疲労スコアを高める勤務設計を提案する。

 たとえば、朝一番に重要度の低い会議を入れる。

 人間の集中力がもっとも高い時間帯を、あえて削る。

 昼休みの直前に確認作業を置く。

 食事の時間を五分ずらすだけで、端末は軽度ストレスを検出する。

 夕方には、返信の要らない通知を多めに送る。

 小さな緊張が積み上がり、疲労スコアは安定して上昇する。

 顧客企業は喜んだ。

 社員は疲れる。

 社員は控除を受ける。

 会社は「社員の経済的利益に貢献している」と説明できる。

 誰も損をしていない。

 少なくとも、書類の上では。

 美佳はMFD推進部の主任だった。

 入社した頃は、労務改善の仕事だと思っていた。社員が無理をしなくて済むよう、働き方を整える仕事だと信じていた。

 けれど三年経つと、会議で使われる言葉が変わった。

「この部署はまだ余白があります」

 部長はそう言って、画面にグラフを映した。

「平均疲労スコアが六十二。業界平均は六十八です。あと六ポイント取れます」

 余白。

 美佳はその言葉を聞くたび、胸の奥が冷える。

 余っているのは時間ではなかった。

 体力でもなかった。

 削られずに残っている何かだった。

「佐伯さん」

 部長が美佳を見た。

「A社向けの改善案、どうなっていますか」

「資料は作成済みです。ただ、少し見直したい箇所があります」

「どこを?」

「夜間通知の設計です。二十二時以降の通知を増やす案になっていますが、睡眠の質にかなり影響が出ると思います」

 会議室に小さな沈黙が落ちた。

 部長は穏やかに笑った。

「それが目的でしょう」

 誰も笑わなかった。

 笑う必要がないほど、それは当たり前のことだった。

「睡眠の質が下がれば、翌日の疲労スコアは上がる。スコアが上がれば控除額が増える。社員の可処分所得は増えます。弊社の提案は、顧客企業の従業員利益に資するものです」

「ですが、健康面のリスクが」

「健康診断を組み込みます」

「診断を入れても、疲労そのものが減るわけではありません」

「佐伯さん」

 部長の声が柔らかくなった。

「健康という言葉は便利です。硬い提案を、やわらかくできる」

 美佳は黙った。

 画面の中で、グラフの赤い線がゆっくり上へ伸びていた。

 ◇

 昼休み、同期の拓瑠が屋上にいた。

 彼はフェンスにもたれ、コンビニのゼリー飲料を片手に端末を見ていた。頬がこけ、目の下には影がある。それでも口元だけは明るかった。

「美佳、見て」

 差し出された画面には、疲労スコア九十二と表示されていた。

「高すぎる」

「昨日、深夜二時まで資料作って、四時に起きた。朝は混雑率百八十パーセントの電車。昼はゼリーだけ。すごくない?」

「すごくない」

「来年の控除額、試算したら二十七万円」

 拓瑠は笑った。

「二十七万円だよ。ほぼボーナスじゃん」

「体を壊すよ」

「大丈夫。壊れる前に控除される」

「冗談になってない」

「冗談じゃないからな」

 拓瑠は空を見上げた。

 薄い雲が、ビルの隙間でほどけている。

「母親の介護費、上がったんだ。妹も専門学校行きたいって言ってる。普通に働いてても足りない。でも疲れれば戻ってくる。変な国だけど、使えるものは使わないと」

「拓瑠」

「わかってるよ」

 彼は笑ったまま言った。

「おかしいってことくらい」

 その顔を見て、美佳は言葉を失った。

 拓瑠は、自分が損なわれていることを知らないわけではなかった。

 知っていて、削っていた。

「車、買おうと思ってたんだ」

「車?」

「昔から欲しくてさ。中古でいい。母親を乗せて、海まで行く」

「いいじゃない」

「でも、最近思うんだよな」

 拓瑠は端末の画面を暗くした。

「車を買って、俺、どこまで運転できるんだろうな」

 その冗談は、風に流れなかった。

 美佳の胸の中に残った。

 ◇

 疲労スコアは、やがて挨拶になった。

「おはようございます」は「ご加点さまです」に変わった。

 社内のチャットでは、誰かのスコアが九十を超えると拍手のスタンプが並んだ。

 月末になると、部署ごとの平均疲労スコアランキングが発表された。

 一位の部署には、健康支援金が出た。

 健康支援金で購入されたのは、高性能な仮眠チェアだった。

 十五分だけ眠れる椅子。

 十五分以上眠ると、スコアが下がる。

 美佳は、その椅子に座るたび、眠りではなく処置を受けている気分になった。

 ある日、社内ポータルに新しい告知が出た。

 疲労貢献賞の新設について。

 年間を通じて高い疲労スコアを維持し、組織の生産性および社会的控除効果に貢献した社員を表彰する。

 副賞は特別休暇三日。

 ただし、取得は翌年度以降、業務に支障のない範囲で調整。

 美佳は告知を読み、思わず笑ってしまった。

 疲労を競わせて、賞品に休みを渡す。

 けれどその休みは、すぐには取れない。

 誰もが疲れていた。

 疲れているのに、休むことだけが遠かった。

 ◇

 拓瑠が倒れたのは、十二月の朝だった。

 会議室の前で、ノートパソコンを抱えたまま膝から崩れたという。

 救急車が来たとき、彼の端末には疲労スコア九十八が表示されていた。

 社内では、すぐに通知が流れた。

 社員の体調不良に関するお知らせ。

 個人情報保護のため詳細は伏せられた。

 美佳が病院に着いたとき、拓瑠は集中治療室にいた。面会はできなかった。廊下の椅子に、彼の妹が座っていた。

 まだ十代の顔だった。

 両手でスマートフォンを握り、画面を見つめている。

 美佳が声をかけると、妹は顔を上げた。

「兄の会社の方ですか」

「同期です。佐伯美佳といいます」

「兄、いつも言ってました。来年は楽になるって」

 美佳は答えられなかった。

「疲れたぶん、お金が戻るからって。だから今年だけ頑張ればいいって」

 妹の声は震えていなかった。

 泣く前の人間は、案外、静かだ。

「今年だけって、何回も言ってました」

 美佳は廊下の白い壁を見た。

 白すぎて、何も書けそうになかった。

 拓瑠は三日後に死んだ。

 会社から送られてきた弔意文には、こう書かれていた。

 深い哀悼の意を表します。

 彼の勤勉な姿勢と高い責任感は、全社員の模範でした。

 なお、当社は今後も社員の健康管理体制をより一層強化してまいります。

 数日後、財務処理部から別の資料が回ってきた。

 死亡退職に伴う控除処理、および高疲労継続勤務者に関する特別償却の確認。

 特別償却。

 美佳はその四文字を見たとき、指先が冷たくなった。

 人が死んだ。

 なのに、書類の中では、彼は償却されていた。

 削りきったものとして。

 ◇

 拓瑠の葬儀の帰り、美佳は駅前の喫茶店に入った。

 喪服のまま座ると、店員が少しだけ目を伏せた。

 注文したコーヒーは苦く、ほとんど飲めなかった。

 スマートフォンには、会社からの通知が溜まっていた。

 緊急確認。

 資料修正依頼。

 明朝会議のアジェンダ。

 疲労スコアは八十九になっていた。

 端末が震える。

 本日の疲労状態は良好です。

 控除見込み額が上昇しました。

 美佳は腕から端末を外そうとした。

 だが、外せなかった。

 外すと、未計測時間が発生する。

 未計測時間が増えると、会社に通知が行く。

 会社に通知が行けば、面談になる。

 面談では、必ずこう聞かれる。

 何か困っていることはありますか。

 困っている。

 そう言えばいい。

 けれど、困っていることを言葉にした瞬間、それは支援対象になり、管理対象になり、改善計画に組み込まれる。

 悲しみまで、効率化される。

 美佳は端末をつけたまま、コーヒーの表面を見つめた。

 黒い液体に、喪服の自分が映っている。

 疲れている顔だった。

 疲れた顔をしていることに、少しだけ安心している自分がいた。

 そのことが、一番怖かった。

 ◇

 年が明けると、拓瑠は表彰された。

 もちろん、本人はいない。

 疲労貢献賞、特別功労枠。

 社内ホールには、彼の写真が映し出された。入社式の日に撮られた写真だった。頬はまだ丸く、目の下に影もない。

 社長は壇上で言った。

「彼の働きは、私たちに多くの示唆を与えてくれました。疲労を見える化することは、人生を見える化することです」

 美佳は後方の席で、その言葉を聞いていた。

 隣の社員が小さく鼻をすすった。

 泣いているのかと思ったら、眠気をこらえているだけだった。

「今後、弊社は彼の志を継ぎ、より安全で、より効果的な疲労設計を社会に提供してまいります」

 拍手が起きた。

 美佳の手は動かなかった。

 式のあと、拓瑠の妹が遺族代表として控室にいた。美佳は短く挨拶だけしようと思った。

 しかし妹は、美佳を見るなり封筒を差し出した。

「兄の机から出てきました」

「私に?」

「たぶん」

 封筒には、美佳の名前があった。

 拓瑠の字だった。

 帰宅してから開けると、中には一枚の紙が入っていた。

 美佳へ。

 これ読んでるってことは、俺、たぶんけっこうまずいことになってるんだと思う。

 笑うなよ。自分でも馬鹿だと思ってる。

 でも、止まれなかった。

 疲れたぶんだけ戻ってくるって言われると、疲れない自分が悪いみたいに思えた。

 休むと損する。

 眠ると負ける。

 そう考えるようになったら、もうだめだった。

 美佳はたぶん、俺より早くおかしいって気づいてたと思う。

 でも、お前も止まれなかっただろ。

 だから頼む。

 俺のぶんまで頑張るな。

 俺のぶんまで休め。

 あと、車は買わなくていい。

 どこかに行くなら、歩いていけ。

 計測されないくらい、ゆっくり。

 最後の一行は、少し滲んでいた。

 美佳は紙を膝に置いた。

 泣くと思った。

 けれど涙は出なかった。

 その代わり、胸の奥で、何かが静かに外れた。

 ◇

 翌朝、美佳はいつもより一時間早く起きた。

 目覚ましではなく、自然に目が覚めた。

 端末は枕元で充電されている。

 画面には、今日の推奨行動が並んでいた。

 起床後三分以内に照明を最大化。

 冷水洗顔。

 通勤時は混雑路線を選択。

 朝食は糖質を抑制。

 始業前に未処理通知を確認。

 美佳は端末を見つめた。

 そして、電源を切った。

 部屋が静かになった。

 あまりにも静かで、自分の呼吸の音が聞こえた。

 美佳はカーテンを開けた。

 冬の朝の光が、床に細長く落ちている。

 照明はつけなかった。

 冷水で顔を洗う代わりに、ぬるい湯で手を洗った。

 朝食には、昨日買ったパンを温めた。

 バターを塗りすぎた。

 端末がないので、脂質過多の警告は出ない。

 出ないことが、こんなにも自由だとは思わなかった。

 駅へ向かう途中、いつもの近道をやめた。

 大通りを避け、住宅街の細い道を歩いた。

 小学生の列が横断歩道の前で止まっていた。旗を持った老人が、車の流れを見ている。

 美佳は足を止めた。

 誰に頼まれたわけでもない。

 アプリに記録されるわけでもない。

 地域貢献ポイントもつかない。

 美佳は老人の隣に立ち、手を上げた。

 子どもたちが渡っていく。

 ランドセルが揺れる。

 一人の子が、美佳を見上げて言った。

「ありがとうございます」

 美佳は少し遅れて、笑った。

「どういたしまして」

 その声は、久しぶりに自分のものだった。

 ◇

 会社に着くと、すぐに上司から呼び出された。

 面談室の机の上には、美佳の勤怠データが表示されていた。

 ただし、今朝の欄だけが空白だった。

「佐伯さん、端末が未計測になっています」

「はい」

「故障ですか」

「いいえ」

「では、なぜ?」

「電源を切りました」

 部長はしばらく黙った。

 意味を理解するまでに時間がかかったようだった。

「それは、規定違反です」

「はい」

「疲労状態が記録できません。控除申請にも影響します」

「申請しません」

「何を?」

「今日の疲労を、申請しません」

 部長は眉をひそめた。

「佐伯さん、感情的になっていませんか」

「なっています」

「一度落ち着いて」

「落ち着いた結果です」

 面談室の空気が硬くなった。

 部長は声を低くした。

「あなたは主任です。制度の意義を理解しているはずです」

「理解しています」

「なら」

「疲労を評価することと、疲労を作ることは違います」

 部長の表情が消えた。

「その言い方は危険です」

「危険なのは、疲れている人を褒めることです」

「会社としては、社員の利益を」

「拓瑠は死にました」

 名前を出した瞬間、部長は目を逸らした。

「その件については、非常に残念に」

「残念ではなく、結果です」

「佐伯さん」

「私たちが作った設計の結果です」

 面談室の外から、チャット通知の音が聞こえた。

 誰かが疲れている。

 誰かが褒められている。

 誰かが削られている。

 美佳は椅子から立ち上がった。

「今日は有給を取ります」

「急に?」

「はい」

「業務に支障が」

「出ます」

 美佳は初めて、はっきりと言った。

「でも、私は休みます」

 ◇

 その日の午後、社内ダッシュボードに異常が表示された。

 MFD推進部、主任、佐伯美佳。

 疲労スコア欄。

 測定不能。

 最初に気づいたのは、隣の部署の若手社員だった。

 彼は画面を見て、思わず声を上げた。

「測定不能って、何ですか」

 周囲の社員が集まった。

 誰も答えられなかった。

 疲労スコアは、低いか、高いかだった。

 正常か、異常かだった。

 健康か、不健康かだった。

 けれど、測定不能という欄は、これまで誰も見たことがなかった。

 やがて社内チャットにスクリーンショットが流れた。

 佐伯さん、端末外したらしい。

 やばくない?

 規定違反では。

 でも、測定不能って初めて見た。

 これ、控除どうなるの?

 損じゃん。

 損なのかな。

 誰かがそう書いた。

 その一言で、チャットの流れが止まった。

 損なのかな。

 誰もすぐには否定できなかった。

 ◇

 美佳は会社を出て、あてもなく歩いた。

 昼間の街は、思ったより明るかった。

 平日の午後に外を歩くのは久しぶりだった。スーツ姿の人々は足早に通り過ぎ、カフェの窓際では老人が新聞を読んでいた。公園では、小さな子どもが滑り台を逆から登ろうとして、母親に注意されている。

 どれも、記録されていない時間だった。

 美佳は公園のベンチに座った。

 鞄から拓瑠の手紙を取り出す。

 俺のぶんまで頑張るな。

 俺のぶんまで休め。

 美佳は紙を折り直し、名札の裏に挟んだ。

 そして、スマートフォンを取り出した。

 退職届を書くつもりはなかった。

 告発文を書くつもりもなかった。

 ただ、社内の共有フォルダに、一つのファイルを作った。

 タイトルは、

 最大疲労設計に関する改善提案。

 美佳は少し考えてから、「改善」を消した。

 最大疲労設計に関する廃止提案。

 本文の最初に、こう書いた。

 疲労は資産ではない。

 人間は、償却できない。

 そこまで書いて、手が止まった。

 こんな文章で何かが変わるとは思えなかった。

 制度は大きい。

 会社は強い。

 疲れている人間は、疲れているほど抵抗できない。

 けれど、美佳は続きを書いた。

 拓瑠の名前は出さなかった。

 彼を資料にしたくなかった。

 代わりに、制度の仕組みを書いた。数字を書いた。夜間通知の影響を書いた。仮眠を十五分に制限する設計の危険性を書いた。疲労スコアを競わせる社内文化が、休むことへの罪悪感を生んでいると書いた。

 最後に、こう書いた。

 疲労を測ることが必要な場面はある。

 しかし、疲労を増やす設計は、労務管理ではない。

 それは、人間を削る技術である。

 送信ボタンを押す前に、少しだけ迷った。

 迷った時間は、どこにも記録されなかった。

 美佳は送信した。

 ◇

 翌日、美佳のアカウントは一時停止された。

 その翌日、社内調査委員会が設置された。

 一週間後、ライフグリッドの内部資料が匿名掲示板に流出した。

 美佳が流したのではなかった。

 誰が流したのかも分からなかった。

 ただ、資料の中には、彼女の廃止提案に似た言葉がいくつも赤線で引かれていた。

 疲労は資産ではない。

 人間は償却できない。

 ニュースサイトが取り上げた。

 テレビが報じた。

 国会で質問が出た。

 政府は制度の見直しを検討すると発表した。

 検討中。

 以前の美佳なら、その言葉に失望しただろう。

 けれど今は、少しだけ違った。

 検討中とは、何もしないための言葉にもなる。

 だが、止まっていたものが、初めて向きを変える前の言葉にもなる。

 美佳は自宅の机で、電源を切った端末を見ていた。

 端末はもう震えない。

 控除額も出ない。

 疲労も褒めない。

 ただの黒い板だった。

 窓の外で、夕方の光が薄くなっていく。

 美佳は立ち上がり、靴を履いた。

 どこへ行くかは決めていない。

 歩数を稼ぐためではない。

 ストレスを調整するためでもない。

 疲れるためでも、疲れないためでもない。

 ただ、歩きたかった。

 駅とは反対方向へ進む。

 小さな商店街を抜けると、川沿いの道に出た。

 水面が夕陽を細かく砕いている。

 美佳は足を止めた。

 ポケットの中で、古いドラムスティックに指が触れた。

 学生時代に使っていたものだった。いつから鞄に入っていたのか、自分でも覚えていない。

 取り出して、軽く回してみる。

 うまく回らなかった。

 指から滑り、地面に落ちた。

 美佳は笑った。

 下手になっている。

 けれど、下手でいいと思った。

 上達しなくていい。

 評価されなくていい。

 記録されなくていい。

 もう一度拾って、ゆっくり回す。

 今度は少しだけ続いた。

 川の向こうで、子どもたちの声がした。

 風が吹いた。

 疲れているかどうかは、分からなかった。

 分からないままでよかった。

 その夜、ライフグリッドの社内システムには、また一つ、測定不能の表示が増えた。

 翌朝には三つになった。

 昼には十七。

 夕方には、数えるのが難しくなった。

 ダッシュボードの端で、赤でも青でもない空白が広がっていく。

 その空白を、システムはエラーと呼んだ。

 社員たちは、別の名前で呼び始めた。

 休み、と。

 了



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