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疲労税控除

作者: 妙原奇天

 昼のニュースに、青い数字が並んだ。

「来年度から疲労税控除(HDC)を導入します」

 司会者の声はやさしい。疲れている時間が長いほど、翌年の所得税が安くなる——遅くまで働いたあなたを国がねぎらう仕組み。

 画面の隅にシミュレーターが現れる。睡眠時間のスライダーを左に寄せると、税額がすっと下がる。右に戻せば、税額はふくらむ。

「控除は“疲労スコア”で算定。生体指標、就労ログ、睡眠の質、移動負荷などを総合評価します」

 司会者の背後で、笑顔の親子の写真が切り替わった。テロップが添える。《疲れても、暮らせる》


 ミカは台所でスマホの電卓を叩いた。家賃、光熱費、ローンの利子。シミュレーターの控除見込みを乗せると、足りない金額が消えた。

 ため息が喉に上がり、彼女はそれを飲み込んだ。ため息は、まだ課税対象ではない。


 午後、人事から段ボールが届いた。腕時計型のセンサー、キーボード圧センサー、椅子の微振動計。

 会議室で、人事部長がスライドをめくる。

「これで疲労を可視化します。無理は禁物。わが社は“最大疲労設計(MFD)”を導入し、健康的な節税を目指します」

 健康という言葉は便利だ。たいていの硬い提案を、やわらかくする。


 夕方、社内ダッシュボードに部署別のスコアが現れた。ゲージは赤(疲労が少ない)から青(疲労が多い)へ滑らかに連続している。隣のチームが青に寄った。拍手の絵文字が飛ぶ。

《チームB:平均スコア 78 えらい!》

《残業の工夫、共有お願いします》

 工夫、という単語が小さく光った。工夫は、たいてい時間を食べる。


 帰り道、駅のポスターが増えていた。

《疲れている、が効いてくる。》

《眠れない夜は、明日の控除。》

《がんばりの値引き、はじめました。》

 語尾はやさしいのに、字体は固かった。


 家に帰ると、壁が薄く光った。ウェアラブルが睡眠深度を訊ねている。

《もう少しだけ起きていれば、来年のあなたが笑う》

 ミカは笑い、スマホを伏せた。笑顔はスコアにならない。まだ。


     ◇


 導入から一週間で、街は計測の街になった。

 腕には、同じ黒いバンド。椅子は微細な揺れを拾い、エレベーターの待機時間でさえ数値化された。

 人事から「疲労衛生講話」の動画が配られる。

「照明は白すぎず、温度は覚醒域を保ち、立ち会議で適度な負荷を。カフェインは短時間覚醒に使い、深夜の短い仮眠で慢性疲労を維持します」

 言葉の中に、よく似た矛盾がいくつも並んでいた。維持する疲労。健康な負荷。やさしい残業。


 フロアの端に、銀色のカプセルが設置された。

 仮眠ポッド〈節枕〉。

 横になると、眠りに落ちる直前でやさしく起こされる。深い睡眠は“疲労回復”として控除に不利なので、やさしさは目覚めのためにある。

 目覚めた社員が、目を赤くして言う。

「これ、効きますね」

 なにに、とミカは訊けない。しずかに、効くのだ。


 朝礼が変わった。

 「おはようございます」ではなく、

 「ご加点さまです」

 が流行語になった。

 帰り際は、

 「よく削れました」

 になった。税金が削れる、という意味で。


 ウェアラブルの通知が震える。

《階段で帰宅すると+0.7pt》

《座席は窓側より通路側が高効率(微細ストレスの維持)》

《混雑は配当。遠回りで還元》

 遠回りの地図が開き、所要時間が伸びる。伸びたぶん、青が増えた。


 近所のカフェが「疲労カフェ」になった。店内はわずかに肌寒く、椅子の座面は硬い。長居をすると、レジで税率スタンプが貯まる。

「ご希望の硬さは?」

 店員が訊く。

「普通で」

 ミカは答える。普通という言葉は便利だ。相手を安心させ、自分をごまかす。


     ◇


 部署の同期、タケルは真面目で、限界ラインを踏むのがうまかった。

 残業が増えるほど青が濃くなる。彼は青を集め、コツを共有した。

《メールは分割送信(通知回数×微細負荷)》

《立ち会議は片足重心で骨格負荷を均等化》

《節枕→“浅い再覚醒”で回復阻害(控除に有利)》

 ミカは指の関節がうっすら痛むのに気づき、通知を切った。切ったことが記録された。削減機会の喪失として。


 月例の全社会で、人事部長が新しいポスターを掲げた。

《最大疲労設計(MFD)を達成。健康経営★★★》

 エントランスのガラスにステッカーが貼られる。「疲労最適化済」。

 入館証をかざす瞬間、ミカはほんの少し、胃が縮むのを感じた。その感覚は青に換算されたのだろうか。


 夜更け、タケルがチャットをくれた。

《計算した。来年、車が買える》

《おめでとう》

《正直、眠い》

《寝たら控除が減る》

《知ってる》

 画面に二人の沈黙が並び、やがてタケルの吹き出しが小さくひらいた。

《もう少しだけ》

 もう少しだけ、は、便利な言葉だ。


     ◇


 新駅が開業した。遠回り専用の乗り換えプランが話題になる。

 広告が言う。

《Detour for Deduction 今日の遠回りが、明日のゆとり》

 ゆとり。その単語は久しぶりに聞いた。

 週末、ミカは路線図を見つめ、遠回りの矢印を数えた。矢印の上に、青い点数が浮かぶ。点数は、きれいだ。


 街角では「疲労フェス」が開かれた。企業ブースが並び、疲労ブースターを試せる。

 立ち会議用の凸凹マット。少しだけ不快な温度のオフィス扇風機。通知が少しだけ遅延するスマホケース。

 「少しだけ」が溢れていた。

 少しずつ足され、少しずつ削られる。やがて、ちょうどが遠くなる。


 帰り道、タケルから電話がかかってきた。

 彼の声は早口で、ところどころ揺れていた。

「さっき、表彰された。チームの青率トップ。写真撮られた。……あ、でも、ちょっと——」

 ポケットの中で、ミカのウェアラブルが震えた。

《通話は疲労回復の恐れ(控除減)》

 彼女は通知をスワイプで消し、耳に手を当てた。

「なに?」

「……立ちくらみ。少し」

「救急——」

「だいじょうぶ。節枕に行く」

 通話が切れ、画面に青が増えた。


     ◇


 週明け、会社のロビーにパネルが立った。

《特別償却のご報告》

 沈んだ金色の縁取り。中央に、白い花の写真。下に、平仮名で名前があった。

 タケル、だった。

 膝が軽く抜ける。椅子の振動計が微かに反応し、モニターの隅で青がひとつ濃くなった気がした。

 社内チャットが静かに流れる。

《ご遺族への支援を——》

《彼の献身が、わたしたちの控除文化を支えました》

《高効率な働き方の象徴として——》

 高効率。

 スマホの画面に、政府広報のサムネイルが挟まる。

《特別償却:ご遺族の税負担を軽減》

《企業のMFD優秀事例に選定》

 指が震え、画面が小さくスクロールした。

 ミカはロビーのパネルの前で立ち止まり、黙って頭を下げた。青は、増えもしなかった。こういうときは、計測されないらしい。


     ◇


 年次の高効率節税企業ランキングの季節が来た。

 会場はホテルの大ホール。舞台袖に、国税広報AI〈ゼイム〉のスクリーンが立つ。

 司会が告げる。

「今年度、最も公平で効率的に疲労を社会還元した企業を表彰します」

 公平と効率。並べて言うと、なぜか強くなる。

 社長が壇上に上がり、ステッカーを受け取る。「健康経営★★★★」。

 拍手が起きる。音は少し乾いていた。


 スライドが切り替わり、国のダッシュボードが映る。

《平均疲労スコア:82(前年比+8)》

《医療費対GDP比:微減》

《税収中立》

 ゼイムの声がやさしく重なる。

「疲労税控除は、人々の努力をフェアに評価します。よく働き、よく疲れ、よく控除される社会へ」

 ミカは椅子の背にもたれ、息を浅くした。浅い呼吸は、青をほんの少し増やす。

 スクリーンの隅に、細い文字が流れた。

《注:特別償却件数(対前年度比+)/MFD優秀事例との相関》

 注は、やがて消えた。拍手が、また乾いた。


 帰り道、タケルの家の近くを通った。玄関の前に小さな花束が置いてある。

 通り過ぎる人たちが、目を伏せていく。伏せる時間は短い。短いほど、疲労は維持される。


     ◇


 翌週、ミカの部署に新しい加点施策が導入された。

 朝礼前に「遠距離ラジオ体操」。不思議な名前だ。

 会議の前に三駅分歩く。歩数は疲労の蓄積だが、心拍が上がりすぎると回復判定になる。

 歩く速度はアプリが指示した。「急ぎすぎず、落としすぎず」

 ミカの前を、灰色のスーツが列になって歩く。速度は似ている。

 遠くで、小学生の列が横断歩道を渡っていた。旗を持つ大人が、少し走って追いつく。走ると、青が減るのだろうか。彼は笑っていた。


 昼休み、社食の壁に小さなチラシが増えた。

《遺族向けガイド:控除と支援》

 表紙に、笑顔の税率ゲージが印刷されている。

 ミカは、しばらく眺めてから視線を外した。視線の滞在時間も、もしかしたら計測されているのかもしれない。


 夜、ミカは駅のホームで座らずにいた。椅子の計測が回復扱いになるからだ。

 ホームの向こうで、若い男の子が、古いドラムスティックを指で回している。指が何度も失敗し、床に落とし、また拾う。

 その下手さが、ふっとよかった。

 電車が入り、ミカは乗った。揺れで体が傾き、腕のバンドが微かに震えた。

 青が、また少し増えた。


     ◇


 年度末、国の総括が大きなスクリーンに映った。

《実質GDP:+2.1%(主因の一つにHDC安定)》

《国民健康コスト:微減(疲労の可視化が寄与)》

《税収:中立》

 その下に、淡色の注記が、一瞬だけ現れる。

《特別償却:効率指数との正の相関/政策上の課題※》

 ※は、すぐにページが切り替わり、見えなくなった。


 帰社すると、人事からメールが来た。

《皆さまのご協力で、最大疲労設計のKPIを達成》

《来期は“慢性軽度疲労”の安定化へ。回復させすぎない睡眠の工夫を共有》

 メールの最後に小さな一文。

《タケルさんの献身に敬意を》

 ミカは画面を閉じ、目頭を指で押した。押すと、涙の気配が散った。涙は、スコアに入らない。


 その夜、ミカは目覚ましを切った。

 壁のライトが、弱く抗議するように点滅した。

《睡眠質の向上は控除に不利》

 彼女はライトのプラグを抜き、窓を開けた。冷たい空気が入る。

 床に置いたドラムスティックを拾い、指で回す。

 何度か失敗し、床に落ちる。拾う。

 拾い上げるたび、音が出た。

 その音は、数字にならない。


     ◇


 朝、出勤のため駅へ向かう。遠回りの提案が表示される。

《今日の遠回り:+4.2pt》

 ミカは近道を選んだ。腕のバンドが、目に見えない顔をしかめた気がした。

 歩道橋の上で、風が強く吹く。髪が頬にかかる。

 信号が青に変わり、小学生の列が動き出す。旗を持つ大人が、また少し走った。

 ミカは、旗の先を見て、手を挙げた。

 その仕草に得点はない。

 それでも、誰かが進みやすくなる。


 会社に着くと、ロビーの一角に新しいパネルが立っていた。

《健康経営★★★★★(予定)》

 “予定”という言葉は安心する。まだ起きていないのに、もう決まっている。

 ミカは、ポケットから小さな紙を出した。手書きの字で、短く書いてある。

《休め》

 誰に宛てたのか、わからない。

 それでも、紙は折りたたんで、名札の裏に差し込んだ。

 名札は、今日も顔の近くで揺れる。揺れるたびに、青が、ほんの少し跳ねる。


     ◇


 年度の最終報告は、静かに締めくくられた。

 司会の声は、やはりやさしい。

「疲労税控除は、国民の努力を公正に評価し、経済に活力を与えました。企業は最大疲労を設計し、国は、過労死を——」

 画面が一瞬だけざらつき、字幕がわずかに遅れた。

 続きが流れる。

「——高効率な節税として、表彰しました」

 スタジオの拍手は短く、整っていた。

 スクリーンの隅で、注記が淡く点灯し、すぐに消えた。

《※政策上の課題:検討中》

 検討中は、やさしい言葉だ。先延ばしの気配が、やさしく包んでくれる。


 ミカはテレビを消し、窓を開け、しばらく風を入れた。

 腕のバンドが、静かに時刻を示している。

 数字は正確だ。それだけは間違いない。

 正確な数字が、まちがいを包むこともある。

 包まれたままのまちがいは、やがて、おだやかに根づく。


 机の端に置いたスティックを手に取る。

 指で回し、落とし、拾い、もう一度回す。

 落ちて、ひびく。

 ひびきは、計測されない。

 計測されない音が、今日だけは、やけにはっきり聞こえた。


— 完 —

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