1 見せる逃亡、見せない逃亡
位置関係ですが、王都グランダクタを東京日本橋だとするとデグウは埼玉県の大宮あたり、ヤツワは埼玉県の浦和あたりをイメージしています。カスカンベは埼玉県の春日部あたりのイメージです。ドゥサードはカスカンベの先から王家直轄領東の領境にある川を渡ろうと歩いています。
ダクタエックス王国の王都、グランダクタを脱出してから十日程が過ぎた。俺は今、山道を歩いている。馬車がようやく通れるぐらいの細道はやはり歩く者にもまた大変な道だ。
「俺の足取りは掴まれちゃいないようだな、追手の気配もないし…」
俺が気にしていたのは実家であるナーセル子爵家、またはマエナール辺境伯家からの追手であった。子爵家とすれば俺を廃嫡しヤブイシーに後を継がせられりゃそれで良いのだろうが問題はマエナール家のラフレシア嬢だろう。
俺の作っていた加齢臭対策のアイデアを活かした特製のボディソープ、あれが無いと二日か三日もすればラフレシア嬢は体臭を放ち始めるだろう。最初のうちは少し気になるくらいだろうが日が経てば経つほどニオイは強まる。幼い頃の皮脂などの分泌がそこまで多くない頃でも将来が不安視されたくらいだ。十代半ばになり皮脂などの分泌が盛んになっているのだからよりその体臭は強まっていると予想される。そうなればあの令嬢の事だ、なんとしても俺にボディソープを作らせようとするだろう。それこそ下男や奴隷にしてでも…、そうでなければラフレシアに未来はない。ゆえに辺境伯家の者を使うなりナーセル子爵家に働きかけるなりして行方を探させる…、そして実家の子爵家にしても手を貸すだろう。
「今のラフレシア嬢は耐えがたい悪臭を放つようになった辺境伯家生まれの娘に過ぎない。あれじゃもう人前には出られないし周囲の人間にとってもまさに鼻つまみ者だ。侍女にしてみたら世話をするのに肥溜めの中に顔を突っ込んでろと言われるようなモンだからな」
そうなると向こうは俺を躍起になって探すだろう。だから俺は足取りを掴ませないように人目に付くようにする時とつかないようにする時…、いわゆるオンとオフをハッキリさせる事にした。つまりは後を追わせる目眩しのルートと実際に移動するルートである。
……………。
………。
…。
王都を出てからすぐ俺は西に向かった。王都を守る天然の堀であり物流の運搬に欠かせない大河ビックリバー、その川沿いにある集落に向かって…。このあたりに住んでいる人は漁師だったり水運を用いた物資のやりとりを生業にしている、その物資の運搬をしている人に手間賃を出すからついでに乗せてくれと頼んだ訳である。
話はついて川沿いの集落から物資を積んで北上する船に乗せてもらい北に向かった。朝早くに出て夕方前くらいに着いたのは王都から北に30キロほどに位置するデグウの街の船着き場。デグウは王都の北に位置する街でこのあたりでは一番大きな街だ、川を使った物資の運搬の大きな拠点でありその川と近づいたり離れたりしながら同じように北に伸びる街道もまたデグウへと至る。また、デグウは物資の集積地としてでなく近隣の農村も含めて麻布や綿布の産地であり一大消費地である王都グランダクタに供給する役割も持つ。
そんなデグウの荷下ろしの拠点である船着き場を出るとすぐに俺は北門に向かってデグウの街から北に向かった。街の門衛はもうしばらくしたら日が暮れるのに今から街を出るのかいと話しかけてきたが急ぎの旅なもんでねと応じそのまま通してもらった。
門衛が言った通りすぐに日が暮れ始める、そこで俺は街からなるべく離れていない農家に声を掛ける。いくばくかの金で泊めてもらい朝早くに旅立つ、北に向かうふりをしてこっそりと南に向かった。この時間の農家は忙しいから他人に構っている時間はない、俺を送り出した後は作業の準備に追われているだろうからどこに向かうかなんて気にもしないだろう。そして昨日ぶりのデグウの街には入らず横をかすめるようにして南へ、さらに数キロ南にあるヤツワの町へと歩を進めた。
ヤツワの町はいわゆる宿場町である。デグウの街がメインの街ならヤツワはサブの町みたいな存在で例えば急な雨でデグウまで辿り着けないような時にこのヤツワに泊まったりする。そのヤツワにも用心の為に入らず迂回するような感じで俺は東に伸びる道を進んだ。明るくなってきた道をひたすら進む、今日が勝負所だと感じながらひたすら歩く。水も携帯用の食料も歩きながら食べる。あとは時々、塩を手のひらに取りペロリと舐めては水で流し込む。
「一歩でも先へ、一歩でも先へ…」
そう呟きなが先に進む。舗装されてない傾斜も凹凸もある道だから日本にいた頃のような感覚では歩けない、しっかりと地面を踏み締めて歩く。体感的には時速5キロも出ているかあやしいものだ、だけど足を動かした分だけ必ず前には進んでいる。
「目指すは東の大農村ショーブクの先…、領境の川を越えてその先の宿場か農村まで着けたらなあ」
カスカンベは王家の直轄領の最東端だ、領境の川を越えた先に行ければ領地持ちの貴族に与えられている土地だ。そこまで行けばナーセル子爵家にしてもマエナール辺境伯家にしても簡単には勝手が出来ない。これが王家直轄領なら王都から逃げ出した自家の不心得者を身内で捕らえましたといったところだろうが、他家の領内となれば私兵を動かすにしても一度は挨拶のひとつもしなければならない。そうなれば手間暇もかかる。
しかし、それでも相手の貴族が首を縦に振るかは別の問題だ。そもそも自領に他の貴族家の私兵がウロウロしていて気持ちが良いものだろうか?それに人探しが目的というのが真実かどうかも分からない、それを建前に自領の何かを探ろうとしているのではないか…貴族側がそんな風に考えるのが普通である。だからそう簡単に探索の許可は下りないだろうというのが俺の予想、その間に証拠も人の記憶も薄れていく…。それを期待して探索の手がこちらに近づいてきても時すでに遅しとなるのを狙っている。
そのアイデアは上手くいったようで追手らしい気配もなく、グランダクタ王家の直轄領を無事に離れる事が出来た。あとはなるべく人と接さず、追ってくるかも知れない奴らの裏をかくようにして食料などの補給や宿泊をしていく。そうすれば誰も俺を知らない、追跡のしようがなくなる。その間にどんどん進む。目指すはオウーエツ連合、グランダクタ王国の北東方面に位置する山の多い地域だ。グランダクタ方面からは交通の便が悪くあまり交流はない、俺は逃げるならこっちだと考え、ただひたすらに歩いた。そして十日後、無事に国境を越える事ができた。
「無事に抜けられたか…。だけどここからは未知の世界だ、気を引き締めていかないとな…。それと何をして稼いでいけばいいだろう?薬師なのはあくまでドゥサードだ、俺には薬の知識が…やっぱりないな。そうなると薬師では食ってけないな、それに薬師やってたら噂を聞きつけて追手が来るかも知れないな」
そうなると名前もドゥサードを名乗る訳にはいかないな、とりあえずダクタエックス王国を出たが考えなきゃいけない事はたくさんありそうだ。
「まあ、いい。考える時間はある、何をしていくかはこれから考えりゃ良い。それより今はあんな奴等と縁が切れた事をよしとしよう、山道を登りながら考えるか。この空みたいに俺の気分は晴れやかだ」
そう言って俺はまさに新しい一歩を踏み出した。…しかし。
ゴロゴロゴロ…。
「あ、やべえ…。雷鳴ってんぞ…」
なにやら地面まで震わせるような音がしてきたのであった。