12 懐かしい悪臭(ざまあ回)
「そ、そんな…。どうして…ワタクシが急に臭くなってしまったんですの…」
自室の床にガックリと膝をついてうなだれる辺境伯令嬢ラフレシア、その姿には常日頃の傲慢さはない。
「今までこんな事なんてなかったのに…」
すっかり落ち込んだ様子でラフレシアは呟く、誰に言うでもなく思わず心の弱さが出て来てしまったかのようだ。
「入浴だって毎晩欠かさず…、それこそ昨夜だって…。体の隅々まで洗わせましたのに…」
大量の水と薪を消費する入浴は大商人や貴族の特権だ。その理由は手間と金をかけて準備をしなければならないからだ。特に貴族の入浴は一人では入らない、侍女などに洗わせるのが一般的だ。これはただ単に貴族のステータスだからだとやらせている訳ではない、ちゃんとした理由がある。それは背中など自分自身では見えないところに傷とか腫れ物がないかを確かめる為だ。そう言えば昨夜の風呂に入る時、侍女はやや顔を背けるようにしてラフレシアの体を洗っていた…。さらに思い返せば学院では昨日から学友達がよそよそしくなり、今日は文字通り学友達とは距離が出来ていた。質問に向かった講師は逃げるように走り去り誰とも会話らしい会話は成立しなかった。
「も、もしかしてワタクシ…、今日いきなり臭くなったのでなく昨日くらいから…」
「は、はい…。たいへん申し上げにくい事ながら…」
部屋に呼びつけた若い侍女が応じる、やはり立つ位置の距離が遠い。具体的に臭いと言われた訳ではないがその取られている距離がラフレシアが臭いと雄弁に物語っていた。
「あ、ああ…、そんな…。ワタクシが臭いなんて…そんなの…、そんなの間違いですわ…。なんで…、なんで急に臭くなってしまいましたの…」
ラフレシアは茫然自失といった感じで呟く、その声に力は無い。
「お嬢様…、その事ですが…」
「ばあや、どうしたんですの?」
「私にはこのニオイ、少し懐かしく感じましてね…お嬢様」
目を細めながら侍女頭が呟く。
「え?」
「お忘れですか?幼い頃、御姉上様方から臭い臭いと言わていたのを…」
「そんな事…、あ…」
ラフレシアは思い出す、十年か…もう少し前くらいの記憶を…。少しは話せるようになり、母親の違う兄弟姉妹と接するようになった頃…。ラフレシアが近づいていくと姉達が避けた、理由を聞けば臭いからというもの。姉達から相手にされず自分付きの侍女にその出来事を話した事があったのを思い出す。
「で、ですが、ワタクシはつい先日まで臭いという事はなかった!それがなぜ急にッ…」
「ラフレシア様、ばあやの記憶によれば…」
人差し指と中指、二本の指をこめかみのあたりに当てて侍女頭は昔を思い出している。
「その…、なんと言いますか…お嬢様の体臭の事を考えるとなかなか夫が見つかりそうにないと懸念された御父上様がナーセル子爵家の御嫡子との婚約を急ぎ取り付けたのを覚えております。侯爵家にも引けをとらないとうたわれしマエナール辺境伯家の御令嬢であられるラフレシア様なれば御嫡子とは言え子爵家に嫁ぐというのはいささか…。ましてマエナール家とナーセル家は寄親と寄子の関係にございますればいかに結び付きを深めたいにしても格落ちの感は否めませぬ…」
「う…」
言われてみれば…、いかに石鹸という売れる物があるとはいえナーセル子爵家は羽振りの良い辺境伯家から見れば二つ下の爵位と言っても良いくらいの家格だ。つまりはラフレシアという欠点のある娘を下位貴族との結び付きに使う道具にした形になる。
「ですが、婚約者となられたドゥサード様はナーセル子爵領特産である石鹸をお持ちになって訪問された。輸送や保存を考えれば固形の石鹸の方が良いにも関わらず液体の…、まだ鹸化しきっていない物を…。これでラフレシアお嬢様の体臭は改善するであろうと…。誰もが眉唾ものの話だと思いました、ましてやドゥサード様はまだ子供でありましたし…。ですが…まあ、試しにと使ってみたところラフレシア様からニオイはしなくなりました。その後、ふさぎ込みがちだったラフレシア様はいつしか明るく快活にお育ちになり元気にお過ごしあそばされるよつになりました。あの時、ばあやはどれほど嬉しかった事か…」
「あ、あああ…」
思い起こされる幼い頃の記憶、今では何の気なしに使っていた液体の石鹸。その使い始めた経緯を…、婚約者となった何歳か歳上の少年が持ってきた見慣れない石鹸だという白いとろみのある液体…。
「で、ですが、入浴には同じ物を…。液体の石鹸はヤブイシー様が送ってくれたのに……」
「その石鹸、普段お使いの物と違うのでは?ドゥサード様は幼い頃より薬師を目指しておいででした。もしかすると幼いその頃から石鹸に何か特別な調合をしていたのでは?」
「ま、まさか…」
「きっとそうに違いありません、ラフレシア様!ドゥサード様に件の石鹸を送っていただくようにお願いしてみてはいかがにございましょうか?さすれば問題は解決するのでは…」
「そ、そうですわね!もはやあの方は下男か使用人、ワタクシの為に作らせれば良いのですから!」
「え、下男?使用人?お嬢様、何を…」
「な、なんでもありませんわ!誰か、急ぎナーセル子爵家に走りなさい!このラフレシアの為にドゥサードが作った石鹸を所望していると大至急伝えなさい!」
その命を受けマエナール家の者がナーセル子爵家に走った。しかしあの日以来ナーセルは家に戻ってはおらず、それどころか王都から出た形跡が見つかった。
「そ、そんな…。これでは…」
ラフレシアに起こった異変、それは命に関わるようなものではなかったが彼女の日常を壊しその将来をも変えていく。羽振りの良い貴族の娘は華やかな社交界で生きていたいもの…、しかし部屋を同じくするだけで吐き気を催す悪臭が漂っていてはそれも出来なくなる。
今までラフレシアがそんな世界にいられたのはドゥサードのおかげだった。しかし、そのドゥサードをコケにして捨てたラフレシアに華やかな未来が来るはずもない。このままでは貴族令嬢として終わりだ、ラフレシアは背中には冷たいものが流れるのを感じていた。