10 部屋の中に汚物?
「今日もヤブイシー様は来られてないのですわね…」
貴族学院の中でラフレシアはポツリと呟いた。男子と女子では学ぶ事が違うから常に同じ教室にいる訳ではない。ただ、共通して学ぶ講義もある事から異性の出欠が分かるといった具合だ。
「それなら…」
ラフレシアは級友である近いところにいる女生徒達に放課後にカフェにでも寄ろうと誘ってみた。実家の爵位も近くよく話をする令嬢達だ。しかし彼女達は今日はちょっと…と言葉を濁しそそくさと離れていく。なんだろうか…、どうにも今日は級友たちに距離を置かれているような気がする。特に昼食後くらいから…、何かあったかしらと思い返してみるがラフレシアにその心当たりはない。あるのはいつも通りの過ごし方をしていたという記憶だけだった。
……………。
………。
…。
翌朝もラフレシアはいつも通り侍女に着替えを手伝わせていた、昨日と同じ侍女だ。しかしその侍女は昨日の朝より明らかに顔を自分から背けている。まだ若いはずなのに眉間の皺が深い、実際の年齢より十や十五は上の年齢にすら見える。
「どうしましたの、アンヌ?何やら様子が…」
「な、なんでもありませ…ングッ!!グッ、グフッ、ゲホッゲホッ!!!」
アンヌと呼ばれたラフレシア付きの侍女は返事をしようとしたところで激しく咳き込み始めた。
「アンヌ、アンヌ!!ど、どうし…」
「も、申し訳…ゲフッ、ゲフッ!う…うぷっ…、お…お嬢様…、私は気分が…、申し訳…失礼いたしま…すっ!!」
それだけ言うと侍女アンヌは口元を押さえてダダダッとラフレシアの寝室から走り出ていった。早朝からラフレシアのそばにいる侍女はアンヌの他にはいない、したがって着替えを手伝う侍女もいなくなってしまった。待っていても仕方がないのでラフレシアは一人で着替えをした。朝食をとって馬車に乗り込む、アンヌはどうしたのかと他の侍女に尋ねると気分が悪くなったので寝込んでしまったという。代わりに他の侍女が馬車に乗り込みラフレシアに同行した。
その馬車の車内で乗り合わせた侍女は何かに耐えるように辛そうな顔をしている、下を向いて唇を噛んで眠気と戦っているような顔である。ラフレシアは侍女達の間に風邪でも流行り出したのかと考えた、それならアンヌのあの様子も付き添っているこの侍女の様子にも納得がいく。
そして学院にたどり着いていつも通りに過ごそうとすると昨日よりはるかにラフレシアの元へは人が寄ってこない。昼時になり誰か一緒に軽食でも…と声をかけようとした時には級友達は競うかのように部屋を飛び出していく、その勢いは軍記物語の城門を開けて守備側が打って出るかのようだ。さんざんたまった鬱憤を一気に晴らすかのごとくである、話す相手すらいなくなってしまったのでラフレシアは教室で帰り支度を急いでいる講師に分からなかったところの質問に行く事にした。講師は年配の男性であり、若い令嬢達ほど機敏な動きができなかったのであろう。
「失礼いたしますわ、分からないところがありますの」
ラフレシアが近づき話しかける。その瞬間、講師は捕まった…逃げ遅れたとばかりに絶望的な顔をした。だが、すぐに表情を引き締め直すと鬼の形相とでも言うべき顔をしてラフレシアに語りかける。
「も、申し訳…ない…。我が身内に…生き…るか…ググッ、死ぬか…今…まさ…に、そういう者が…いて…済まない…がッ、すぐッ…に早退…せねば…なら…なく…グウゥ…」
脂汗をかきながら絞り出すような声で年配の講師がラフレシアの元を離れようとする。朝から話し相手に飢えていたラフレシアだったが流石にそこまで言われては無理強いもできない、大人しく引き下がった。そしてその日、学院ではラフレシアに声をかけてくる者は皆無だった。
そしてロクにさよならの挨拶もできないほどに孤独となったラフレシアは放課後を迎えた、迎えに来た馬車に侍女の姿はなかった。体調を崩してしまったらしい。馭者が操る馬車の中、ポツンと座るラフレシア。屋敷に警備の兵たちはチラホラ見えるが侍女や女官の姿は明らかに減っている、これまでは手の空いた者は総出で自分をで迎えていた。しかし今日は自分に付いている者や近しい部屋の者しかいない。しかもその全員の距離が遠く俯きがちだ。
「朝からアンヌの調子は悪そうでしたし…、これは悪い風邪でも流行り出す前兆かしら…」
ラフレシアは朝、急に具合が悪くなったという自分付きの侍女の顔を思い出した。アンヌがタチの悪い風邪をひいた…そうだとすれば納得がいく、侍女たちがどこか元気なく俯き加減であるのは病院のせいであると…なかでもアンヌは激しく咳き込み吐きそうな様子も見せていた。
よくないですわね、学院ではもうすぐ試験の季節…。だけど、木々の葉も青々としてくるであろうであろうこの季節に風邪とは…、風邪どころかタチの悪い病気でなければ良いんですけれど…。ワタクシにうつったりしたら大変ですし…、そう考えたラフレシアは侍女達に指示を出す。
「荷物は持たなくて良いですわ、このまま部屋に向かいます。それと呼ぶまで部屋に侍る必要もありません、その時は呼びますから」
ラフレシアがそう言うと侍女達が少しホッとしたような様子を見せた。そのままラフレシアは自分で鞄を持ち自室へと向かった、侍女達は言いつけ通り少し離れたところをついてくる。
そして今日は自らドアを開けてラフレシアは部屋へと入った、すると彼女はたちまち異変を感じた。部屋の中に鼻をつくなんともいえない悪臭が漂っている。
「な、なんなの…?耐えられないニオイがしますわ!長いこと洗っていない馬のような…。ワ、ワタクシがいない間に掃除をしてなかったんですの?それとも汚物でも撒き散らしたとでも言うのかしら!」
ラフレシアは腹を立てテーブルに置いてあるハンドベルを手に取るとすぐに鳴らした。チリリンというような優しく優雅なものではない、乱暴に振り回したような音を立てる。
すぐに侍女がひとりやってきた、ハンドベルの音が乱暴だったからかラフレシアの機嫌が悪いのが分かっているのだろう。緊張した面持ちでラフレシアの言葉を待つ、その顔色は悪い。
「今日は部屋の清掃をしていないんですの!?いえ…見た目は綺麗だけど何か汚物でも撒き散らしたのかしら、耐えられないニオイが残っていますわよ!」
そんな強い口調でラフレシアは侍女を叱りつける。
「あの…、その…」
侍女は何か言おうとはしているのだがどうにも言い出せずにいるようだ。そんなはっきりしない態度にラフレシアのイライラはさらに増していく。
「なんなの!?早くおっしゃい!」
ラフレシアの口調がきつくなる、それを受けて侍女はさらに黙り込む。そんな時、ラフレシアの居室に入ってくる者がいた。古株の侍女頭、かつて幼少の頃のラフレシアお付きの侍女であった事もある老齢の女性である。現在はお付きから外れているので滅多に部屋に来る事はなかったがそこらやはり慣れたもの、久々のラフレシアの部屋にスッと馴染みやんわりと口を開いた。
「どうなさいましたか、お嬢様。部屋の外までお声が洩れております」
「…ばあや」
怒りが心に満ちているラフレシアだが幼い頃の自分を背負ったり世話をしてくれた相手にはあまり強い事も言えないのか口調が落ち着いたものへと変わった。
「なんでもありませんわ。ただ、ワタクシが部屋に戻ってみたら耐え難いニオイに満ちていまして…。掃除はしているようですが、それならこのニオイの原因はなんなのかと…、そこで何か汚物でもこぼしたのかとその者に問うておりましたの。ですけど答えようとしないから…」
「…ラフレシアお嬢様、その理由は…」
年配の侍女頭が言いにくそうに呟いた。
「知っていますの?それなら早く教えなさい。なんでこんなに不快なニオイに満ちていますの?いえ、不快などと持って回った言い方をするのも面倒ですわね!一言で言えば臭いですわ!」
「臭い…ですか。では大変申し上げにくいのですがその原因は…その、お嬢様にありそうかと…」
言いにくそうに老女が問いに応じていた。