【第2章】21話「日も暮れて」
金村組の屋敷内の堕天使、鏡獣ともに掃討され尽くした。組長に若頭、その他幹部もお縄に付いた。清掃班やらが後始末を行なっている。椿らはどこか肩透かしを食らった気持ちであったが、作業する人々を見守っていた。菊池が近づいてくる。
「やあ学生のみんな。今回はかなりの強敵だったが、何とか乗り越えることができたな。以前より皆強くなっているな。この調子で、一流呪い師…ひいては魔術師になれるよう、頑張ろうな」
「「「「はい!」」」」
元気の良い返事に、菊池は満足そうに笑った。すると、金村組幹部の者がこちらに近づいてきていた。幹部らは捕まって連行されたはず。学生らが身を強張らせるが、菊池はにこやかに手を振った。
「お疲れ〜。案内ありがとな」
「全然。良いってことよ!」
あれ?聞き覚えのある声。椿らの視線が幹部に集まる。すると突然幹部が膝から崩れ落ち、口元や目から大量のどす黒い液体を吐き出し始めた。やがてその液体は意思を持っているかの如く蠢き始め、やがて人の形をとり始める。その人物は――
「ええっ、高鍋さん!?」
「やっほー椿ちゃん。おひさ⭐︎」
長い黒髪にギザ歯の菊池よりも身長が高い、黒い軍服を着た男。高鍋である。幹部の1人の体を乗っ取り、情報を公安や陸軍の方に流していたのである。神埼達が事前に準備ができていたのも、この男のおかげであった。椿の隣にいたムラサメがほう、と声を上げる。
『気配はするくせに見えぬと思えば。そこにいたのか、八十禍津日』
「ちょーっとムラサメちゃん。僕のことは高鍋って呼んでよ!」
『はいはい』
「ねえなんか塩じゃない!?対応!」
2柱がやんやと騒がしく会話する様を椿はどこか可笑しくて笑ってしまう。そんな椿に釣られて他の者も笑う。そんな中ハチは笑いながら戦慄していた。
(八十禍津日って…あのヤソマガツヒでいらっしゃいますよね…ルシファー様といい、どうして椿様の取り巻きはこう恐ろしいお方ばかりなのでしょう…恐ろしや…)
高鍋と椿の初対面時は疲労困憊で眠っていたため実質今回が初めて高鍋と会うハチ。日本神話には詳しく、なんならその目で見てきた身であるハチ。知らぬが吉という言葉があるが、ハチはそんな無知な椿やその同級生らを羨んだ。そんな時、百合がハッとしたように口を開く。
「そういえば!鷲の堕天使!ルルは!」
いつの間にか岩場で倒れていたはずがいなくなっている。生き残りを収容していた清掃班達からそんな話は聞いていない。ルルは強い堕天使だ。このまま放置は不味い。しかし間延びした声が響く。
「大丈夫だと思うよ。ルルって奴、椿を傷つけたんだろう?いつの間にかムラサメが消えちゃった。だから、多分大丈夫」
ムラサメに任せてしまって大丈夫なのかという思いはあるが、ムラサメなら何とかしてくれるだろうというのが全員の共通認識であった。菊池が大きく伸びをした。
「じゃあ、私たちも帰ろうか。疲れたろう」
「はい」
そして、各々の家路――といっても兵舎や寮だが――へとつくのであった。
*
「はあっ、はあっ、はあ…」
ルルは必死に逃げていた。こんなところで死ぬわけにはいかない。逃げなければ。どこに?…地獄しかないだろう。現世に留まるのはハイリスクすぎる。ベルフェゴールに見放された私を拾ってくれる者などいるのか?また、ひとりぼっちになるのか?こんなわたしを拾ってくれたベルももうこの世にいない。分からないが、とにかく今は現世から離れなくては。
ほとんどルルには力が残っていなかった。つまり、自力で地獄門を顕現させ、開くことは不可能。ならば既にある地獄門を開けばいいだけのこと。たしか、上野にあったはずだ。美術館に向かって走る。が。ルルの前に1人の人物が躍り出た。
『こんばんは。今宵は月が綺麗だね。…あ、今のは愛の告白じゃないよ、僕には決めた人がいるからね』
よく分からないことを言いながら現れた1人の男。あちこちに赤黒い染みができているカーキの軍服。街灯に照らされたその顔は、血塗れであった。しかし一見大怪我をしているような見た目に反し、その顔はどこか涼しげな笑みを浮かべている。この男は知っている。確か――
「菊池、孝太郎。でしたっけ。私のことを追ってきたのですね」
血塗れの男は笑う。
『残念、不正解』
意味がわからない。ルルは臨戦体制に入る。菊池孝太郎。恐ろしい祟り神。決して油断していい相手ではない。ルルが完全な状態であったとしても、敵わないだろう。
だが、今は違う。相手は大きな傷を負っている。倒すことはできなくても、逃げることはできるかもしれない…。そんなルルの思考を読んだかのように血塗れの男は嗤う。
『僕の見た目は確かに菊池孝太郎だ。だが…見た目だけだ。私はムラサメと名乗っていてね』
シュッ!
ルルの鷲の爪が襲いかかるも、血塗れの男――ムラサメはひらりと躱す。
「何っ⁉︎避けられた⁉︎」
『ちょっと、まだ僕喋ってたんだけど』
「お前になど興味ないッ!」
ルルは必死に攻撃を繰り返す。だが、おかしい。当たっているのに、当たらないのだ。その爪は確かに顔を、胸元を、脇腹を抉っているはずなのに。手応えが、全くない。
『当たってるのに、何でって思ってるでしょ』
ムラサメの無邪気な声が聞こえる。ルルは攻撃を一旦やめ、距離を取る。ムラサメはにこ、と笑う。
『教えてあげる。僕は肉体と幽体を自在に変えられるのさ。肉体は分かるね?幽体っていうのは怪談なんかに出てくる幽霊みたいな体だね。実体がないから、すり抜けちゃう。僕はそれを腕だけ幽体、胸元だけ幽体、なんていう芸当ができるのさ』
誇らしげに笑うムラサメ。唖然とするルルにさらに畳み掛ける。
『君の攻撃はすっトロいからさあ。君の攻撃に合わせて被弾箇所を幽体にするだけ。手応えがないのはそのせいだね。まあ、仮に私の肉体に傷をつけられたとしても、どうということはないがな』
うふふふ、と楽しそうに笑うムラサメ。ルルは途中から理解しようとすることを諦めた。目の前にいる男は、自分より遥かに格上。遊ばれていただけに過ぎない。勝てない。
「ううっ、ううううう……」
『ええ、泣いちゃった』
「お願い…命だけは…あなたの、軍門に下るから…命だけは、命だけはとらないで…」
ルルは敵前であるにも関わらず声を上げて泣きながら命乞いをする。するとムラサメはふう、と一息つくとルルの元へ歩み寄り、そして抱擁した。
「――ッ!?」
『居場所がないんだよね。本当は寂しがりやなんだよね、君は。誰かに……愛して欲しかったんだよね。ひとりぼっちなんだよね。こうして、誰かに抱きしめてもらいたかったのだろう?』
「…抱きしめて、欲しかった…」
ルルは自分より遥かに大きい身体の、それも意外にがっちりとしたムラサメの胸の中で顔を埋めて泣き続けた。よかった。これなら殺されることはない――そう確信したとき、ムラサメがくつくつと喉の奥から笑い出した。傷ついた者にかける笑顔ではない、嘲笑の笑い声――
『ああ、かわいそうに、かわいそうに。僕もちょっと前まではひとりぼっちだったよ。でも今は違う!君と違って!』
「……?」
事態を飲み込めず、顔を上げるルル。ムラサメの顔は邪悪な笑みに歪んでいる。
『でも当たり前だよね。君は悪い奴なんだし。孤独で、無様で。君にお似合い。でも僕は優しいから君の願いを叶えて殺してあげよう』
「――え」
ミシリ。
「うが…っ⁉︎」
『抱きしめて欲しかったのだろう。ならば、このまま締め殺してあげよう』
「や、やめっ…うっ、うぐぅ…!」
ミシッ。メリメリメリ。グキッ。
「離……ぁあ…!ああああっ!」
メギッ、メギッ。ゴリッ。
呼吸がままならなくなる。苦しい。苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい。
「か、かひゅ…かひゅぅっ……」
酸欠状態にあり、且つ涙で視界が霞む。色が抜けていく。ムラサメは口の端を吊り上げて笑っている。
『僕、君のこと嫌いなんだ。殺したいほど憎い。何せ、君は僕の大切な人を傷つけた。万死に値する。だから殺す』
「ご、ごめ…なさ…あ、あああっ!ゆる、ゆるし、て……」
『やーだ』
さらに腕に力がかけられる。必死に暴れて抜け出そうとしていたルルだったが、次第に動きが弱まっていく。折れた肋骨が肺に刺さっているのだろう、口から血を吐く。そして――
グシャッ。
ルルは、破裂して事切れた。眼球は飛び出し、口や鼻から血を垂れ流したまま。身体や腕がおかしな方向に曲がっている。ムラサメはルルの身体から手を離すとぐしゃっ、と音を立てて亡骸が地面に広がる。顔にかかったルルの吐き出した血を舐めながらムラサメは笑う。
『ふむ。堕天使の味とはこんなもんか…さあて、椿のところに行こうっと♪』
血溜まりに沈むルルのことなど、既に彼の眼中にはなかった。笑い声を上げながら、ムラサメは闇の中へと姿を消した。
こうして、堕天使達の夢は潰え、いっときではあるものの、再び平穏が戻ったのであった。
――そう、いっときの平穏。海の底で、何かが目覚めようとしていた。
――第2章 悪魔と堕天使編 終わり
2章はこれにて完結です。3章開幕までは三週ほどお休み期間といたします。9月15日に再開予定です。




