4 皇帝は朗々と語り出す
四人が去り、静まり返った部屋の中で、弘白はそっと口を開いた。
「畏れながら、ご説明いただけますか、陛下」
「いいぜ、泉妃のテクニックの凄いところはな、まず体位の」
「髪飾りの窃盗事件について、お願いいたします」
猥談を遮られて、茜雅帝は悲しそうに弘白を見遣った。
「俺の話したいことは聞いてくれないくせに、聞きたいことだけ聞くってのは不公平じゃねぇの?」
「私の職務内容に“猥談を聞く”というものはありませんので」
ちぇー、とふてくされた顔をして、茜雅帝は大きく伸びをした。それから、
「この髪飾りを盗んだのは泉妃の女官じゃない。嗇妃の女官だ」
あっさりと言った。
「はい?」
「翠妃も一枚噛んでるだろうな。おそらく、泉妃の女官を脅して動かしたのは翠妃だろう」
「え、あの、陛下、少々お待ちください」
弘白は疲れ果てている脳みそを必死に動かすように、天井を見上げてから、ようやく話を理解したようだった。
「つまり、この窃盗事件は、翠妃と嗇妃が共に謀って行なったことだ、と?」
「そういうことだ」
「しかし、どうやって」
「嗇妃の女官は警吏長と繋がっている。警吏長が協力すれば、なんだかんだと理由を付けて、特別酒好きなだらしない連中を宝物庫の夜警に回すことも簡単だろう。鍵も渡せるはずだ。あとは、そこに酒を差し入れて飲ませて、連中が前後不覚になっている内に、堂々と盗み出せばいい。公務の最中に酒かっくらって寝てました、なんて言えねぇだろ? むしろ逆に、“この件を上司にばらされたくなかったら協力しろ”ぐらいまでいけるな」
それを聞いて弘白は顔面を蒼白にした。何も考えずに断ったが、昨夜の曉舞の差し入れを、もし、断り切れていなかったら――最悪の未来を想像したのである。
「なに“心当たりがあります”って顔してんだよ」
「僕っ、いえっ、私は公務中に酒など飲みませんので!」
「知ってるよ。そんな度胸ねぇだろ、お前には」
信頼されていることを喜ぶべきか、度胸がないと思われていることを悲しむべきか、弘白は迷った。迷っている隙に話が進む。
「泉妃の女官には弟がいる。籍部の三等官吏だ。十年以上試験を受け続けて、この間ようやく登用されたばかりの男だ。一方、翠妃の女官は籍部の一等官吏と懇意にしている。脅して動かすのは簡単だったろうよ」
「言われた通りにしなければ、弟を頚にするぞ、と?」
「その通り」
茜雅帝が翡翠の髪飾りを手に取る。豪奢な装飾が施された国宝級の髪飾りも、この男の手の中に収まってしまえば、ただの引き立て役にしかなれない。
「泉妃の女官は、盗まれた髪飾りを泉妃の部屋に隠した。泉妃か他の女官が気付いて騒ぎになれば、あるいは宦官の捜索が入った時に見つかれば、言い逃れようがない物証になる。だが、泉妃は賢明だったな。誰よりも先にこの存在を見つけ、そのうえで沈黙を選び、俺を頼ったのだから」
「では、それは昨夜、陛下が泉妃から預かってきたのですね」
「少し違うな。一度やった後だから、預かったのは今朝だ。泉妃は一回が長いんだよ。まぁそこがいいんだが。あの手この手で楽しませてくれるから、どれだけ長引こうと飽きが来なくて」
「流れるように猥談に持ち込むのはご勘弁ください」
弘白が遠慮なく遮ると、茜雅帝は小さく舌を打って頬杖を突いた。
「しかしどうして、こんなことを」
「原因は泉妃の懐妊だ」
「懐妊? ご懐妊されたのですか」
「お前の目は節穴か? 毎日後宮の姫たちの体調報告書が上がってくるだろうが。それを見てれば、泉妃の月の障りが一ヶ月近く来ていないことに気が付けるはずだ」
この皇帝は後宮の姫たちのすべての体調をきっちり把握しているらしい。弘白は驚嘆が外に漏れないように、こっそりと唾を飲み込んだ。
「明日には医師が最終的な判断を下すだろう。そうしたらしばらくの間、渡りは禁じられる。だから昨夜がラストナイトだったんだ。あー、惜しい! 惜しいなぁ! これから十月十日も泉妃のテクニックを楽しめないなんて! つらすぎる!」
わぁっ、と机に突っ伏した茜雅帝。弘白は先ほど飲み込んだ驚嘆を吐き出したい気持ちになった。
溜め息をこらえ、重ねて問う。
「しかし陛下、それだけのことをいったいどこからお調べに?」
「後宮で、本人たちから聞いた」
茜雅帝はゆっくりと起き上がった。
「いいか、女というやつは二種類に分けられる。一方は惚れた男に本性を隠し、完璧に装うことこそ美しきとする女。もう一方は、惚れた男にはすべてを曝け出し、正直であることを美しきとする女。翠妃と嗇妃は前者で、泉妃は後者だ。それが分かっていれば、嘘を見抜き真実を抜き出すのは困難じゃない」
「本当ですか?」
「女のことで俺を疑うというのか?」
弘白は「滅相もない」と呟いた――主君を疑うとは何事だ、と言われなかったことについてなんとなく釈然としないものを感じながら。
いや、弘白が感じている“釈然としないもの”の正体は、それだけではなかった。
「翠妃と嗇妃にはお咎めなし、ですか」
ポツリと言った言葉に、茜雅帝は即答した。
「当然だろ。追及すれば証拠はすぐに挙がってくるだろうけどな。そうしたら、後宮の妃位を二人同時に追放することになる。翠妃と嗇妃を擁する派閥は大きいからな、あの一角が崩れたら、均衡が保てない」
「……」
「後宮の乱れは国の乱れに繋がる。そうしないために、多少の悪事は飲み込まねぇと」
「陛下……」
「それにお前考えてみろよ。あの至高の胸と極上の尻を同時に失ったらどうなるか。お前は触ったことねぇから分からねぇのも無理はないが、翠妃の胸は本当に」
「退勤時間を大幅に過ぎておりますので失礼してもよろしいでしょうか」
お面のような笑みを浮かべる弘白に、茜雅帝は涙をこらえて「ご苦労であった。下がれ」と言った。
退去の礼を取った直後。
「弘白」
茜雅帝の呼びかけ。空を裂く小さな音。投げ渡された小さな袋を、弘白は危うげなく右手で掴んだ。
「これは?」
「ちょっとした褒賞だ。遊郭の女にでも貢いでおけ」
「ありがたく頂戴いたします」
遊郭の女には貢ぎませんが、と弘白は心の中で言い捨てて、今度こそ部屋を後にした。
弘白の姿が完全に見えなくなってから、茜雅帝はふと椅子の背に体を預けた。腕を組み、思案に暮れる。
「赤土の王は左利き、か」
ぽつりと呟いたのは、古い詩だった。
『赤土の王は左利き 左に剣持ち右に馬
馬の上から首を断ち 赤土やさらに赤く染む』
かつて滅ぼした異民族。彼らの王様について歌ったものだ。
茜雅帝はさらにしばらくの間、体をゆらゆらと揺らしては、煙のような思考を追いかけていた。いくつもの断片的な情報と記憶が、浮かんでは消え、また浮かぶ。宦官は右頬を腫らしていた。しかし小袋は右手で受け取った。泉妃懐妊の情報は、医者と女官、皇帝とその側近しか知らない事実。果たして誰が翠妃や嗇妃に教えたのか。本当に気付いていなかったのか――
が、やがて、
「ま、俺はこの詩、異民の王は男とも寝る、って意味だと思ってんだけどな」
いつもの調子で呟くと、書類の山に手をかけた。