3 事件は急激に収められる
日がそれなりの高さになってから、茜雅帝はのろのろと後宮を出てきた。
「ああ、朝が恨めしい……」
欠伸混じりにそういうのはお決まりのこと。
弘白は欠伸を堪えて茜雅帝を迎えた。ほぼ着替えにしか使われていない皇帝の私室まで随行する。
皇帝が湯浴みと着替えを済ませ、お役御免を命じてくれたら、第二側近に引き継ぎをして、弘白の仕事は終わりになる。弘白はその瞬間を今か今かと待ちわびていた。昨夜、曉舞が散々話しかけてくるのをさばくのに、気力と体力のほとんどを使い果たしてしまったのである。堪えようのない眠気と疲れに、今にも瞼を下ろしてしまいそうだ。
ところが、そんな弘白を嘲笑うかのように、茜雅帝は椅子に座ることすらせず、
「ついてこい」
とのたまって歩き出した。
弘白の返事がしばし遅れたことを誰が責められようか。溜め息を完璧に飲み込み随行せしめた精神力には賞讃が贈られるべきであろう。
「……かしこまりました。どちらへ?」
「宝物庫だ」
「翡翠の髪飾りの件ですか?」
「いや、別件だ。泉妃への下賜品を選ぼうと思ってな」
「はぁ」
「何がいいかな……尽きぬ泉の如き清らかな愛を滾々と溢れさせる彼女の聖域に相応しい宝飾品があるといいんだが。やはりここはあの柔らかな姿態の艶やかさを髣髴とさせる真珠の首飾りか。それともあの滑らかな舌使いの、肌を伝う温みを連想させる――」
「陛下。慎みを」
普段より冷たい声に遮られて、茜雅帝はしゅんと口をつぐんだ。
皇帝のおわす鳳凰殿を出て、長い廊下を進む。宝物庫は宮殿の中でも奥まったところにある。本宮と後宮とを仕切る壁が一望できる位置だ。
予期せぬお渡りに、警吏たちは泡を食って跪いた。宝物庫の鍵は皇帝と警吏長しか持っていない。茜雅帝が懐から鍵を出し、弘白に渡す。弘白は謹んで受け取り、宝物庫の戸を開けた。
「弘白、入室を許可する」
「はっ」
宝物庫へは皇帝の許可を得た人間しか入れない決まりだ。皇帝から直接許可を賜る以外で入室するには、財部の官吏が作成した許可証に、皇帝の印が必要となる。泉妃が許可証を偽造したとしたら、いったいどうやって皇帝の朱印を誤魔化したのだろう。それとも警吏が見なかったのだろうか。証拠となるものはすべて燃やした、という噂だから、確かめようもないが。
虫除けの香が焚き染められている宝物庫の中は、ひんやりとした空気に満ちている。大小さまざまの桐の木箱が整然と並び、静謐な眠りに就いていた。
弘白は眠りを妨げることを恐れたように息を殺し、茜雅帝の後をついていった。一方、茜雅帝は何も気にしていない素振りで、むしろ揺り起こすかのように、ずかずかと奥に進んでいく。
「確かこの辺りにあったはずなんだけど、と」
独りごちながら適当な桐箱を開ける茜雅帝。弘白は何度目かも分からぬ溜め息を飲み込みながら、その手元を見ていた。宝物を触る茜雅帝の手つきは、言葉に反して慎重かつ繊細で、まるで女性の柔肌に触れているかのようだった。
「違った、ここじゃねぇや。じゃあこっちか?」
一つ目の桐箱を閉めて、二つ目に手を掛ける。
その途中、一旦懐の中に入った茜雅帝の手が、箱と箱の間に何かを置いた。
弘白は何度か瞬きし、瞼を擦って、それでもやはりそれがそこにあることを確認すると、ようやく口を開いた。
「……あの、陛下」
「なんだよ。欲しいものでもあったか? 遊郭の女に貢ぐなら重すぎない物がいいぞ。たとえばそうだな、細めの腕輪か何か――」
「いえ、陛下。そういうことではなく」
「じゃあなんだよ」
「今、そこに置かれたのは……」
「ん?」
弘白が指さした物を見て、茜雅帝はわざとらしい声を上げた。
「おお、これは、盗まれたと噂の翡翠の髪飾りじゃないか」
どうしてこんなところにあるのか、関係者たちに聞かないとなぁ。
茜雅帝はそう言ってニヤリと笑い、自らの手で置いた宝物を再びその手に収めた。
それから半刻もしないうちに、髭面の警吏長、財部の宝物点検者、宦官の長・慶尚、泉妃の女官・游々が茜雅帝の御前に集められた。
机の上に無造作に置かれた翡翠の髪飾り。
気だるげに頬杖を突いている茜雅帝。
それらを前に、四人は四人とも別々の様相で縮こまっていた。警吏長は堂々とした立ち姿を心掛けているようだったが、その握りこぶしはかすかに震えていた。財部の宝物点検者など哀れに思うくらい青ざめている。宦官の長は混乱している様子だ。拘束されたままの泉妃の女官は、うつむきがちに唇を噛んでいる。
「と、いうわけで、盗まれたと噂の翡翠の髪飾りが宝物庫の中から見つかった。つまり、盗まれてなどいなかった、ということだ。点検者の過ちだな」
「もっ、申し訳ございませんっ!」
指摘された点検者がその場に額づいた。
「わ、私の見落としが、このような騒ぎに……この罪、許されることでは――」
「いや、いいさ、気にするな。人は過つもの。ただし二度目はないがな」
茜雅帝は軽々と言い、それだけで点検者に対する興味は失ったようだった。目付きが急に炎を帯び、残った三人を睥睨する。
「それよりも重要なのは、この件を盗みと言いふらしたことだ。翡翠の髪飾りがなくなったことを口外したのは誰だ、警吏長?」
「それは――」
「噂を鵜呑みにして後宮を捜索したのは誰だ、慶尚?」
「陛下、お待ちください――」
「なぜお前は己の主を貶めるような供述をした、游々?」
「っ……」
「とまぁ、疑問は尽きぬが」
ふいに炎を収めて、茜雅帝は天井を仰いだ。
「要するにみな早合点と勘違いを重ねに重ねただけだろう。まぁそういうこともあろうな。そういうわけだから、警吏長、お前は三カ月の謹慎。慶尚、お前は一カ月の減俸。游々、お前の処断は泉妃に一任する。これを以てこの一件――」
「お待ちください、陛下!」
声を上げたのは警吏長だった。
「私は宝物の紛失を口外してなど」
「黙れ」
剣で切り付けられたように、警吏長はびくりと震えて固まった。
「俺になおも追及せよと申すか。構わんぞ、お前がそれで良いのなら。――よく考えてから口を開け」
茜雅帝以外に、次の声を上げるものはいなかった。
「じゃ、この一件は、これを以て終了だ。下がれ」