2 側近は長い夜を越える
後宮には十一の部屋があり、皇后一人・貴妃一人・妃三人・嬪六人の計十一人が、それぞれの部屋の主を務めている。無論、皇帝以外の男子は禁制だ。すると当然、陛下がお渡りになった場合、側近である弘白は後宮の外の詰め所で、朝まで待つことになる。さすがに夜勤は交代制だが、茜雅帝のようにほぼ毎晩渡られると、三日に一度は回ってくることになるのだった。
弘白は詰め所の小さな机に頬杖を突き、重苦しい溜め息をついた。茜雅帝がこの世の粋とよろしくやっている間、自分はこの狭い一部屋で無駄に一夜を費やさなくてはならないのだ。いくら公務の一環といえども、羨まずにはいられない。
「僕もう飽きたよ、龍」
「色好みの皇帝陛下様が相手じゃ仕方ねぇな。諦めろ」
龍は本宮側の守衛だ。弘白より一回り年上の彼は、門を閉じてしまうとやることがなくなるので、こうして弘白の良き話し相手になってくれるのである。
龍は湯呑に茶をなみなみと注いだ。
「下の話はあんまり上に登らねぇもんなんだな」
「窃盗事件のこと?」
「そう。俺の周りじゃ、毎日大騒ぎしてたぜ」
いわく、事が発覚したのは二日前。宝物庫から翡翠の髪飾りがなくなっていることに気が付いたのは、三日に一度の定期点検を行った財部の官吏だった。
「ってことは、盗まれたのは……涼月二十九日から一昨日までの間ってことか」
「そういうことになるな。で、その間、正規の手続きを踏んで中に入った奴はいなかった」
「泉妃付きの女官はこっそり忍び込んだのか。でも一体どうやって」
宝物庫には当然、厳重な警備が敷かれている。窓はなく、出入り口は一ヶ所のみ。そこには常に警吏が二名張りついていて、周囲を一名が巡回している。入り込もうにもそう簡単にはいかないはず、いや不可能なはずだ。
「さてな。噂じゃ、泉妃が許可証を偽造したって言われてるが」
「偽造?」
「テクニシャンなんだろ?」
ごふっ、と弘白は茶を噴いた。
「げっほ、ごほっ」
「おいおい、大丈夫か? どうしたんだ突然」
「いや……ごめん……て、テクニシャン、って何が?」
「いろいろと器用なお方だ、って噂だぜ。料理とか裁縫とか、貴人にしちゃなんでも器用にこなされるから、官吏の筆致を真似るのも余裕だろうってさ」
「ああ、なるほどそういう」
「なんだと思ったんだよ」
「いやぁ、別に」
まさか陛下の夜の事情をあけすけに話すわけにもいくまい。弘白はお茶を飲んで言葉を濁した。
「それじゃ、泉妃付きの女官が犯人で確定なんだ」
「ま、そうだろうな」
「……どうしてそんなことしたんだろう」
「さぁて。大方女同士の嫉妬かなんか、そんなところなんじゃねぇの? 陰謀渦巻く後宮のことだ、俺みてぇな下級官吏にゃ雲上の話よ」
「僕には割と他人事じゃないんだけどね」
「そうだったな、陛下の第一側近様。ああ、そういや言ってなかったな。第三書記からの異例の出世、おめでとう」
湯呑を持ち上げて乾杯の仕草をした龍に、弘白はちょっと目を伏せて「ありがとう」と応じた。
「どうして僕みたいのが取り立てられたのか、よく分からないんだけどね。赤毛なのにさ」
と、自分の髪をちょっと触る。硬くて乾燥した、褐色の髪。この赤毛は、かつて滅ぼしたはずの異民族の血が混ざっている証拠だった。ゆえに嫌われ、蔑まれるのが通例である。
「赤毛とか構わねぇくらい優秀だったってことだろ」
「そうでもないよ。今の第二側近のほうがよっぽど有能だ」
「じゃあ案外、年頃の近いのが欲しかったのかもしれねぇな――っと」
詰め所の戸が叩かれて、龍が立ち上がった。にこやかに入ってきた人物を見て、弘白は露骨に顔を歪める。
「こんばんは。良い夜だね、山査子の君」
「……曉舞殿」
すらりとした体形に色白の肌。女性のような柔らかみを帯びた仕草で、当然のように龍の椅子に腰かけたその男は、弘白に床を迫った例の宦官である。
弘白が鉄拳を見舞ったのは三日前のことだ。どうやら、右頬の腫れが引くのに伴って、手酷く拒否された記憶も薄まったらしい。彼はちらりと龍を見た。
「すまないが席を外してくれるかね」
「その必要はない、龍。いてくれ、いや、いろ」
弘白は命令口調で言った。この場では弘白が――宦官は少々特殊だが、とりあえず――最上位官だ。出ていきかけていた龍が、かしこまった口調で返答し、部屋の隅に立つ。
曉舞は垂れた目尻に艶っぽい微苦笑を浮かべた。
「そんなに警戒しないでおくれよ、山査子の君。私だって反省したのだから」
「反省?」
弘白は机の上に置かれたものをじろりと睨んだ。
「これが?」
「そうとも。ここ最近で最も美味しい酒さ。こんな長い夜には美味しいお酒が必要不可欠だろう?」
「公務中だ。飲酒はしない」
「そんな堅いこと言わずとも」
「決まりだ。持って帰れ」
暗に明に“とっとと帰れ”と言いながら、弘白はそっぽを向いた。
しかしその程度でめげる曉舞ではない。
「ならせめて、面白い話だけでも」
「話など結構――」
「翡翠の髪飾りが盗まれた事件のことなんだけどね」
つと目を向けてしまった弘白を覗き込み、「興味、あるだろう?」と曉舞は微笑みかけた。長く熟成させた果実酒のような微笑。すでに仕事を終えている曉舞は、髪をほどき、襟元をわずかに緩めている。首筋を伝って胸元にかかった黒髪が、肌の白さを際立たせていた。その先に膨らみが無いことを不自然に思うほど、いや、あるいは剥いてみればあるかもしれぬと思ってしまうほど、それは艶めかしく。
細長い指先が絹糸をすり抜けるように伸ばされて、弘白の頬に触れる。
――直前、弘白の左手が跳ね上がり、その指先を払いのけた。
「話、だけ、聞こう」
「つれないなぁ。私はこんなに本気なのに」
払われた指先に残る痺れを、曉舞はぺろりと舌で嘗めた。真っ赤になって睨んでくる弘白に微笑みを向ける。
「泉妃が盗ませたという髪飾りなんだけどね。今日、泉妃の部屋を隅から隅まで探したんだが、見つからなかったんだ。泉妃は知らないの一点張り。窃盗の命令もしていない、と。一方、警吏に拘留されている女官は、泉妃に確かに渡したと主張している。彼女の周囲もすべて洗ったが、当然見つからなかった。つまり――」
翡翠の髪飾りは、消えてしまったのさ。
そう言って、曉舞は徳利のまま酒を呷った。唇の端からこぼれた酒が、彼の胸元を濡らした。