1 事件はすでに動いている
導王朝の治世はそろそろ百五十年を数えようとしていた。異民族を滅ぼした乱世の王は、死してその道を幼子に譲り、策士は施策に、剣士は警邏に頭角を現し、国家の道行きを確固たるものにしていった。
その最先端がこれである。
「翠妃は胸が良い。最高だぜ、あの胸。大きさも弾力も程よくて、頭から埋もれれば桃源郷が見える。あれで感度もいいってんだから最高だよな」
「陛下」
「嗇妃は尻だな、尻。実に良い尻をしている。滑らかな肌は玉の如くでな、抱き寄せればこれがしっくり収まるんだよ。夜通し愛でていられるぜ」
「……陛下」
「泉妃は体型こそ微妙だが、テクニックは後宮随一で――」
「陛下!」
いよいよ堪らず李弘白は悲鳴のような声を上げた。対する茜雅帝は飄々たるもので、文書をめくる手も止めないどころか、目線すら上げない。
「なんだよ」
「畏れながら、慎みを」
「クソつまんねぇ確認作業に従事している最中なんだぜ? 手は止めてねぇんだ、猥談ぐらいさせろよ」
「猥談とのご自覚があるなら猶更、おやめください」
「ちぇっ、この堅物め」
などと幼い仕草で口を尖らせながら、左手で頬杖を突き、だらしない格好で文書をめくり続ける。その目が本当に文字を追っているのかどうか、弘白からすれば疑わしくて仕方がない。かといって何を言える立場でもない。比較的気安い関係であることを許されてはいるが、それはそれ、これはこれだ。すっと伸びた右手でぞんざいに捺された印鑑が、正しいものであることをこっそり祈るだけである。
「はぁあぁ、かったりぃなぁ。猥談を禁止されたら何話せばいいんだよ。今日の天気の話か? 本日はお日柄も良く、ってか? はぁー、くっだんねぇ、猥談のほうが楽しいだろどう考えても」
「楽しいのは陛下だけでしょう」
「え、お前、聞いてて楽しくねぇの? 我が国の粋が集まる後宮の夜の話だぜ? あ、分かった、お前、あの宦官と出来てんのか」
「なっ」
弘白の顔がかぁっと赤らんだ。
「まさか、違いますよ!」
茜雅帝は書類に目を落としたまま、ハンッと鼻で笑った。
「おやおや、そんなに必死になって否定することねぇだろ。散々言い寄られたらしいじゃねぇか。で、そいつと寝たのか?」
「寝てません! 断固拒否しました!」
勢い言い放ってしまってから、ふと弘白は我に返った。
「陛下、なぜその……そのことを、ご存知で?」
「そのことっていうと?」
茜雅帝はにやにやと聞き返す。いかに端整な顔立ちをしていようと、下卑た笑みは下卑た笑みだ。弘白の顔は再び真っ赤に。
「その……私が、ある宦官に……」
「声が小さくて聞こえねぇなぁ、何だって?」
「なぜ私がある宦官に迫られていたことをご存知なのですか!?」
ヤケクソ気味に叫んだちょうどその時に、簾の向こうから入室を求める小さな声が聞こえた。皇帝の許可を得て入ってきた部下は、弘白のほうをちらちらと見ながら追加の書類を置いて、そそくさと退室していった。
弘白はまだなおにやにやしている茜雅帝を、睨んでしまわないように気を付けながら見遣った。
「お前のその赤い髪はよく目立つ。思っているよりか数倍は人に見られていると思ったほうが良いぜ」
「見ていた者がいた、ということですか」
「そういうこと。それはもう熱烈に、熱心に、愛を説かれていたそうじゃないか。山査子の実の如き艶やかな髪の君、射干玉の種の如き煌々たる瞳の君、どうかこの小さな鳥に一夜の宿を――だったっけ?」
「なぜ一言一句……っ!」
「比喩が下手な男だな。いくらなんでも、山査子の実じゃあ赤すぎる。お前の髪を喩えるなら赤土だろ。その赤土を鋤いて種を蒔きたい、ぐらい言わねぇと。分かるぜ、比喩が下手だと萎えるよな」
「比喩が下手だったから断ったわけではないのですが……」
「壁を背に今にも接吻しそうな勢いだったと後宮で評判だったぞ」
ピロートークの良い話題になったようである。そういえば後宮と本宮との境目でやられたのだった、と思い返しながら、弘白は心中で舌を打った。
「どうやって断ったんだ?」
「……殴りました」
「ふはっ」
思わず、といった様子で噴き出した茜雅帝。
「あっはははは、案外やるじゃないか。虫も殺せないような顔してるくせに」
「男には興味ありませんので」
「女にはある、と」
「ええ、当然」
「なら――」
「天地がひっくり返っても手を出せない女性を除いて、ですが」
隙あらば猥談を始めようと構えていた茜雅帝は、先手を打たれて頬を膨らませた。
「どうあっても俺に話をさせないつもりだな、お前」
「ええ。聞いていられませんので」
「なんでだよ。皇帝陛下とその妃たちの甘い夜だぞ。もうちょっと興味持てよ」
「上司の夜の生活に興味を持てと言われましても……」
「倭国じゃそういう絵巻物が流行りなんだろ?」
「知りませんし、絵巻物と実体験の語りでは違うでしょう、生々しさが」
「より実践的で良いといえ、馬鹿者。それに――」
どうしても猥談をしたい陛下を遮ったのは弘白ではなく、がちゃがちゃと物々しい金属音を伴った足音だった。
警吏だ。弘白は筆を置いて立ち上がると、陛下の斜め後ろに控えた。茜雅帝はというと、ただ口をつぐんだだけでそれ以上気にした様子はまったくなく、淡々と書類をめくり続けている。
「失礼致します、陛下」
「入れ。何事だ」
「はっ」
警吏長を務める髭面の大男は、部屋の中ほどで立ち止まり、深く腰を折った。
「二日前、宝物庫から翡翠の髪飾りが盗み出されたことが発覚したのですが、その犯人を先ほど捕縛いたしました。処断の許可を賜りたく」
「証拠は」
「ただいま宦官が後宮を捜索しております。じきに盗まれた物が見つかりましょう。さすれば、それが動かぬ証拠になり得ます」
「報告書は」
「官吏が作成中です」
「許可はそれらが上がってからだ」
「しかし、陛下。進言をお許しいただけますなら――」
「国宝に手を出した悪賊だろうと法は法だ。例外はない。くだらないことを言うな」
髭面はぐっと喉を詰まらせるようにした。まさにそう言おうとしていたらしい。
弘白は何とも言えない気分で、この怜悧な横顔を盗み見た。ついさっきまで猥談に花を咲かせようと躍起になって、失敗してはむくれていた男と同じには思えなかった。その瞳は猛禽類の如くに鋭く、獲物と定めたならばほんのわずかな隙も見逃しはしない。
「ちなみに、窃盗のかどで捕縛されたのは誰だ?」
茜雅帝の質問に、髭面はすっと背を伸ばした。髭の先がピクリと動いたところまでは、弘白の目にも映った。
「泉妃付きの女官です、陛下。泉妃のご命令だったと供述しております」
なるほど、と茜雅帝は無感動に呟いた。
「そういやお前、嗇妃のところの女官とは上手くいってんのか」
「はい?」
唐突な指摘に目を白黒させる警吏長を、弘白は同情するような気持ちで眺めた。どこからともなく――おそらく九割方は夜の後宮から――あらゆる情報を仕入れてくる皇帝に、隠し事はできないのだ。特に色ごとに関しては。
「婚儀を交わすなら報告しろよ。祝儀ぐらい出してやる」
「は……はぁ、あの、もったいないお言葉です」
茜雅帝はニヤリと笑って「行け」と指を振った。
警吏長が首をひねりながら退出する。その姿が完全に消えるのを待ってから、弘白はようやく口を開いた。
「国宝の窃盗を命じたとなれば、妃位剥奪の上、追放ですね」
「ああ、あのテクニシャンを失うのは惜しいな。夜の楽しみが減る」
「気にするところはそこですか?」
「そこ以外にどこがある? しかし、そうとなったら、今宵は泉妃のところに決まりだな。ラストナイトをしっぽりキメて送り出してやるぜ。先触れ、よろしくな」
駄目だこの陛下、と思ったのを悟られないように、弘白はそっと目を伏せて返事をした。




