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どうして君は、忘れたの?

作者: 戸瀬つぐみ

 その列車は、各駅停車で私を過去へといざなう。


 大学三年生になる年の春休み、私は久しぶりに中学までをすごした生まれ故郷を目指していた。

 特急列車からローカル線に乗り継ぎ一時間、車窓から眺める景色は、どんどんと早緑の色が増えていき、懐かしい風景に心躍らせた。

 高校進学に合わせて家族で引っ越してしまったので、もう実家と呼べる場所はないけれど、当時一緒にすごした幼馴染は一人を除いて変わらずにそこにいるのだという。


 ——ねぇ、タイムカプセルのこと覚えてる?


 きっかけは幼馴染の一人、美里みさとからの一本の電話だった。

 小学校六年生の夏休みに、みんなで埋めたタイムカプセル。大人になったら掘り起こそうと約束をした。


「大人って何歳?」

 

 あの時そう言ったのは、リーダー格の草太そうただった。


「二十歳じゃない?」


 草太の双子の片割れ、麻衣まいが答える。


「じゃあ、八年後の今日だ」


 草太がさっさと決めてしまうので、私は慌てた。それを察したしっかり者の美里がすぐにとめてくれる。


「まって、まって。八年後の夏じゃ、はるかはまだ十九だよ」

「遥の誕生日って四月一日だもんな。エイプリールフール!」


 いたずら好きの圭介けいすけは、からかいまじりに言った。

 幼馴染の中で一番遅くに生まれた私の誕生日は、四月一日だ。他の春生まれの子とは丸一年歳が離れているのだけれど、法律では三月末ではなく、四月一日までに生まれた子供が同学年になる。

 加えて四月一日はエイプリールフールだから、私は友人達に誕生日を覚えてもらいやすかった。時にからかわれることもあったけれど。


「ちょうどいいや、こいつが二十歳になった四月一日に掘り起こして、みんなで花見しながら酒盛りしようぜ」


 やんちゃな草太らしい発想だったが、それぞれが「大人になった自分達」を想像して喜んだ。

 

 桜の木の下にタイムカプセルを一緒に埋めたのは、草太、麻衣、美里、圭介、私、そしてもう一人。あの時、楽しそうにそばで見守っていた男の子がいた。当時の私より小さくて色の白い、もの静かな男の子、ひかるだ。

 ある日、お母さんと二人で町にやってきた光。そしてタイムカプセルを埋めた夏休みの後、再び町を出ていってしまい、それきりになってしまった。

 

 彼にもう一度会いたくて、私はあの場所へ帰るのかもしれない。



   * * *



 私を乗せた電車がホームに着いた。


 三両編成の電車から降り立ったのは三人。私と、中年の女の人と、背の高い男の人。男の人は大きな荷物を持って、しわのない高そうなトレンチコートを着ていたので、地元の人間ではないような気がして無意識に目がいった。特に観光で潤っているわけでもない小さな町に、わざわざ訪れる外の人間は少ない。


 ホームは登りと下りあわせて一つしかないから、皆そのまま目の前の改札出口へ向かう。

 中学の時は駅員さんが切符を切っていた改札も、さすがに今は自動になっていたけれど、それ以外はあまり変わらない駅。

 小さなロータリーの向こうは、二十四時間営業ではない、昔は酒屋だったコンビニと、理容室、花屋などのいくつかの商店が並んでいる。


 私の目的地は、この駅から車を山の方に二十分ほど走らせた地区にある。   

 美里が電車の時刻に合わせて、車で迎えに来てくれると言っていたけれど、まだ車寄せにはそれらしき車は停車していなかった。

 時間ができてしまったので、思い立ちバッグから愛用の一眼レフカメラを取り出すと、駅舎にレンズを向けシャッターをきった。

 住んでた頃は、ただのボロ屋にしか思えなかった駅舎も、あらためて見ると趣があっていいものだと思う。そんな調子で駅周辺を気ままに撮影していると、レンズ越しにまたトレンチコートの男性を見つけた。

 先に改札をくぐっていたはずの彼は、戸惑ったように視線を巡らせていて、何かに困っているのだとすぐにわかった。そして、私の存在に気付くと、相手から声をかけてきた。

 

「すいません、タクシー乗り場はどこですか? 田子山地区に行きたいんですけど」


 目があった瞬間に、強い既視感に襲われた。ひかるだ。

 背は高く、やや細身だけれど決して貧弱とは言えない体躯、それに健康的に少し日焼けした肌。あの頃とは違う外見だけれども、顔、——特に目元は記憶にあるそのままの光だった。昔、彼がそうなりたいと願っていたように、すっかりと男らしくなった姿でそこにいた。

 

「あっ、あの……」


 なんて声をかけていいのかわからず、私はもごもごと言い淀んだ。

 だって、すっかり大人びた光の私を見る目は、とても表面的なものだったから。彼は私が誰だかわからないのだろうか。昔からあまり変わってないはずなんだけれど、なぜ気付いてくれないのだろう?

 少しがっかりしながら、「私のこと覚えていない?」と切り出すタイミングを失ってしまったので、仕方なく彼に真似て他人行儀に答えた。

 

「……えっと、タクシーは乗り入れている会社がないんです。個人でやってるおじさんがいるはずだから、その人に連絡するんですけど……、駅員さんに聞けば番号がわかるかもしれません」


 ちょうどその時、私達の前に小さな赤い車が停車した。助手席側の窓が開き、運転手の美里が席を飛び越えて、元気に手を振ってくる。


「遥! おかえり。待たせてごめんね」


 そういって謝まってくる美里の視線は、すぐに私から横に外れていき、何かに気付いたのかぱっと瞳を見開いた。


「って、え? もしかして光??」


 彼の方もはっとして固まった。

 美里は慌てて車から降りて、私達の方に駆け寄ってくる。


「もしかして、美里さ……ミサちゃん?」

「やだ、ほんとうに光なの? 懐かしい。光ってば顔以外まるで別人! すっかり男らしくなっちゃって。でもよかった! ずっと音信不通だったから来てくれないのかと思ってたよ。遥とは偶然一緒になったの?」

「遥?」

「うん、そこにいる遥。昔一緒に遊んで、タイムカプセル埋めた仲間じゃない」


 彼、光はようやく私をしっかりと見た。でも、その瞳には困惑の色が浮かんでいる。


「ごめん、ちょっと記憶が曖昧で……」

「え、じゃあ、草太や麻衣は?」


 美里が訪ねると、光はすぐに頷く。


「双子の兄妹だよね? ソウちゃんとマイちゃん」

「圭介は?」

「わかる。足の速いケイちゃん」


 彼は迷わず答えていった。


「でも遥のことはわからないの?」

「……ごめん。どうしてだろう」

 

 どうしてって、こっちが聞きたい。本当に申し訳なさそうに謝られると、余計惨めな気分になる。

 なんで、私のことだけ覚えていないなんて残酷なことを言うのだろう。いっそ光が意地悪だったり、高飛車な態度がにじみ出ているような男になっていたらよかったのに、成長した彼は表情だけは昔の優しい光のままで、「いい人」のオーラが漂っているから厄介だった。これでは文句も言うに言えない。


 結局光も、美里の車に乗って向かうことになった。

 運転は美里。軽自動車の後部座席はあまり広くはないから、助手席を光に譲って、私は一人で後ろに座った。

 どことなく流れる気まずい空気を払拭するために、美里が積極的に光に話しかけるが、私はいまいち乗りきれず、黙って二人の会話を聞いていた。


「光はどこに泊まるの?」

「前に住んでた家。まだ売ってないから」

「でもガスとか水道とかないでしょ?」

「ガスは止めてあるけど、掃除を依頼してたから水道は大丈夫。一晩だけだし、寝袋と携帯食持ち込んでる。なんとかなるよ」

「ええっ、折角だし誰かの家に泊めてもらいなよ。着いたらすぐみんなに連絡するから。夕飯もね、みんなで食べよう。まぁ、店は『やまだ屋』くらいしかないんだけど」

「ああ、『やまだ屋』ね。いいね、行きたかったんだ」


 車中の前方は、和気あいあいと会話が弾んでいる。「やまだ屋」は近所にあるお好み焼きの店だ。私だって、ネギがたっぷりと乗った特製ミックスを食べるのを楽しみにしてる。なのに、疎外感が増すばかりで、手持ち無沙汰の私は膝に乗せたカメラを無意味にいじったりして、時間をやり過ごしていた。


「遥は、まだカメラ好きなんだね」


 不貞腐れ気味の私に気遣ったのか、美里がミラー越しに話題を振ってきた。


「昔からよくお父さんのお古のカメラで写真撮ってくれたじゃない?」


 美里の言うとおりで、私はカメラマンの父の影響で子供の頃から写真が大好きだ。

 せっかくの美里の気遣いを台無しにしないように、私も大学で写真部に入っていることなど、近況をぽつりぽつりと話しはじめた。すると突然黙って聞いていた光が、何かを思いついたような呟きをもらした。


「そっか……」


 このタイミングで、妙に納得したような口ぶりだったから、私は思わず期待して聞いてしまった。


「思い出したの?」

「えっ…………あ、なんとなく?」


 この間合いは、嘘だとすぐにわかった。私の恨みがましい視線を感じたのか、光が振り返り謝ってきた。


「ごめん」


 また本気で謝られてしまい、「いいよ、別に」としか答えることができない。

 美里の努力むなしく、車内が再び重くるしくなってしまいそうだったけれど、ちょうど車は目的の田子山地区に入り、私はそのまま美里の家へ、光は以前住んでいた家に一度行くといい、別れることになった。

 その時美里と光は、この後の連絡を取り合うために携帯の番号を交換していたのだけれど、私はわざと距離を置いて、興味のないふりをした。


 光が引っ越してしまった後、どれだけ連絡先を知りたくても叶わなかった。けど今は、その気になれば気軽に知ることができる。時は流れ、変わっていくものなのだと実感させられた。




 光は小学校五年生のある日、お母さんと町にやってきた。もともとおばあちゃんの家だった場所に、母子二人で住みはじめた。東京にお父さんとお兄さんがいて、別々に暮らしていると寂しそうに教えてくれた。

 その時はよくわからなかったけど、多分、光の両親は離婚すれすれの別居をしていたのだと思う。

 

 六年生の夏休みの後、再び東京に戻ることになった光は、なぜか引っ越し先の住所も電話番号も教えてくれなかった。私たちの連絡先を光に渡すと「ちゃんと手紙を書くから、待っててね」と笑って言ったから、その時はさして疑問に思わなかった。

 

 でも、いくら待っても手紙が届かない。痺れを切らして、親に何か知らないかと聞いても、わからずじまいだった。そして母子の住んでいた家は、人に貸すわけでも売るわけでもなく、ずっと使われないまま今でもそこにある。小さくて古い家だけれども、現実的な問題を考えたら税金や管理が大変なはずなのに。


 私の中で光という存在は、思い出の中だけのきれいな男の子に昇華していたのかもしれない。相手は私のことを特別には思っていなかった。今日この町に現れたのも、たまたま思い出して気が向いた程度のことなんだろう。そうでないと、すっかり忘れられてしまった私はやってられない。

 



 幼馴染み全員がそろったのは、六年生の夏以来だ。「やまだ屋」でお好み焼きをつつきながら始まった小さな同窓会は、長い空白の時間を埋めるように会話は弾み、盛り上がっていた。

 話題の中心にいるのは光で、草太や圭介が自分より背が高くなってしまった光に、負け惜しみ混じりに、昔はいかに小さくて可愛かったかを語っていた。

 光も昔のことをよく覚えていて、大きなカエルを頭の上に乗せられて号泣した事件を持ち出し「小さいカエルもダメになった」とトラウマを告白すれば、圭介は過去のいたずらを反省していた。

 不思議なことに、光の記憶は私達と同様かそれ以上にしっかりしていて、私のことだけがすっぽりと抜け落ちていた。


「頭でもうったのか? ドラマとか漫画であるよな、一番大切な人だけ忘れる記憶喪失ってやつだな」


 草太がそんなことを言いはじめたから、私は飲んでいたウーロン茶を気管の方に入れてしまい、せき込んだ。草太は昔から空気を読まない男だったけれど、麻衣の少女漫画を愛読してきたから、たまにロマンチストになる。「一番大切な人」とか、どの口が言う。

 ちらりと光の様子を伺うと、予想通りどう反応していいのかわからないと困惑していた。

 そして、草太の口から出てきた次の言葉は、光を完全に固まらせた。


「前に電話かけてきた時だって覚えてたし。遥は元気かって、真っ先に聞いてただろ?」


 何それ? 聞いてない。驚き周りを見回すと、圭介も美里も同じような反応している。そして麻衣の顔はどんどん険しくなっていった。


「草太にだけ? ズルイ!! みんな光からの連絡待ってたのに! 何の話しをしたの? 私にも秘密ってどういうこと??」

 

 麻衣は双子の草太には手厳しい。たじろぐ草太は、乾いた笑いでごまかした。


「それは男同士の約束だから話せねぇ、な?」


 がしっと肩を叩かれて曖昧に同意した光が、顔色を悪くさせていたので、結局それ以上の追及はできず、美里が「そういえば……」と切り出した昔の担任の先生の話題に、方向転換していった。


 光と圭介は揃って草太の家へ、麻衣と私は美里の家に泊まることになった。

 女同士で枕を並べ、あえて光の記憶のことを避けるような話をした後、もう寝ようかと電気を消した時に、麻衣が遠慮がちに切り出してきた。


「遥はさ、光のことが好きだったの?」


 私は一度顔を枕にうずめてから、それに答えた。


「うん。……でも、そうかなって思ったのは光が引っ越す時になってから。それまでは女の子の友達と同じような括りにしちゃってたから……」


 十年近く前の淡い初恋話は、もう時効だと思う。

 だから私は、そこから宙ぶらりんのまま、新しい恋もせずに十九歳を終えようとしているなんて、二人にはとても言えなかった。

 


   * * *



 四月一日。春の訪れが早い今年は、山の中腹にある大桜は六分咲きになっていた。

 草太と圭介が率先してスコップで穴を掘っていくと、子供の頃時間をかけて掘って埋めた一斗缶は、あっさり掘り起こされ、その蓋は開けられた。


 中にはビニール袋でくるまれた小箱が六つ。それぞれ拙い文字で、名前が書いてある。私達は自分の箱を手にとって、中身を確認していった。


 草太の箱の中身はカードゲームだった。「きっとプレミアがついているはず」というメッセージを添えて。圭介のは、男だけで何やら盛り上がっていたので、ろくでもないものだろう。麻衣と美里、そして私はそれぞれ、修学旅行の時にお揃いで買ったキーホルダーと、未来の自分にあてた手紙が入っていた。

 そして光は……。


「光?」


 箱の中を覗きながら、また固まっていた。

 

「光は、何入ってたんだよ?」


 草太が覗こうとすると、ぱたんと蓋を閉じてしまう。


「いや、これは、ちょっとマズイやつだった……」


 顔を青ではなく赤くしていたので、圭介はしたり顔でニヤついてからかいはじめた。


「やっぱりお前もエロいやつか。意外にむっつりだったんだな」


 童心に返ったようにはしゃぐ草太と圭介に、あきれた麻衣が用意していた缶ビールを、こっそりと振って渡していった。

 記念すべき二十歳の誕生日。約束通り、桜の木の下でのお花見が始まった。

 せっかく六人が揃ったのに、それは思い描いていた未来と違う光景に見えた。私は笑っていて、光も笑っている。でも私と光は、笑いあうことがない。それがどうしようもなく悔しかった。


 自分だけ置き去りにされたような気分をごまかすように、私はお酒に口をつけた。ほんわりとほろ酔いになっていたからか、意識して彼の方を見ないようにしていたせいか、その時、光がずっと私を見つめていたことに気付かなかった。




 翌日、東京に向かう特急列車の中では、私と光はなぜか隣同士に座っていた。

 もちろん、光も東京に帰るのだから列車が同じになるのは仕方がない。でも、光は私のことを覚えていないのだから、彼にとって私は赤の他人。長い時間一緒にいて楽しい相手ではないと思う。私も二人っきりで何を話していいのかまったくわからない。

 だから乗り継ぎ前に一回、そしてこの特急に自由席を購入してから一回、光に「じゃあね」と言った。なるべく棘を含まないようにさりげなく。でも「またね」と言えないのは本当は苦しかった。光はのそたびに「ああ」とか「うん」とか返事をするのに、私の後をぴったりと付いてくる。

 ずっと、何か言いたそうにしているのに、自分からは話そうとしない。ほぼ会話らしい会話をしないまま、列車は終着駅までたどり着いた。


「光は、どこに住んでるの?」


 降りる直前にそう尋ねると、私の住んでる家とは違う路線の駅の名前を口にした。


「じゃあ、ここでお別れだね」

「送っていくよ」

「いいよ。方向違うし。まだそんなに遅くないから」


 私は構わずさっさと歩き出したが、それでも光はついてくる。たぶん、彼はすごい紳士というわけでも、ストーカー気質があるわけでもないと思う。

 よほど言い出しにくいことでもあるのだと察することはできても、相手から巧みに会話を聞き出せるような技術は持ち合わせていない。最寄駅に到着し、改札を出て人気が少なくなったところで、それでも無言で付いてくる光に、私はついにキレた。


「もう! 言いたいことがあるならはっきり言って?」


 なんだかよくわからないけれど、私がいじめっ子のようになっている。それでも光は躊躇う素振りを見せる。いいかげん呆れた私は「もういい!」と、光に背を向けて競歩並みのスピードで彼から遠ざかろうとした。


「遥さん、待って!」


 光は長いコンパスを利用して私に追いつき、手を捉えて引き止めた。

  

「……連絡先教えてくれる?」

「どうして?」


 握られたままの手が、やけにごつごつしていて大きいことを意識してしまったら、心の中に渦を巻いていた気持ちが一気にあふれ出て止められなくなった。


「どうせ、連絡なんかしてこないでしょう。前も手紙くれるって言ったのにくれなかった。それも覚えてないんでしょうけど。……ねぇ、知ってる? 昔の光は私のこと、遥さんなんて呼ばなかったんだよ」


 私は空いてるほうの手で、光のシャツを首元から引っ張った。予期せぬ力で前のめりになった光の顔が、私の高さに近づく。

 私はかかとを上げて背伸びをして、残り数センチの距離を完全に埋めた。光の乾いた唇に、自分の唇を思いっきり押し付ける。


「あの時、キスしたのに。どうして光は忘れちゃったの?」


 自暴自棄か嫌がらせか八つ当たりか、よくわからないけれど、とにかく私は光の唇を無断で奪った。

 呆然とした表情で固まった光を見ることができて、ほんの少しだけ気分が上を向く。私は光の手を振り払い、くるりと身を翻してその場から立ち去った。

 光はもう追いかけて来なかった。きっと嫌われただろうな。それか気持ち悪がられてるだろうか。

 でも私は、光が昔私にしたことをそのまま返しただけ。誰にも言えなかった、二人だけの大切な秘密だったのに、全部忘れてしまった光なんてもういらない。


 家までの帰り道、勝手に流れてきた涙を止めるのが大変だった。



  * * * 



 あの夏、タイムカプセルを埋めた後、光は風邪をひいてしばらく寝込んでいた。夏休みが終わっても光は学校に来ることができなくて、私は先生に頼まれたプリントを携えて光の家を訪ねた。


「うつるよ?」

「平気だよ。私、夏に風邪なんかひいたことないもん」

「……ごめんね、軟弱で」


 光は一人、ベッドで休んでいた。熱はもう微熱程度らしく、思ったより元気そうで安心した。


 聞けば、前日までは光のお母さんも、仕事を休んで看病してくれていたらしい。けれど、さすがに長く休むことができなくて、この日は仕事にいったのだという。

 私の母親は仕事をしていなかったし、私自身もめったに病気にならないから、具合の悪い時独りぼっちになった経験はなかった。きっと心細いだろうと思い、眠くないという光に、少しだけおしゃべりをしながら付き合った。

 

「僕もケイちゃんみたいに強くなりたいな」

「嫌だよ。光は光のままがいい」


 なんで光がそんなことを言い出したのかわからなかったけど、私は光の良いところをたくさん伝えた。意地悪を言わないし。乱暴じゃない。女の子みたいに可愛いところも好き。そう言うと、光は口を尖らせてしまう。実は、いつも穏やかな光は「女の子みたい」「可愛い」と言われるときだけ怒る。怒った光も好きだった。どういう種類の「好き」かは深く考えていなかったけれど。


「ねぇハルちゃん。僕もしかしたら、東京に戻るかもしれない」

「え?」

「またみんなで一緒に暮らそうかって父さんと母さんが……」

「光は嬉しい?」


 光が嬉しいなら、私も受け入れるしかない。どちらにしても、こういうのは「大人の事情」というやつで、子供が騒いでもどうにかなることではないと、なんとなく理解していた。


「兄ちゃんに会えるのは嬉しいけど、みんなと……ハルちゃんと会えなくなるのは嫌だな……」


 光はむくりと起き上がって、私の手を握ってきた。私はこの時この瞬間はまだ、光が甘えて可愛いくらいにしか思っていなかった。何か違うと思ったのは、光の長いまつ毛がありえないくらい至近距離にあると気付いた時で、自分の唇に別の柔らかいものが重なった事実を頭が理解したのは、すでにその温もりが離れた後のことだった。


「僕、絶対男らしくなって帰って来るから、忘れないでね」


 そう言った光の顔が急にちゃんと「男らしく」見えてきて、私は狼狽えた。結局二人で顔を真っ赤にして、そのあとは目を合わせることもできなくなり、先に光がベッドに潜り込んで隠れてしまった。


「また鼻血でちゃうかも……」


 もごもごとベッドの中から聞こえてきた声が、いつもより低く聞こえ、私はさらに顔を赤くして、逃げ出すようにその場を後にした。




 私を忘れたのは光の方だった。



   * * *



 大学が始まると、忙しさで嫌なことは考えなくてすむ。あの後、数日間は光のことで埋められた私の頭の中は、徐々にそれ以外の日常に塗り替えられていった。

 私の所属する大学の写真部では、四月の終わりに新入生歓迎会が開かれた。もっとも、飲み会や楽しいイベントを企画するようなサークル活動ではないから、悪ノリもなく、未成年に酒を飲ませることもない健全な集まりとなった。

 やっと二十歳になった私は、どうやらお酒はあまり強くないようなので、ビール一杯だけ飲んで、食事と趣味を同じくする友人達との会話を楽しんだ。


 一次会を終えて居酒屋からほかのメンバーと一緒に出てきたところで、見覚えのある人物が、歩道の柵によりかかるようにして佇んでいた。

 目が合うと、相手もすぐに私に気付き、手を軽く上げて近寄ってくる。


「光? こんなところで、どうしたの?」


 まさかの偶然に、私は自分の一方的な行動で、変な別れ方をしたのも忘れてしまった。

 横で「知り合い?」「彼氏?」と、光に興味深々なメンバーに曖昧な返事をして、先に二次会のカラオケに行くように促して友人たちを見送った。


「どうしても君に渡したいものがあって、ちょっといい?」


 光にそう言われて、私はようやく偶然ではなく待ち伏せされていたのだと理解した。

 なんだろう、この違和感。濃紺にストライプの入ったビジネススーツは、明らかに就職活動中の大学生とは違う。私は募る不信感を隠さず、じろりと睨んだ。


「……どうして私がここにいるって知ってるの?」

「ごめん……、H大学の写真部って話してたから、あとはSNSで……」


 なるほど。ネット社会は怖い。リアルタイムで居場所がわかるような投稿をしてはいけないんだ。やったのは私じゃないけど。


「で、渡したいものって何?」

「ここではちょっと。落ち着いて話したいから、……うちにでも」

「知らない人について行くわけない。……あなたは誰ですか?」


 確信を持ったわけではないけれど、一度違うと思ったら、その方がしっくりと馴染んだ。彼の方も隠すつもりはないのか、私を真っすぐ見て言った。


「純、小山純。小山光の兄だ」

「お兄さん?」

「僕が弟のふりをして現れたから、きみが受け取るはずだったものを渡せなかった。草太くんが光と一度電話で話したって言ってたよね? もしも僕が来なかったら、中身を遥さんに渡してほしいと頼んでいたらしい」


 そう言って、光じゃない彼、——純さんは一通の手紙を差し出してきた。




 遥ちゃんへ


 二十歳の誕生日おめでとう


 手紙を書くって約束したのに守れなくてごめん

 僕はとてもとても遠い場所に引っ越します


 たぶんもう会えません


 だけど僕は直接お別れをいう勇気がなくて

 未来に手紙を託すことにしました


 大人になった君が傷つくことがないように祈り

 大人になった君の幸せを誰より願ってます


 君といたあの夏が僕の宝物です



                 光





「一時退院の時にどうしてもって。両親に連れてきてもらって埋めたんだ。僕ら家族はそうまでして光が埋めたものがなんだったのか知りたかった。少しでも慰めになるかもしれないと」


 バラバラに散らばっていたピースが、勝手に組み合わされていってしまいそうになるのを、私は全力で拒否していた。


「……ごめんなさい、言ってる意味がよくわかりません」


 たぶんもう会えないってどういうこと?

 今時、手紙も届かない遠い場所ってどんな場所?

 知りたくもない。

 なのに純さんの紡ぐ言葉は、私の心に直接届くように響いてくる。


「病気だったんだ。最初はただの風邪だと思ってたんだけど、治らなくて。……皮肉だね、光の病がもう一度家族を一つにしてくれた」

 

 純さんはもう一つ、鞄から取り出して私に見せてきた。


「これがたぶん、光が最初にタイムカプセルに入れたもの」


 それは一枚のポラロイド写真だった。酷く劣化しているけれど、そこに映っているのは私と光だった。

 草太と麻衣の誕生日会の時に、トイカメラで撮って遊んだ記憶がある。


「うちには、草太くん達が映ってる写真がいっぱいあるんだ。多分君が撮ったものだよね? 光はその写真を見せて、町にいた頃のことを僕に話してくれたよ。だから実際に会ってもすぐに顔と名前が一致した。光のふりをしてしまって、騙してる後ろめたさもあったけど、光がこんなにも歓迎されてるんだってわかって嬉しくて。光はもういないなんて言い出せなくなってしまった。……ごめん。草太君たちには、もう、伝えてあるから」


 純さんは一度、星の少ない天を見上げてから続けた。

 

「君のことは、僕と共有するんじゃなくて、心の中にそっとしまっておきたい大切な存在だったんだと思う」


 光はひどい。たくましくなって会いにきてくれるって言っていたのに。手紙を書くからって言ってたのに。たった一通を届けるのに十年近く待たせるなんて。ようやく届いた手紙だって最後の最後まで本当のことを教えてくれないまま。

 私の知らないところで、泣いて、苦しんで、戦って、そうしていなくなってしまったの?


「お別れもさせてもらえなかった」

「お別れしたくなかったんだ。一番楽しかった、元気だった頃のまま、君の心に住んでいたかったんだ。どうか、光のことを忘れないでいてほしい」


 そう言って、純さんは私に深々と頭をさげた。下を向いた彼が、どんな表情をしているのかはわからない。でも私は今、自分がどんな顔をしているのか、鏡がなくてもわかっていた。

 くしゃくしゃに顔を歪めて、鼻と目を真っ赤にして、あふれ出てくる涙を拭うこともできずに、最強に不細工になった顔を見られたくなくて、純さんに、頭を上げて、謝らないでということができなかった。



 私の初恋は終わったんじゃない。恋と言い続けることはできないかもしれないけれど、ずっとここにある。

 

 私と光の物語は、この先三人の物語になるのだけれど、それはまた別のお話。

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[良い点] 何度読んでも泣けました。 それくらい切なくて、好きで、後から渡される手紙も好きです。 [気になる点]  私と光の物語は、この先三人の物語になるのだけれど、それはまた別のお話。 の、ところ…
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