11 青のマザー
「よく逃げ切ったねえ」
青の大樹の帰還の間。青のマザーがアスターを撫でながら、感心して言った。
「アスター! 怪我は……!」
「大丈夫よ」
アカネがアスターに駆け寄ったが、既に怪我は跡形もなく消えていた。
「大樹に戻される時、化け物による怪我もある程度は治されるようになっているの。それから、この場所にもその手の怪我を自動で治していく効果があるから、あえて魔法を使う必要はないわ」
「……青はマザーもよく似てるんだな」
青のメッシュに柔らかい色の緑の髪。色違いである事を除けば、顔立ちも口調もよく似ている気がした。
「しかし、良かったですねえ。つい先日、試験的に通常の装備や魔法が化け物にも効くようにしたところだったのですよ」
「え?」
「じゃ、じゃあ、もしかして、試験中じゃなかったら俺達は逃げきれてなかったって事か!?」
マザーはさらりと何でもないように言う。
「作業には手間取りましたし、専用のものに比べると効果は弱いですけどね」
ほほほとマザーは口に手を当てて笑う。今更ながらアカネは背筋が凍るようだったし、コガネも開いた口が塞がらなかった。
「何故、今になってそのような変更を?」
先日も特殊装備や魔法がただでは渡せない物である事を察していたクロが尋ねる。マザーは笑うのをやめ、真面目な顔で答えた。
「今回のような状態を切り抜けるためですよ」
「だったら、初めから力を渡しておけば……」
「もし、初めから戦う力があったなら、貴方達は逃げましたか?」
マザーはぴしゃりと言い切る。コガネは言い返せず、クロはそれを予想していたように見ていた。
「……私も、もし戦う力を最初から貰っていたら、強く逃げようとは言えなかったと思う」
アカネもおずおずと、しかし、はっきりと言い切る。
「それがベストを尽くした状態だったなら、たとえ危険でも可能性に賭けてしまうかもしれない。実際に対峙してみれば、普段の魔物のようにはいかない相手な事も分かったけど……」
まだ時じゃない事が分かっていたから、逃げる手段だけを提示されていたからそれを選んだ。
「……そうだな」
「君達は化け物に挑戦してみる気はないかしら?」
「え?」
マザーは水を差すように突然掌を反すような事を言い出す。どことなく愉快犯めいた口ぶりは赤のマザーとは全く異なるものだ。
「侵入者はこちらの問題だから、本来貴方達に手伝ってもらう理由は無いし、そもそも助けも必要としていないでしょう。けれど、同じ世界に住みながら、一切関わるなと言っているわけでもない」
マザーの発言は煽りながらやる気をそぐようなどっちつかずな物。
「貴方達が良ければ、次回は逃げずに挑戦してみるといいわ。依頼を受けていなくても戦うのは自由だし。あと、ついでに面白い本があるから、それも貸してあげる。読み終わったら是非感想を聞かせてほしいわ」
「わっ」
コガネはいきなり目の前に現れた本を慌てて受け止める。
「この世界が貴方達を縛る事は決してない。心のままに生きるのも一つの技術よ」
「ハクアの朝……?」
足早に宿に戻り、マザーに渡されたやや古い本をまじまじと眺める。何となく外で見るのは気が引けたのだ。ハクアの朝は名前の通り朝焼けの絵が描かれた表紙で、作者の名前は無い。
「ん? どこかで聞いた気がするタイトルだな……」
「もしかして、赤の大樹の図書室にもあった本なのか?」
クロはうーんと考える。
「とにかく読んでみようか」
「結局読む事に変わりはないしね」
表紙を開いてみれば絵本だったらしく、初めのページには大きな木が一本生えた、空に浮かぶ島が描かれていた。
「えー、『あるところに小さな世界がありました』」
「普通に綺麗な絵本だね」
「『しかし、出来たばかりのこの世界に住人はいませんでした』」
「あれ、そうなのか」
「スーアとちょっと似てるね」
「言われてみれば確かに」
大きな木のある出来たばかりの世界。最年長であるクロ達が生まれた頃は確かにそうだったかもしれないと思う。
「『そこで、小さな世界の神は何種類かの魔物達を作り、また、別の世界から人間の子供達を連れてきて住人としました』」
描かれているのはドラゴンなどの見覚えのある魔物に似た生き物達と、おくるみに包まれ眠る赤ん坊達。赤ん坊達には細い女性のような腕が差し伸べられており、子供を引き留めようとしているのか差しだそうとしているのかは判別がつかない。
「『しかし、他所から子供を連れてくる事など許されるはずがありません。子供を奪われた世界は様々な手段を使って子供達を取り返そうとしました』」
小さな世界に向けられた様々な追っ手。その中には白く美しい神の使いのような騎士もいれば、真っ黒で気味の悪い化け物までいて、まさに様々な者が子供達を取り返そうとしている様子が描かれていた。
「これは……!」
「マザー!」
「あら、もう読み終わったの?」
帰還の間まで取って返せば、すぐにマザーが姿を現した。
「この本は一体何なんだ!?」
コガネが開いたページにはついこの間見たばかりの化け物が載っている。それ以外にも偶然などではまとめにくい見覚えのある姿や設定が多数あったのだ。
「それはただのプロパガンダよ。創造主を毛嫌いする人物によって作られたね」
コガネが詰め寄ろうとしても、マザーはふわふわと飛んでいて近付くことが出来ない。
「そいつらの考え方として、正義のためならどんな手段を使っても構わないという物があるの。当然嘘も方便なんてのは常套手段で、それだってどれだけ真実が含まれているのやら」
マザーはどこまでも愉快犯の姿勢を崩さない。言葉では著者を悪く言いながらも、著者に対して思う事は何もなさそうだ。
「今、これを見せた理由は何だ?」
言葉に詰まったコガネに代わり、クロが質す。
「さあ? 自分で考えてみればいいんじゃないかしら」
「……それが狙いか」
マザーは突き放しただけのように見えたが、クロは何故か納得した形で引き下がった。
「アカネは今聞いておきたい事ある?」
「う……え、えと……」
アカネも確かに言いたい事はあったはずなのだが、マザーに気押されて言葉が出てこない。そもそも初めにコガネが言った事も特に言いたい事の一つであり、それが躱されては自信も無くなるという物だ。
「無いなら私は帰るわ。何かあれば改めて言いに来なさいな」
「あ、あの!」
手を振って帰ろうとしたマザーを、アカネは勇気をもって呼び止める。
「あの、貴方は私や私達の味方ですか!?」
「ええ、味方よ」
思わず力の入ったアカネの質問に、マザーは当たり前だと言うように穏やかに答え、今度こそその場から消え去った。
「くやしい」
アカネは帰還の間から外へ向かって歩き出しながら呟いた。
「はい?」
「何をやっても、何を選んでも想定の範囲内ですっていうアイツらの態度がムカつく」
両の手が静かに握りしめられる。そして、その手を体の前まで持ち上げていつかのように叫んだ。
「マザー達に私達の底力見せてやるー!」
アカネの叫びは高い青空へと吸い込まれて行った。