黒い感情
翌日も、早朝から蓮十郎の厳しく激しい訓練は変わらない。大きく声を張り上げ、自ら手を取って指導する。
だが、ふと、離れたところで、こちらを見ている子供たちが目に入った。
どの顔も弥平次よりもっと小さい。下は四、五歳から上は十歳までと言ったところか、およそ十数人の子供たちが、顔を輝かせてこちらを見ている。
蓮十郎はそれを見ると、指導の手を止めた。そして、村人たちに自分で稽古を続けるように言うと、子供たちの方へ歩いて行った。
「ここは危ないぞ。父ちゃん、母ちゃんのところへ戻りな」
蓮十郎は子供相手でも態度が変わらない。膝を曲げて目線を同じ高さにするようなことはせず、上から見下ろすように言った。だが、その顔はどこか優しげである。
「こっちを見てる方が面白いよ」
「それに、お父もお母もいねえもん」
子供たちは口々に言った。
「何……? ああ、そうか……」
蓮十郎は言葉に詰まった。
(そうか、こいつらの親は八木沢党に……)
蓮十郎は、子供たちの顔を見て考え込むと、
「ちょっと待ってな」
と言って、どこかへ行った。しばらくして、蓮十郎は沢山の木の枝と布を持って来た。そして彼は、その木の枝を手頃な長さに切り、何本か束ねて布を巻き付け、簡単な袋竹刀を作った。
「竹がねえからな……でもこれは棘も無いし柔らかい枝だから、まあ安全だろう」
蓮十郎は、その即席の袋竹刀を子供たちに持たせた。子供たちの顔が一様に明るく輝いた。
そして、二人一組にして向い合せると、
「よし、いいな。こうやって持つんだ。そしてこう構えて……振ってみろ」
蓮十郎は、子供達にも剣を教え始めた。それはほとんど真似事の遊びのようなものであったが、蓮十郎の吊り気味の目の尻は下がり、とても楽しそうに子供達の手を取っている。
凛は、少し離れたところからその様子を見ていた。と言うより、蓮十郎の、先程までの鬼のような顔から打って変わって優しくなった顔が意外すぎて、思わず目を奪われていた。
(あんな顔もするのね……一昨日もそうだったけど、子供が好きなのかしら?)
蓮十郎の様子をじっと見つめる。そのうち、子供達が真似事の剣術に飽きて遊び始めた。すると蓮十郎も彼らと一緒になって鬼ごっこなどをして遊び始めた。
凛は苦笑した。
(自分が子供だからか)
蓮十郎は、楽しそうに子供たちと走り回っている。
だが、ふと、蓮十郎は何かにはっと気付いて脚を止めた。振り返り、視線の先にある木の陰をじっと見つめた。
その顔が、再び鬼のような形相に戻っていた。
日が暮れた。
夜の雲間に、白い満月がぼうっと霞んでいる。
蓮十郎は、この三日の間、凛たちの家に宿泊する。桐谷家は、音に聞こえた剣豪桐谷三太夫の家らしく、なかなかに立派な屋敷である。木塀で囲まれており、そこそこの広さの庭まである。
その庭で、弥平次が額に汗を流して木剣を振っていた。
「そうだ。そのまま素振りをあと百回だ」
縁側に座ってそれを見ている蓮十郎は、煙管で煙草を吸い、酒を片手に笑っている。昼間の鬼のような顔とは違い、寛いだ顔であった。凛は、その隣に座って茶を飲んでいる。
「弥平次、頑張るのはいいけど、昼間だってあれだけ稽古したんだから……もう遅いからほどほどにね。明日の朝、起きられなくなるわよ」
「うん……でも、早く強くならなきゃ。俺が蓮十郎さんぐらいに強くなれば、この村を守れるから」
そう言って、弥平次は真剣な顔で黙々と木剣を振るう。
「はっはっはっ、その意気だ、励めよ」
酔いも手伝って上機嫌でいた蓮十郎だが、急に真面目な顔になり、傍らの凛に言った。
「なあ、三太夫は燕返しの達人だったそうだな」
燕返しとは、剣を打ち込んだ後に、素早く切っ先を反転させて同じ軌道を斬り戻す技のことである。燕が餌の小虫を捕食する動きに似ていることから、その名がついている。
凛は茶碗を置いて頷いた。
「うん。あまり剣を教えてくれなかった父だったけど、燕返しだけは自慢だったようで時々見せてくれたわ。目にも止まらぬ速さで、正確なの」
「同じ"燕"だ。飛燕連陣は燕返しと何か関係があるんじゃないか?」
「そうかもね……でも今となっては確かめようが無いわ」
「昨日から、ざっと親父さんの書き残したものなどを見せてもらったが、恐らくわざとだろうな。飛燕連陣については一言も書いてなかった」
「そう……」
薄闇に静寂が流れる。弥平次が木剣で風を斬る音のみが聞こえる。
「そう言えば……」
凛が思い出したように口を開いた。
「一度、珍しく酔っ払った父と剣について話していた時、父が言った事があるの。"燕は何度だって飛ぶんだよ"」
「何だそりゃ?」
「わからないわ。どういう事かと聞いたんだけど、父は笑って答えなかった。でも、この言葉がとても印象深く残ってるの」
「ふうん……燕は何度だって飛ぶ、か……」
蓮十郎は煙管を置くと、鋭い目つきになり、腕を組んだ。その幻の剣について、何やら思案していた。
「蓮十郎さん、子供が好きなのね」
凛が不意に言った。
「あ?」
「昼間、子供たちと遊んでたじゃない」
「ああ……」
蓮十郎は思い出すと、手酌で酒を注ぎながら、
「別に……特に好きってわけじゃねえよ。村の連中に教えるのに飽きたからちょっと遊んでただけだ」
「そう」
凛は、蓮十郎の照れ隠しを見て取って小さく苦笑した。
「ねえ、あなたは何で織田家に追われているの?」
「…………」
「昨日、ここのご城主が浦野久行様って聞いた時、あなたの顔色が変わったのを見たわ。それからやけにここを離れたがったし、浦野様と何か関係があるの?」
「しつこいな、またそれを聞くのかよ」
蓮十郎はじろりと凛を見た。
凛は慌てて、
「あ、そうか。ごめんなさい」
「…………」
蓮十郎はしばし無言でいたが、
「まあいいか。今、気持ちよく酔って来たからな」
蓮十郎は煙管を手に取った。
「俺と浦野久行、光之助の奴とは、親友だったんだ」
「親友?」
「馬廻り衆の中じゃ歳も同じで、生まれ故郷こそ違うが同じような境遇の孤児育ちで、不思議と気が合うので、すぐに仲良くなった」
蓮十郎は言葉を選ぶように、ぽつぽつと話し始めた。
織田信長と言う男は、人を使うのに生まれ、身分と言った物を気にしない。使える、と見ればどんどん取り立て、自分の側近にまでする。その最たる例が、後の豊臣秀吉、木下藤吉郎や明智光秀、滝川一益などである。
そして、綾川蓮十郎と、浦野光之助も同じであった。二人共に、家柄も身分も無い孤児出身である。だが、その抜群の武芸の腕を見込まれ、信長の馬廻り衆に取り立てられた。
似たような境遇であり、不思議と馬が合う事から、二人が親友となる事に時間はかからなかった。あの金ヶ崎の退き戦でも、共に木下藤吉郎隊に志願して加わり、助け合って奮戦した。
だが、光之助はその陰でずっと、密かに蓮十郎に対する小さな劣等感と嫉妬を心の底に抱いていた。
二人共に馬廻り衆の中でも一、二を争う剣の腕であったが、常に一位は蓮十郎であった。
何度か信長の御前で模擬試合をした事があったが、神想慈円流の技を持つ蓮十郎には、いつも勝つ事ができなかった。馬廻りの中での名声で言えば、光之助はいつも蓮十郎の次に置かれていた。
また、これは少し違った話になるが、蓮十郎もそこそこ端正な顔立ちであるが、光之助ははっきりと美男子である。しかし、夜、信長の寝所に呼ばれるのも、蓮十郎の方が多かった。
「ちょ、ちょっと待って……!」
そこまで来て、突然、凛が口を挟んだ。
「どうした?」
「あ、あの……寝所に呼ばれるって……その……」
凛は言いにくそうにしているが、頬に朱を注ぎ、目を見開いて興味津々と言った面持ちで蓮十郎の顔を見つめる。
蓮十郎は変な顔をして凛を見たが、すぐに笑って、
「ああ、あんたの想像通りだよ」
「ええっ……!」
「あんたらとっちゃ考えられないだろうが、俺達武士にとっては何でもないことだぜ」
蓮十郎は平然と言ってのけた。
「そ、そう……」
凛は顔を赤くしたまま、まじまじと蓮十郎の顔を見る。
――相手は織田のお殿様よね……男同士よね……この顔で……どんな顔して……。
多感な年頃である。凛はついあれこれと想像してしまった。爆発しそうに真っ赤な顔となった。
それを見た蓮十郎、呆れ顔となり、
「おい、変な妄想するんじゃねえよ」
「う、ううん、別に……」
凛は慌てて平静を繕うが、
「顔に出てるんだよ」
「え? えっと……」
「一応言っておくが、俺はあまり男は好きじゃねえぞ。好きなのは女だ」
「そ、そう……」
凛は蓮十郎の顔を見つめる。ほっとしたような、がっかりしたような、奇妙な気持ちであった。
蓮十郎は、話を続ける。
こうして、密かな嫉妬の火種を心の底に燻らせていた光之助であったが、それはあの金ヶ崎の退き口で一気に燃え上がった。
共に金ヶ崎の退き戦を戦い抜いた二人であったが、蓮十郎は伝説的な活躍をし、その武名は天下に鳴り響いた。光之助もそれなりに敵の首級を挙げたのだが、蓮十郎の武功の前には霞んだ。
そして、光之助のどす黒い感情は爆発した。