進め
割れた風鈴が風に揺られ、歪な音を鳴らしている。
とある田舎町にある、もう誰も住んでいない廃れた家。
そこに、もうすぐ50歳半ばの男の姿があった。
男は家族を失い、職を失い、家を失った浮浪者だった。
妻に浮気をされた上に、家が妻名義だったが為に追い出され、精神的ショックにより仕事も上手くいかずに肩を叩かれた。
男には既に親族はおらず、実家なんてものはとうの昔に失くなっていた。
だから、誰にも頼ることができず、生きる目的も見失って浮浪者となり、彷徨い歩いた末にこの廃屋に辿り着いたのだった。
男は日雇いの仕事で日々を凌いでいた。
慣れない肉体労働。
年齢的にもキツく、しかし我慢してこなさなければ生きてはいけない。
仕事を終え、疲れ切った体でスーパーの値引き品を適当に見繕い、廃屋で食べる。
割れた風鈴の歪な音も、最初こそ不気味だったが、今では子守唄のように聞こえてすぐ寝入ってしまう。
ある日のことだった。
男の体は疲れ切っており、悲鳴を上げていた。
動くことすら難しく、数日間は少しずつ貯めた金で乗り切れそうだった為、この日は完全オフの日とした。
ただ、ずっと寝転がっているのも気持ちが悪く、男は廃屋の中を探索することにした。
家の中を探索しながら、男は以前住んでいた住人のことを考える。
至る所に私物が置いてあり、引越しをしたという感じではなかった。
いや、もしかしたら不用品を置いて引越した可能性もあるが、どちらかというと住むことができなくなった感じがした。
亡くなったのか、施設に入ったのか、どちらにせよ親族はおらず、ずっと放置されていたのではないかと男は思った。
1枚の写真を見つけた。
その写真は、居間の棚の中にあった。
老夫婦と若い娘の3人が一緒に写ったものだった。
親子だろうか。
もしかしたら祖父母と孫かもしれない。
男は失ったばかりの家族を思い出す。
妻のことはもういい。
しかし、まだ学生の娘のことは心配だった。
自分がもう少し強く言える人間だったら、親権は取れたかもしれないのに。
男は己の弱さを悔いた。
その日の夜。
男は夢を見た。
昼間に写真で見た老夫婦と娘が、自分と一緒に食事をしている夢だった。
会話の内容は思い出せない。
しかし、皆して笑顔で、楽しそうにしながら食事をしていた。
翌日、男が目を覚ますと、周囲には、昨日までなかったものが広がっており、男は声を上げ、腰を抜かした。
床一面の乾いた血痕だった。
男は気付く。
特に血の色が濃い所は、夢の中で老夫婦と娘が座っていた場所だった。
いったい寝ている間に何が起きたのか。
男の中に恐れの感情が湧き上がる。
とにかく早くここを出なくては。
男はなんとか立ち上がろうとするが、一度抜けた腰はなかなか思うように動いてはくれなかった。
そんな中、たまたま視界に入った壁を見て、その湧き上がった恐れの感情は徐々に落ち着いていった。
──進め。
ただ2文字。
まるで書道家が大きな筆を使い、赤い墨で荒々しく書いたかのようだった。
その2文字は、生きる目的を見失った男の胸に、ぼんやりと小さな火をつけた。
ふと、思い出せなかった夢の中の老夫婦と娘が言っていた言葉が、男の頭に浮かぶ。
「大丈夫じゃ、なんとかなる」
「私らは応援しておるよ」
「頑張ってください」
男は文字が書かれた壁に写真を立てかけ、一礼をした。
そして、廃屋を出て、新しい一歩を踏み出した。
何事も、まずは一歩から。




