6. 弁えるべき身分
その晩、トキは王城へと赴いた。手にはナイフと小瓶が握られたまま、虚な目でふらふらと足を進める。
エアに会わなければ。なぜだとか、会ってどうするだとか、そんなことは些細なことだ。ただ会えばどうにかなる、エアがどうにかしてくれる。だから会わなければ。それだけを繰り返し思っていた。
王城にたどり着いたトキをひとめ見た門番は、不審な子供を王城に入れまいとしたが、トキの肩についているサルファー家の肩章を見ると、門を開いてトキを王城の外れにある地下牢へと導いた。
これはトキの父である宰相の計らいで、門番には、サルファー家の人間が王城に来た際には牢へ案内するようにと、金を握らされたためである。トキの肩に肩章があるのも、彼の仕業だ。労わる振りをして肩を叩いた際に、肩章をつけたのだ。
とうてい貴族が囚われる牢とは思えない質素な牢が並ぶ薄暗い通りを抜けた先、奥まった場所にある個室のような扉の前まで案内される。
「この先へどうぞお入りください」
声とともに扉が開かれ、トキは扉の中に足を踏み入れた。
「与えられた時間は半刻です。時間になったら参ります」
そう言って門番はトキの背後で扉を閉めた。
扉の中は薄暗い牢とは異なり、光で溢れていた。家具は殆ど無いが、独房の中は清潔感すら感じられる。エアはオレンジ色の簡易なドレスを纏ったまま、数日前の夜会で起きた出来事を思い出していた。
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トキがエアのもとを去ってから一刻。エアはその間ずっと、壁際で飲まない酒を片手にパーティー会場を眺めていた。
(あれは公爵家のおかたで、フィリネラ・マートンさん。おっ、あの人綺麗。紺色のドレスに口紅の赤が映えるなあ。でも見たことない顔。あ、ストゥル・カイナーさんだ。特定準二級魔法使い。すごいなあ、特定級だけど貴族のようにさまになってる)
夜会など、こういった貴族の集まりに呼ばれるようになった当初は人を観察する余裕など無かったというのに、人とは慣れるものらしい。
エアは「特定一級魔法使い」の称号を与えられた際、同時に「ムズル」の姓も授かった。一代限りでおわるその姓は、貴族になった証だ。
(いらなかったんだけど。こんなもの)
庶民が貴族の中に突然混じるのは、双方に益がないとエアは思う。エアが目をまわしそうなマナーも、人間関係も、貴族は生まれたときから身近にあったものなのだ。そう思うと貴族に対して尊敬の念が湧いてくるが、そこに自分を入れないで欲しかったとも心から思った。
今更覆らない現実に自嘲していたところ、ふと目を上げた先の金色の瞳と視線が交錯した。
(ハリオット殿下……)
このトルクネリアの王太子は、王妃譲りの整った顔立ちと父王譲りのカールがかった柔げな黒髪を持つ青年だ。ハリオット・ミロ・トルクネリア。彼の権力と容姿は多くの令嬢を虜にしていた。
しかしエアはハリオットが苦手だった。直接の関わりなどは全く無い。しかしその姿、佇まいを遠目から見るだけで、思い出したくも無い嫌な過去が否応無しに思い起こされる。
そのハリオットと目が合ってしまったエアは、王族に愛想の一つも振り撒かなければ不愉快かと、内心の嫌悪を隠し、口角を柔らかく上げ、幸せそうに見えるであろう表情を作って目を細めた。
側から見れば、その時の彼女は、この場にいるどんな者よりも美しかった。
(え。ハリオット殿下がこっちに向かってくる)
目を丸くして困惑するエアを他所に、ハリオットは給仕のメイドからシャンパングラスを受け取ると、それを持って脇目も降らず、エアの目の前まで歩いてきた。
その頬は、夜会の熱気に当てられたのか上気している。
「お前、私の妃となれ」
「………は」
突然発された言葉に、エアの時が止まった。否、時が止まったのはこのパーティー会場の全てかも知れない。エアのいる壁際から、さあっと波が引くように、皆が静まり返り、動きも止めてエアと王子を凝視している。
「聞こえなかったのか。名は何という」
「え、エア・ムズルです」
「ほう。特定一級魔法使いの者か。以前見かけた際とは別人のようだ。今夜の其方は実に美しい。私の妃となるに相応しいな」
ハリオットは周囲の視線など意に介さないようで、ずいっとエアの方に一歩を踏み進め、距離を詰める。そしてシャンパングラスを差し出した。エアは後退りたい気持ちをぐっと堪えて、差し出されたグラスを受け取った。
「お褒めに預かり………光栄です…………?」
(グラス……。受け取っていいのかな。名も知らぬ人間に求婚するなんてどうかしてるよ…)
エアは驚きすぎて冷静になった。周囲に注目されているのも伝わっている。自身がとっくに行き遅れの年増だというのも理解しているし、そもそも結婚などする気も無かった。
貴族、ましてや王族に求婚されるなど誰が想像できようか?野心ある高位令嬢でもあるまいし、こういった場合のマナーを知らない、と嘆いたところで事態が好転するものでもない。
「ははは、光栄か!そうであろう。しかし困ったな……、其方は平民だと父上が仰っていた。いくら美しくとも労働力を妃とするのはなあ。そうだ、侯爵家にでも養子に入れよ。さすれば王族に仕える栄誉ある貴族となって婚姻も結びやすくなるというもの!」
(何を言っているんだ、こいつ)
ハリオットの基準はこうだ。人とは王族、そして王族に仕えるは貴族、平民は労働力。
エアに求婚した口で身分が気に食わないと言い、血筋に重きを置きながら養子に入ればいいという。
ハリオットは、表情を取り繕うことも忘れて眉を寄せるエアに気づくことなく、その肩に手を回した。
「……っ!」
エアの肩がはねあがり、身体が強張る。冷や汗が出て背中を伝っていった。
「驚かせてしまったか?王族が他人にむやみに触れるものではないが、妃となる者ならば良いだろう。健康的な身体だな。其方のように魔力の高く美しい女性からならば、さぞ出来のいい世継ぎが生まれるであろうよ……」
ハリオットがエアの耳元に形の良い唇を寄せて、他に聞こえないように囁く。肩に回されたハリオットの手がいやらしくエアの剥き出しの肩を撫でた。
「キャーー!殿下!」
どこかで女性の悲鳴が聞こえた。
ハリオットに囁きかけられたその瞬間、エアは王子に手渡されたシャンパンの中身を彼に向かってぶちまけた。黒い毛先からポタポタと酒が滴る。ハリオットは事態を把握できず、髪のてっぺんから掛けられた酒の匂いに呆然としていた。
「っ、はー、はー」
王子を振り払うためにシャンパンを浴びせかけたエアは、焦点の揺れる目で彼を眺め、肩で荒い息をしていた。
「申し訳、ありませんが、……お断りいたします」
だんだんと冷静になった頭で、取り返しのつかないことをしてしまったと理解した。後悔と、思い起こされた恐怖に体が震える。
パーティー会場の時間がそのとき動き出したように、静寂は破られ、怒号と悲鳴が飛び交った。
「おい、殿下を医務室へ!」
誰かがハリオットの腕を引こうとして、身分の違いに思い留まる。
「それより酒の分離が先だろう?!魔法を……」
誰かがハリオットからシャンパンを浮かせて剥がそうと、分離魔法を使える者を呼ぶ。
「ムズル!お前殿下になんてことを!」
誰かがエアに詰め寄る。
「まあ、なんてこと!ハリオット殿下、こちらへ」
誰かがハリオットの腕を遂に控えめに引いて歩き出す。
「鎮まれ」
その一言で会場中がぴたりと動きを止めた。
「警兵、ハリオットを別室へ。エア・ムズルは牢へ連れて行け」
トルクネリア王国国王、サンタネルラの一言で、会場の隅にいた警兵がハリオットとエアの傍に控える。ハリオットは慌てて駆けつけた王妃と共に警兵に案内されて会場から出ていった。
一方、エアは両腕を警兵に強引に捕まれ、腕を振ってそれを払った。
「何を!」
「申し訳ありません。ですが、連行するならどうか錠で。……お願いします」
訝しむ警兵の目前にエアは両手を差し出す。警兵は一拍逡巡したのち、エアに錠をかけた。
チラリと、エアは王族がいる高席を一瞥した。ライトグリーンの瞳が、困惑と悲しみに揺れている。
(リシェンナ殿下)
エアはそこから目を逸らして、連行されていった。
(トキ。ごめん)
また明日と声を交わした弟子に、恐らく明日は会えない。最悪の場合は二度と。エアは後悔に苛まれながら、牢への道を歩いていった。




