⒋ 不穏の足音
なんだか邸が騒がしい、と、トキは自室の扉を叩かれる音を聞いて、ベッドに沈めていた頭を持ち上げた。
「アレストカイン様!当主様がお呼びです!」
「今行く」
一体なんだろう。トキは嫌な予感に鳴る胸を抑えて、部屋から飛び出した。
「アレストカインです」
いつになく騒がしい父の執務室へトキが扉をノックし、ドアを開けると、父の平手が飛んできた。
「お前は!何をしていたんだ!この、役立たずが!」
「っ、はあ……?」
トキが訳もわからないまま叩かれて痛む頬を抑えていると、横に立っていた執事がグリマティオを宥める。
「旦那様。恐れながら先ほどのパーティーで起きたことでございます。アレス坊ちゃんは帰宅してございましたので、あまり……」
「お前が日頃ついていながら、あの女は殿下に恥を……!我が家の責任問題にでもなったらどうするのだ!お前が監視として能無しだからこんなことに……!」
トキには未だ訳がわからないが、エアが関係しているだろうことは、なんとなく察した。
「あの、何があったのですか」
トキが比較的落ち着いている執事に尋ねると、彼は困った顔をしながらも、説明をおこなう。
「先ほど、王城主催のパーティーでハリオット殿下がエア・ムズルに求婚したようでございます」
ハリオットとは、トルクネリア王国の第一王子で、王太子だ。
トキの背に冷たい汗が滲む。
「そういたしましたら、彼女は持っていた飲みかけのシャンパンを殿下に浴びせて、求婚を断ったそうで……。それで殿下がお怒りになって、エア・ムズルは不敬罪で牢へ」
トキは目の前が真っ暗になるような錯覚を覚えた。頭の中にさまざまな思いが浮かんでは、思考が泥の沼のように沈んでいく。
(なんで、王太子がエアに……?政略結婚?着飾ったエアが可愛かったから?)
そんなことはどうでも良いのに、思考がうまく纏まらない。
(どうして?何があったの?俺がいたら、こんなことにはならなかった?俺が、後少しでも、エアのそばにいれば、エアは、牢になんて入らなかったーー?)
そう気づいた途端に、トキは駆け出そうとしていた。
「坊ちゃん!お待ちくださいませ!」
執事の驚いたような声が聞こえるが、耳はそれを拾わない。
(どうして俺は、エアのそばを離れたんだ!)
嫌な予感はしていたのに。そう思っていると、突然体が重くなった。どんどんと重さを増す体を、どうにかして前に動かそうと足を踏み出すが、堪えきれなくなってトキは廊下に突っ伏す。
それでもがむしゃらに動こうとするトキの後ろから、冷淡な声が聞こえた。
「あの女のもとには行かせはせんぞ」
その声でトキは我に帰った。これは、父の使う拘束魔法だ。
「お前に任せたのは失敗だったか。良いように調教されおって。やはり魔法の才覚だけで選んだのは失敗だった。あの女の監視を我が家門に命じられたのは国王陛下だ。それを失敗したお前のせいで、我が家も不敬罪にされては困るのでな。部屋で謹慎していろ」
「父上!」
重い音をたてて締め切られたアレストカインの部屋の扉には、外側から結界魔法が張られた。
トキはドアを力一杯たたき、未だ未熟な風魔法を使ってノブを壊そうと試みたが、傷ひとつつかない。
「っくそ!」
(時戻しの魔法はエアには一人で使うなと言われているけれど、もうこれしか……!)
トキは魔力ををドアに翳した手のひらに集める。
(俺が、閉じ込められる前の、ドアに、戻れ!)
念じて、目を瞑る。瞼の裏に眩い光を感じた途端、トキの体がぐらりと傾いた。彼は瞑った瞼を薄く開けるが、そこには先ほどまでと変わらない自室のドアがあるだけだ。
体が床に叩きつけられる衝撃も感じないほど急速に、魔力切れを起こす寸前のトキの意識は闇に呑まれ、そこで途絶えた。
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エア・ムズルが王子の求婚を断ったという噂は、瞬く間に王都を駆け抜けた。
「エア・ムズル、処刑されるんだとよ」
世間は専らこの話題で持ちきりだ。
知らせに驚くもの、不憫に思うもの、憤るもの、さまざまな世論に分かれて、しかしそのどれもが他人事だった。
エアの処遇が決まるまでに、それほどの時間はかからなかった。夜会から一週間で、エア・ムズルの処刑はきまった。
「不敬罪で処刑だなんて、やりすぎじゃあないのか?あいつがいなくなって魔塵が出たらどうするんだ」
「最近は魔塵の発生も減って来たし、ムズル魔法使いがいなくても大丈夫だろ。あの人は強すぎたんだよ。国の魔法職なんて、結局は貴族の権力世界だからな。脅威は闇に葬られるだけさ」
「求婚した王子の面子のためってだけじゃあないの?」
「違いねえや」
王都を行き交う人々の日常は、何も変わらない。
王都の空は今日も快晴だ。心地よい風が建物の隙間を縫って、花びらを舞いあげる。
「……報われないわね」
美しく波打つ黒髪を背に垂らした少女は、誰の目にも止まらずに人混みの中を歩いていく。
町娘のような格好をしたその少女は、身分の高さなどこれっぽっちも気づかれない自然さで、王都に溶け込んでいた。
「あなたが魔塵を倒してこの街の平穏を守っていたのに。でも私もなにもしないのだから、共犯だわ。許してとは言わない。せめてあなたの死は、有効に使うわ」
少女は足を止めると、空を見上げた。
その頬に雫が伝う。
「ごめんね。エア」
イエローグリーンの瞳は、波立つ湖のようだった。




