10. なくしたもの
アレストカインが療養に専念して外界を遮断していた一年間、世間はエアを失ったことで多少の混乱を招いていた。
王国所属の魔法使いの中でそれは顕著で、記録はあるのに、記録の人物に該当するものがいないという、辻褄の合わないものが大量に発生していた。
「エア・ムズル」の名前は綺麗に消えているのに、その足跡だけは確実に残っているのだ。修復魔法を使ってもなんの反応もない資料に、人々は頭を悩ませた。
(俺だけが、エアを覚えている)
エアを殺した赦されない大罪人は自身だが、処刑は報じられていたのだ。エアを見捨てた人々に、エアの存在など教えるものか。誰が困ろうと、それに応える義務などない。
エアを知る唯一である仄暗い喜びと絶大な悲しみに、アレストカインは心を灼かれていた。
彼は、笑うことができなくなった。
『私の人生に、トキはいらない』
「!……っ、はあ、はあ」
アレストカインはベッドから跳ね起きた。
毎日のように夢に見る。エアを殺したときの、光景を。
『赦さない』
(エアはそんなこと絶対に言わない)
言わないとわかっている言葉に断罪された気分になって、救われているように感じる。そんな歪んだ毎日を送っていた。
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魔力が完全に回復した頃から、アレストカインは仕事を探すようになった。子供である彼に与えられる仕事など簡単で報酬も低いものばかりだったが、がむしゃらに働いた。
そうして15歳になる頃には、父親であるグリマティオの仕事を少しずつ任せられるようになった。
彼の目標は、トルクネリア王国の宰相となることだ。
兄が二人もいる。そしてまだ現役の宰相、父もいる。大きな壁はいくつもあったが、いつになったとしても必ず宰相になると決めていた。
アレストカインは、この国に、人に、絶望していた。エアを殺す選択をし、アレストカインからエアを助けられなかった、こんな国にいたくないと思っていた。しかし、ここはエアが守り抜いた国だ。
(それなら、俺が国を建て直す)
腐敗した政治と権力者を排除して、エアのような人が暮らしやすい国を作る。
それは、エアと共に過ごしていた頃、トキが思い描いていた夢だった。
動機は変わってしまったが、目的は同じだと思うと、いくらでも身を捧げられる。
アレストカインは得意魔法だけは封印して、持ち得る他の魔法と頭脳を駆使して努力した。エアを殺した魔法は、二度と使わないと、そう決めて。
昼間は仕事をこなし、寝るまで書架や資料を漁って宰相となるための知識を独学で身につける日々。
幸い、勉強はアレストカインの性に合っていたようで、それほど苦にならずに進めることができた。
彼とリシェンナの婚約の話が浮かんだのは、彼が20歳になった頃のことだった。
「本当は、8年前のあの日、この話を切り出そうとしていたの。でも、記憶にも記録にもないけれど、殺人者を自称する人と結婚する約束をすることに、当時は迷ってしまって保留にしていたわ」
そうリシェンナは王城の客間にアレストカインを呼び出して語る。
アレストカインとリシェンナは、時々王城で会っていた。アレストカインが呼ばれて、近況報告や政治についてなどの現状を共有するために。
「そのご判断は正しいと思います。私も、私と結婚する人間がいれば、軽蔑します」
「そんなにではないと、私は思うわ」
無表情のアレストカインに、リシェンナは困ったように微笑む。
「あなたが宰相の補佐をするようになってから、この国の財政事情も、他国との関係性も、再び増えてきた魔塵への対処も、どれも向上しているわ。そんなに頑張らなくてもいいのに、と思うぐらい。ねえ、貴方、自分の顔、鏡で見たことある?」
「ええ。ありますが」
リシェンナは嘆息した。
「ひどい顔よ。インクで書いたように黒い隈があるし、髭も剃っていないじゃない」
アレストカインは実家の侯爵家から離れて、王都郊外に建てた小屋のような家でひとり生活していた。しかし毎日寝る間もないほど忙しく、家には寝るためだけに帰る日々。王城の書架や執務室で寝泊まりすることも増えていた。
背丈はもうすっかり成人男性のそれだ。黒い髪は伸び放題で、背中に到達している。髭は一週間に一度、家に帰った際に剃る程度。かろうじて体を綺麗に保つ魔法は毎日使っているが、疲れ切った顔は隠せない。
「見苦しいものをお見せしてしまい、申し訳ありません」
「確かに少し見苦しいけれど、それはいいの。ねえ、そんなにするのは、彼女への贖罪?」
その言葉に、アレストカインは眉根を寄せた。
「貴方の表情が変わる時って、彼女の話をしている時だけね。今まで触れないようにしていたけれど、聞かせて。……『エア』は、貴方がこんなふうに身を削ることを喜ぶような人だった?」
トキは押し黙った。エアが言いそうな言葉が頭に浮かんできて、きつく目を瞑る。
そして想像ではなく、実際に言われた言葉をリシェンナに聞かせた。
『「私を忘れて、幸せに生きて」』
それを聞いたリシェンナは、顔を歪めた。泣きそうなその表情を目の当たりにしたアレストカインは、この王女に多大な心配をかけているのだと、実感する。
「殿下、ありがとうございます」
心配してくれて。そして、悪夢に出てくる、アレストカインが勝手に罪悪感から作り出したまやかしではなく、彼女本来の言葉と表情を、生きていたエアを、思い出させてくれて。
表情こそ然程動かなかったが、彼の眉間の皺は、久方ぶりにとれていた。
「リシェンナ王女殿下。婚約のお話、ありがたく思います。しかし、保留にさせてはいただけませんか」
アレストカインの返答に、リシェンナは微笑んだ。
彼女は美しく成長した。頬の丸みは取れたが、大きく丸い瞳は少女だった頃から変わらない。ライトグリーンの瞳は、風魔法が得意な者の特徴だ。色素の薄い、優しい色をしたその瞳に、アレストカインは懐かしさを感じた。
「殿下より素晴らしいお方など、この国にはいないと存じております。ですが、私にはひとつの心残りがございます。それと向き合い、乗り越える時間を、いただけませんか」
アレストカインは、リシェンナの目をまっすぐ見てそう答えた。
自分の口から前向きな発言が飛び出したことに驚き、そんな思考ができたのはいつ振りだろうと首を捻る。
「もちろん今すぐ婚約するように命じるつもりはないわ。それに貴方とわたくしの間に、遠慮など不要。よく言ってくれました。じっくり考えて、答えを出して」
リシェンナはそう言って笑った。
「殿下、重ねて御礼申し上げます。貴方に心からの誠意を」
トキはそう言って椅子から立ち上がり、いつだかの日と同じように、リシェンナに向かって最上級の敬礼を行った。




