⒐ 彼女のいない世界
トキの魔力が爆発してからおよそ1年後。
この日、トキ──もといアレストカインは王都の中心にある王城へと登城していた。エントランスで侍女に迎えられ、薔薇が咲き誇る庭園を抜ける。芳しい花の香りも麗しい風景も、色褪せて見える。
彼はもう、全てがどうでもよくなっていた。
死んだって構わなかったし、そうなった方がエアのもとに行けると受け入れていたほどだ。
しかしエアの言葉が彼をこの世界に繋ぎ止めてしまった。そしてアレストカインも、エアの言葉を無視して能動的に死を選ぶことは、できなかった。
彼の身体と魔力の回復には、医者の見立てどおり一年ほどを要した。身体の調子の方は半年で歩けるほどには回復していたが、魔力の方はからきしで、先月やっと、魔法で小さな水滴を生み出すことができた。今も本調子には戻っていないが、体感としては保有魔力の半分ほどは回復していた。
アレストカインは、第二王女に呼ばれて、いまトルクネリア王国の王族が住まう王城へ足を運んでいる。
あの日から、家族以外の誰とも出会っていない。邸から一歩も外へ踏み出していないのだから。
グリマティオは、アレストカインに命じたエアの暗殺について、ついぞ一言も言及することはなかった。
その理由は定かではないが、「エア・ムズルをこの世から消した褒美をやろう」などと言われた際には、自身の父親を殺してしまいそうだ。
アレストカインが邸から外出しなかったのも、見舞いの人間を全て断っていたのも、体調が思わしくなかったからという理由もあるが、エアについて少しも触れられたくないためであった。
何も知らない人間からの慰めも、同情も、事情を知る人間からの労いも、断罪も、いらない。
何を言われても、どう答えていいのかわからない。
──殺したなんて、本当は認めたくない。
それに邸の者が不自然なほど、エアの名前を口に出さないことに、アレストカインは言い知れぬ不安を覚えていた。まるで緘口令でも布かれたかのように誰もその名前も、存在も、口に出さない。
加えて、魔塵の発生もぴたりと止まっていた。小さいものは発生しているようだが、アレストカインがエアとともに魔塵掃討していた頃とは比べ物にならないほど小規模で、頻度も稀だ。「平和でいいわね」などとメイドが話している場面に遭遇したことがあるが、誰もエアの話は欠片を匂わすこともしなかった。
(何かがおかしい)
第二王女からの招待状は、そんな日々の中で見舞いの言葉と共に送られてきた。アレストカインを名指ししたもので、グリマティオなどは接点のない筈の王女の突然の呼び出しに首を捻っていた。アレストカイン自身も第二王女と直接の面識はない。エアを通して王女の話を聞かされたり、夜会の会場でエアと話している姿を眺める程度だ。
しかし、アレストカインは丁度良いと、招待状に応じる旨を返答した。エアと親しかった人間が彼に会いたがる理由など、一つしか思い当たらないから。
煌びやかな客間の扉の前に立ち、アレストカインは王女付きの侍女がノックするのを聞いていた。
「どうぞ」
可憐な声をきいた途端、彼の心臓が早鐘を打って鳴り出し、いやな汗が額を伝う。
扉が開かれる。中にはティーテーブルを挟んで入り口の扉を見つめているこの国の第二王女の姿があった。
彼女は、侍女に椅子を引かれて優雅な仕草で椅子を立ち上がると、アレストカインに向かって口を開いた。
「ようこそ。私は第二王女、リシェンナ・ミロ・トルクネリア。病み上がりのところをお呼びしたにも関わらず、来ていただき感謝します」
彼女は澄んだライトグリーンの瞳でアレストカインを見つめる。
腰まである、緩く巻かれた美しい黒髪は背に流され、庭園で見た薔薇を思い起こさせる豪奢なドレスを身に纏っている。14歳だと聞いたが、さすが王女、落ち着きがある佇まいだ。
整った顔立ちは王妃譲りのようで、兄妹である第一王子のハリオットを彷彿とさせるが、丸い目とふっくらした頬が年相応の可愛らしさを強調していた。目元は可愛らしい瞳とは裏腹に芯の強さが窺える。ハリオットのように我儘で傲慢な印象は無い。
「本日はお呼びいただき恐悦至極でございます。王女殿下におかれましては、ご機嫌麗しく。アレストカイン・ド・サルファーと申します」
アレストカインは震える身体を叱咤して、片膝をつき項垂れた。最上級の敬意を示したアレストカインにリシェンナは不思議そうな顔をする。正式な場でもないのにこのように畏まる必要はないと。
(この人は、エアの友人だから敬意を示したい。それに──)
「リシェンナ殿下、どのようなご用で私をお呼びになったのでしょうか」
唐突にアレストカインは口を開いた。リシェンナの顔を見ることができず、失礼だと知っていながら、俯いたまま尋ねる。
早く話を進めて、終わらせたかったのだ。
「本題は別にあるけれど、何故か……、貴方、と話がしてみたくて」
リシェンナの声音は戸惑っているようだった。
アレストカインが顔を上げられないのは、自分の表情をリシェンナに見られたくないがためだった。
「貴方、風の魔法は使えるでしょう?」
「はい」
「いまここで、使ってみてくれない?」
リシェンナの真意がわからない。何故よりにもよって、その魔法なのだ。
「恐れながら申し上げます。私はいま、魔力切れの後遺症のため、まともに魔法が使える状態ではありません。王女殿下のご期待に添えるかは……」
「ええ。それで結構です」
アレストカインは渋々手のひらに魔力を集めると、リシェンナの周囲に風を巻き起こした。彼の表情が辛そうに歪む。
「そよ風ね」
リシェンナは無表情のままそういった。
「申し訳ありません」
「いえ、いいわ。……少し、私の話を聞いてほしい。椅子にかけて」
アレストカインとリシェンナは向かいあって座った。彼は王族と同じ席に着くなどと初めは固辞したが、命令だと言われ座っている。
「思い出せないことが、あるの」
「はい」
王女は何を言いたいのだろう。ほとんど初対面のアレストカインには相談したとて、応えられないことは承知だろうに。
彼女の髪は、エアに似ている。実際、公式の夜会などに出席する際にエアが使っていた変化の魔法で髪が伸びたエアと、彼女はよく似ていた。
「あなた、特定一級魔法使いのことを、何か知っている?」
「………どうしてそう、まどろっこしい言い回しをなさるのですか」
アレストカインは拳を握りしめると、席を立って、リシェンナに向かい再び最敬礼を行った。
「あなた、様子が変ね」
声は似ていないが、彼女の雰囲気も、少しだけエアに似ている。
それこそが、トキを苦しめる最たるものだった。
「私が本日この場所に赴いたのは、貴方にお伝えしたいことがあるからです。殿下」
「なんでしょう」
「エア・ムズルが死んだのは、私が殺したためです」
リシェンナは何も言わずにただアレストカインの話に耳を傾けている。
「私の魔法で、彼女は消えました。殿下。どうか……、俺を、裁いてください」
アレストカインは、エアを殺したことを、ずっと後悔していた。否、後悔という生やさしい言葉では言い表せないが、ずっと、この罪はどうしたら償えるのだろうと考えていた。
どれだけ苦しんだって、何をしたって、きっと償いきれない。アレストカインが。──トキ自身が、自分を赦すことなどできない。
誰かに裁きを望むことは「甘え」と捉えられるかもしれないが、エアが心を許していたこの王女なら、トキは的確に裁いてくれるのではないかと、そう期待した。
「エアが、俺を弟子にしてくれたのに。俺は、エアが吐いた嘘を間に受けて、取り返しのつかないことをしました。貴方の友人を、奪ってしまって、……ごめんなさい」
トキは視界に涙が滲んできたのを感じた。1年間、涙など忘れてしまったように乾いていたのに。
彼は永遠にも感じられる時間、リシェンナが口を開くのを待った。
彼女が息を吸い込む音に、トキは怯えてびくりと肩を震わせた。きっと彼女は傷ついて、悲しむだろう、と。
「腑に落ちたわ」
しかしリシェンナが発した言葉は、彼の予想とは違うものだった。
「私は、貴方が殺したというその者を存じません」
アレストカインは目を見開く。そしてばっと顔を上げて、彼女を見つめた。
彼女のライトグリーンの瞳は、揺らいでいない。
「エア、と言いましたか。私は知らない。ですが、私が貴方をここに呼んだ本当の目的は、聞きたいことがあったからだと、言いましたね」
トキは頷く。それをみてリシェンナは続けた。
「いつからか明確にはわからない。でも、あるときから、心の中から何かを失ったような、そんな感覚があるの。例えば、風魔法を使ったとき。憧れの人がいた筈なのに、そんな人は記憶にないの。魔塵が現れたとき、誰か、とても頼りになる人がいるから大丈夫だと思うのに、誰も頼りにならないの。会いたい人がいる。会ったら楽しいってわかるのに、誰も呼べないの」
リシェンナは困った顔をしている。
「いつだったか、街の中で、空を見上げて泣いたわ。誰かの喪失に。でも、私の大切な人は、誰も失ってなどいないのよ。おかしいわよね。私はその人を見捨てることに、ひどい罪悪感を抱いたのに」
気づけばトキは涙を流してリシェンナの話に聞き入っていた。今まで抱いていた違和感の答えが、ここにあった。
「貴方には、監視を命じていた人がいたようね。特定一級魔法使い。でも調べても、特定一級魔法使いに就いた者は、王国が始まってから誰もいないの」
リシェンナはトキに微笑みかけた。今にも泣きそうな顔で。
「だから貴方を呼んだわ。貴方はあの人といる時、とても生き生きとしていたから」
「っはい」
「ねえ。その人は、風の魔法を使うでしょう?私と同じだと、思ったもの」
リシェンナの瞳からも涙が流れていた。
「空気を操る魔法です」
「そう。もう、会えないの」
「はい」
「この苦しみは、貴方が原因なの」
「はい」
「その人の名前を、もう一度教えて」
「……エアです」
「そう。エア。エア……。アレストカイン。貴方がその人を殺したことを、おそらく誰も知らないわ」
そうか、とトキは思った。
──そうか、もう、裁いてももらえないのか。他者が望む形でのエアへの償いは、できないのか。
エアは、文字通り、この世から消えてしまったのだ。否、トキが、消したのだ。
オレンジ色の魔力が爆発し、この国を覆ったあの時、エアの存在は、なくなった。エアの功績も、誰かの胸の中に残ったであろう彼女との思い出も、全て。
「貴方を裁くことは出来ない。でも、私が貴方を赦さない。……ずっと、覚えているよ」
その話し方は、リシェンナが軍にいる時に覚えたものだ。そこにいるときだけ、王女としてではなく、一人の魔法使いとして、彼女は過ごした。
それは、憧れた人を真似たものだったのだろう。その人の記憶を失ったいま、王女に似つかわしくない口調だけが虚しく響く。
(この人は、エアを大切に思ってくれていた人だ)
トキは嗚咽を耐えながら、リシェンナに深く頭を下げた。心からの感謝を込めて。
「ありがとう、ございます。殿下」
赦さないと言われた。トキには、それこそが唯一の救いに思えた。
「リシェンナでいいわ。アレストカイン。今日はありがとう。他の話もあったのだけれど、また今度。もう下がりなさい」
「はい」
アレストカインは客間を後にして、何も話さない侍女に案内されて王城から出た。
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青空が、広がっている。雲ひとつない空に、風が吹く。
(この残酷な世界で生きていたくない)
残酷にしたのは自分自身だ。アレストカインに、ではない。エアに、残酷な世界など、滅びて仕舞えばいいのに。
グリマティオがエア暗殺のことを口にしない理由がやっとわかった。誰を殺すよう命じたのかわからなくなったからだ。
エアは誰も恨むなと言っていた。
──殺したい人間が多すぎるのに。
王も、王子も、父も、誰も赦さない。エアの処刑を決めた王、その原因を作った王子、エアを殺すよう命じた父。そして、今までエアに魔塵やさまざまな不都合から助けられたであろう民衆。エアの処刑が決まっても、何も、助けられた恩を返そうとしない人々。
しかし、最も赦してはならない極悪人は。
「俺だよね」
トキは空を見上げて、笑みにできなかった、歪んだ表情を浮かべた。




