第三話 バトルチェイス
旧式のARグラスをかけたまま、彫像のように教室でヒロは一人ぼーっとしていた。
表面上は、いつもの「のんびり屋のキサラギヒロ君」だ。だが、その網膜の奥で映されているのは、教育用コンテンツでもなければ、流行のSNS動画でもない。
網膜の裏側で、数日前のバトルの残像を何度もリピートしては、その余韻を噛みしめる。ヒロには、一度味わったバトル時の高揚感を数日間は脳内で反芻し、感慨に浸る癖があった。
180度反転しながら放ったブーストの衝撃、ビル風を切り裂く金属の鳴き声、そして――都市OSの完璧な風景をグラフィティでバキバキに塗り倒して駆け抜けた、あの暴力的なまでの自由。
思い出すだけで、指先が小さく震える。それは恐怖ではなく、ある種、熱病のような高揚感だ。一度その劇薬を知ってしまえば、数日はその熱から抜け出せない。管理された無菌状態の日常が、ひどく色褪せて見える。
ヒロは、ストリートバトルが世間一般には褒められたものではないこと自覚していた。 しかし「熱」を反芻し、反動で訪れる静かな孤独を慈しむことこそが、彼にとっての本当の休息だった。
「次の試合、まだかな」
窓の外、完璧なコバルトブルーに塗り替えられた偽物の空を見つめ、ヒロは独りごちる。その時、ガタッという物理的な異音が、彼の静かな高揚感を力ずくで引き裂いた。
「ヒロっ! そのニヤケ面! どうせこの前の余韻に浸ってるんでしょ!」
見慣れたぶかぶかのパーカーがひらめき、ヒロの隣の席に飛び乗ったのは、当然のように事務手続きを無視して侵入してきたフウカだった。ARステータスのポップアップに本来記載されるであろう「ゲスト」の文字がない。
「……フウカ。また無断侵入?」
「当たり前でしょ! 正門から入るなんて、デバッグ作業くらい退屈なんだから!」
フウカはヒロの机を叩き、空間に半透明のウィンドウを勢いよく展開した。そこには、ARMS乗りたちの間で密かに回っている、非公式ストリートバトルの招待状が、ネオンのように明滅していた。
「見て! 今回のルールは最高にイカしてるわ。市街地のビル群を縫うように設置されたチェックポイントを最速で駆け抜ける。でも、ただのレースじゃない。ルール無用の『フル・コンタクト』攻撃、妨害、ハッキング、何でもありのストリート・レース!」
フウカの瞳が、獲物を狙う猛禽類のように鋭く輝く。
「ねえヒロ、ただ走るだけなんて、今のわたしたちには退屈でしょ? シュライクとティンカー・ベルの立体起動で、あいつらの汚い妨害を全部スカしてやりましょうよ! 私が最高のバックアップ(悪戯)を仕掛けてあげるから!」
熱が高まったフウカはさらに身を乗り出し、ヒロのARグラスのフレームを指先でピン、と弾いた。
「いつも通り、私たちの『グラフィティ』を街中にぶちまけて、派手に暴れ回りましょうよ! 都市OSが真っ青になるくらいのネオンブルーで、街全体を塗りつぶしてやるの。最高にクールな『汚い空』を見せてあげましょう?」
「『汚い空』か。いいね。僕の今の気分にぴったりだ」
ヒロはグラスを正し、立ち上がった。心臓の鼓動は、さらに一段速くなる。のんびり屋の仮面は、もういらない。システムが定めた「安全」という名の殻を、自分たちの色彩で叩き割る。
─────
レース当日の夜。ヒロとフウカが向かったのは、繁華街の裏路地にひっそりと佇む、時代に取り残されたような雑居ビルだ。ここは地下街のショップ店主である「おやっさん」から、秘密の「基地」として借り受けている場所だった。
埃っぽい階段を上がり、重い鉄の扉を開けると、そこにはARMSバトル用のダイブ・ポッドが鎮座している。
「準備はいい、ヒロ? 今夜は、あんたの操縦ひとつで巨大なキャンバスに変わるわよ」
「ああ。じいさんのポッドは相変わらずメンテナンスが完璧だ。これなら、どんな無茶な機動でもフィードバックが返ってきてくれる」
二人はポッドの中に体を沈め、神経接続用の端子をセットする。意識が現実から切り離され、デジタル信号の濁流へと溶けていく。
「シュライク、オンライン。……ティンカー・ベル、同期開始」
「 システム・オーバーライド……街の全レイヤー、私たちが『ジャック』するわよ!」
ポッドから送信されたデータが実体化し、市街地の夜景に――鵙と妖精のシルエットが投影された。
─────
この街のストリートバトルには、公式競技のようなご丁寧な番組表など存在しない。それは常にゲリラ開催であり、その「開催地」を見つけ出すこと自体が、刺激に飢えた観客たちにとっての最初のアトラクションだった。
観客たちは、街中の広告や案内板のAR表示に巧妙に隠された「開催通知」を読み解かなければならない。ある時はビルのテクスチャに仕込まれたわずかなノイズに、ある時はマンホールの蓋に投影された一瞬の二次元コードに。それらを探し出し、自分のデバイスを同調させた者だけが、今夜の「遊び場」の観戦レイヤーへと入場を許可されるのだ。
『――よぉおし、ゴミ溜めから這い上がってきたスピード狂の野郎ども! 暗号を解いてここに辿り着いた暇人ども、無断生配信してるクソガキども、準備はいいか!?』
街のあちこちで、スマホやスマートグラスを構えた観客たちの網膜に、しゃがれ声の男による実況が鳴り響いた。今日のアナウンサーは、口の悪さに定評のある『マッド・マウス』だ。
『ルールは簡単! 誰よりも早く、あの通信塔のてっぺんに面を拝ませることだ! 攻撃? 妨害? 上等だよ!警備ドローンに目につけられる前に全開でぶちかませ!』
『一人でも生き残っていればレースは続行!全滅なんてクソ萎える事態はゴメンだぜ!』
マッド・マウスの怒号と共に、駅前のスクランブル交差点上空に、巨大なホログラムのカウントダウン・タイマーが投射された。
『カウント行くぞーッ』
周囲のビル壁面の広告が一斉にノイズを放ち、どす黒い警告色へと塗り替えられていく。
『――3!』
ヒロの心拍数が跳ね上がり、視界の端で「シュライク」の出力ゲージが危険域まで跳ね上がる。
『――2!』
ライバル機たちが互いを牽制するように、機体に装備されたジャミング用の電磁波を放出し始めた。パチパチと空気が弾けるような電子音が、ダイブ中のヒロの神経を鋭く研ぎ澄ませる。隣で同期しているフウカの、興奮で荒くなった吐息が通信越しに聞こえた。
『――1!』
静寂。一瞬、街の全ての音が消えた。ヒロは意識のすべてを「最初の一歩」を蹴り出すビル壁面のタイルの感触に集中させる。
『――GOォォォッ!!』
咆哮と同時に、重力を置き去りにした数台のARMSが爆音を響かせて弾け飛んだ。直後、スタートダッシュを決めた先行機から後方へ向けて「粘着性ワイヤー」や「閃光弾」が撒き散らされる。
「ひぃぃ!」
「うわっ、ちょっと!? 視界が真っ白なんだけど! 最悪!」
後方で派手なデコレーションを施した女性パイロットの機体が、閃光に焼かれて看板に激突した。「あんたたち、弁償しなさいよ! この外装、今月のお小遣い全部つぎ込んだんだからーっ!」
捨て台詞がオープンチャンネルに響き、彼女の機体は「リタイア」の赤文字と共にマップから消えた。すかさずマッド・マウスの容赦ない嘲笑が追い打ちをかける。
『ハッ! これが現実じゃなくて拡張現実(AR)でよかったな、お姫様? 派手なガワを飾る暇があったら、自分の反射神経をアップデートしてきな!』
実況が響き渡ると、街中で暗号を解き明かした観客たちは「もっと言ってやれ!」と爆笑で応えた。この罵声さえも、ダイブ中のヒロにとっては最高に上質なBGMだった。
(……この熱量、この爆音。この景色があれば、一週間は退屈せずに済みそうだ)
ヒロはエアステップによりトラップを回避後、シュライクを急降下させ、空中ルートを捨ててビル群の谷間へと飛び込んだ。ヒロの感覚は機体と完全に同調していた。最新のサポート操縦なら「通行不能」と判断するような狭いビルの隙間、ビルの壁面のわずかな段差。それらが、彼にとっては一本の太い「道」として浮かび上がる。
『見ろ、 あの黒い鳥――シュライクだ! 落下同然の急降下だ!あいつのパイロットは脳みそまで軽量化したのか!?』
そこへ、進路を被せてくる機体が割り込んできた。非武装の軽量級──レース用に不必要なものは排除したのであろう『真面目くん』だ。
「そこをどけ! 私の計算では、このラインが最短のはずだ。ストリートに秩序を見せてやる!」
しかし、ヒロに追走するフウカが路地の大型空調システムをハックして突風を巻き起こす。フウカはキーを叩くたびに、指先から伝わるシステムの抵抗を「遊び」として楽しんでいた。
「うわああっ!? さっきまで物理計算になかった乱気流だと!? こんなの……卑怯だ、認めんぞっ!」
『計算違いだなぁ、インテリ野郎! お前の計算機は中古の電卓か何かか? 秩序が欲しけりゃ裁判官にでも転職しな!』
実況が『真面目くん』を罵倒しボルテージが上がる中、ヒロはビルの壁面をキックし、空中でひねりを加えながら高架を転々と飛び移る。視界を流れるのは、ノイズ混じりの看板、乱反射する街灯、そして驚きに目を見開く路上観客の顔。このシュライクの中でだけ、彼は自分が生きていることを実感できた。
「フウカ、次の看板で例のアレ、やるよ」
「了解! 最高にド派手なやつ、用意しといたわよ!」
フウカがハックしたデジタル看板を通過する際、シュライクを模した巨大なグラフィティをシステム上に叩きつけ、追っ手の視界を奪った。フウカは通信越しに声を弾ませる。
「ヒロ、最高! 今、街中のトラフィックが私たちの色に染まってるわよ! 気持ちいいーっ!」
彼女にとって、この街のシステムを弄ぶことはピアノの鍵盤を叩くようなものだ。不協和音を奏で、完璧な秩序にヒビを入れるたび、彼女の心は自由に解き放たれていく。
『おっとぉ! 後続の「デッドエンド」が急停止! 偽のホログラムにビビるなんて、お前さんの度胸はARコンタクトより薄いんじゃねえのか!? 一生ママのベッドの下で震えてな!』
マッド・マウスの容赦ない罵声が浴びせられたのは、全身をスパイク状の装甲で固め、威圧感あふれる重厚なプロポーションを誇るARMS――『デッドエンド』だった。 いかにもストリートの荒事に慣れていそうな、無骨で刺々しいそのフォルムは、文字通り「行き止まり」へと誘う死神のようだったが、今は急ブレーキのせいで姿勢を崩し、無様に倒れ込んでいる。
「クソッ、ふざけんなよ! 今のは完全に『実体』の描画だったじゃねぇか!」
ダイブ中の通信チャンネルに、野太い、だがどこか余裕を失った焦燥混じりの怒声が響き渡る。彼は力自慢で鳴らしたベテラン乗りだった。自分の経験則がフウカの描いた「嘘」に欺かれたことが、敗北以上に許せなかった。
「あんなガキどもの子供騙しに……この俺が! くっそぉぉ、ティンカー・ベルめ、次こそはその羽をむしり取ってやるからな!」
彼は操縦桿を叩き、悔しさを爆発させるが、もはや加速のついたシュライクとティンカー・ベルの尾灯は、夜のビルの合間に遠く消えていた。
─────
レースは最終盤。通信塔への道は事態を把握した都市OSの警備ドローンの妨害で地獄絵図と化していた。
「ヒロ! 正面からミサイル、上空から機銃掃射よ! 避けるスペースがないわ!」
「……いや、スペースはあるよ。あそこだ」
ヒロが見据えたのは、ビルのガラス窓に反射する「虚像」と、システムの描画遅延だった。ヒロは全速力で加速し、衝突の直前、フウカが生成した強烈な色彩によるフラッシュでドローンのセンサーを潰す。
(今だ――!)
ドローンの網を潜り抜け、二機は街の象徴である巨大なビルの壁面――正確には、その頂上に立つ巨大な通信塔の底部へと機首を向けた。そこは、重機が通行するメンテナンス用通路があるだけのコンクリートと鉄骨の塊だ。
(ここからが、僕たちの真骨頂だ!)
──あえて通路は使わない。『目的』があるから。
シュライクとティンカー・ベルが、轟音と共に通信塔の壁面に張り付いた。エアステップを出力限界ギリギリまで展開し、機体は重力に逆らい、地面を蹴り上げるかのように塔の側面に発生した足場を駆け上がる。
金属とコンクリートが激しく擦れる轟音が、AR越しに二人の脳を直接揺さぶる。下層から周囲から放たれるライバル達の攻撃が、すぐ脇の壁面を削り取り、火花を散らす。頭上からは、しつこく追い縋る警備ドローンが、レーザーと機銃掃射を浴びせてくる。
「ヒロ、右、五度回避! そのままブースト維持! 行けるわ、行ける!」
フウカの的確な指示が、乱れるヒロの意識を繋ぎ止める。
シュライクの装甲が、次々と衝突する着弾でミシミシと軋みを上げる。ティンカー・ベルも被弾が増えているようだ。しかし、ヒロは一切の躊躇なく、ただ前へ、上へと機体を押し上げた。視界の端で、ライバルたちが次々と警備ドローンに捕まり、リタイアの光を放って脱落していくのが見えた。
頂上が、もう目の前だ。
シュライクとティンカー・ベルがトップでゴールラインを駆け抜けた瞬間、通信塔の周辺が鮮烈なネオンブルーに染まった。巨大な翼を広げた鳥のグラフィティがARで刻み込まれる。
「――勝った……!」
─────
「見て! 通信塔に、翼が……!」
観戦していたオーディエンスたちが一斉に空を見上げる。そこには、通信塔をキャンバスにして巨大な翼を広げた「シュライク」のグラフィティが、ARで刻み込まれていた。
「嘘だろ、警備ドローンから逃げながらグラフィティを描くなんて⋯⋯正気じゃない」
後方でリタイアした『真面目くん』のパイロットは、崩れ落ちたゴミ溜めの中から、呆然とその光景を見つめていた。
「これが、シュライク」
重武装機『デッドエンド』のパイロットもまた、操縦桿から手を離し、自らのプライドを塗りつぶす圧倒的な「色彩」に言葉を失っていた。
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──時は遡り通信塔の中腹、強風が吹き荒れる極限の高さ。
ドローンの猛追を受けながらも、二人は高揚感に包まれていた。
「ヒロ、準備はいい!? 今、この瞬間だけは、私たちの思い通りよ!」
「ああ。やろう、フウカ!」
ヒロの心臓は、かつてないほど激しく波打っていた。恐怖ではない。管理された都市OSが、自分たちの手で「書き換えられる」ことへの、痺れるような全能感だ。
シュライクの『ステラ・ペンシル』が描画を開始する。それは光の筆となって、無機質な通信塔に、そして虚飾に満ちた夜空に、二人の魂そのものを叩きつけていく。
(これがやりたかった。誰かに決められた色じゃない、僕たちが今ここで生きているという『証』を刻みたかったんだ)
二人の意識がシンクロし、ネオンブルーの奔流が夜の闇を食い破る。ただの勝利宣言ではない。それは、透明な殻に閉じ込められたこの世界に対する、宣戦布告に近い「遊び」だった
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「――勝った……!」
ヒロが手応えを込めて呟いたその時、マッド・マウスのしゃがれ声が再び絶叫した。
『決まりだぁぁ! 夜をジャックしたのは、あの薄汚ぇグラフィティの主達――シュライクとティンカー・ベルだ! 都市の完璧な秩序をグラフィティでズタズタにしやがった! 負けた野郎どもは、その悔しさを酒に混ぜて飲み干しな!』
モニターには優勝したシュライクが描画したグラフィティが誇らしげに躍動している。だが、その直後、実況の背後に不穏な警報音が混じりはじめた。
『おっと、お喋りはここまでだ! 都市OSの警備ドローンが、俺の元へ向かってるぞ! 一緒に野暮な説教を食らいたくない奴は、今すぐバックれな!』
アナウンサーの背後に、無数のドローンのライトが急速に接近してくるのが見える。
『今夜の火遊びはこれでおしまいだ! 命を大事に、せいぜい明日の学校や仕事で死んだ魚のような目をして過ごしな。そして――また暗号が街に現れるその日まで、牙を研いどけよ! 次の開催を楽しみにな! アバヨ!』
ブツリ、と通信が途絶える。ヒロ達も下層から迫りくるドローンの群れを横目に、フウカが用意した脱出ルートへと一気に機体をダイブさせた。
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雑居ビルのポッドから身体を起こすと、ヒロの体にはダイブ特有の気怠さと、激しい達成感が残っていた。
「あははは! 見た!? アナウンサーの最後の全力ダッシュ!」
フウカはポッドから飛び出し、興奮で顔を赤くしてはしゃいでいる。ヒロもポッドの蓋を開け、鋭い輝きを帯びた瞳で笑った。
「……無理かと思ったけど、今までの遊びで一番楽しかったよ」
おやっさんに「また大立ち回りしおって」と呆れられながらも、二人はいつものプレミアム肉まんを手に、地下街の隅に座り込む。熱い肉まんを半分に割り、隣で笑うフウカの体温を誇らしく感じながら。
「ねえヒロ、次はどんなヤバいバトルにしたい?」
「……しばらくはお腹いっぱい。でも、次はもっと高く、高く飛びたいな」
少年の言葉は、偽物の光に満ちた都市の空を貫き、確かな色彩となって夜の中に消えていった。




