冷鉱泉につかってしまった!(水曜日)
――この物語の主人公、紺島みどりとは何者か?
端的に説明すると……「週に一度は『しまった』と口にする高校一年生の女の子」となる。
ゆえに紺島みどりは「今週のしまったちゃん」略して「こんしまちゃん」の愛称で親しまれている……!
そんなこんしまちゃんだけど、その口癖のために心配されることもめずらしくない。
毎週「しまった」と言うくらいなのだから……「もしかして、こんしまちゃんには心の余裕がないんじゃないか」と気にかけてくれる人もいるだろう。
まあ実際のこんしまちゃんの心は全然追い詰められておらず平穏そのもので、むしろ秘境の湧き水くらいには澄みきっている……。
とはいえ、こんしまちゃんは疲れを知らない超人じゃない。
がんばりすぎたら魂が抜け出るし、暑いところに長時間いたらドロリと溶ける。
そこんところは普通の人間となんら違いない。
よって――思いきり羽を伸ばしたいなあ~とこいねがう日があっても、だれがこんしまちゃんを責められよう……ッ!
そんなわけで今回は――こんしまちゃんが、ただのんびりするだけの話だ。
※ ※ ♢ ※ ※ ※ ※
長期休暇の水曜日――。
こんしまちゃんは、とある場所に向かっていた。
なお、こんしまちゃんの通う高校では休暇のあいだも登校しなきゃいけない日がけっこうあるんだけど……その水曜日はちゃんと休みだった。
ことの始まりは、一日前にさかのぼる……!
あまりにも暑くて、体のみならず魂までもが溶解しかけていたので――。
こんしまちゃんは「いっそ、もっとドロドロに溶けることができればラクになれるのでは……?」と考えた。
血迷ったんじゃない……っ!
暑い日に、あえて熱いものを食べる例の心理に近いだろう。
このようなのっぴきならない経緯により……友達をさそって「日帰り温泉」に行こうと思い立った、こんしまちゃん。
クラスメイトの菖蒲佳代子さんと矢良みくりさんに連絡を入れたところ、二人は「予定ないし、いいよ」と返してくれた。
そんなわけで今週のこんしまちゃんは、菖蒲さん矢良さんと一緒にグツグツの温泉に向かっているのだ……ッ!
ただし現在、こんしまちゃんは車の助手席に座っている。
友達二人は後部座席に腰かけている。
表情が髪に隠れて分かりにくいほうが菖蒲さんで、ポニーテールのほうが矢良さんである……。
じゃあ運転しているのは、だれなのか……?
紺島まふゆさんである。
まふゆさんは……こんしまちゃんこと紺島みどりの、六歳年上のお姉さんだ。
こんしまちゃんの髪はウェーブのかかったくせ毛なんだけど、まふゆさんの髪も同様の特徴を持つ……!
でも妹のこんしまちゃんよりも髪が長く……。
ウェーブの曲がり具合が一段とすごい。
さらに決定的な違いもある。
まふゆさんは「しまった」と言わない。
厳密には「しまった」と発音することはあるけど、それは心の底からの「しまった」とは違う。
よって紺島まふゆさんが「今週のしまったちゃん」略して「こんしまちゃん」と呼ばれたためしはない……ッ!
まふゆさんは、いいお姉さんだ。
きのう、こんしまちゃんから「電車に乗って友達と日帰り温泉に行くつもりだけど、だいじょぶかな……」と相談を受けたので、「だったらわたしが車で運ぶよ」と即座に答えた。
まふゆさんは、こんしまちゃんの指定する温泉を目指して絶賛安全運転中……!
一方、助手席のこんしまちゃんが、後ろの二人に話しかける。
「これから行く温泉……痔や高血圧に効くらしいよ……」
なかなか耳寄りな情報ではある……ッ!
伏し目がちに、菖蒲さんが返答する。
「そ、それは……うれしい効能だね……こんしまちゃん」
「助かるよっ! 肩こりにも効くかな~」
矢良さんも菖蒲さんに続いて、なかなか好感触の反応を見せる……!
正直、まふゆさんは女子高生三人の会話にツッコミを入れたくてしょうがなかったけれど……冷静に沈黙を守っていた。
(たとえばわたしが「もっと女子高生らしい会話してよ~」とかツッコんだとする。でもそれって偏見じゃない? 「女子高生は痔とも高血圧とも肩こりとも無縁である」っていうわたしの常識の押しつけだよね。女子高生が痔や高血圧や肩こりの話をして、なにかの罪に問われるの? 問われないよね。いやむしろ世の女子高生は痔や高血圧や肩こりについて、もっと熱く語ってもいいんじゃないのかな)
きちんと安全運転を継続しつつ……まふゆさんは、そう思っていたのだ……ッ!
(にしても、尻込みせず痔の効能について語るとは、さすがみどり……! 友達二人もいい子たちだね。みどりの言うことを聞いても――受け入れて、話に乗ってくれている)
※ ※ ♢ ※ ※ ※ ※
まふゆさんの運転する車が、うねった山道をのぼっていく。
道路のそばの緑が濃くなり、セミの声が無数に重なる。
しかし唐突に、こんしまちゃんがつぶやく……っ!
「しずかさや……いわにしみいる……せみのこえ……」
なぜこんしまちゃんがこのタイミングでかの有名な『奥の細道』の名句を口ずさんだかは分からぬ。
たぶんセミの声がこんしまちゃんの全身を震わせてきたから、昔国語の授業で習ったことが思い出されたんじゃないだろうか……?
これを聞いて矢良さんは――
「暑くなる句だねっ」
と感慨を漏らした。
が、左隣の後部座席に座る菖蒲さんは――
「そうなの……? 聞いただけで涼しくなる句だとわたしは思うなあ……」
と正反対の感想を述べる……!
直後、ハッとして菖蒲さんが口元を両手でふさぐ。
モゴモゴ謝ろうとする菖蒲さんに、矢良さんが屈託のない笑顔を向ける。
「へえ~、佳代子ちゃんとあたしとで感じ方が違っていて、おもしろいねっ」
「うん、そうだね……!」
険悪なムードになることを危惧していた菖蒲さんは――矢良さんの優しい返しを聞いて、ほっとした。
「じゃあ矢良さん……風鈴の音は、どうかな……っ! チリリリーン……! って聞いたら暑苦しかったりする?」
「そっちのほうは、ひんやりするねっ」
「……わあっ! そこは、おんなじなんだ……やったよ……わたし、勝負に出てよかったよ……」
菖蒲さんのあごがちょっとだけ上がったので、口元のゆるんだその顔が普段よりも……よく見えた。
結果、車内の雰囲気がぐっと明るくなる。
しかもこんしまちゃんに至っては、矢良さんと菖蒲さんの会話に耳をそばだてながら、腕組みをしてうなずいているではないか……ッ!
なんか保護者みたいである。
まさか、ここまで計算してこんしまちゃんは芭蕉の名句をつぶやいたのか……?
が、その真意はこんしまちゃん以外うかがい知ることのできぬ深淵にある……!
ともあれ、なんか分からんけど幸先がいい。
きっと、こんしまちゃんご一行さまは――。
これから温泉で、とろけるくらいにリラックスできるに違いあるまい。
※ ※ ♢ ※ ※ ※ ※
まふゆさんが車をとめたのは、山の中腹よりも少し上にある無料駐車場だった。
車のドアをあけると共に、日差しが肌を刺す。セミの声が大きくなる。むわあっ……とした空気がみんなの全身にまとわりつく。
こんしまちゃんと菖蒲さんと矢良さんは帽子をかぶり、まふゆさんは日傘を差した。
アスファルト舗装の駐車場を歩いていき、目当ての日帰り温泉に向かう……ッ!
※ ※ ♢ ※ ※ ※ ※
――その日帰り温泉施設の外観は、なかなかに味があった。
赤茶けた木造の平屋……っ!
向かって左から右にすべる片流れ屋根を、赤いかわらでふいている。
セミの声に交じり――。
小鳥の優雅なさえずりが、どこからともなく響く……!
よく見ると屋根の頂上で、金色のカラスの像が雄々しく翼を広げている。
だが……ッ!
恐ろしいことに、それ以上に目を引くものが建物の入り口の前に用意されていた。
――「本日休業」の看板である。
ちなみに、縦書きだ。
赤茶色の立て看板に貼った白い紙の上に、黒く太い筆致でその漢字四つをしるしているのだ……っ!
しかも達筆で読みやすい。ふりがなも振ってある。
「ひ、ひええ……しまった……っ!」
そんな震え声を発したのは、言うまでもなく――こんしまちゃん。
こんしまちゃん、まさかの擁護できないやらかし……っ!
紺島みどりは……みずから日帰り温泉を企画し、友達をさそった。
事前に温泉施設を指定し、姉のまふゆさんに連れていってもらった。
当然こんしまちゃんは、当施設の公式サイトをチェックしている。
ゆえに……そこに痔や高血圧にも効く温泉があると知っていたわけだ。
にもかかわらず、きょうが休業日か否かの確認をおこたった。
公式サイトをもうちょっと注意深く見ていれば、すぐに分かった情報だったのに……。
猛省するこんしまちゃん……!
セミの声が、鼓膜と全身にしみいる。
よほどショックだったのか――。
こんしまちゃんは脱帽した。
「ごめん……みんなをがっかりさせちゃった……」
帽子を胸に当て、しょんぼりする。
しかし、この場にいるほかの三人がこんしまちゃんを責めることはなかった……。
あたふたした菖蒲さんも、みずから帽子をとった。
「こ、こんしまちゃんだけが悪いわけじゃないよ……っ! わたしたちだって行くところ知ってたのに、温泉が休業してるか確認してなかったし……」
「佳代子ちゃんの言うとおりだね」
そう口にした矢良さんが、こんしまちゃんと菖蒲さんに続いて脱帽する。
かくして、こんしまちゃんと矢良さんと菖蒲さんは――それぞれの帽子を前方に差し出し、互いにつばをふれ合わせた……ッ!
意図は不明瞭だけど、美しい光景であるのは間違いない。
そんな三人の行動を、日傘を差したまふゆさんがじっと見守っていた。
傘を持っていないほうの手で、なにやらスマートフォンをあやつりながら……。
つまり片目で三人を凝視し、もう片方の目でスマートフォンの画面を見るという器用なことをやっていたのだ。
しかし……まふゆさんは、まったく動じていない。
もちろん、前もって休業のことを知っていたわけじゃない。
いいお姉さんだから、こんしまちゃんのことをあったか~く見守っているのか? ……それもある。
でも、まふゆさんには別の一面も隠されている。
まふゆさんには――妹に迷惑をかけられたいという姉としての根源的欲求が宿っているのだ……!
中学生のころ、まふゆさんは小学生のこんしまちゃんに対して……ある悪魔的な計画を実行したことがある。
わざと冷蔵庫の目立つところに自分で買ったプリンを置き、それを賞味期限ぎりぎりまで放置したのである……ッ!
これぞ、まふゆさんの高度なプリン・トラップ……(半分マッチポンプ)
妹のこんしまちゃんがうっかりプリンを食べたとき、作戦が発動する……(はずだった)
その瞬間、「あーっ! みどり、わたしのプリン食べたでしょ~」という王道のセリフをはき……さらには、うなだれる妹を無条件で許し、あまつさえ優しく抱擁するという……そんなシチュエーションの実現をまふゆさんは妄想していたのだ……っ!
でも、こんしまちゃんは罠にかからなかった。
都合三回、まふゆさんは同じようにプリンを冷蔵庫に仕込んだが……ことごとく作戦は失敗に終わった。
確かにこんしまちゃんは立派なうっかりガールなんだけど……なんか、きょうだいのプリンを食べるという許されざる大罪を犯すような……そういうことだけは、しないのである。
まふゆさんは、そんなこんしまちゃんが誇らしかった。
同時に、もっと迷惑をかけてほしいなーとも思っていた。
さすがに、まふゆさんも……こんしまちゃんに罠を仕掛けることは、もうない。
プリン・トラップは、若気の至りの一ページにすぎぬ……。
それでも……心のどこかで、いや、あちこちで……妹に迷惑をかけられたいという欲望が肥大していたのだ。
だから、まふゆさんは今回こんしまちゃんが休業日の確認をおこたったことに対して――。
この上ない幸福を覚えていた。
妹のこんしまちゃんがしょんぼりしていることは、確かに悲しい。
でもそれ以上に、妹のために無駄な運転ができたことが……とてもうれしかったのだ。
もちろん、まふゆさんだって休業日の確認をしなかったのは事実。
よってこんしまちゃんに一方的に迷惑をかけられたと考えるのは拡大解釈がすぎる。
そんな微妙なシチュエーションも合わせて、まふゆさんは楽しんでいた。
そしてまふゆさんの欲は……まだ完了していない。
傷心の妹を優しく癒やすまで、姉としての欲望は完遂しないのだ……ッ!
「……みんな~」
満を持して、まふゆさんが動く。
「代わりに冷鉱泉、行かない?」
※ ※ ♢ ※ ※ ※ ※
「……れいこうせん?」
こんしまちゃんと菖蒲さんが着帽しながら、まふゆさんの言葉をくりかえす。
「ま、まさか……」
それは、こんしまちゃんにとって聞き慣れない言葉だった。
こんしまちゃんが、言葉の響きからその正体を思いえがく……。
「……『れいこうせん』って、『冷光線』のこと……? つまり冷たい光線。ヒエッヒエのビームを体に当てて暑さから解放される施設……?」
「ち、違うんじゃないかな……こんしまちゃん」
菖蒲さんが、やんわりとツッコむ。
「……『れい』とは、英語でR・A・Y……すなわち光線。よって『れいこうせん』という言葉は同じ単語が二つ並んで構成されているも同然……っ! その正体は『光線光線』とわたしは見た……」
「おもしろい解釈だねっ! こんしまちゃんに佳代子ちゃんっ」
矢良さんも帽子をかぶりなおし、あたりのセミに負けない声量を出す。
「まふゆお姉さんが言った『冷鉱泉』っていうのは、二十五度未満の湧き水のことだよっ。漢字で『冷』たい『鉱』物の『泉』って書くよん」
「へ、へえー」
菖蒲さんがあごを引き、やや上目づかいで矢良さんを見る。
「じゃ、冷鉱泉は温泉じゃないんだ?」
「いや冷鉱泉も温泉のうちっ! 特定の物質が含まれていれば二十五度未満でも温泉だよっ」
「……それ、学校のプールくらいの水温じゃないの? あったかくないなら温泉じゃなくない? 温泉って『温』かい『泉』って書くし……」
「そこは『温泉法』という法律で決まっているから、しょうがないんだ……」
「マジなんかい……極端なこと言ったら、水温一度とかでも特定の物質? ……が含まれていれば温泉になりそうじゃん……もはや温泉じゃないじゃん。でも法律だから従わざるを得ないじゃん」
――なんにせよ。
いつまでも「本日休業」の看板の前で話しているのもなんか迷惑かもしれないし……暑いし……冷鉱泉というのも気になるし……。
まあ、そういうもろもろの理由によって――。
こんしまちゃんと矢良さんと菖蒲さんは、まふゆさんと共に車に戻った。
「でも矢良さんが、そこまで温泉に詳しいなんて……」
助手席に座ってシートベルトを締めながら、こんしまちゃんが口をひらく。
「温泉ソムリエになれそうだね……?」
「いやいやっ、あたしのはニワカ知識だよっ」
右側の後部座席で矢良さんが、てへへと笑う。
「きのう、こんしまちゃんが『この日帰り温泉に行く』って知らせてくれたよねっ。だからあたし、なんとなく『周辺にほかの温泉あるのかな~』って調べたんだっ。すると、この温泉がある山の反対側の中腹に冷鉱泉の施設があるのを発見したわけ。そういう流れで、冷鉱泉ってなんだろうな~って思って、ちょいとニワカ知識を吸収した次第」
ついで矢良さんが、運転席のまふゆさんに声をかける。
「……まふゆお姉さんがこれから行こうとしている冷鉱泉も、ここから反対の中腹にあるやつじゃないでしょうか?」
「……そだよ、矢良ちゃん」
全員のシートベルトが締まっていることを確認し、まふゆさんが車を発進させる。
「さっきスマートフォンで確認したけど、この冷鉱泉……今からでも入浴できるっぽい。もちろん、予約が不要で日帰りオッケー。ちゃんと公的な許可もとってるみたいで安心」
というわけで無料駐車場から出て、そっちに向かう。
まふゆさんがカーブを曲がりながら……だれにともなく、つぶやいた。
「でも一つの山で冷たい湧き水と温かい湧き水が出るなんて……なんか心がくすぐられるよね」
予定していた温泉には入れなかった、ご一行。
まあでも……そんな日だって悪くない。
※ ※ ♢ ※ ※ ※ ※
日帰り冷鉱泉には、二十分弱で着いた。
その施設の近くにも無料駐車場があったので、まふゆさんは車をそこにとめる。
こちらの駐車場の表面はアスファルトではなく、砂だった。
こんしまちゃんたち四人はセミの元気な鳴き声を聞きつつ、冷鉱泉の施設に向かう。
果たして、その外観は――。
薄茶色の木造の平屋だった。
谷のように折れ曲がったゆるやかなバタフライ屋根の上に、青いかわらが敷き詰められている……!
さっきの休業中だった温泉施設に比べて、鳥のさえずりは聞こえてこない。
もっぱらセミの声ばかり。
ただ、バタフライ屋根のへこんだ部分の中心に、銀色のウサギの像が腰を下ろしている。
不敵な面構えである……ッ!
ともかく、こっちの建物の入り口に「本日休業」の看板は見当たらない。
代わりに……入り口のそばにデカデカと横書きの看板が置かれている。
看板には、「冷鉱泉をバズらせろ!」というカラフルな文字列が個性豊かに書かれてあった。
そして入り口の前で、もっと目を引く光景が展開されている。
たぶん傘寿を迎えたくらいの女性が、ひしゃくを使って水をまいている。
水が地面を濡らすたび、砂にまだらの模様が浮き出る。
どうやら女性は打ち水をして、あたりの気温を下げているらしい。
藍色をした薄物の和服を着こなしている。
きれいな霜髪を低い位置に結い、キキョウの飾りのついたかんざしを挿している。
「すみません……」
こんしまちゃんが、和服の女性に話しかける。
「日帰り冷鉱泉につかりたいんですが……」
「そうですか、歓迎いたします」
打ち水をやめ、女性がこんしまちゃんにお辞儀をする。
顔を上げて、えくぼを見せる。
「四名さまですね。どうぞ、お上がりください」
※ ※ ♢ ※ ※ ※ ※
お金を払って手続きを済ませ、こんしまちゃんたちは和服の女性についていく。
案内された建物のなかは、けっこう涼しい。
薄茶色の廊下をゆっくり歩く、こんしまちゃんと菖蒲さんと矢良さんとまふゆさん……。
廊下には、ちり一つ落ちていない。
でも見たところ……ほかのお客さんの姿はない。
「あのう……」
菖蒲さんが、おずおずと和服の女性にたずねる。
「気になってしかたないんですが、入り口のそばの『冷鉱泉をバズらせろ!』という看板は……いったい、なんだったんですか……?」
「文字どおりの意味ですよ」
和服の女性がちらりと菖蒲さんに目を向けて、やわらかに言う。
「冷鉱泉ブームが巻き起これば、ここも繁盛するかと期待していまして」
「……インフルエンサーや有名な人が紹介してくれれば、ワンチャンありそうですね……っ!」
「わたくしも冷鉱泉をバズらせようと動画投稿サイトやティック・タック・テック・トックで活動しているのですが……なかなか効果も出ず。お嬢さんは、ティック・タック・テック・トックをやっていらっしゃいますか」
「いえ、ティック・タック・テック・トックは、やっていません……!」
「そうですか……」
女性が小さく、えくぼを作る。
「まあ、わたくしのことはお気になさらず、存分に涼んでくださいな……」
そして「女湯」という「のれん」のかかっている部屋の前でとまる。
「湯と書いてありますが、湯というよりは水ですのでご安心を。水温は二十四度くらいで、冷鉱泉に初めてつかるかたにも、おすすめです。そして成分としては二酸化炭素が含まれています。ようは炭酸ですね。……さて、ご質問はありますでしょうか」
「痔にも効きますか……?」
そう聞いたのは、こんしまちゃん。
和服の女性はノータイムで返答する。
「少しだけ効果はあります。しかし、ほかの温泉や冷鉱泉のほうが効果があると思います」
「高血圧や肩こりは、どうです……」
「それらを癒やす場合でも、もっといいところがあります。たとえば……この山の反対側の中腹に、人気の日帰り温泉が存在しますよ」
だが。
こんしまちゃんと女性とのやりとりを聞いて、菖蒲さんは思った。
なんか……「正直すぎる気がする」と。
(効能についてウソを言ったらだめなのは当然なんだけど……いちいち、よそと比較していたら、せっかく訪れたお客さんもげんなりするんじゃないのかなあ……)
とはいえ初めてここに来た自分がこの気持ちを口に出すのも失礼な気がする――そう考えた結果、菖蒲さんは黙っているしかなかった。
※ ※ ♢ ※ ※ ※ ※
ともあれ女湯の「のれん」をくぐり、ついに四人は冷鉱泉に入る……ッ!
それは――岩で囲まれた湯船を持つ、大きな露天風呂であった……!
周囲は薄茶色の壁で囲まれている。
四方を見回すと、一方には青いかわらを載せたバタフライ屋根の谷が見える。
それ以外の三方の壁の上では、緑の葉っぱがそよいでいる。
昼下がりの太陽光が、湯船にたたえられた無色透明の水面に反射する。
セミの声ばかりが絶えず響く。
否……ッ!
耳を澄ましてみると――そのなかに、チリリリーン……! という音もまぎれ込んでいるのが分かるはずだ。
冷鉱泉につかる前に、こんしまちゃん、矢良さん、菖蒲さん、まふゆさんは洗い場で身を清める。
洗い場には、シャワーも取りつけてあった。
シャワーからは、れっきとしたお湯が出た。
その後、こんしまちゃんが慎重に湯船に近づく。
(なお四人のほかにお客さんはいないので、その行動を不審がる者もおらぬ……)
湯船を囲む岩のなかでも、とくに小さな岩に右手を添え――。
左手の中指を、そっと水面に突き入れる。
「ほわああ……」
その初めての感覚により……。
こんしまちゃんの口から、思わず感動の言葉がこぼれてしまったようだ……!
こごえるほどの冷たさじゃない。
熱湯でもなく、ぬるま湯でもなく……ほどほどに涼しげな感覚が左手の中指からこんしまちゃんの全身を駆けめぐった……ッ!
今や、こんしまちゃんの体内と体表は「涼」に支配されているのだ。
こうやって、みずからの体に水温を教えたあと。
こんしまちゃんがその足を、ゆっくり湯船にひたす。
のぼってくる「涼」を楽しみつつ、こんしまちゃんが冷鉱泉に身を沈ませる……!
お湯に溶けた全身の汗が、さわやかな水にふれるたび……はじけ飛ぶッ!
そして水底に腰を落ち着けてから……。
こんしまちゃんは涼やかな声で、こう口走ったという。
「りょ~」
まるで草笛のように軽やかな響きであった。
が、その瞬間……こんしまちゃんの左隣にまふゆさんが腰を下ろした。
「みどり~。わたしも冷鉱泉つかるの初めてなんだけどさ~、まさに『涼』って感じで気持ちいいね~」
「……しまった。お姉ちゃん……わたし、口で『りょ~』って言ってなかった……?」
「どうかなあ。セミの声に気を取られていたから、分かんないや」
並んで涼む、こんしまちゃんとまふゆさん。
えー、日差しのせいで頭とか肩とか暑いんじゃないのー? と心配するかたもいるだろうけど……だいじょうぶである。
きれいな霜髪を持つ、あの和服の女性が……入浴用の帽子を貸してくれたからだ。
つばの広い、濡れても問題ない帽子である。
おかげで、こんしまちゃんもまふゆさんも、帽子の影のなかで涼を逃がさずに済んでいるのだ。
※ ※ ♢ ※ ※ ※ ※
もちろん、菖蒲さんと矢良さんも……その帽子をかぶっている。
湯船に長い髪をつけないよう、菖蒲さんは髪を結わえたうえで着帽している。
そんな菖蒲さんの右隣に、ポニーテールの矢良さんがやってきた。
矢良さんは、しばし無言で冷鉱泉につかっていた。
菖蒲さんは肩まで水面下に沈ませて、矢良さんに話しかけた。
「水だよね、これ……。さっぱりしてて、骨の髄まで洗われるようだけど……『湯船』って言うのは違和感ない……? これじゃ、『水船』だよね?」
「確かにっ。涼しいもんね~。……はあ、いわゆる水風呂ともまた違った味わいだよっ」
ここで、チリリリーン……! という音が二人の耳に入った。
「佳代子ちゃんっ。これ、風鈴が鳴ってるんだよねっ」
「うん……そだね。セミの声にまぎれて聞こえづらいけど……やっぱり、この響きを拾っただけで暑さがちょっと飛ぶ」
「セミの音の重なりに、飲まれている感じがするねっ」
そう言って矢良さんも、上半身を肩まで沈ませる……。
「佳代子ちゃん、あたしさ……ここに向かう途中で、『しずかさや、いわにしみいる、せみのこえ』は『暑くなる句』だって言ったよね?」
「うん……」
「でも、こうしてセミの声に囲まれながら涼しさにひたされていると……なんていうかなっ。心の震えが静かになっていく」
水面から立ちのぼる涼風が、肌をなでる。
水中で体をゆらすと、ほどよく冷たい流れができる。
皮膚にじんわり「静」がしみ込む。
「この冷たい静が、セミの声の静かさと重なって……涼しさの連なりを生んでいるんだよっ! これを思うと……佳代子ちゃんが例の句を聞いて『涼しくなる』と言ったのも分かるような気がしてきたんだ~」
「……や、矢良さん。そこまで考えるんだ……っ」
「……『みくり』でいいよ」
矢良さんは横目で菖蒲さんを見る。
「ほらっ! あたしの下の名前、なんか涼しげじゃないかなっ。言葉にすると、涼しくなれるよ~」
「で……でも、こんしまちゃんも矢良さんのこと矢良さんって呼んでるし、いいのかな……」
「いいんだって。呼び方は人それぞれなんだからっ。ただ、なんとなく……佳代子ちゃんには、あたしを『みくり』って呼んでほしいと思ったんだっ」
「そ、そう……じゃあ」
帽子のつばで顔を隠しつつ、菖蒲さんが小さな声で呼ぶ。
「……み、みくりちゃん」
「わあっ! 思った以上にいい響きっ! 涼しくなった?」
「相殺されてる……っ」
どういうことかというと――。
菖蒲さんは恥ずかしくなって顔を赤らめてしまったんだけど……でも「みくり」という名前を呼んで涼しくもなったので……温度はプラマイゼロに落ち着いたということらしい。
でも、これに静かなセミの声と、チリリリーン……! という風鈴と、ほどよく涼しい冷鉱泉が合わされば……。
きっと菖蒲さんの心は――。
ちょうどいい穏やかな水温で、満たされるだろう。
※ ※ ♢ ※ ※ ※ ※
で、こんしまちゃんとまふゆさん姉妹のほうだけど。
まふゆさんがこんしまちゃんに、いきなりカミングアウトし始めた……!
「なんか涼しいところに……つかっていると、冷たいプリンを思い出すよ。わたし中学のときさ~、家の冷蔵庫にわざとプリンを置いてたんだよね~。そんで、それをみどりが食べたら、おこったフリするつもりだったんだ。そのあと許すところまでをワンセットで妄想してた。若かったとはいえ、よくなかったな~。ごめんね、みどり」
「……そんなこと、あったかなあ?」
どうやら……こんしまちゃんの記憶には、ないらしい。
こんしまちゃんは目の前の透明な水を両手で揉みつつ、まふゆさんに問う。
「でも、なんでプリン・トラップを……?」
「迷惑、かけてほしかったから」
「わたし……ずっと迷惑かけてると思うけど……きょうだって……」
「そうかもね。だから、きょう……みどりと出かけることができて、うれしかったんだよね」
ついで、まふゆさんが矢良さんと菖蒲さんのほうを見る。
二人は、やや遠くの岩のそばで首から下を沈めている。
「高校生になったみどりにも、いい友達がいるって分かったし……もう思い残すことはないよ」
「お姉ちゃん……ちょっとは思い残して……」
「……へえー? みどり、お姉ちゃんに逆らうんだあ~?」
冗談めかしたトーンで、まふゆさんが「ふふっ」と笑う。
「わたしをむっとさせるの……『しまった案件』かもしれないよ~」
「いいや……これは、しまった案件じゃないよ……」
こんしまちゃんが水面下から両手を少し持ち上げ、水を盛り上げる……ッ!
「わたしのせいでお姉ちゃんに思い残しが生まれたら……それは、わたしがお姉ちゃんに迷惑をかけたことになる……! つまりお姉ちゃんの望みどおりの展開……っ!」
「ふへへ……」
まふゆさんが、なんか変な笑声を漏らす。
「そっかあ……それは、悪くないなあ。まだまだ、わたし……みどりに期待しちゃおっかな~」
「その期待を裏切る未来までがワンセット……!」
「ふーん。完全にお姉ちゃんに迷惑をかけないようになっちゃうってこと?」
ここで、まふゆさんが両手でパシャパシャと顔を洗った。
「そりゃ最高の大迷惑だ」
「……墓穴を掘ったね……お姉ちゃん……!」
そしてこんしまちゃんも、姉に釣られてパシャパシャ洗顔に及ぶ。
「お姉ちゃんこそ、『しまった案件』かも――」
「――いや、これは『してやったり』のほう」
まふゆさんは顔を洗うのをやめ、帽子の向こうの太陽を見た。
「だってわたしは、『紺島まふゆ』であって『こんしまちゃん』じゃないからね」
※ ※ ♢ ※ ※ ※ ※
こうして……こんしまちゃん、まふゆさん、矢良さん、菖蒲さんの四人は初めての冷鉱泉を終えたのだった。
冷鉱泉から上がって女湯の「のれん」をくぐったとき……。
例の傘寿を迎えたとおぼしき和服の女性が、冷たい水を四人に差し出した。
それは冷えた炭酸水だった。
細かく泡がはじけ、口内でほおをたたき、爆発しながらのどをすべる。
「かあーッ! うますぎるんだけど!」
菖蒲さんも高校でのキャラを忘れて、炭酸水を胃に流し込む……っ!
和服の女性が、菖蒲さんに言う。
「これは、ここから湧いている冷鉱泉の水ですよ。ちょっと冷やしていますけれど」
「……そういえば、二酸化炭素が含まれているって話でしたね……」
「……今の映像、ティック・タック・テック・トックに投下しません? バズると思いますよ」
「いえ……わたしは……その、ちょっとそういうのは……やるなら、別の方法で」
カラになったコップを見下ろし、菖蒲さんが和服の女性に視線を向ける。
「ところで……ここ、とっても、いいところだと思います」
少々うつむき加減に、菖蒲さんが言葉を続ける。
「この季節だと、とくに涼しくて……さわやかで……冷たくて……さっぱりしていて穏やかで、心までが静かになるっていうか……もっとはやるべきです、冷鉱泉!」
「もったいない言葉です」
女性は菖蒲さんの手から、カラになったコップを預かる。
「でも、気をつかっていただかなくても……だいじょうぶです。みなさん、本当は反対側の中腹にある温泉施設を目指して来たのでしょう? でも休業日だったから、代わりにこちらにいらしただけ……違いますか」
「気づいていたんですか……それでも、わたしはもう一度ここに来ると思います。そう、らいしゅ……」
「……来年でいいです」
菖蒲さんが言いきるよりも前に、女性が静かに言葉をかぶせた。
「そしてわたくしが生きていたら……また、おいしそうに水を飲んでくださいませね」
「……はい、約束します。……あと余計なお世話かもしれませんが……」
「言ってください」
「ここは、ここですばらしいところですっ! ……どこかと比べて、こっちのほうが下とか……わたしは、まったく思いません。唯一無二です……もはや代わりじゃありません……だからわたしは……きっかけが偶然だったとしても、ここに来られてよかったと断言します……っ」
「そうですか……それは、大変もったいない――」
和服の女性はここで声を切り、えくぼを見せて言いなおす。
「いえ。――それは、とてもうれしい言葉です」
※ ※ ♢ ※ ※ ※ ※
ともあれ四人は「お風呂も炭酸水も涼やかで最高でした! ありがとうございました」と言って冷鉱泉を去る。
当初の予定とは異なり、こんしまちゃんがドロドロに溶ける展開はなかったけど……。
とりあえず、のんびり楽しく過ごせたのだから……よしとしよう。
もうお金は支払っているので、あとは帰るだけだ。
しかし、こんしまちゃんたちが建物の入り口から出たところで振り向くと――。
藍色をした薄物の和服を着て、黒髪にキキョウのかんざしをつけた若い女性が入り口から姿を見せた。
「わああっ! タイムスリップしちゃった!」
こんしまちゃんが驚きの声を上げる。
が、その女性は慌ててこんしまちゃんに謝った。
「ごめんね。わたしがおばあちゃんと同じ格好をしてたから、混乱させちゃったんだよね……」
「しまった……そういうことだったんですか……」
「わたしは、おばあちゃんと一緒に働いています。それで……ひと言だけでも、みなさんに感謝がしたくて」
彼女が事情を説明する。
「実は、おばあちゃん。今年で冷鉱泉をたたむつもりだったんです。でもみなさんがいらっしゃったことが、とてもうれしかったようで……『まあ来年までは続けてみようかな』って言ってくれたんです。だから、ありがとうございます」
ついで、頭を下げる。
五秒後、頭を上げる。右手のこぶしをかわいらしく振り上げる。
「でも、そうと決まったら、向こうの中腹にある温泉に負けてられませんっ! よーし、『冷鉱泉をバズらせろ!』 おおー!」
それは入り口のそばの、デカデカとした看板に書いてある文句だ……。
これを目に入れて――。
なぜか、こんしまちゃんも、まふゆさんも、矢良さんも、菖蒲さんも――。
右手で天を衝いていた……!
「「「「冷鉱泉をバズらせろ!」」」」
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☆今週のしまったカウント:三回(累計三十三回)