数学の集合で自分を見つめなおしてしまった!(木曜日)
全人類が疑問に思っていることがある。
それは――
「世界には、一週間に一回以上『しまった』と言ってしまう生き物がどれくらい存在するのか……?」
という永遠のなぞについてだ……!
少なくとも、そのなかに「こんしまちゃん」という人物が含まれるのは確実。
かの人物の本名は「紺島みどり」である。
現在こんしまちゃんは、高校一年生。
といっても、こんしまちゃんがどんな生き物なのか調査する必要もありそうだ。
この人物を分析することで、全人類にとっての永遠のなぞをとくヒントが得られるやもしれぬ。
――その日、ちょうどこんしまちゃん本人は自己分析をおこなっていた。
果たしてこんしまちゃんは自分の存在についてどのような分析結果を獲得したのか……?
そんなわけで今週のしまったちゃんは――少しだけ哲学的で、数学的な話になる。
※ ※ ※ ♢ ※ ※ ※
木曜日の午後。
こんしまちゃんは授業を受け終わったあと、教室に残って勉学に勤しんでいた。
現在こんしまちゃんの通う高校は長期休暇に入っている。
ただし、その休暇のあいだも一定期間は登校して平日の午前中に授業を受けなければならない。
午後になったら……さっさと帰宅してもいいし教室に残って自主学習に励んでもいい……ッ!
この日、教室に残ったのは二人だけだった。
一人は、こんしまちゃん。
もう一人は矢良みくりさんである。
いつもポニーテールの女の子だ。
くしくも、こんしまちゃんの下の名前「みどり」とは一字違いの名前を持つ……!
こんしまちゃんと矢良さんが机を向かい合わせにし、共に勉強している。
といっても、たまには息抜きしたほうが(たぶん)効率は上がる。
矢良さんが両腕を天井に向かって伸ばすと、こんしまちゃんも矢良さんに呼応するように両手をかかげた。
互いの表情がほぐれる。
そんなわけで、しばらく休憩する流れになった。
※ ※ ※ ♢ ※ ※ ※
とはいえ……午後に教室が開放されているのは、あくまで勉強のためだ。
普通にだらけていたら、見回りに来た先生に追い出される可能性がある……っ!
だからこんしまちゃんと矢良さんは……ちょっと知的(?)な話題を選択し、雑談を交わすことにした。
先に切り出したのは、矢良さんだった。
「――こんしまちゃんっ! 数学に『集合』ってあるよねっ」
「あるね……」
こんしまちゃんは短くあいづちを打ち、矢良さんの次の言葉を待つ――。
……「集合」というのは、高校数学で習う内容の一つ。
ざっくり言うと――そこにどんなグループがあって、そのグループのなかにどんなものが入っているのかを考える……とてもおもしろい作業のことだ。
(※なお数学的に英訳するなら「集合」のことを「セット」と表現するのが適切)
ともあれ矢良さんが、天井を見つめて続ける。
「……『AはBに含まれる』とかさ~。あたし、この『集合』について初めて聞いたとき……『これ、数学なんだ?』って不思議に思っちゃったな~」
「分かる……」
こんしまちゃんが同意する。
「数字を書き並べたりもするけど、どっちかというと国語っぽい……!」
「そうそうっ。だから『集合』って数学以外でも使える概念なんじゃないかな~って、あたし思うんだっ」
ここで矢良さんが天井から視線を外し、こんしまちゃんと目を合わせる。
「集合は、たくさんの要素で成り立ってる……。たとえば、こんしまちゃんも宇宙っていう大きな集合の一つの要素……つまり『こんしまちゃんは宇宙に属する』わけだねっ!」
「ス、スケールがおっきい……」
「だね……っ。自分で言っててよく分かんなくなってきたから、もうちょっと範囲をせばめよっか」
矢良さんは左右の手を丸め、手の平同士を近づける。
「こんしまちゃんは地球のなかで生きてる。そして地球も……さまざまな要素を合わせて成り立つ『集合』と言える。だから『こんしまちゃんは地球に属する』と表現することもできる……っ!」
「……このとき『地球は宇宙に含まれる』から、地球は宇宙の『部分集合』と言えるね……」
部分集合とは、とあるグループのなかに含まれるグループのこと。
たとえば「生き物」というグループのなかに含まれる「動物」や「植物」といったグループも、部分集合と言うことができる。
「さらに……」
こんしまちゃんが、ノートにペンを走らせながら考察を続行する……ッ!
「地球という集合のなかにも……さらに小さな部分集合が入ってる……『人』という集合も、そうなのかな……『わたしは人に属する』ということだね……いや、もっと小さな部分集合もある……そう、『高校生』という集合が……! 『わたしは高校生に属する』……っ!」
めずらしく、こんしまちゃんの口数が多い。
どうやら……数学の「集合」という概念を使って自分を見つめなおす作業が、想像以上におもしろかったと見える……!
まあそれを言うなら……矢良さんの様子も普段と違う感じがする。
彼女の明るい一面しか知らない人にとっては、今の矢良さんはちょっと怖いかもしれない。
もちろんこんしまちゃんは、矢良さんのそういう部分もすでに知っているから戸惑っていないけど……。
興奮の色を隠せないこんしまちゃんに、矢良さんが助言をおこなう。
「別の部分集合もあるかもよっ?」
「……もっと限定して『わたしは高校一年生に属する』って言えば、さらにわたしをしぼり込めるね……」
「いいねっ! だけど着目すべき部分集合はもう一つ。人には、『女の子』という部分集合が含まれている……。そんなわけで『こんしまちゃんは女の子に属する』と表現するのも正しいよっ」
「しまった、見落としてた……。確かにわたしは……『女の子かつ高校生』だね。あれ……? これは……!」
ノートにこんしまちゃんが、二つの丸をえがく。
一方の丸に「女の子」と書き、もう一方の丸に「高校生」としるす。
二つの丸は、一部分だけが重なっている。
この重なった部分を、こんしまちゃんがペンでぬりつぶす……ッ!
「そっか……。わたしは『女の子』という集合と『高校生』という集合のどちらにも入ってる……。そんなわたしが属するのは――女の子と高校生の『共通部分』なんだ……」
共通部分とは、二つのグループの重なった部分のことである。
……たとえば「女の子」と「高校生」が重なった部分には、「女子高生」ができあがる。
したがって、こんしまちゃんを始めとする女子高生の集合を「女の子と高校生の共通部分」と定義することもできそうだ。
「……この共通部分をさらに分ければ、『わたしは高校一年生の女の子に属する』ことになる……すごい……! もとは宇宙規模だったのに――数学の集合がここまでわたしに近づいてきた……」
「まだ、いけるよっ」
矢良さんが自身のポニーテールを片手でフワサッ……とかき上げる。
「……あたしだって、『あたしは高校一年生の女の子に属する』って言えるからねっ」
「しまった。……確かに今のままじゃ区別がつかないね……」
万事休すか、こんしまちゃん……ッ!
※ ※ ※ ♢ ※ ※ ※
「はたから見たら――」
矢良さんが、しんみりした調子で口をひらく。
「あたしと、こんしまちゃんは……同じ高校一年生の女の子でしかないのかもね……」
ポニーテールの根元の髪留めをさわりつつ言う。
「たとえば、あたしがこのポニーテールをほどいたら? あたしが自分のことを『わたし』としか呼ばないようになったら? ――知らない人にとっては、どっちがどっちだか、いよいよ分からなくなる……」
口を閉じて真剣に聞くこんしまちゃんに、さびしく笑いかける矢良さん……。
「なにより、こんしまちゃんとあたしの下の名前は、一字違い」
二人の本名はそれぞれ「紺島みどり」と「矢良みくり」であり……確かに下の名前だけを見れば真ん中の「ど」と「く」が異なるのみだ。
「こんしまちゃんは『み、ど、り』という要素を含む。対するあたしが含む要素を書き並べると『み、く、り』になる……。この場合、二人の共通部分に『み、り』が含まれる。だけど『ど』はこんしまちゃんにしかない。『く』はあたしにだけ属する。これによって――あたしたちは互いが違う存在であると理解するわけだねっ」
「共通する部分を知っているからこそ、違う部分も分かるんだね……」
ノートに「み、く、ど、り」と書いて、こんしまちゃんがやわらかく返す。
四つのひらがなを目に入れて、矢良さんは「そうだよっ」と答える。
「だけど……よそから見たとき、こんしまちゃんとあたしの共通部分とそうじゃない部分は理解されないかもしれない。だからとりあえず、『女子高生が二人いる』という輪郭ができる。はっきりと二人は区別されなくて……ひとまず、そこに現れた要素をすべて列挙する……『その二人』という集合全体を見て『み、く、ど、り』と書き並べる……。それらの要素が、二人のうち少なくともどちらか一方に属していればいいって感覚かなあ」
「なんか……『和集合』みたい」
二つ以上のグループを合わせてできるグループのことを和集合と言う。
女の子と高校生の共通部分は、「女の子かつ高校生」である女子高生になるけど――。
女の子と高校生の和集合は、「女の子または高校生」というグループになる。女の子グループと高校生グループをまるごと合わせたグループなので、この和集合には小学生の女の子や高校生の男の子も含まれる。
和集合は広い範囲を視野に収めるものの、集合に属する要素を比較的限定しない。
「……『み、く、ど、り』の四つのひらがなが……わたしか矢良さんに含まれていれば……いいわけだよね。どこか、ぼんやりしてるかも……」
「うん……今こうして……こんしまちゃんとあたしは、ここにいるけれど……」
そう言って矢良さんが、ほかにだれもいない教室内に視線を走らせる……ッ!
「たぶん、その場面を直接目にして……あたしたちが別々に生きていることが分かったとしても……『こんしまちゃん』と『矢良みくり』が明確に一人ずつ認識されるとは限らない」
「どういうこと……矢良さん……」
「教室内に存在する、あたしとこんしまちゃんを『全体集合』とする」
全体集合とは、今考えているなかで一番大きな集合のことである。
「じゃあ数学の問題。こんしまちゃん、この全体集合のなかに含まれる部分集合をすべて挙げてみてっ」
「確か……含まれる要素が一つでも……『集合』になるんだよね。だから……今の教室に含まれる部分集合は{矢良みくり、紺島みどり}、{矢良みくり}、{紺島みどり}の三つになる……っ!」
「惜しい……」
矢良さんのこの指摘に、こんしまちゃんは困惑した。
ほかに集合のグループができるとは思えない。
ここで矢良さんが答えにふれる。
「あと一つ、『空集合』もあるよ」
「しまった。ヤツがいた……!」
要素を持たない集合のことを『空集合』という。
人でたとえるなら、「ゼロ人グループ」がこの空集合に当てはまるだろう。
え? 人数がゼロだったらそもそもグループじゃないじゃん……一人をグループと見なすのはギリギリ許しても、そもそも誰もいないのにグループって変じゃないの? ――と思うけれど、数学的には、なんにもおかしくないのだ。
しかも空集合は、あらゆる集合の部分集合。
すなわち……こんしまちゃんと矢良さんしかいないこの教室空間にさえ……実は空集合くんが最初から潜んでいたのだ……ッ!
「そっか……」
こんしまちゃんが、虚空を見つめる。
「教室にわたしと矢良さんしかいないときでも……人によっては空集合くんのほうにクギ付けになることもあるんだ」
「そう……そして現在、教室の全体集合のなかには空集合くんも合わせて四つの部分集合が網羅される。この教室をのぞいた人は、果たしてどの部分集合に着目すべきか分からなくなる……っ。結果、こんしまちゃんもあたしも、明確に一個人として認識されるとは限らない……っ」
「この教室に一人しかいなかったとしたら?」
「それでも、本人のそばには空集合くんが隠れている。空集合くんと本人が均等に並んだことで……みんなの視線が本人じゃなくて空集合くんにそそがれる可能性がある」
「空集合くんの存在感……! わたしの心のなかにも、空集合くんがいそう」
「個人を要素じゃなくて、一つの『集合』と捉えることもできると思う。この場合、あたしのなかにも、こんしまちゃんのなかにも……空集合くんが部分集合として必ず存在するっ!」
「恐るべし空集合くん……!」
お互いの言葉が、徐々に熱を帯びていく。
どうやら二人の雑談も、なかなか盛り上がってきたようだ。
※ ※ ※ ♢ ※ ※ ※
「でも矢良さんが言ったように、自分を要素じゃなくて集合と捉えるのって、おもしろいかも……」
こんしまちゃんが腕組みする。
「たとえば……わたしはいろんな要素を含む『紺島みどり』という集合なんだよね」
弧をえがくように、上半身をゆらす。
ここで矢良さんが付け加える。
「でも同時に、こんしまちゃんは『こんしまちゃん』という集合でもある……」
「……確かに。でもこのとき、わたしは『紺島みどり』と『こんしまちゃん』――どっちの集合になるのかな……。呼び方が違うだけで、どっちもわたしの要素を過不足なく持つなら……『紺島みどりはこんしまちゃんに含まれる』とも『こんしまちゃんは紺島みどりに含まれる』とも言える。つまり『紺島みどり』と『こんしまちゃん』は――」
腕組みをやめ、こんしまちゃんが確信をもって結論づけるッ!
「――等しい」
当たり前の事実だけど、これはなかなか重要な視点である……。
紺島みどりとこんしまちゃんが等しいと分かったならば、こんしまちゃんは自分を考察するうえで二つの呼び名のあいだを行ったり来たりせずに済むのだ……!
そのぶん、混乱することなく自分を見つめなおすことが可能になる。
だが――。
「そもそも『こんしまちゃん』って、いったいどんな集合なんだろう……」
こんしまちゃん本人が、根本的な疑問に踏み込む。
ここまで数学の集合を用いて、こんしまちゃんを分析してきたけれど。
まだ他者とは異なる「こんしまちゃん」という個体の特殊性が明らかにされていない。
このままでは、こんしまちゃんは「こんしまちゃん」として区別されないおそれがある……。
ここで矢良さんが、助け船を出す。
「手は二つあるっ!」
そう言って矢良さんが右手と左手を軽く挙げる。
「一つ目の手は、自分という集合に含まれる要素を列挙していくこと」
「……つまり、こんなふうにかな……」
こんしまちゃんがノートに{こ、ん、し、ま、み、ど、り}と書く。
「これだけでも、わたしを説明することができるかも……」
「自分という集合を分析するうえで、このアプローチも間違ってない。でも自分のなかに含まれる要素を列挙するやり方には弱点もあるんだ。……すなわち、自分ばかりに注目してしまうっ!」
「はっ……」
こんしまちゃんがペンを置く。
「わたしがわたしの要素しか見ていなかったら、ほかの人を忘れていることになる……。自分で自分の要素をすべて挙げたと思っても実は別の人とかぶっていて……結局は自分という集合が明確に区別されていない状況が続くかもしれないね……」
「そう。自己分析において知らずにやらかしてしまうのだ……っ!」
ちょっと大げさな口調で矢良さんが言葉を継ぐ。
ついで挙げていた左手を下ろす。
「というわけで第二の手が有効だねっ。自分のなかの要素を書き並べるんじゃなくて――自分が含まれる共通部分を限りなく小さくしていく」
「共通部分……! わたしだと『高校一年生の女の子』という共通部分に含まれるね……」
「うん。でもこのままじゃ、あたし……矢良みくりも同じ共通部分にいる。よって、あたしとこんしまちゃんの違いが分からない。そこで、さらに共通部分をせばめるよん」
「そのためには――わたしが含まれる新しい部分集合を用意すればいい……!」
「だね~。たとえば、こんな部分集合はどうかなっ」
軽く挙げた右手と上半身をひねり、矢良さんがあらためて教室全体を見回す。
「今この教室にいる人――という集合。この部分集合を『高校一年生の女の子』という共通部分に重ねると……?」
「新しく『今この教室にいる高校一年生の女の子』という……より範囲のせまい共通部分が手に入る……」
「ただし、その共通部分には……まだ二つの人物が含まれる。あたしと、こんしまちゃんが……」
教室を見回すのをやめ、矢良さんがこんしまちゃんに熱い視線を送る……!
「でも明確に自分というものにたどり着くには、共通部分に含まれる部分集合を『自分』と『空集合』の二つにまでそぎ落とさなければならない……でないと、あたしがこんしまちゃんかもしれないし、こんしまちゃんがあたしかもしれない……そんな哲学的問いに永遠に放り込まれる運びとなるかもッ」
「だから最後の仕上げとして、矢良さんとわたしをしっかり分けてくれる部分集合を見つけて……それぞれが別の共通部分に含まれるようにしてあげればいいんだね……」
二人の心と体が、よりヒートアップする。
季節的に仕方ないかもしれないけど、それだけが理由じゃない。
自分という存在に接近するという、ある意味冒涜的な挑戦が、いよいよ最終段階に入ったのだ……。
そんな状況で、正常でいられるだろうか? いや、いられない。
もはや何人も、こんしまちゃんと矢良さんの興奮をとめられぬ……ッ!
こんしまちゃんが先に仕掛ける!
「わたしと矢良さんを明確に区別するために――ここに、『しまったと言ってしまう人』という部分集合を与える……!」
「ふふっ」
しかし矢良さんが不気味な笑みを浮かべ、反撃を食らわせる!
「やらかしたねっ、こんしまちゃんっ! 油断大敵なんとやらっ!」
油断大敵は油断大敵という言葉で完成しているのだからそのあとに「なんとやら」を続ける必要はないはずだけど、こんしまちゃんにツッコませる余裕を与えず矢良さんが言葉を続ける。
「ただ『しまった』と言う人なら、たくさんいるよっ! あたしだって、『やらかした』ってたまに言っちゃうけど……これも『しまった』の派生みたいなものだっ!」
「ししし、しまった……っ」
「よって、あたしとこんしまちゃんを別々の存在と認識するには、もっと限定的な部分集合が要される!」
「そ……それは?」
「それは……ッ!」
少し、もったいぶる矢良さん。
「……『一週間に一回以上しまったと言ってしまう生き物』という部分集合」
「ピ、ピンポイントすぎる……」
「さすがのあたしも、この部分集合には含まれない……!」
「その部分集合を新しくわたしに重ねれば」
こんしまちゃんが、なぜか……うなじに両手を置いた。
「ついに……『今この教室にいる一週間に一回以上しまったと言ってしまう高校一年生の女の子』という共通部分が獲得される。そして、この共通部分に含まれるのは空集合をのぞけば、わたし一人……」
息を荒くする、こんしまちゃん。
汗をにじませながら、矢良さんもその高揚の空気に乗る……!
「同時にあたしも、『今この教室にいる一週間に一回以上しまったと言うとは限らない高校一年生の女の子』として定義される」
「わああ~」
数学の集合を使って、ここまで自己を分析できたことに驚嘆したらしく――。
こんしまちゃんがイスから落ちそうになった。
が、持ちこたえる。
というのも、まだ解決しなければならない問題があったからだ。
「でも矢良さん……たとえわたし一人だけが含まれる共通部分を見つけて、ほかの人とわたしとを明確に区別できたとしても……すべての集合の部分集合になる空集合くんはどうしよう……」
確かに個人を一つの集合と見なすとき、空集合は常に各個人につきまとう。
もしこの場合において本人ではなく空集合のほうに視線がそそがれるとしたら、それぞれの個体は「それ自体」ではなく十把一絡げの「空集合」として扱われる危険がある……!
「さすが、こんしまちゃん……!」
ほおを伝う汗をぬぐい、矢良さんがふう~っと深い息をつく。
「そのときこそ、広げればいい」
「策があるの……?」
「和集合だよっ」
「それは、二つ以上の集合を合わせてできる集合……まさか……っ」
こんしまちゃんの両手がうなじから離れ、斜め上にひらく!
「共通部分を極限までせばめた、このタイミングで――和集合を発動し、自分へと一挙に広がりを与える作戦……! 和集合に転じるために必要なのは、共通部分を限定するために今まで使用した部分集合たちだから……これを再利用するだけで無理なく和集合を展開できる。しかも……通常なら和集合は自分自身をぼんやりさせるデメリットを持つけど……共通部分を突き詰めた今なら、自分が分からなくなったときにいつでも共通部分に帰還して自分を明確に見つめなおすことができる。和集合のデメリットを打ち消しつつ、自分に広がりを保障して――どんな集合にも現れる空集合くんを限りなく薄めることが可能になる……っ!」
ニヤリとする矢良さんと目を合わせ、こんしまちゃんがさらに論を進める……ッ!
「ここにおいてわたしは――『女の子』または『高校一年生』または『今この教室にいる人』または『一週間に一回以上しまったと言ってしまう生き物』という和集合に含まれることにもなる。わわ……共通部分で自分を極限までせばめた作業が、今度は一転してわたしを広げていく……! これだけ広ければ、もう空集合くんも鳴りを潜めるしかない……わたしは、わたしとして明確に認識される……」
「そう……和集合は、自分を見失わせる集合とは限らない」
こんしまちゃんの興奮を受けとめるかのように、矢良さんが言葉を引き取る。
「和集合とは自分が属し、含まれる世界を広げる集合でもある。さらに、この和集合を構成する部分集合を列挙し、そこで抽出された部分集合をもとにして自分一人だけが含まれる共通部分を明らかにすることもできる。さっき、こんしまちゃんが共通部分を和集合に変換したけど、ようは……その逆をたどればいいんだねっ」
震えるこんしまちゃんに、まだ矢良さんが追撃を加える……!
「さて。女の子……高校一年生……今この教室にいる人……このあたりは、だいたい人数が決まっているね。じゃあ、一週間に一回以上しまったと言ってしまう生き物は……どうかなっ。少なくとも、今あたしの目の前に一人いるけど……ほかには、いるかなあ……」
「分からない……!」
「そう、分からないんだよね~」
矢良さんが机に両手をつき、身を乗り出す。
「ここにおいて重要になるのが、こんしまちゃんという部分集合を含む全体集合をどの程度の大きさとして考えるかという問題だよっ」
「全体集合……今考えているなかで一番大きな集合のことだね……」
こんしまちゃんは復習したうえで、考察を深める。
「今考えている全体の範囲を広げてみよう……っ。この教室を全体集合とすることもできる……いや、さらに広げて学校が全体集合かも……? もっと大きくなって地球……太陽系……銀河系……それどころか宇宙そのものにまで及びかねない……! SF的に考えると、別の次元・時空間・世界線・パラレルワールドもありうるよ……」
「そう。そして……一週間に一回以上しまったと言ってしまう生き物はこの教室内においては『こんしまちゃん』しか観測されないけど……こんしまちゃんの含まれる全体集合が限りなく膨張していくごとに……『一週間に一回以上しまったと言ってしまう生き物』という集合に属し、それに含まれうる存在が増加していく可能性が高い。観測する範囲が広がれば、それは当然のこと。逆にこんしまちゃんの属する全体集合が収縮していくごとに、『一週間に一回以上しまったと言ってしまう生き物』という集合に含まれる存在は減少すると見ていい」
「……! わたしが含まれる全体集合によって、わたしの和集合の大きさは無限に膨らむし、かつ極限まで縮みうる……!」
「そのとおり……っ! だからこの暴力的なまでの可変性に飲まれないように、あたしもこんしまちゃんも結局は共通部分に――女子高生としてこの教室に帰らなければならないんだ……」
ここで矢良さんが上体を後ろに戻した。
両腕を伸ばすストレッチをおこない、真の最後の仕上げにかかる……。
「全体集合の範囲を定めることは、自分を取り巻くものの大きさを決定することでもあるよね、こんしまちゃん」
「……『補集合』かな」
補集合とは、全体集合から任意の部分集合を取りのぞいてできる集合のこと。
たとえば宇宙を全体集合、こんしまちゃんを部分集合としたとき、「こんしまちゃん以外のすべての宇宙」が「こんしまちゃんの補集合」となる。
「全体集合の範囲によっても、わたしの和集合(属しうる世界)と補集合(知らない世界)の広さが異なってくる。な、なるほど……っ」
今度は、こんしまちゃんが矢良さんに向かって身を乗り出す。
「わたしが自分を見つめなおすには……わたしを構成する要素と、わたしを含む部分集合に着目するだけじゃなくて――わたしが属する全体集合そのものがどんなレベルで存在するかについても考えなくちゃいけないんだね……!」
「なら、こんしまちゃんは果たして、どんな全体集合に含まれるのかなっ……?」
「今は、学校かな……」
こんしまちゃんが自発的に肩を落とし、深呼吸する。
「鵜狩くん、ア……菖蒲さん、矢良さん……そしてクラスメイトのみんなが、今のわたしにとっては大切だから……」
「そっか……そのなかでこんしまちゃんは、こんしまちゃんとして存在しているんだね……っ」
「矢良さんも……そうだと思う」
「……ありがとうっ!」
「数学の集合から自分を見つめなおすのも、とってもおもしろかった……」
「普通ドン引きされるんだけど、そう言われると……うれしいなっ!」
木曜日の午後。
今この教室にいる一週間に一回以上しまったと言ってしまう高校一年生の女の子は、友達との雑談を終了し……再び勉学に勤しみ始めた。
※ ※ ※ ♢ ※ ※ ※
ところで、こんしまちゃんの自己分析をとおして――。
世界には一週間に一回以上「しまった」と言ってしまう生き物がどれくらい存在するのかというなぞについてのヒントは得られただろうか。
数学の集合を用いて、こんしまちゃんという生き物はそれなりに分析されたと見ていい。
ただし……こんしまちゃんレベルで「しまった」を口癖とする生き物が世界にどれくらい存在するかについて明確な答えが得られたかは、あやしい。
そもそもこんしまちゃんたちも言及してたけど。
全体集合としての世界をどのくらいの大きさで考えるかによって、そこに含まれるこんしまちゃんレベルの生き物の数は変動するはずだ。
おそらく世界が広がり続ければ、その数は理論上無限に達する。
しかしそれでは果てがないので――。
世界を限りなくコンパクトにして……こんしまちゃんという確実に存在する生き物に着目するのがいいだろう。
だから今は、このこんしまちゃんの物語を続けることによって、「一週間に一回以上『しまった』と言ってしまう生き物」について詳細に定義することを優先したい。
そうすれば……こんしまちゃんに匹敵する存在をあらためて数え、書き並べていく際の一助になるはずだ。
では全人類の疑問が氷解する未来を信じて、今回の話をここで結ぼう。
※ ※ ※ ♢ ※ ※ ※
☆今週のしまったカウント:四回(累計三十回)