なにもないところで転んでしまった!(金曜日)
みなさんは、こんしまちゃんという人物をご存じだろうか……?
彼女の本名は、紺島みどり。高校一年生の女の子。
その最大の特徴は、「しまった」という口癖にある。
紺島みどりは、一週間に一度は「しまった」と口にしてしまう、うっかり女子高生なのだ……!
お弁当を忘れたときも、小学校のときの友達がクラスメイトになっていたと気づいたときも、みずから実行した作戦でヘマをしたときも、とにかく「しまった」と口にしてきた。
まさに紺島みどりは、「こんしまちゃん」と呼ばれるにふさわしい人物である……ッ!
でもこれは、本人にとってのコンプレックス――というわけでもない。
クラスメイトや家族が自分を受け入れてくれるから……というのも理由の一つだけど――。
なにより、教室でこんしまちゃんの右隣に座っている「鵜狩慶輔くん」の存在が大きい。
※ ※ ※ ※ ♢ ※ ※
鵜狩くんは少しツリ目で、あごがシュッとしている男の子。
……そして、たまにうっかりしている。
こんしまちゃんに、うっかり自分の正体が忍者であるとバラしてしまったこともある。
また、鵜狩くんは紙の本で読書するのも好きなんだけど、よく見ると本を上下逆さまにして読んでいる。
うっかり本の向きを逆転させてしまうそうだ。
それでも本人は気づかず文字を順に追い、内容も普通に理解してしまう……。
こんしまちゃんはそれを見るたびに、「さすが忍者……!」と思うのだ。
同時に……どんなにうっかりしても自分のおこないを真っ向から否定せずに楽しもうとする心意気を、こんしまちゃんは鵜狩くんから学んでいるのだ。
そして鵜狩くんは自分の「うっかり」だけでなく――。
こんしまちゃんの「しまった」をも、正面から受けとめてくれる。
というわけで今回は、こんしまちゃんを文字どおり受けとめる鵜狩くんの話である……!
※ ※ ※ ※ ♢ ※ ※
もともと、こんしまちゃんは……よく転ぶ子どもだった。
石ころや段差がなくても、平坦な地面を歩くだけでバランスを崩す。
鵜狩くんがこんしまちゃんの転び癖に気づいたのは、小学三年生六月のとある金曜日であった――。
その日の昼休み、こんしまちゃんと鵜狩くんは友達のアヤメと一緒に運動場で遊んでいた。
アヤメは自慢のツインテールを風になびかせながら、「よし! きょうは、おにごっこで勝負だよ!」と元気に言う。
「もちろん、ルールはアヤメオリジナルっ!」
アヤメの言葉を、こんしまちゃんと鵜狩くんがわくわくしながら聞いている。
「おにが、おりがみのしゅりけんを投げるのっ! しゅりけんが当たった人は、おにの役と交代ね!」
「……いいね、受けて立つ」
そう言って鵜狩くんがポケットからおりがみを取り出す。
それを宙に放り投げ、なんかものすごいスピードで両手を動かす。
すると一瞬で、おりがみは手裏剣のかたちになった。
オーソドックスな十字手裏剣だけど、先っぽが丸まっているので当たってもケガはしない。
鵜狩くんが、手裏剣を右手につまんでヒラヒラさせる。
「これを使おう」
「かっこいい……!」
ほぼ同時に、アヤメとこんしまちゃんが同じ言葉を漏らした……。
ともあれジャンケンをおこなう。
最初の鬼は、鵜狩くんに決定した。
ただし手裏剣を五十メートル以上飛ばせる鵜狩くんはハンデとして、目をつぶっている。
準備も整ったところで、アヤメとこんしまちゃんが「わー」と言いながら逃げる。
鵜狩くんはギュッとまぶたを閉じたまま――。
息づかいの聞こえるほうに、手裏剣を放った。
「しまった……。いちがバレてた……」
こんしまちゃんの言葉が聞こえる。
続いて、アヤメの明るい声もする。
「だいじょうぶ! こんしまちゃん、よけてる、よけてる!」
「外したか。さすが、こんしまちゃん」
投げた手裏剣を回収すべく、鵜狩くんがこんしまちゃんのいるほうにダッシュする。
鵜狩くんは手裏剣よりも速いスピードで走った。
その手裏剣が落ちる前に――手でつかんだ。
しかも目をいっさい、あけることなく……。
こんしまちゃんは、感動した……っ!
「す、すごい……うかりくん、やっぱり、ニン――」
「にん?」
アヤメが、いぶかしげな視線をこんしまちゃんに向けた。
こんしまちゃんは慌てて、口元を押さえる。
「し、しまった……っ! ニン……ニン……ニンジンがすきなんだよね……うかりくんは」
鵜狩くんが忍者であるという事実を――なんとか秘密にした、こんしまちゃん。
でも、ちょっと苦しいごまかし方だ。
こんしまちゃんもそれを自覚していた。
ために、こんしまちゃんの脳内がオーバーヒートを起こした。
ふらふらして、バランスが崩れた。
鬼の鵜狩くんから逃げようとし、その場でこけた。
アヤメが駆け寄る。
「こ、こんしまちゃん。だいじょぶ? 血、出てない? いたくない?」
「だいじょうぶだよ……アヤメちゃん」
こんしまちゃんが、右ひざの砂を払う。
「転ぶの、なれてるから……」
だけど砂を払うと、すりむいて赤くなったひざ小僧が顔を出した……!
いつの間にか、目をあけた鵜狩くんも近くにいる。
こんしまちゃんのそばで、鵜狩くんがしゃがむ。
「ともかく、保健室に行こう。こんしまちゃん、ちょっとごめん」
こんしまちゃんの背中とひざ裏に手を添え、鵜狩くんがそっと立ち上がる。
鵜狩くんのツリ目とシュッとしたあごが、こんしまちゃんの間近にせまっている。
「ありがとう……うかりくん……本当は、すごく……いたいから……」
「あ、ほけんしつに行くなら」
ここでアヤメが、心配そうな顔で言う。
「ひざを水であらってからのほうが、いいんじゃないかな」
「あ、うっかりしてた。そっちが先だ。さすがアヤメ」
そんなわけで鵜狩くんは、いったん校庭の足洗い場にこんしまちゃんを運んだ。
水で砂などを落としたあと、こんしまちゃんをかかえて保健室に行く。
保健室の先生は、ばんそうこうみたいなものをこんしまちゃんの右ひざに貼ってくれた。
先生によると傷自体は浅く、すぐ治るとのこと……。
まだちょっと痛みは残るものの、こんしまちゃんは今までどおりに歩けるようだ。
アヤメは、ほっとしていた。
保健室から出たあと、鵜狩くんがこんしまちゃんに聞く。
「こんしまちゃんは……これまで何回転んだことある?」
「数えてないかな……」
右の足をやや引きずりながら、こんしまちゃんが答える。
「いつもは、うまい感じに手を前に出すから……ケガとかしないんだけど……」
「そうだったんだ……」
鵜狩くんは自分のシュッとしたあごに指を当て、ちょっと考えた。
そして、こんしまちゃんに宣言する――。
「じゃあ今からは――こんしまちゃんが転びそうになったら、おれが受けとめる」
※ ※ ※ ※ ♢ ※ ※
次の週から、鵜狩くんはこんしまちゃんと一緒に登下校するようになった。
もちろん、こんしまちゃん本人の同意は得ている。
学校がある日は毎朝……鵜狩くんがこんしまちゃんの家まで来てくれる。
そして登下校中、こんしまちゃんが転びそうになったら……鵜狩くんがこんしまちゃんをそっと受けとめるのだ……っ!
下校時も同じである。
一緒に通学路を歩いてこんしまちゃんの家まで来たあと、鵜狩くんはどこかに去っていく。
「うかりくん、うれしいんだけど……どうして、ここまでしてくれるの……?」
こんしまちゃんが当然の疑問を口にすると、鵜狩くんは次のように答えた。
「ここで……『友達だから』とか……そういうことを言えたら、かっこいいんだろうけど……本当はおれのためだよ」
「なんでわたしを転ばさないことが、うかりくんのためになるのかな……」
「転校した日、おれは――」
鵜狩くんが、通学路の石ころを小さく蹴った。
「――おれはあの日、おりがみ手裏剣をこんしまちゃんに飛ばしてしまった。それが、ずっと心に引っかかってた。……だからこんしまちゃんに罪ほろぼしをして、ラクになりたいんだと思う……」
「……わたしは気にしてないけれど、うかりくんにとっては、それほどのことなんだね……」
※ ※ ※ ※ ♢ ※ ※
――以降、ずっと鵜狩くんは通学路で、転びそうになるこんしまちゃんを受けとめ続けた。
一週間に一回以上は、通学路で転びそうになるこんしまちゃん……。
ただし、体育の授業や休み時間のときは受けとめないでと……こんしまちゃんは頼んでいた。
さすがに……いつも鵜狩くんに頼っていたら、一生転び癖が治らないと考えたからだ。
そういうわけで、こんしまちゃんは転ぶときはちゃんと転んだ。
そのおかげかは分からないけど、小学四年生に進級した時点でこんしまちゃんの転倒回数は去年の半分以下に落ち着いていた。
少しずつ、鵜狩くんがこんしまちゃんを受けとめる回数も減っていく。
そして四年生の九月の第四週……とうとうこんしまちゃんは、一週間に一度も転びそうにならず登下校を完了することができた。
といっても十月、また通学路で転びそうになったので――。
やっぱり鵜狩くんに受けとめてもらう、こんしまちゃんであった……。
※ ※ ※ ※ ♢ ※ ※
さらに時は進み、こんしまちゃん五年生の春――。
ついに五週間連続で、こんしまちゃんは一回も転びそうにならず通学路を行き来した……ッ!
そのあいだに鵜狩くんがこんしまちゃんを受けとめた回数は――もちろんゼロ……!
登下校のときだけでなく、体育の授業や休み時間でも……転ぶことがなくなった。
こんしまちゃんの成長が分かって、アヤメも鵜狩くんも喜んでいる。
「うれしいね……! こんしまちゃん、ずっとがんばってきたもんね!」
アヤメが笑顔で拍手する。
鵜狩くんも、ツリ目を細めて顔を綻ばせている。
こんしまちゃんは、二人から祝ってもらって……とても明るい気分になっていた。
「ありがとう……。二人がいてくれたからだよ……。鵜狩くんが、わたしを受けとめてくれたから……。それにアヤメちゃんも、遊んでいる最中にわたしが転んでも……温かく見守ってくれた……」
そう、こんしまちゃんは――うれしかった。
この気持ちは、本当なのだ。
でも……。
こんしまちゃんは、なぜか「こわい」とも思っていた。
※ ※ ※ ※ ♢ ※ ※
五年生の夏……金曜日。
その日の朝も、鵜狩くんがこんしまちゃんの家の前まで来てくれた。
いつもどおり、一緒に登校する。
こんしまちゃんは、もうすっかり転ばなくなっていた。
五週間転ばずに過ごした春の自己ベストを、今も更新し続けていた……。
歩きながら、ふと鵜狩くんが言った。
「俺、卒業したら忍者修業のために遠くの中学に行く」
唐突な話題……というわけでもない。
きのう、学年が一つ上のアヤメがこんしまちゃんと鵜狩くんに、こんなことを言っていた。
(あ~、夏だね~。暑いね~。……それにしても、アヤメは二人よりも早く中学生かあ……あと十か月足らずで。中学でも、二人みたいな素敵な友達ができるといいなっ!)
おそらく鵜狩くんは、そんなアヤメの発言を受け――自分の今後について思いをめぐらしたのだろう。
そしてこの機会に、こんしまちゃんに自分の進路を打ち明けたいと思ったのだろう……。
「そう……鵜狩くん……もうそんな先のことまで考えているんだ……」
やっぱり鵜狩くんはすごいなあと尊敬の念を覚えるこんしまちゃん。
でも――同時に。
突然、身震いに襲われた。
夏なのに、寒気を感じた。
鵜狩くんも、いつか遠くに行く。
一緒に登下校する時間だって永遠じゃない。
しかも、こんしまちゃん自身は転ぶことがなくなっている。
もう鵜狩くんが自分を受けとめることはない。
そもそも転ばなくなったなら、一緒に登下校する必要もない。
今年の春、転ばなくなったことを鵜狩くんとアヤメに祝ってもらったときに生じた「こわい」という思いは――。
自分のそばから友達が……鵜狩くんがいなくなってしまうんじゃないかという恐怖だったのだ。
どこを歩いているかも分からずに、こんしまちゃんは通学路を進む。
身震いが増す。寒気が強まる。
とうとう限界が来て、視界の色がぐちゃぐちゃになって――。
――久しぶりに、転んだ。
「しまった……」
思わず口癖がこぼれる。
なにかにつまずいたわけじゃない。
足先から全身がかたむき、こんしまちゃんが前のめりに倒れる。
だけど、こんしまちゃんはケガしなかった。
正面から両肩を受けとめてくれた男の子がいたから。
「だいじょうぶか……こんしまちゃん」
こんしまちゃんの視界は、ちょっとぼやけていた。
でも目の前にいる男の子のツリ目とシュッとしたあごは、ちゃんと分かった。
ふらつきながら、こんしまちゃんは体勢を立て直す。
「鵜狩くん……ごめん」
それは、「ありがとう」という意味の「ごめん」ではなかった。
「わたし……わざと転んだかもしれない……」
こんしまちゃんは、うつむいて――おでこの汗を手でぬぐう。
「このままわたしが完全に転ばなくなったら……見慣れた道を鵜狩くんといっしょに歩けなくなるって……こわくなったんだと思う……」
「だいじょうぶだよ……」
声のボリュームを抑えて、鵜狩くんがやわらかく言う。
「……『こんしまちゃんが転びそうになったら俺が受けとめる』――この約束は、ずっと曲げない」
「罪ほろぼしは……もういいよ……。わたし、鵜狩くんからそれ以上のことをしてもらったんだから……」
「もう罪ほろぼしじゃない」
再びふらつくこんしまちゃんの肩を、鵜狩くんがもう一度受けとめる――。
「こんしまちゃんが、友達だから」
「……え」
ここでこんしまちゃんは、二年前に鵜狩くんが言っていたことを思い出した。
転び癖のあったこんしまちゃんを受けとめるために、一緒に登下校してくれるようになった鵜狩くん……。
こんしまちゃんが、彼にその理由を聞いたときの言葉だ。
(ここで……「友達だから」とか……そういうことを言えたら、かっこいいんだろうけど……本当はおれのためだよ)
でも、このセリフと照らし合わせると……さきほどの鵜狩くんの「友達だから」という発言は矛盾なのだろうか。
……いや、きっと、そうじゃない。
肩に添えられた手の平を感じながら、こんしまちゃんが声をしぼる。
「わたし……また、わざと転ぶかもしれないよ……」
「それでも受けとめる」
「なんで……」
「たとえわざとでも、転んだら痛いし、ケガするから」
「う……鵜狩くん……」
身震いが引いていく。
寒気が、治まっていく。
「でも遠くの中学に行ったら、さすがに受けとめるのは無理じゃないかな……」
「……そこは禁術を使ってでも」
「いや禁術は使わなくていいよ……」
こんしまちゃんが鵜狩くんの腕のなかでふふふと笑う。
「新しいところに行ってもわたしがずっとちゃんと立っていれば……『わたしが転びそうになったのに鵜狩くんが受けとめてくれなかった』って状況には……なりっこないもんね……。だからこれからも、鵜狩くんは約束を破らないの……。わたし、鵜狩くんがずっと約束を守れるよう……鵜狩くんとはなれたあともがんばるよ……!」
「こんしまちゃん……ありがとう」
鵜狩くんは、そう優しく返してくれた……。
それから、こんしまちゃんと鵜狩くんは堂々と通学路を行き、めでたしめでたし。
……と思って学校に着いたら、校門が閉まっていた。
どうも二人で話しているあいだに、けっこう時間がたっていたらしい……ッ!
「わああ、しまった……」
「うっかりしてた……」
でも門の近くに立っていた先生の一人がすぐにあけてくれたので、こんしまちゃんも鵜狩くんも胸をなで下ろした。
そしてこんしまちゃんと鵜狩くんは小学校を卒業するまで、ずっと二人で同じ道を歩き続けたのであった……。
ちなみにこんしまちゃんはその日から六年生の最後の日まで、ずっと転ぶことなく生き抜いた。
※ ※ ※ ※ ♢ ※ ※
――今や、こんしまちゃんも高校一年生である。
中学のときも、一回も転ばなかった。
……いや正確には体育祭で何度かずっこけたんだけど、それはノーカンだ。
みごと、鵜狩くんの約束を守り抜いたのだ……!
で、高校に入って、こんしまちゃんと鵜狩くんは再会した。
しかも同じクラスの隣同士の席になった。
運命のイタズラとか……そんな大層なものじゃない。
ただの偶然である。
その夏の日の金曜日、こんしまちゃんと鵜狩くんは帰り道で出会ったのだが――それだって、もちろん偶然の範疇だ。
高校生になった鵜狩くんと一緒に歩いていると意識するたび、こんしまちゃんは小学生のときとは違うドキドキを感じた。
ただただ体が熱くなる。
ちょっと、こんしまちゃんに魔が差す。
わざと転んでみようかなという……ずるい心が芽生えていたのだ。
そうすれば、鵜狩くんは絶対に優しく受けとめてくれるだろう……!
でも結局、鵜狩くんと別れるまで――。
こんしまちゃんは転ばなかった。
「しまった……ちょっと、いい子ぶっちゃったかな……」
小さくなっていく鵜狩くんの背中を見ながら、高校生のこんしまちゃんは――。
ちょっと残念そうに、でもすがすがしい小声で、そうひとりごちた。
※ ※ ※ ※ ♢ ※ ※
☆今週のしまったカウント:五回(累計二十四回)